熊本熊的日常

日常生活についての雑記

パリ 京都

2010年08月14日 | Weblog
「パリ、テキサス」という映画が昔あったが、今日は原美術館で開催中の「William Egglestone: PARIS-KYOTO」を観てきた。エグルストンが写真家を志したのはHCBやウォーカー・エヴァンズの写真集に影響を受けたから、とのことだが、言われてみればそれらしい感じが無くも無い。

パリも京都も自分にとっては同じくらい馴染みのない都市だが、自分が日本人である分だけ、同じ日本の都市である京都の写真に対する批評眼は厳しいものにならざるを得ない。「京都」と銘打つからには京都でなければ撮ることのできないものがあってもよいのではないかと思うのだが、どれも京都でなくともありそうな画ばかりのように感じられた。

ハンス・コパーの言葉に「why before how」というのがあることを先日のブログで書いた。クリエイターに限らず、誰もが何事か行動を起こすときに想起すべきことだとは思うが、現実には人の行動というのは習慣に流されているものだろう。しかし、少なくとも創造行為を生業にしている意識があるなら、自分の作品を作るときには常に「why」を心に持ち続けて然るべきだと思う。

今回の展覧会で「パリ」のほうに比べると「京都」は「why」が弱いと感じた。「パリ」が2006-08年に発表された作品群で「京都」は2001年。1998年にHasselblad Awardを受賞して、やや気持ちが弛緩した頃の作品が「京都」だったのではないか。再び写真家としての緊張感が回復してきた頃の作品が「パリ」なのではないか。そんなことを勝手に想像するのも楽しい。

Hasselblad Awardというものを今回初めて知ったのだが、エグルストンの受賞作品も今回の展示作品のなかにある。1980年から始まって、該当者無しという年もあるが、原則として毎年1人が選出されている。今年も既にフランス人写真家のSophie Calleが受賞したことが発表済みである。日本人受賞者は1987年の濱谷浩と2001年の杉本博司の2人だ。濱谷は既に故人だが、もともと報道写真を撮影しており戦時中は対外広報誌「FRONT」の製作にも参加していたが、戦後は、戦中から撮り始めた日本の農村風景に軸足を移し、おそらく彼の中の日本人の原風景、強いては自分自身の原風景を追い求めたのだろう。杉本は現役の写真家で、最近はメディアへの露出も少なくないが、彼のテーマは「時間」である。2005年に六本木ヒルズの森美術館で開催された個展が記憶に新しいが、写真家として自立できるようになるまでは、生計のために古美術商を営んでいた時代もあり、現在も蒐集は続けているようで、そうした方面での発言もしばしば見聞きする。ふたりとも、作品に「why」が濃厚に感じられる作家だ。好きか嫌いかということは別にして、筋の通ったものに出会うと、なぜか嬉しく感じられる。私は写真のことは何もしらないが、二人の作品を眺めると、とても嬉しくなる。