熊本熊的日常

日常生活についての雑記

当たり前の苦痛

2010年08月09日 | Weblog
出勤前にプールで泳いでいて2回ほど足が攣りかけた。1,500mあたりと2,200mあたりだったが、そのまま堪えて泳ぎ続けた。去年、帰国後にプール通いを再開した初日、2009年5月3日には700m過ぎて足が攣り、そこで泳ぐのを止めてしまった。ロンドンにいたときは泳いでいなかったので、その前に泳いだのが2007年8月26日で1年8ヶ月超の空白期間がある。年齢や運動暦を考えれば、多少の準備運動をした程度ではすぐに足が攣るくらいのことは想定できることだったので、そのときはそのまま止めてしまった。しかし、今日は予定していた距離に達していなかったので止めたくなかった。それで、足首の角度を変え、力の入れ具合を変え、停まらずに泳ぎ続けて予定していた2,500mを超える2,750mを泳いだところで出勤時間を迎えた。

しょーもないことなのだが、年齢を重ねるというのはこういうことかと思った。能力の衰えというものがある一方で、それを補う知恵が付いている。無意識のうちに未来が過去の延長線上にあると思い込んでいるが、一寸先は闇である。闇だと認めてしまうと不安で生きていけないので防衛本能が機能して未来が現在と同じように在るという幻覚を見ているだけのことだ。現に生活していれば様々な不測の事態に遭遇する。それが幸運なことも無いわけではないが、幸運というのは振り返ってみてそう思うのであって、その最中にあるときは当然だと感じているものだ。大概は、「不測の事態」といえばそのときの自分にとっての不運を指すものだ。そいう障害をひとつひとつ乗り越えて、人は知恵をつける。そんなことがあるのかどうか知らないが、もし順風満帆だけの人生なら、本当に役に立つ知恵というようなものは身につかないのではないだろうか。

人それぞれに置かれた状況があり、同じ事象でも状況によって良くも悪くも捉えることができるものだ。自分の生活がどのように終わるのかわからないが、先につながる今の在り様の基本は、その時々の自分の内と外とを適切に観察することなのではないかと思っている。それで、こうして日記のようにブログを書いたりしているのだが、それが果たして何かにつながるのかどうか確信があるわけではない。ただ、何もしなければ何も起こらない。何かを辛抱強く続けていれば、やはり何も起こらないかもしれないし、何かが起こるかもしれない。少なくとも、自分のなかに蓄積されるものがあるはずだ、と思うよりほかにどうしょうもない。それが、例えば足の攣りを治める程度のことであっても、それをやり過ごした後に何かあるかもしれないと思えば、なんとなく未来が開けるような明るい気分に、なるかもしれない。