熊本熊的日常

日常生活についての雑記

燻製パーティー

2010年08月21日 | Weblog
菅野さんからのご招待で、燻製パーティーに出かけてきた。場所は鳩ヶ谷にある菅野さんの工場の事務所棟。知り合いの方が作ってくださったというおいしい燻製をいただきながらおしゃべりをするというのが今回の主旨である。菅野さんご夫妻と燻製を作ったマダムせい子さんと私の4人で食卓を囲む。菅野さんとはけっこう頻繁にメールのやりとりがあるものの、実際にお目にかかるのは今回が3回目だ。それでも楽しいひと時を過ごさせていただいた。「ひと時」と言うにはやや長い時間かもしれないが、「日が暮れるまで」というお言葉に甘えて14時20分頃から18時30分頃までおしゃべりに興じた。

菅野さんとはこのブログを通じて知り合った。このブログで新しい人間関係を築くことができた現時点での唯一の事例である。出逢いというものは、多くの偶然の上に成り立つもので、必然のある出逢いのほうがむしろ少ないのではないだろうか。無数の偶然の累積だから何故出逢ったのか明快に説明できない。それ故、我々はそういうものを「縁」という特別な名称で語るのではないだろうか。

最初はどこかのポータルサイトに紹介されていたPingMagというウエッブマガジンで菅野さんを紹介した記事を読んだ。そこで目にした氏の言葉に惹かれて、それをそのままこのブログに引用させていただいた。そこへご本人からコメントを頂いたのである。それをきっかけにメールのやりとりが始まり、私が2009年1月に帰国して渓水の工場に菅野さんを訪ね、続いて翌月、菅野さんが海外メディアからの取材を受ける際に同席させていただき、今日に至るまでご高誼に与っている次第だ。

人の生活というものは好むと好まざるとにかかわらず、その糧を得るための労働と生命を維持するための睡眠や休息で過半を占めてしまう。例えば24時間のうちに労働とそのための通勤で10時間、睡眠や休息で8時間とすると、これらだけで1日の75%を費やすことになる。そういう毎日を送っていると、交際の範囲は自ずと仕事関係と若干の地縁や血縁に限定されてしまう。しかも、仕事関係の交際というのは全部が全部というわけではないにしても資本の論理に支配されるものである。資本の論理というのは明快だが、それだけに不安定でもある。そうなると、よほど意識して交際を心がけないと自分を取り巻く人間関係というのは自然に薄く狭くなっていく。人の在り様は関係性に規定されるのだから、楽しく生きようと思うなら、多種多様の関係性を確保するのは必定のことである。

では、そのために自分が何をしなければならないのか。そこに生きること、生活することのテーマを設けないといけないと思っている。大勢の人々が集う催しも結構なのだが、今日の燻製パーティーのような少人数の集まりを、できるだけたくさん持てるような生活を心がけたいと思う。それには、他人の受け売りではない、自分の経験に根ざした自分だけにしか語ることのできない生活を日々心がけなければならない。これは容易なことではない。要するに楽しく暮らすには楽をしていてはいけないということだ。