お盆で陶芸教室が休講だったので、同期入社の友人と昼食を共にした。午後1時に職場のあるビルの1階受付前で待ち合わせ、筑紫楼でランチセットを食べながら1時間半ほど雑談に興じた。前回、彼と話をしたのがいつのことだか記憶が無いのだが、私の帰国後であることは間違いないので、過去1年7ヶ月以内ではある。この間に2回ほどこうした機会があったと思うのだが、定かではない。それで、当然に私の側としては陶芸と木工のことが話題に上るのだが、彼にとっては初めて耳にする話であったらしく、たいへんウケていた。彼のほうは最近引っ越したとかで、その顛末とか仲介に立った不動産屋の話とか、実家の話といったことが話題になった。
2時半頃に食事を終えて、彼は職場に戻り、私は始業まで時間をつぶすので、出光美術館へ出かけた。職場近くで時間をつぶすとすると、候補は3つほどになる。ひとつは出光美術館、もうひとつは国立近代美術館、3つ目はブリヂストン美術館である。近代美術館は常設だけでも十分に楽しいが、どうせなら何か企画展のあるときに出かけたほうがより楽しいと思い、今日のところは見送り、ブリヂストンは「ぐるっとパス」を持っているときのほうが絶対的に家計が助かるので、これも見送り。「日本美術のヴィーナス」展を開催中で、しかも割引券の手持ちがある出光美術館に出かけることにした。
出光美術館のコレクションは出光興産が株式を公開する際に多少売却されてしまったそうだが、それでも肉筆浮世絵や陶磁器などでは依然として国内屈指の質と量とが維持されているのではないだろうか。今回の「ヴィーナス」展も数点だけが東京と京都の国立近代美術館からのもので、展示作品の殆どが収蔵品である。その所為か、見覚えのある作品が多かったが、何度でも観たいものばかりなので、かえって嬉しくなる。
浮世絵といえば版画、という固定概念が根強いようだが、肉筆浮世絵は版画の下絵ではなく、当初から鑑賞目的で描かれたものである。そもそも、下絵は版木の上に貼り付けて、木とともに彫ってしまうので後世に残ることはない。浮世絵に限らず、日本画には西洋画にはない間とリズムがあるように思う。西洋画には遠近法だとか聖書関係のモチーフの扱いだとかに関する決まりごとがあるように、日本画にも構図のパターンのようなものが感じられる。それを言葉で表現すれば「間」と「リズム」としか言いようがないように思う。
それは絵画表現だけのことではなく、言語も造形も全てに言えることではある。そうした異質のものが出遭ったところで、何がしかの反応が起こり、そこに止揚的に新たなものが創造されるというようなことを繰り返しながら歴史が刻まれてきたのだが、やはり自分のなかに素直に受容されるものというのは、自分自身の感覚のなかの「間」のようなものと呼応するものであるように思う。一方で、何事かを創造することを宿命付けられているような立場の人もいるわけで、そういう世界のなかでは創造することに価値が置かれている。しかし、全く新しいものというのは、評価する側に尺度の持ち合わせがないので、評価されないことになる。死後長い時間を経て評価される作品や作家というのがいつの時代にもいるのは、そういうことなのだろう。作り手、受け手、それらを取り巻く環境、と三拍子揃って初めて時代が軋みながらも大きく動く、ような印象を持っている。そうした出会いというのは、結局は運に拠らざるを得ないのではないだろうか。
もちろん、例えば絵の画面上の人物が、今描かれている位置から1センチでもずれていれば、画面全体の印象が変化してしまう。その最適な位置を本能的に定めることのできるのが才能であり、それは誰にでもあるものではないからこそ、その才能の作品が今に伝えられているのも事実だろう。しかし、才能というのは本人が決めるものではない。周囲がそれと認めるものなのである。やはり縁とか出遭いが無ければ世の中は動かないということなのである。
なにがどうというのではないけれど、眺めていて心踊るもの、心安らぐもの、というようなものがあるものだ。世に言う「美術品」のなかにそのようなものがあるというのは、そこに表現された技巧の妙に拠るところもあるだろうが、数々の僥倖を重ねたものが持つ輝きのようなものに観る側の第六感が刺激されているという面もあるように思う。
そんなことを考えているうちに出勤時間を迎えてしまった。
2時半頃に食事を終えて、彼は職場に戻り、私は始業まで時間をつぶすので、出光美術館へ出かけた。職場近くで時間をつぶすとすると、候補は3つほどになる。ひとつは出光美術館、もうひとつは国立近代美術館、3つ目はブリヂストン美術館である。近代美術館は常設だけでも十分に楽しいが、どうせなら何か企画展のあるときに出かけたほうがより楽しいと思い、今日のところは見送り、ブリヂストンは「ぐるっとパス」を持っているときのほうが絶対的に家計が助かるので、これも見送り。「日本美術のヴィーナス」展を開催中で、しかも割引券の手持ちがある出光美術館に出かけることにした。
出光美術館のコレクションは出光興産が株式を公開する際に多少売却されてしまったそうだが、それでも肉筆浮世絵や陶磁器などでは依然として国内屈指の質と量とが維持されているのではないだろうか。今回の「ヴィーナス」展も数点だけが東京と京都の国立近代美術館からのもので、展示作品の殆どが収蔵品である。その所為か、見覚えのある作品が多かったが、何度でも観たいものばかりなので、かえって嬉しくなる。
浮世絵といえば版画、という固定概念が根強いようだが、肉筆浮世絵は版画の下絵ではなく、当初から鑑賞目的で描かれたものである。そもそも、下絵は版木の上に貼り付けて、木とともに彫ってしまうので後世に残ることはない。浮世絵に限らず、日本画には西洋画にはない間とリズムがあるように思う。西洋画には遠近法だとか聖書関係のモチーフの扱いだとかに関する決まりごとがあるように、日本画にも構図のパターンのようなものが感じられる。それを言葉で表現すれば「間」と「リズム」としか言いようがないように思う。
それは絵画表現だけのことではなく、言語も造形も全てに言えることではある。そうした異質のものが出遭ったところで、何がしかの反応が起こり、そこに止揚的に新たなものが創造されるというようなことを繰り返しながら歴史が刻まれてきたのだが、やはり自分のなかに素直に受容されるものというのは、自分自身の感覚のなかの「間」のようなものと呼応するものであるように思う。一方で、何事かを創造することを宿命付けられているような立場の人もいるわけで、そういう世界のなかでは創造することに価値が置かれている。しかし、全く新しいものというのは、評価する側に尺度の持ち合わせがないので、評価されないことになる。死後長い時間を経て評価される作品や作家というのがいつの時代にもいるのは、そういうことなのだろう。作り手、受け手、それらを取り巻く環境、と三拍子揃って初めて時代が軋みながらも大きく動く、ような印象を持っている。そうした出会いというのは、結局は運に拠らざるを得ないのではないだろうか。
もちろん、例えば絵の画面上の人物が、今描かれている位置から1センチでもずれていれば、画面全体の印象が変化してしまう。その最適な位置を本能的に定めることのできるのが才能であり、それは誰にでもあるものではないからこそ、その才能の作品が今に伝えられているのも事実だろう。しかし、才能というのは本人が決めるものではない。周囲がそれと認めるものなのである。やはり縁とか出遭いが無ければ世の中は動かないということなのである。
なにがどうというのではないけれど、眺めていて心踊るもの、心安らぐもの、というようなものがあるものだ。世に言う「美術品」のなかにそのようなものがあるというのは、そこに表現された技巧の妙に拠るところもあるだろうが、数々の僥倖を重ねたものが持つ輝きのようなものに観る側の第六感が刺激されているという面もあるように思う。
そんなことを考えているうちに出勤時間を迎えてしまった。