熊本熊的日常

日常生活についての雑記

コーヒー牛乳

2010年08月19日 | Weblog
唐突だが、コーヒー牛乳が好きだ。正確に言えば「好きだった」。ところが、近頃のコーヒー牛乳は私の記憶の中のそれとは違うように思う。職場のあるビルの中のセブンイレブンに並ぶコーヒー牛乳およびそれに類する商品を毎日ひとつづつ飲んでみたのだが、どれも妙にコーヒーを意識しているような気がする。

雪印コーヒー 500ml 紙パック
小岩井コーヒー 500ml 紙パック
グリコ マイルドカフェオーレ 500ml 紙パック
7&i カフェラテ 500ml 紙パック (製造は高梨乳業)
キリンビバレッジ ファイア スゴウマ 深煎り微糖 270ml ペットボトル

このなかに「コーヒー牛乳」という商品名のものはない。2000年6月から7月にかけて発生した雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件を契機に、商品名に「牛乳」という言葉を用いることに対する基準が厳しくなった結果、「コーヒー牛乳」とか「フルーツ牛乳」といった名称は実質的に使用不可能となったのだそうだ。

そんなことはともかくとして、私がイメージする「コーヒー牛乳」というのは、例えるならば駄菓子のようなものなのである。申し訳程度にコーヒー「のようなもの」を原材料のひとつに使い、牛乳をベースにして、「コーヒー」でもなく「牛乳」でもない、得体の知れない怪しいもので、安っぽいのだけれど、妙に舌が惹かれる味。そういうものが「コーヒー牛乳」なのである。

ここに挙げた5商品のなかでは「雪印コーヒー」がそうしたイメージに近いのだが、それでもコーヒーの風味がやや立っているように感じられた。商品名が「コーヒー」なのでコーヒーの風味が立っていなければならないのだが、容器には比較的大きな字で「乳飲料」とも書いてあるのだから、それがコーヒーだと思って買う人は皆無ではないにしても極めて限られると思う。コーヒーに関心の無い人はそれでもよいのだろうが、以前に何度も触れているように私はコーヒーも大好きなのである。中途半端にコーヒー「のようなもの」を使用して、「コーヒー」だの「カフェなんとか」だのと言われると、不愉快になる。逆に、「牛乳」のほうには何のこだわりもないので、牛乳とかミルクとかの味や風味にはあまり関心が無い。これらの商品の何に不満があるかと言えば、コーヒー「のようなもの」を「コーヒー」と称していることと、申し訳程度にコーヒーにこだわっているかのような姿勢を見せていることだ。この点、グリコの製品にはコーヒーを「毎日挽いて毎日ドリップ」などと書いてある。毎日挽かずに何時挽くんだ、と突っ込みたくなるが、想像するに、一般的なコーヒー飲料の製造工程では巨大な窯で大量に焙煎するということなのだろう。私のなかでは、そういうものはコーヒーとは呼ばないのである。

何事も極めることができるならば、それに越したことはないのだが、手軽に享受できて、しかも何事かを極めているというものは稀有である。本物を知らない奴が「本物」だの「本格派」だのと言い出すから厄介なことになる。ひとつひとつ手間隙かけて作るものと、量産するものとは根本的に相容れないところがあるのだから、できもしないことに名前だけ「本格」だの「本物」だのを謳うというのは消費者を馬鹿にした行為とさえ言えよう。

量産が悪いというのではない。量産自体、誇るべき技術とノウハウの集積だ。中途半端でいい加減なものだから悪いというのではない。現実は中途半端なもので成り立っているものだ。できる範囲で最上のものを作るということは健全な社会の基本だ。無理に寅の衣を被ろうとするのではなく、身の丈に合ったものを尊重する姿勢がないと、生活は心地よくないのではないだろうか。かつての「コーヒー牛乳」にはそういう身の丈に合った旨さと潔さがあったと思う。

コーヒー牛乳に限らず、巷に溢れている商品やサービスの多くに決定的に欠けているのは、見切りの良さとか潔さだと私は思っている。どれもこれも言い訳ばかり考えながら作られているように思えてならない。何事も、こだわりを持って作ればそれだけの費用がかかるのである。しかし、多くの場合、高いものは売れない。高いことに理由があっても、その理由を問う人は少ない。価格比較サイトで値段を確認し、量販店で店員相手に駄々をこね、1円でも安く買うことがたいした事であるかのように考える貧相な輩が多い。自分の仕事にケチが付けば不平不満を覚えるくせに、他人の仕事を認める眼力も思想も無い。破廉恥とはこういう輩を指す言葉だろう。ヘビークレーマーと呼ばれる連中のなかにも似たような奴が多いのではないか。自己主張はしても、他人に主張には耳を傾けない、それが当然だと思っている人たちである。持ちつ持たれつ、とかバランス感覚といったものが欠如しているのである。だから、そういう奴に限って、自己主張が聞き入れられないと傷ついてしまい、時に暴走するのである。

もともと人に限らず、生き物というのは身勝手にできているものなのだが、近年はネット検索でデータ系情報が誰にでも手軽に利用できるようになり、膨大な情報を手にした結果としてバランス感覚を喪失した輩が多くなったのではないだろうか。

量販店と画一的なものが溢れ、中途半端な「ブランド」が跋扈している。手間隙への価値は認められないので、雇用機会は減る。就業機会に恵まれても、低賃金長時間労働が当たり前のような職場が増え、将来を前向きに捉えることが容易でない人が増える。将来設計が立たなければ家庭も持つことができず、家庭を持っても子供を持つことに躊躇するようになる。高齢者ばかりが増え、人口は減少する。社会に閉塞感が強まり不安ばかりが増幅する。政治は政策の一貫性を失い、場当たり的な景気対策を繰り返して結果を伴わない財政支出が増える。結果が伴わないので、財政赤字は際限なく増える。社会は崩壊へ向かって突き進む。

私は、少なくとも自分の身の回りだけでも、手間隙への価値を認め、自信と他人へのまっとうな敬意を持った人たちと出会い、また、そういう人たちを増やしたいと願っている。具体的な手立てはいまだ思いつかないのだが、例えば7月2日付のこのブログに書いたようなこともそのひとつの案だ。誰もが匠になれるわけではない。誰もが名人や天才になれるわけではない。それでも自分のやることに自信と責任を持つことができる、当たり前の努力と当たり前の負担をしながら、向上心と希望だけは胸に、自己主張もするけれど他人の話にも耳を傾ける、そういう人たちのつながりを紡いでみたい。コーヒー牛乳の旨さがわかる人と出会いたい。