明日、子供が遊びに来るので部屋の片づけをする。机兼食卓の上に積み上げられた本を本棚の空いているところに突っ込み、それでも納まりきれないものは押入れの中に突っ込む。クリーナーをかけ、トイレを掃除し、洗濯をして本日中に片付かないものはハンガーに掛けて押入れに。もともと家財が多いほうではないので、部屋の中に唯一の押入れも余裕があり、こうした緊急事態には助かる。ばたばたとしているうちに出勤時間になるが、なんとか片付いた。
このところ子供とは外で会うことが続いたので、住処に自分以外の人が足を踏み入れるのは久しぶりのことである。それでもテーブルに本が積みあがるくらいなので、片付けに特別長い時間を要するというようなことはない。それでも、緊張感というものが人を招くのとそういうことを想定しないのとでは全く違う。
これは部屋とか家だけのことではあるまい。地域とか都市とか、あるいは国という単位に拡大してみても、決まりきった人だけの間で営まれる生活環境と、部外者の来訪を想定したそれとは印象が違うものである。
毎度同じ結論になってしまうのだが、人が関係性の上に成り立つ存在である以上、その生活圏も他者との交流を前提にしたものとして整えるのが「自然」なのではないだろうか。気持ちよく片付いた室内で一服しながら、そんなことを思った。
このところ子供とは外で会うことが続いたので、住処に自分以外の人が足を踏み入れるのは久しぶりのことである。それでもテーブルに本が積みあがるくらいなので、片付けに特別長い時間を要するというようなことはない。それでも、緊張感というものが人を招くのとそういうことを想定しないのとでは全く違う。
これは部屋とか家だけのことではあるまい。地域とか都市とか、あるいは国という単位に拡大してみても、決まりきった人だけの間で営まれる生活環境と、部外者の来訪を想定したそれとは印象が違うものである。
毎度同じ結論になってしまうのだが、人が関係性の上に成り立つ存在である以上、その生活圏も他者との交流を前提にしたものとして整えるのが「自然」なのではないだろうか。気持ちよく片付いた室内で一服しながら、そんなことを思った。