勤務先の健康保険では、定期健康診断のように義務付けられているもの以外は、カフェテリア方式で年間6万円相当額の福利厚生を受けることができるようになっている。例えば、家庭の常備薬を購入したり、保養所を利用したり、健康や介護に関するセミナーに参加したり、というようなことができるのである。おそらく6万円も使いきれないので、健保組合からのメールにはなるべく注意を払って、利用できるものは極力利用しようとは思っている。今回はその6万円枠から5,000円を使って「今話題の介護準備学」というセミナーを受講した。
そのセミナーの会場は立正大学。主催はふれあい健康事業推進協議会。講師は午前の部(10:00-12:00)がフリーのジャーナリストでNPO法人パオッコの理事長である太田差惠子氏、午後の部(13:00-15:00)がノンフィクション作家でNPO法人SSSネットワーク代表の松原惇子氏。これに弁当とペットボトルの茶(500ml)が付く。どちらの話もたいへん興味深いものだったし、弁当もおいしかった。
講演の内容は太田氏のほうが遠隔介護という具体的な問題に関するものであったのに対し、松原氏のほうは自分自身の老後に対する心構えのようなものだった。相互の内容に直接的な連関は無いのだが、共通していたのが人間関係の重要性を強調されていたことだ。
人間はその名が示すように関係性のなかに生きるものなので、その関係性抜きに存在し得ないのは当然なのだが、その当然を殊更に強調しなければならないほど、今の時代の日本の社会が深いところで崩壊しているということなのだろう。より具体的には、社会の構成単位としての家庭のありかたが、現在の制度が設計された時点のものとは違った姿になってしまっているということなのである。それを「家庭の崩壊」と呼んでしまうと、ジャーナリスティックな見世物風の印象を与えてしまうのだが、相互扶助組織の単位としての家庭は確かに崩壊していると思う。1970年代以降、合計特殊出生率が2を下回った状態が定着した段階で、家庭という社会組織の永続性が喪失したということなのだが、制度はその永続性を前提としたまま今日に至っている。その結果として特養には非現実的なほどの順番待ちが常態化し、多くの老人は右往左往することになる。
また、家庭は単に数だけの問題ではない。例えば2世代4人家族としても、70歳代の親世代と40歳代の子世代なのか、100歳代の親世代と70歳代の子世代なのかで、その機能は全く異質なものになる。福祉とか相互扶助という点で前者は自己完結型であることが期待できるが、後者は自己完結型家庭の倍の外部からの支援や補助が必要となる。
先日、このブログのなかで不明高齢者のことを書いたが、今日の講演のなかで、どちらの講師もそれぞれの話の文脈のなかでその件に触れていた。それを聞いていて、自分の認識不足だったことに気付かされた。身内の死を隠すことで、その年金を詐欺的に取得するのは、単なる悪意の場合もあるだろうが、やむにやまれぬ場合だってあるということだ。例えば110歳であるはずの親の死を30年間隠匿していた子は80歳代だ。隠匿開始は50歳代ということになる。どのような事情があったのかは知らないが、一般的な給与生活者ならば、昇給はもはやなく、年収の維持はやや困難で退職金で多少潤った後は年金依存の生活になる。孫も同居していたが、それにしても老齢世代と現役世代の構成という点で、世帯収支が年金の有無によってどのように変化するのかということも、それによって罪状の軽重があるかどうかは別にして、考えなければなるまい。
いずれにしても、自分の人生は自分で責任を持つということだ。介護にしても自分の老後にしても、平均寿命がどうの、その間のライフイベントがどうの、という平均値の議論は保険会社や金融機関の商品設計には必要不可欠な情報だが、個人にとっては殆ど意味を成さない。自分が自分の人生をどのように考えるか、その価値観や哲学こそが必要なのである。平均値という自分の外部にあるものを尺度にしている限り、その変化に振り回されてあたふたし、気がつけば死の床にあった、などという悲劇的に喜劇的な、あるいは喜劇的に悲劇的な状況に陥りかねない。
人は生まれることを選択できない。生れてしまったからには与えられた生を生きるしかない。そうして生きた人生は結果論だ。どうなるかわからない老後を思い煩うよりも、今この瞬間をいかに充実させるかということを考えずに、生きる価値などないだろう。価値は自分が作る。他に何も無い。
そのセミナーの会場は立正大学。主催はふれあい健康事業推進協議会。講師は午前の部(10:00-12:00)がフリーのジャーナリストでNPO法人パオッコの理事長である太田差惠子氏、午後の部(13:00-15:00)がノンフィクション作家でNPO法人SSSネットワーク代表の松原惇子氏。これに弁当とペットボトルの茶(500ml)が付く。どちらの話もたいへん興味深いものだったし、弁当もおいしかった。
講演の内容は太田氏のほうが遠隔介護という具体的な問題に関するものであったのに対し、松原氏のほうは自分自身の老後に対する心構えのようなものだった。相互の内容に直接的な連関は無いのだが、共通していたのが人間関係の重要性を強調されていたことだ。
人間はその名が示すように関係性のなかに生きるものなので、その関係性抜きに存在し得ないのは当然なのだが、その当然を殊更に強調しなければならないほど、今の時代の日本の社会が深いところで崩壊しているということなのだろう。より具体的には、社会の構成単位としての家庭のありかたが、現在の制度が設計された時点のものとは違った姿になってしまっているということなのである。それを「家庭の崩壊」と呼んでしまうと、ジャーナリスティックな見世物風の印象を与えてしまうのだが、相互扶助組織の単位としての家庭は確かに崩壊していると思う。1970年代以降、合計特殊出生率が2を下回った状態が定着した段階で、家庭という社会組織の永続性が喪失したということなのだが、制度はその永続性を前提としたまま今日に至っている。その結果として特養には非現実的なほどの順番待ちが常態化し、多くの老人は右往左往することになる。
また、家庭は単に数だけの問題ではない。例えば2世代4人家族としても、70歳代の親世代と40歳代の子世代なのか、100歳代の親世代と70歳代の子世代なのかで、その機能は全く異質なものになる。福祉とか相互扶助という点で前者は自己完結型であることが期待できるが、後者は自己完結型家庭の倍の外部からの支援や補助が必要となる。
先日、このブログのなかで不明高齢者のことを書いたが、今日の講演のなかで、どちらの講師もそれぞれの話の文脈のなかでその件に触れていた。それを聞いていて、自分の認識不足だったことに気付かされた。身内の死を隠すことで、その年金を詐欺的に取得するのは、単なる悪意の場合もあるだろうが、やむにやまれぬ場合だってあるということだ。例えば110歳であるはずの親の死を30年間隠匿していた子は80歳代だ。隠匿開始は50歳代ということになる。どのような事情があったのかは知らないが、一般的な給与生活者ならば、昇給はもはやなく、年収の維持はやや困難で退職金で多少潤った後は年金依存の生活になる。孫も同居していたが、それにしても老齢世代と現役世代の構成という点で、世帯収支が年金の有無によってどのように変化するのかということも、それによって罪状の軽重があるかどうかは別にして、考えなければなるまい。
いずれにしても、自分の人生は自分で責任を持つということだ。介護にしても自分の老後にしても、平均寿命がどうの、その間のライフイベントがどうの、という平均値の議論は保険会社や金融機関の商品設計には必要不可欠な情報だが、個人にとっては殆ど意味を成さない。自分が自分の人生をどのように考えるか、その価値観や哲学こそが必要なのである。平均値という自分の外部にあるものを尺度にしている限り、その変化に振り回されてあたふたし、気がつけば死の床にあった、などという悲劇的に喜劇的な、あるいは喜劇的に悲劇的な状況に陥りかねない。
人は生まれることを選択できない。生れてしまったからには与えられた生を生きるしかない。そうして生きた人生は結果論だ。どうなるかわからない老後を思い煩うよりも、今この瞬間をいかに充実させるかということを考えずに、生きる価値などないだろう。価値は自分が作る。他に何も無い。