ネット上で無料配信になっている「間宮兄弟」を観た。2006年5月の公開なので、製作はその前年あたりだろう。どれほどの興行成績だったのかは知らないが、気楽に眺めていることのできる楽しい作品だ。兄弟、姉妹、親子、夫婦、友人、恋人、職場というわかりやすい関係性のステレオタイプのようなものを組み合わせて物語が進行する。平均的なものというのは個別具体的なものの集合でありながら、個別具体的なものとは乖離した在り様のものであることが多い。人間関係などはその最たるものだろう。だからこそ、平均的なものを描けば、それがあたりまえのことのように世の中に受けいれられるのである。受けいれられるというのは、それが自分のことではないと思われているからだ。生々しいものは、どこか消化しにくいところが残るものである。
2005年にしても2006年にしても、今から振り返れば、今よりもいろいろな意味で余裕のあった時代のようの感じられるのは私だけなのだろうか。この4-5年の間に世界的な金融危機があり、誰もがその名前を知っているような大きな企業が破綻し、欧州では企業どころか国家までもが経済的に破綻するという事態を経験した。今なおその激動冷めやらぬなかにあるなかで、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というようなこともけっこうある。しかし、「覆水盆に返らず」ということもあるだろう。
例えば雇用関係では、安易な解雇が多くなったように感じられる。雇用関係に対する、それまでの「あたりまえの信頼感」のようなものが失われた結果として、企業の製品やサービスの質的な部分に問題が生じたケースもあるのではないだろうか。製品やサービスというのは、その生産に直接的にかかわるもののみによって生み出されるのではなく、企業組織が存在するために必要な枝葉末節的なことも含めたありとあらゆることを、それぞれの担当部署が適切に処理することによって生み出される。そうした裏方に対しても組織としてその存在を認知し評価を与えることで組織構成員間の信頼も生まれ、それが製品やサービスにも反映されるものなのではないだろうか。それが、組織が困難に直面した際に、目に見える部分だけ、あるいは組織内政治の力学だけのことで対応すると、組織に残された構成員にも理不尽な思いが蔓延し、結果として肝心な製品やサービスにそれまでには考えられなかったような問題が生じるというようなことがあるように思う。
世に「パーキンソンの法則」と呼ばれるものがある。「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」とされる第一法則と、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という第二法則があり、まとめて「ある資源に対する需要は、その資源が入手可能な量まで膨張する」とされることもある。また、「組織はどうでもいい物事に対して、不釣合いなほど重点を置く」という凡俗法則もある。英国の歴史・政治学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンはこうした法則を自国の官僚制を観察することで導き出したのだそうだが、あらゆる組織に敷衍できる普遍性があるように思われる。
組織が規模縮小を余儀なくされるような危機に直面することはいつの時代にもあるだろう。そして被雇用者の一部を解雇することも、危機対応策としては当然にあるだろう。問題はその後だ。単に頭数を減らしただけで、パーキンソンの法則的な馬鹿馬鹿しさが改善されていないとすれば、被雇用者の間には雇用者側に対する不信感が広がり、働く者が当然に持つはずの自分の仕事に対する誇りや信頼までもが揺らいでしまうことになる。自分の仕事に対する信頼の揺らぎというのは、自分自身の存在に対する信頼の揺らぎにまで至ることだってあるだろう。それが社会全体の不安をもたらすことにもなるのは当然だ。
「間宮兄弟」に描かれている人物たちは、どの人も信頼感に支配されている。間宮兄はビール会社の研究員としての自分の仕事が好きで、自分の仕事に対する信頼がある。間宮弟も小学校の校務員という仕事に誇りを持っている。間宮兄弟が利用しているレンタルビデオ店の店員は常連客の趣味嗜好を把握していて、客が借り出そうとカウンターに持ってきたDVDのタイトルを見て、それらしい言葉をかけたりする。間宮弟が兄に女性の友人ができるようにと考えるのはカレーパーティーだ。手作りのカレーライスで客をもてなそうという発想の健全性は、改めて見直してもよさそうだ。ほかにもこの作品には人の暮らしの基本要素に対する一貫した視線がある。そうした日々の暮らしのなかで自分自身の在り様を支える大小軽重さまざまの信頼感にささえられて人間とその社会の健康が得られるのではないだろうか。間宮弟が一目惚れした兄の勤務先の先輩の妻にアプローチするときの言葉が象徴的だ。「僕、そんなに悪い奴じゃないです。」クスッと笑ってしまうようなシーンなのだが、もし誰もが堂々と「私は、そんない悪い奴じゃないですよ」と言えるなら、世の中は誰にとっても暮らしやすいのではないだろうか。
仕事と衣食住という生活の基本で、自分がその場に応じた適切な信頼関係を結ぶことができている、という感覚をどれほど多くの人が持っているだろうか。それこそが、文明の指標であるように思う。
2005年にしても2006年にしても、今から振り返れば、今よりもいろいろな意味で余裕のあった時代のようの感じられるのは私だけなのだろうか。この4-5年の間に世界的な金融危機があり、誰もがその名前を知っているような大きな企業が破綻し、欧州では企業どころか国家までもが経済的に破綻するという事態を経験した。今なおその激動冷めやらぬなかにあるなかで、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というようなこともけっこうある。しかし、「覆水盆に返らず」ということもあるだろう。
例えば雇用関係では、安易な解雇が多くなったように感じられる。雇用関係に対する、それまでの「あたりまえの信頼感」のようなものが失われた結果として、企業の製品やサービスの質的な部分に問題が生じたケースもあるのではないだろうか。製品やサービスというのは、その生産に直接的にかかわるもののみによって生み出されるのではなく、企業組織が存在するために必要な枝葉末節的なことも含めたありとあらゆることを、それぞれの担当部署が適切に処理することによって生み出される。そうした裏方に対しても組織としてその存在を認知し評価を与えることで組織構成員間の信頼も生まれ、それが製品やサービスにも反映されるものなのではないだろうか。それが、組織が困難に直面した際に、目に見える部分だけ、あるいは組織内政治の力学だけのことで対応すると、組織に残された構成員にも理不尽な思いが蔓延し、結果として肝心な製品やサービスにそれまでには考えられなかったような問題が生じるというようなことがあるように思う。
世に「パーキンソンの法則」と呼ばれるものがある。「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」とされる第一法則と、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という第二法則があり、まとめて「ある資源に対する需要は、その資源が入手可能な量まで膨張する」とされることもある。また、「組織はどうでもいい物事に対して、不釣合いなほど重点を置く」という凡俗法則もある。英国の歴史・政治学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンはこうした法則を自国の官僚制を観察することで導き出したのだそうだが、あらゆる組織に敷衍できる普遍性があるように思われる。
組織が規模縮小を余儀なくされるような危機に直面することはいつの時代にもあるだろう。そして被雇用者の一部を解雇することも、危機対応策としては当然にあるだろう。問題はその後だ。単に頭数を減らしただけで、パーキンソンの法則的な馬鹿馬鹿しさが改善されていないとすれば、被雇用者の間には雇用者側に対する不信感が広がり、働く者が当然に持つはずの自分の仕事に対する誇りや信頼までもが揺らいでしまうことになる。自分の仕事に対する信頼の揺らぎというのは、自分自身の存在に対する信頼の揺らぎにまで至ることだってあるだろう。それが社会全体の不安をもたらすことにもなるのは当然だ。
「間宮兄弟」に描かれている人物たちは、どの人も信頼感に支配されている。間宮兄はビール会社の研究員としての自分の仕事が好きで、自分の仕事に対する信頼がある。間宮弟も小学校の校務員という仕事に誇りを持っている。間宮兄弟が利用しているレンタルビデオ店の店員は常連客の趣味嗜好を把握していて、客が借り出そうとカウンターに持ってきたDVDのタイトルを見て、それらしい言葉をかけたりする。間宮弟が兄に女性の友人ができるようにと考えるのはカレーパーティーだ。手作りのカレーライスで客をもてなそうという発想の健全性は、改めて見直してもよさそうだ。ほかにもこの作品には人の暮らしの基本要素に対する一貫した視線がある。そうした日々の暮らしのなかで自分自身の在り様を支える大小軽重さまざまの信頼感にささえられて人間とその社会の健康が得られるのではないだろうか。間宮弟が一目惚れした兄の勤務先の先輩の妻にアプローチするときの言葉が象徴的だ。「僕、そんなに悪い奴じゃないです。」クスッと笑ってしまうようなシーンなのだが、もし誰もが堂々と「私は、そんない悪い奴じゃないですよ」と言えるなら、世の中は誰にとっても暮らしやすいのではないだろうか。
仕事と衣食住という生活の基本で、自分がその場に応じた適切な信頼関係を結ぶことができている、という感覚をどれほど多くの人が持っているだろうか。それこそが、文明の指標であるように思う。