人の発想は経験に基づく、あるいは経験を超えることはない、というのは殆ど確信のようなものである。ただ、その「人の発想」というものがどの程度のものかということは、何を尺度にするかによってどのようにも表現できる。「誰某の発想がスゴイ」というときの凄さと「人の考えることに然したる違いは無い」というときの違いというのは、当然に異質の尺度によるものだ。人の実体は関係性の結節点のようなものだろう。関係性という概念の世界に浮遊しているようなものなので、あるひとつの事象を同じ人間がどのようにでも評価できる、ということではないだろうか。にもかかわらず、えてして他人から見れば奇妙でしかない単一尺度に縋り付いて、自ら窮屈な世界に入り込んでしまっている人が多い、ように感じられる。
昨日、羽生田さんが語っていたのだが、サラリーマンを辞めてコーヒー豆の焙煎業を始めてみると、それまでには「考えられなかったような人たち」との交流が始まったという。コーヒー豆を自分で選んで、買って、挽いて、淹れる、というような悠長なことを敢えてするのはその人の個性の何事かを如実に示している。そういう個性の人たちと、ごく平均的な会社員の個性とは全く違うということなのだろう。
会社員と言っても業種によって文化が異なり、同じ企業においてさえ、事業部門によってそれぞれの職種の文化がある。以前にも何度か触れているように、私はこれまでに4回転職をしている。最初の就職先は当時の社員数が1万人近い企業で、3年程度の人事ローテーションで営業系と調査系の職場と企業派遣による留学を経験した。その就職先が経営難に陥り、外資傘下に入ることになって転職を余儀なくされた時に、たまたま調査系の職種に就いていたので、以降、調査系の職場が続くことになった。調査系の仕事のおかげで自身の転職経験に加えて様々な調査対象企業の管理部門系の人々と接点を持つことになった。そうした経験から、人の集団は、ある程度の規模を超えると分裂して、それぞれの機能にふさわしい小集団になるものだとの印象を持っている。それでも、どれほど起業家精神が旺盛であっても、給与生活者である限りは給与生活者としての発想からは抜けられないのである。自営業者はどれほど小さな経営体であっても、自営業者としての緊張感のようなものがあるものだ。
それは個性に属する部分も当然にあるのだが、「ポジションが人を作る」という側面もある。同じ人間が、置かれた位置によって、全く別のキャラクターを発揮するということはよくあることだ。これは仕事という場でのことだが、家族との関係とか地域との関係とか、様々な場において似たようなことがある。
繰り返しになるが、結局、人は関係性の中を生きているということなのである。そのひとつひとつの関係性が、あたかもマイクロコスモスの如く、程度の差こそあれ、その世界独自の論理と秩序を有している。本来、人間の生活というものは、個人、家族、血縁、地縁、職縁など多くのマイクロコスモスの複合体なのだと思う。自分が生きる小宇宙の数の「自己」があり、それぞれの宇宙がそれぞれのリズムで代謝を繰り返していて、「自分」はそうした複数の「自己」の集合体のようなものとして、なんとなくそこに在るという状態が自然なのではないだろうか。
自分が位置するすべてのマイクロコスモスにおいて、それぞれに順風満帆であることに越したことはないのだろうが、現実はそうではないだろう。しかし、多くのマイクロコスモスを生きていれば、あるところでは閉塞していても、別のところではそれなりに解放されるという確率も高くなるはずだ。生活の健康は、そうしたバランスの上に成り立つものだろう。
ところが、生活の場というものをひとつの価値観に絞ってしまうと、そうした柔軟性は期待できない。いくつもの生活圏を持っているつもりでも、その全てに資本の論理が貫徹されている、というようなことのほうが、むしろ多いのではないか。何をするにしても、結局は「いくら」というデジタル化されたものに置き換えられてしまうのでは、やはり生活の柔軟性というものは生れないだろう。「自分」というものは分裂しているくらいが調度良いのではないだろうか。
昨日、羽生田さんが語っていたのだが、サラリーマンを辞めてコーヒー豆の焙煎業を始めてみると、それまでには「考えられなかったような人たち」との交流が始まったという。コーヒー豆を自分で選んで、買って、挽いて、淹れる、というような悠長なことを敢えてするのはその人の個性の何事かを如実に示している。そういう個性の人たちと、ごく平均的な会社員の個性とは全く違うということなのだろう。
会社員と言っても業種によって文化が異なり、同じ企業においてさえ、事業部門によってそれぞれの職種の文化がある。以前にも何度か触れているように、私はこれまでに4回転職をしている。最初の就職先は当時の社員数が1万人近い企業で、3年程度の人事ローテーションで営業系と調査系の職場と企業派遣による留学を経験した。その就職先が経営難に陥り、外資傘下に入ることになって転職を余儀なくされた時に、たまたま調査系の職種に就いていたので、以降、調査系の職場が続くことになった。調査系の仕事のおかげで自身の転職経験に加えて様々な調査対象企業の管理部門系の人々と接点を持つことになった。そうした経験から、人の集団は、ある程度の規模を超えると分裂して、それぞれの機能にふさわしい小集団になるものだとの印象を持っている。それでも、どれほど起業家精神が旺盛であっても、給与生活者である限りは給与生活者としての発想からは抜けられないのである。自営業者はどれほど小さな経営体であっても、自営業者としての緊張感のようなものがあるものだ。
それは個性に属する部分も当然にあるのだが、「ポジションが人を作る」という側面もある。同じ人間が、置かれた位置によって、全く別のキャラクターを発揮するということはよくあることだ。これは仕事という場でのことだが、家族との関係とか地域との関係とか、様々な場において似たようなことがある。
繰り返しになるが、結局、人は関係性の中を生きているということなのである。そのひとつひとつの関係性が、あたかもマイクロコスモスの如く、程度の差こそあれ、その世界独自の論理と秩序を有している。本来、人間の生活というものは、個人、家族、血縁、地縁、職縁など多くのマイクロコスモスの複合体なのだと思う。自分が生きる小宇宙の数の「自己」があり、それぞれの宇宙がそれぞれのリズムで代謝を繰り返していて、「自分」はそうした複数の「自己」の集合体のようなものとして、なんとなくそこに在るという状態が自然なのではないだろうか。
自分が位置するすべてのマイクロコスモスにおいて、それぞれに順風満帆であることに越したことはないのだろうが、現実はそうではないだろう。しかし、多くのマイクロコスモスを生きていれば、あるところでは閉塞していても、別のところではそれなりに解放されるという確率も高くなるはずだ。生活の健康は、そうしたバランスの上に成り立つものだろう。
ところが、生活の場というものをひとつの価値観に絞ってしまうと、そうした柔軟性は期待できない。いくつもの生活圏を持っているつもりでも、その全てに資本の論理が貫徹されている、というようなことのほうが、むしろ多いのではないか。何をするにしても、結局は「いくら」というデジタル化されたものに置き換えられてしまうのでは、やはり生活の柔軟性というものは生れないだろう。「自分」というものは分裂しているくらいが調度良いのではないだろうか。