午後、横浜にぎわい座で「落語教育委員会」こと「柳家喜多八・三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎 三人会」を聴いた。今日の演目は以下の通り。
「南瓜」 入船亭扇里
「竃幽霊」 柳家喬太郎
(中入り)
「子ほめ」 三遊亭歌武蔵
「船徳」 柳家喜多八
開演 13時30分
閉演 16時00分
この落語会は実質的に前座なしという贅沢なものである。扇里は現在は二つ目だが、来月に真打へ昇進することになっているので、「三人会」というより「四人会」と呼んでもよいほどの面子なのである。演目はどれもオーソドックスなもので、「南瓜」や「子ほめ」は前座噺にもしばしば使われるネタである。しかし、毎度書いているように、そういうものほど奥が深かったりするものだ。歌武蔵を聴くのは今回が初めてなのだが、さすがに、この噺はこういう面白い話だったのか、と再認識させてくれる内容だ。
四人の演目は全て古典だ。いずれも程度の差こそあれ、聴く側にリテラシーが要求される。それが無いと木戸銭を払って舟を漕ぐだけ、ということになりかねない。事実、私の右隣の席にいた人はそうだった。年齢は私より上のようだが、七分ズボンに素足でナイキのサンダルにナイキのキャップ、半袖襟付きの淡い色のシャツ、といういでたち。顎鬚を生やし、ちょっと見たところはカッコのよい爺さんだ。開演直前まではiPhoneでFacebookを見ていて、噺が始まってからスイッチを切り、舟を漕ぐ。中入りになると再びiPhoneをいじり、中入り後は終始舟を漕ぐ。何をしに来たのかわからない。長年生きていても、日本語が理解できない人なのだろう。スマートフォンの小さい画面に表現される程度の情報を処理するのが精一杯ということだろうか。
それでも、「南瓜」や「子ほめ」のような前座噺に使われる類のものは、注釈なしでもなんとか理解できるだろう。問題は「竃」だ。漢字を見れば一目瞭然だが、「へっつい」と言われてわかる人が今の時代にどれほどいるだろうか。噺の中身から、大人2人がかりで運ばなければならないような大きく重いものであること、屋内に設置するものであること、設置に手間隙あるいは技能が要求されること、火を使うものであること、どこの家庭にもあること、衝撃を与えると欠けるものであること、というようなことは誰でも理解できる。ここまでわかれば、噺の主旨はそこから出てくる幽霊と主人公とのやり取りなので、舞台装置の詳細までは知らなくとも話しは理解できる。しかし、わからない言葉があることが気になる人にとっては、噺の世界に入り込みにくいかもしれない。「船徳」は、風景描写と江戸における舟の役割やそれを利用することの記号的意味というようなことを知っておく必要があるように思うが、そのあたりの説明を巧みに挟みながら、噺の調子を崩さずに演じるあたりはさすがにトリだけのことはある。この噺の場合、船宿の若い船頭たちが旦那からの使いに集合をかけられ、何かシクジリがばれたのではないかと戦々恐々としながら懺悔をするところで、上手く笑いを取れないと噺全体の間が抜けてしまうのだが、ここの間が素晴らしく、サゲに向かう後半の間が上手く整えられていたように感じられた。
「船徳」は人情噺である「お初徳兵衛浮名の桟橋」の発端部分を取り出して滑稽噺に仕立直したものだ。長い噺なので、三人会だと「お初徳兵衛」を演るのは難しいのだろうが、「南瓜」「竃幽霊」「子ほめ」「船徳」と比較的よく知られた滑稽噺ばかりでまとめるよりは、落語会全体の緩急強弱をつけたほうが、聴く側の満足度は高いように思うのだが、どうなのだろう。
落語会を聴き終えて巣鴨に戻り、ちょっと一服した後で、ハニービーンズの羽入田さんと大塚の「蒼天」という焼き鳥屋へ出かけた。偶然なのだが、「蒼天」の看板は寄席文字を使っている。橘流寄席文字の橘右門の手になるものだそうだ。寄席文字の特徴は、隙間無く、余白が均等で、全体に微妙に右上がりであることだ。これは客席が隙間なく埋まり、興行が右肩上がりになることを願う縁起文字なのだそうだ。
羽入田さんとは19時から閉店の22時30分までおしゃべりを楽しんだ。いろいろ考えさせられる話題もあったが、今日は冗長になってしまうので、明日以降のブログで紹介する機会があるかもしれない。
「南瓜」 入船亭扇里
「竃幽霊」 柳家喬太郎
(中入り)
「子ほめ」 三遊亭歌武蔵
「船徳」 柳家喜多八
開演 13時30分
閉演 16時00分
この落語会は実質的に前座なしという贅沢なものである。扇里は現在は二つ目だが、来月に真打へ昇進することになっているので、「三人会」というより「四人会」と呼んでもよいほどの面子なのである。演目はどれもオーソドックスなもので、「南瓜」や「子ほめ」は前座噺にもしばしば使われるネタである。しかし、毎度書いているように、そういうものほど奥が深かったりするものだ。歌武蔵を聴くのは今回が初めてなのだが、さすがに、この噺はこういう面白い話だったのか、と再認識させてくれる内容だ。
四人の演目は全て古典だ。いずれも程度の差こそあれ、聴く側にリテラシーが要求される。それが無いと木戸銭を払って舟を漕ぐだけ、ということになりかねない。事実、私の右隣の席にいた人はそうだった。年齢は私より上のようだが、七分ズボンに素足でナイキのサンダルにナイキのキャップ、半袖襟付きの淡い色のシャツ、といういでたち。顎鬚を生やし、ちょっと見たところはカッコのよい爺さんだ。開演直前まではiPhoneでFacebookを見ていて、噺が始まってからスイッチを切り、舟を漕ぐ。中入りになると再びiPhoneをいじり、中入り後は終始舟を漕ぐ。何をしに来たのかわからない。長年生きていても、日本語が理解できない人なのだろう。スマートフォンの小さい画面に表現される程度の情報を処理するのが精一杯ということだろうか。
それでも、「南瓜」や「子ほめ」のような前座噺に使われる類のものは、注釈なしでもなんとか理解できるだろう。問題は「竃」だ。漢字を見れば一目瞭然だが、「へっつい」と言われてわかる人が今の時代にどれほどいるだろうか。噺の中身から、大人2人がかりで運ばなければならないような大きく重いものであること、屋内に設置するものであること、設置に手間隙あるいは技能が要求されること、火を使うものであること、どこの家庭にもあること、衝撃を与えると欠けるものであること、というようなことは誰でも理解できる。ここまでわかれば、噺の主旨はそこから出てくる幽霊と主人公とのやり取りなので、舞台装置の詳細までは知らなくとも話しは理解できる。しかし、わからない言葉があることが気になる人にとっては、噺の世界に入り込みにくいかもしれない。「船徳」は、風景描写と江戸における舟の役割やそれを利用することの記号的意味というようなことを知っておく必要があるように思うが、そのあたりの説明を巧みに挟みながら、噺の調子を崩さずに演じるあたりはさすがにトリだけのことはある。この噺の場合、船宿の若い船頭たちが旦那からの使いに集合をかけられ、何かシクジリがばれたのではないかと戦々恐々としながら懺悔をするところで、上手く笑いを取れないと噺全体の間が抜けてしまうのだが、ここの間が素晴らしく、サゲに向かう後半の間が上手く整えられていたように感じられた。
「船徳」は人情噺である「お初徳兵衛浮名の桟橋」の発端部分を取り出して滑稽噺に仕立直したものだ。長い噺なので、三人会だと「お初徳兵衛」を演るのは難しいのだろうが、「南瓜」「竃幽霊」「子ほめ」「船徳」と比較的よく知られた滑稽噺ばかりでまとめるよりは、落語会全体の緩急強弱をつけたほうが、聴く側の満足度は高いように思うのだが、どうなのだろう。
落語会を聴き終えて巣鴨に戻り、ちょっと一服した後で、ハニービーンズの羽入田さんと大塚の「蒼天」という焼き鳥屋へ出かけた。偶然なのだが、「蒼天」の看板は寄席文字を使っている。橘流寄席文字の橘右門の手になるものだそうだ。寄席文字の特徴は、隙間無く、余白が均等で、全体に微妙に右上がりであることだ。これは客席が隙間なく埋まり、興行が右肩上がりになることを願う縁起文字なのだそうだ。
羽入田さんとは19時から閉店の22時30分までおしゃべりを楽しんだ。いろいろ考えさせられる話題もあったが、今日は冗長になってしまうので、明日以降のブログで紹介する機会があるかもしれない。