若松孝二監督作品を観るのは「あさま山荘への道程」に次いで2作目。昨年6月に氏の講演会を聴く機会があり、以来、なんとなく気になる人である。自分の親とほぼ同世代という親近感もあるのだろうが、なんとなく筋の通った人という印象が強い所為だと思う。
講演会のテーマは「愛のコリーダ」の舞台裏ということだったのだが、連合赤軍とのかかわりについての話が印象に残り、さっそくアマゾンで「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を注文した。しかし、映画のほうは、私はそれほど好きではなく、観終わってアマゾンのマーケットプレイスで売ってしまった。
この「キャタピラー」はその「あさま山荘」の主人公たちの親の世代を描いたのだそうだ。先ごろ、ベルリン映画祭で主演の寺島しのぶが主演女優賞を受賞して話題になっていたので観る気になった。好きな映画ではないが、面白いとは思う。
「五体満足」という言葉がある。人は程度の差こそあれ、誰でも心身のどこかに問題を抱えているものだ。それでも、圧倒的大多数の人は日常生活に不自由なく生きている。なかには、怪我や病気、あるいは先天的な異常によって、五体満足ではない人もいる。「五体満足」というとき、それは物理的な身体機能に障害が無いという意味だ。しかし、五体満足であることを生活のなかに活かしている人はどれほどいるだろうか。ごく基本的な健康管理を怠って、「生活習慣病」と総称される様々な疾病を抱える状況に陥っている人は少なくないだろう。風邪や飲み過ぎ食べ過ぎも、些細な不注意に起因することが殆どではないだろうか。つまり、物理的に「五体満足」でも実体としては全く満足できるような状況には無いことが多いということだ。これが精神状況について見たら、もっと酷いことになっているのではないだろうか。
映画のなかで、主人公の夫は戦地で負傷して、四肢を失い、頭部の一部が焼け爛れ、耳が不自由になって、声も失った状態で帰還する。戦時中なので、戦場での負傷は名誉であり、勲章を3つ贈られ、人々からは「軍神様」と奉られる。しかし四肢が無く、声も呻き程度しか無いのでは、主体的に行動することはできない。妻の介護に支えられて生命が続いているだけである。それでも食欲と性欲は従前通りだ。食べて、妻の身体を求め、寝るだけの毎日が繰り返される。舞台は農村なのだが、戦時下で徴発もあるため、食糧事情は良くはない。食べるものが足りないといって怒り、妻が農作業や介護で疲れているからと身体を拒めば怒る。そこに精神性は無く、単なる生命体としての存在でしかない。
やがて、戦場で自分が犯した残虐行為がフラッシュバックするようになり、その記憶に脅かされるようになる。遂に発狂し、残された四肢の根元を駆使して、這って家を出て、庭の池のほとりに到達する。池には毛虫が一匹、水面で身体をくねらせている。それに気がついたかどうかわからないが、水面に映った自分の姿に何事かを感じたのは確かだろう。時は昭和20年8月15日。
「あさま山荘」でも感じたが、若松監督の作品には怒りが描かれているように思う。おそらく、氏は人間とかその社会に対する期待が高いのだろう。だから、その期待を裏切る行為や事象を許すことができないのではないだろうか。「キャタピラー」とカタカナのタイトルなので平和呆けの私は建設機械を想像してしまうが、英語の「caterpillar」は芋虫や毛虫のことだ。何を考えてこの作品を制作したのか本当のところは知らないが、人を芋虫のような姿で描くことで、思考しない人間の在り様を激しく批判しているように感じられた。
講演会のテーマは「愛のコリーダ」の舞台裏ということだったのだが、連合赤軍とのかかわりについての話が印象に残り、さっそくアマゾンで「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を注文した。しかし、映画のほうは、私はそれほど好きではなく、観終わってアマゾンのマーケットプレイスで売ってしまった。
この「キャタピラー」はその「あさま山荘」の主人公たちの親の世代を描いたのだそうだ。先ごろ、ベルリン映画祭で主演の寺島しのぶが主演女優賞を受賞して話題になっていたので観る気になった。好きな映画ではないが、面白いとは思う。
「五体満足」という言葉がある。人は程度の差こそあれ、誰でも心身のどこかに問題を抱えているものだ。それでも、圧倒的大多数の人は日常生活に不自由なく生きている。なかには、怪我や病気、あるいは先天的な異常によって、五体満足ではない人もいる。「五体満足」というとき、それは物理的な身体機能に障害が無いという意味だ。しかし、五体満足であることを生活のなかに活かしている人はどれほどいるだろうか。ごく基本的な健康管理を怠って、「生活習慣病」と総称される様々な疾病を抱える状況に陥っている人は少なくないだろう。風邪や飲み過ぎ食べ過ぎも、些細な不注意に起因することが殆どではないだろうか。つまり、物理的に「五体満足」でも実体としては全く満足できるような状況には無いことが多いということだ。これが精神状況について見たら、もっと酷いことになっているのではないだろうか。
映画のなかで、主人公の夫は戦地で負傷して、四肢を失い、頭部の一部が焼け爛れ、耳が不自由になって、声も失った状態で帰還する。戦時中なので、戦場での負傷は名誉であり、勲章を3つ贈られ、人々からは「軍神様」と奉られる。しかし四肢が無く、声も呻き程度しか無いのでは、主体的に行動することはできない。妻の介護に支えられて生命が続いているだけである。それでも食欲と性欲は従前通りだ。食べて、妻の身体を求め、寝るだけの毎日が繰り返される。舞台は農村なのだが、戦時下で徴発もあるため、食糧事情は良くはない。食べるものが足りないといって怒り、妻が農作業や介護で疲れているからと身体を拒めば怒る。そこに精神性は無く、単なる生命体としての存在でしかない。
やがて、戦場で自分が犯した残虐行為がフラッシュバックするようになり、その記憶に脅かされるようになる。遂に発狂し、残された四肢の根元を駆使して、這って家を出て、庭の池のほとりに到達する。池には毛虫が一匹、水面で身体をくねらせている。それに気がついたかどうかわからないが、水面に映った自分の姿に何事かを感じたのは確かだろう。時は昭和20年8月15日。
「あさま山荘」でも感じたが、若松監督の作品には怒りが描かれているように思う。おそらく、氏は人間とかその社会に対する期待が高いのだろう。だから、その期待を裏切る行為や事象を許すことができないのではないだろうか。「キャタピラー」とカタカナのタイトルなので平和呆けの私は建設機械を想像してしまうが、英語の「caterpillar」は芋虫や毛虫のことだ。何を考えてこの作品を制作したのか本当のところは知らないが、人を芋虫のような姿で描くことで、思考しない人間の在り様を激しく批判しているように感じられた。