昨日、葉山の県立近代美術館へ行ったとき、同館の鎌倉のほうでシャルロット・ペリアンの展覧会が開催中であることを知った。会期が1月9日までということなので、早速今日出かけてきた。また同別館のほうでは「日本画 ザ・ベスト・コレクション」を開催していて、チラシに使われていた片岡球子の「足利尊氏」に惹かれて、こちらへも足を伸ばした。
午前中はアウトプレースメント会社での起業セミナーに出席。就職先が見つかっても見つからなくても、遅かれ早かれ自分で事業を営むということが生計を立てる上で不可欠な時代になることは目に見えている。せっかく自己負担無しでいろいろセミナーを受講できるので、この機会は無駄にしないよう心がけている。セミナーの内容や、そこで自分が考えたことについて、ここに書くことは差し控えるが、おおいに参考になったことは確かだ。
昼食をアウトプレースメント会社近くの定食屋で済ませ、東京駅13時24分発の横須賀線逗子行きに乗り、鎌倉に14時22分に到着。昨日ほどではないが、かなりの人出で、改札口が臨時に1つ設けられていた。駅からは小町通りを行くが人が多くて思うように歩くことが出来ない。人の間を縫うように進み、美術館にたどり着くと、ようやく静かになる。鎌倉は観光地なので、平日昼間でもそれなりの人出があるが、まだ松の内なので普段の週末並みの人出であるような気がする。
ペリアン展は実物よりもパネルが目立つ印象がある。スペースの関係もあるだろうし、美術品というよりも実用品なので、多少は言い訳がましくなるのも仕方が無いのかもしれない。ペリアンが商工省の招聘で輸出工芸指導顧問として来日したのは1940年。既に第二次世界大戦が始まっており、しかも敵国フランスの人だ。彼女を推薦したのが、ル・コルビュジェの事務所での同僚であった坂倉準三。本展の会場である県立近代美術館も坂倉が設計している。国の関係と個人の関係、敷衍すれば集団の関係と個人の関係、あるいは制度と個人の関係というのは必ずしも連動しないことの証左を示していると言えないだろうか。民藝運動では戦争に関係無いかのようにイギリス人のバーナード・リーチが在る。こうしたことを友情というような情緒的な言葉で片付けるわけにはいかないだろう。個人の在り様として、その世界観とか価値観というものがあり、それが相互に関係し合ってそれぞれにとっての社会や世界になる。集合論の基本でもあるが、集合を構成する個々の要素の属性と集合の属性は一致しない。制度として存在する社会や世界は、それを構成する個人のそれとは一致しないのが当たり前なのである。殊に自分の考えや信念というものをしっかりと持った人は、目先の世間のさざ波などものともしないのだろう。従って、対米開戦前とは言え、同盟国の敵国人であろうとも、その人選に自分が確信を持っているなら躊躇はしないだろうし、ペリアンの側にしても同じことだろう。尤も、会場で上映されていた女史のインタビュー映像によると、彼女は来日をためらい周囲の人々に相談したそうだ。戦火のなかにある人の行動としてはそれも当然のことだと思う。
ペリアンは1941年に東京と大阪の高島屋で「選択、伝統、創造展」という作品展を開催している。日本は既に1938年に国家総動員法を施行しており、素材に用いる物資には様々な制約があったはずだ。その制約の影響もあって、竹製品や藁を使った製品が数多く出展されたという。会場でのパネルに書かれた説明によれば、彼女は1ヶ月のうち3週間は日本各地を回るという強行軍のなか、自分のアイデアを提示しつつ各地で工芸品のサンプル制作を要請したという。そうやって集められたプロトタイプを基にその作品展の作品が作られたのだそうだ。そのときの作品のいくつかが今回の展示のなかにあった。赤松を基調にしながら異なる種類の木材を貼り合わせて天板にした大きなテーブルは、さすがに狂いが著しく現時点では使用に耐えないものとなっている。それは素材への理解が浅かったということかもしれないし、敢えて狂いを狙いながら狙い通りにならなかったものかもしれない。こうして残された資料や展示品を眺めると、そうした咀嚼不足感は否めないが、木材や藁という日本独自のものではないにしても日本風の印象のある工芸素材とフランス人である女史の感性や知性の融合された空間の在り様が独自性に富んだ興味深いものとなっている。
1953年にご主人がエール・フランスの東京支社長に就任したことに伴い再び来日したペリアンは2年後に「芸術の綜合への提案 コルビュジェ、レジェ、ペリアン3人展」を東京高島屋で開催する。こちらのほうは、戦前の展覧会の時の日本というものへの過剰な意識から解放されて生き生きとした展覧会になっているような感を受ける。その解放感は前回の戦時体制下の緊張感からの解放ということもあるだろう。今回の展覧会のチラシに使われている「オンブル」と名付けられたスタッキングチェアは文楽に着想を得たそうだが、軽やかで美しい。事ある毎に書いているが、日本の文化の特徴は軽みにあると思っている。このオンブルという椅子は、その軽みとその時代の空気としてのモダンが見事に融合したもののように私には見える。日本だけでなく欧州も先の大戦では焼け野原になった。そこから復興を開始して10年が経ち、それまでとは違った明るく希望のある世界にしようという意欲が日本にも欧州にも満ちていたのではないだろうか。その希望がデザインに表出しているようにも見えるのである。
転じて現在の我々の生活を取り巻く世界に希望と呼べるような明るい展望を抱いている人がどれほどいるだろうか。電気回路の集積度が上がるとか、LEDのような新しい部品ができるとか、通信技術が向上するというような所謂「技術の進歩」によって我々の生活は「便利」にはなったと言えるだろう。しかし、それは「豊か」になったと言い換えることができるだろうか。もちろん、「豊かさ」の定義次第ではあるのだが、「豊か」になっているのに「閉塞感」に苛まれるというようなパラドキシカルな現実はないだろうか。豊かであること、幸福であること、そうした希望のある生活の中身についてもっと問い直されてもよいのではないかと思うのだがどうなのだろう。
本館を後にして別館も訪れた。こちらでは「日本画 ザ・ベスト・コレクション」という企画展が開催されている。こちらも閉塞感が漂っているように見える。日本画とは何なのか。日本画の用具と手法を使えば「日本画」なのか。そもそも日本画と西洋画を区別する意味はあるのか。そんなことを漠然と考えた。
今日は留学先の同窓会組織の会長をしている飯田さんの作品展の初日である。鎌倉からの帰りに会場である恵比寿の飲み屋に立ち寄る。その店は風花(fuca)という名前のバーのようなところだ。カウンターだけの小さな店だが、その壁面に飯田さんの作品が並べられていた。こういう個展のやりかたもあるのかと勉強になった。店のご主人は元映像関係の仕事をされていたとう竹田津さん。野菜ソムリエの資格をお持ちだ。最初は西麻布で開店されたのだそうだが恵比寿に移って何年にもなるらしい。バーで食事というのはいかがなものかと思ったのだが、私は酒を飲まないほうである上に腹が空いていたので「食事はできますか?」と尋ねてみた。すると、なんと定食があったのである。鰈の干物か鮭の西京漬か選ぶのだが、鰈のほうを選んだ。正真正銘という魚沼産コシヒカリのご飯とシメジのみそ汁、それに小皿が3つ4つ付いたものだ。飲み屋の飯物というのはたいがい旨いのだが、ここも例外ではない。開店間もない時間に入ったので、他に客がいなかったこともあり、いろいろ楽しいおしゃべりをしながら美味しい料理を頂いた。
巣鴨に着いてから銭湯へ。明日予定通りに給湯器の交換が完了すれば、これがとりあえずの最後の銭湯になる。今晩は巣鴨湯。
午前中はアウトプレースメント会社での起業セミナーに出席。就職先が見つかっても見つからなくても、遅かれ早かれ自分で事業を営むということが生計を立てる上で不可欠な時代になることは目に見えている。せっかく自己負担無しでいろいろセミナーを受講できるので、この機会は無駄にしないよう心がけている。セミナーの内容や、そこで自分が考えたことについて、ここに書くことは差し控えるが、おおいに参考になったことは確かだ。
昼食をアウトプレースメント会社近くの定食屋で済ませ、東京駅13時24分発の横須賀線逗子行きに乗り、鎌倉に14時22分に到着。昨日ほどではないが、かなりの人出で、改札口が臨時に1つ設けられていた。駅からは小町通りを行くが人が多くて思うように歩くことが出来ない。人の間を縫うように進み、美術館にたどり着くと、ようやく静かになる。鎌倉は観光地なので、平日昼間でもそれなりの人出があるが、まだ松の内なので普段の週末並みの人出であるような気がする。
ペリアン展は実物よりもパネルが目立つ印象がある。スペースの関係もあるだろうし、美術品というよりも実用品なので、多少は言い訳がましくなるのも仕方が無いのかもしれない。ペリアンが商工省の招聘で輸出工芸指導顧問として来日したのは1940年。既に第二次世界大戦が始まっており、しかも敵国フランスの人だ。彼女を推薦したのが、ル・コルビュジェの事務所での同僚であった坂倉準三。本展の会場である県立近代美術館も坂倉が設計している。国の関係と個人の関係、敷衍すれば集団の関係と個人の関係、あるいは制度と個人の関係というのは必ずしも連動しないことの証左を示していると言えないだろうか。民藝運動では戦争に関係無いかのようにイギリス人のバーナード・リーチが在る。こうしたことを友情というような情緒的な言葉で片付けるわけにはいかないだろう。個人の在り様として、その世界観とか価値観というものがあり、それが相互に関係し合ってそれぞれにとっての社会や世界になる。集合論の基本でもあるが、集合を構成する個々の要素の属性と集合の属性は一致しない。制度として存在する社会や世界は、それを構成する個人のそれとは一致しないのが当たり前なのである。殊に自分の考えや信念というものをしっかりと持った人は、目先の世間のさざ波などものともしないのだろう。従って、対米開戦前とは言え、同盟国の敵国人であろうとも、その人選に自分が確信を持っているなら躊躇はしないだろうし、ペリアンの側にしても同じことだろう。尤も、会場で上映されていた女史のインタビュー映像によると、彼女は来日をためらい周囲の人々に相談したそうだ。戦火のなかにある人の行動としてはそれも当然のことだと思う。
ペリアンは1941年に東京と大阪の高島屋で「選択、伝統、創造展」という作品展を開催している。日本は既に1938年に国家総動員法を施行しており、素材に用いる物資には様々な制約があったはずだ。その制約の影響もあって、竹製品や藁を使った製品が数多く出展されたという。会場でのパネルに書かれた説明によれば、彼女は1ヶ月のうち3週間は日本各地を回るという強行軍のなか、自分のアイデアを提示しつつ各地で工芸品のサンプル制作を要請したという。そうやって集められたプロトタイプを基にその作品展の作品が作られたのだそうだ。そのときの作品のいくつかが今回の展示のなかにあった。赤松を基調にしながら異なる種類の木材を貼り合わせて天板にした大きなテーブルは、さすがに狂いが著しく現時点では使用に耐えないものとなっている。それは素材への理解が浅かったということかもしれないし、敢えて狂いを狙いながら狙い通りにならなかったものかもしれない。こうして残された資料や展示品を眺めると、そうした咀嚼不足感は否めないが、木材や藁という日本独自のものではないにしても日本風の印象のある工芸素材とフランス人である女史の感性や知性の融合された空間の在り様が独自性に富んだ興味深いものとなっている。
1953年にご主人がエール・フランスの東京支社長に就任したことに伴い再び来日したペリアンは2年後に「芸術の綜合への提案 コルビュジェ、レジェ、ペリアン3人展」を東京高島屋で開催する。こちらのほうは、戦前の展覧会の時の日本というものへの過剰な意識から解放されて生き生きとした展覧会になっているような感を受ける。その解放感は前回の戦時体制下の緊張感からの解放ということもあるだろう。今回の展覧会のチラシに使われている「オンブル」と名付けられたスタッキングチェアは文楽に着想を得たそうだが、軽やかで美しい。事ある毎に書いているが、日本の文化の特徴は軽みにあると思っている。このオンブルという椅子は、その軽みとその時代の空気としてのモダンが見事に融合したもののように私には見える。日本だけでなく欧州も先の大戦では焼け野原になった。そこから復興を開始して10年が経ち、それまでとは違った明るく希望のある世界にしようという意欲が日本にも欧州にも満ちていたのではないだろうか。その希望がデザインに表出しているようにも見えるのである。
転じて現在の我々の生活を取り巻く世界に希望と呼べるような明るい展望を抱いている人がどれほどいるだろうか。電気回路の集積度が上がるとか、LEDのような新しい部品ができるとか、通信技術が向上するというような所謂「技術の進歩」によって我々の生活は「便利」にはなったと言えるだろう。しかし、それは「豊か」になったと言い換えることができるだろうか。もちろん、「豊かさ」の定義次第ではあるのだが、「豊か」になっているのに「閉塞感」に苛まれるというようなパラドキシカルな現実はないだろうか。豊かであること、幸福であること、そうした希望のある生活の中身についてもっと問い直されてもよいのではないかと思うのだがどうなのだろう。
本館を後にして別館も訪れた。こちらでは「日本画 ザ・ベスト・コレクション」という企画展が開催されている。こちらも閉塞感が漂っているように見える。日本画とは何なのか。日本画の用具と手法を使えば「日本画」なのか。そもそも日本画と西洋画を区別する意味はあるのか。そんなことを漠然と考えた。
今日は留学先の同窓会組織の会長をしている飯田さんの作品展の初日である。鎌倉からの帰りに会場である恵比寿の飲み屋に立ち寄る。その店は風花(fuca)という名前のバーのようなところだ。カウンターだけの小さな店だが、その壁面に飯田さんの作品が並べられていた。こういう個展のやりかたもあるのかと勉強になった。店のご主人は元映像関係の仕事をされていたとう竹田津さん。野菜ソムリエの資格をお持ちだ。最初は西麻布で開店されたのだそうだが恵比寿に移って何年にもなるらしい。バーで食事というのはいかがなものかと思ったのだが、私は酒を飲まないほうである上に腹が空いていたので「食事はできますか?」と尋ねてみた。すると、なんと定食があったのである。鰈の干物か鮭の西京漬か選ぶのだが、鰈のほうを選んだ。正真正銘という魚沼産コシヒカリのご飯とシメジのみそ汁、それに小皿が3つ4つ付いたものだ。飲み屋の飯物というのはたいがい旨いのだが、ここも例外ではない。開店間もない時間に入ったので、他に客がいなかったこともあり、いろいろ楽しいおしゃべりをしながら美味しい料理を頂いた。
巣鴨に着いてから銭湯へ。明日予定通りに給湯器の交換が完了すれば、これがとりあえずの最後の銭湯になる。今晩は巣鴨湯。