「上方落語の四天王」という本を読了した。こういう本を読んでいると、そこに書かれている噺が聴いてみたくなって、ついパソコンを引っ張り出しては、その噺家のDVDやCDを注文しようとする。画面上のカタログを見ていると、自然とあれもこれもということになり、いざ勘定という段になって「待てよ」と手が止まる。そんなことの繰り返しだ。YouTubeなどの動画サイトでも、かなり古いものを観ることができるので、なにも無理をしてDVDだのCDだのを買わなくてもよいということは重々承知しているつもりだ。ただ、過去にその「待てよ」を突破して購入に踏み切った数少ないDVDやCDは、私が暇であるという所為もあって大活躍をしているので、そういう実績に鑑みると決して無駄な買い物にはならないという思いもある。しかし、今は失業中の身なので、そういう楽しみは就職祝いや創業祝いにとっておこう、というのがとりあえずの結論だ。一方で、そういうちまちまとした発想がいけない、とも思ったりする。心が激しく揺れている。
その落語の本を読み終えて、たまには寄席にでも出かけてみようかと思い立った。寄席というのは出入り自由なので開演から居ることもないのだが、各定席のサイトを見たら開演前に到着できそうなのは池袋演芸場だけだった。番組表を見て、急に「そうだ映画にしよう」と気が変わった。急いで身支度をして出かけた先は円山町のオーディトリウム渋谷。「監督失格」という作品を観た。
今は学生や普通の勤め人が小遣い稼ぎにAVに出演する時代なので、「AV女優」という言葉が死語になりつつあるように思うのだが、それがまだ活き活きとしていた時代に活躍した林由美香が主人公だ。といってもAVでもポルノでもない。ドキュメンタリー作品である。作品の監督でもあり、出演者でもある平野という人には感心するところが全く無かったのだが、林の母親である小栗冨美代さんが強烈な存在感を放っていて、彼女のことが深く印象に残った。
世にラーメン通を自称するような人なら小栗さんの名を知らない人は皆無だろう。「野方ホープ」(法人名は株式会社SORYU)の社長だ。このブログに時々書いているように、私はラーメンというものは滅多に口にしない。ラーメンという食べ物自体にそれほど興味が無い上に、行列というものや流行というようなものが嫌いなのだから、生活のなかにラーメンが入ってくる機会というものが殆ど無いのである。それでも野方ホープには一度だけ行ったことがある。かつてその近所に住んでいた。なぜ、そこに居を構えたかといえば、当時の配偶者の実家が野方ホープから徒歩2分ほどのところにあるからだ。よくある話だが、実家離れのできない人で、結婚当初は板橋区内に住んだのだが、結婚5年目で彼女の実家の近くに引っ越し、さらにその5年後にその近くに家を建てたのである。別にそういう事情があってラーメンを口にしないのではなく、食事としてあまり魅力を感じないということである。
それで映画だが、林由美香はAV女優として頂点を極めたと言っても過言ではないだろう。この作品のなかの彼女は、ドキュメンタリーなのでカメラの前の姿とはいえ、私的な部分が色濃く出ているのではないかと思う。その私的ななかにあってさえ、カメラに対して自分を見せるという姿勢が貫徹されているように感じられた。それをプロフェッショナルの流儀というのかある種の職人気質というのか呼び方はいろいろだろうが、常人にはない物事の頂点に立つ人だけが持つ姿勢のようなものであるように思う。親子だということを映像を観てわかるからそう思うのかもしれないが、その由美香の姿勢と母親の小栗さんの佇まいのようなものに相通じるものがあるように感じられるのである。小栗さんのほうは言わずと知れたラーメン界の大看板である野方ホープの創業者であり社長だ。先日このブログに書いたように日本のラーメン市場は5,000億円とも7,000億円とも言われる巨大市場だが、それだけに競合が激しい。そのなかで1988年の開店から四半世紀近くも営業を続けているばかりか、野方本店を含め都内に5店舗を展開するほどにまで成長しているのである。これはラーメン界で頂点を極めていると言って差し支えないだろう。やはりその繁栄の背後には小栗さんのラーメンとその向こう側にいる客に対する真摯な姿勢があるということなのではないだろうか。
対して己の姿を反省しないわけにはいかない。真摯どころか全てにおいて中途半端以前の状態のまま今日に至っている。本作のウエッブサイトに「週刊女性」2009年6月23日号の「人間ドキュメント」に加筆をしたという小栗さんの紹介記事がある。そのなかで、自分の娘がAV女優をしているということを知ったとき、最初は「うそだろ!」と思ったという。そりゃ誰でもそう思うだろう。そして娘に問うたというのである。それは本当かと。娘がそれを認め事情を語った後の小栗さんの言葉がいい。
「どうせやるならその業界でトップになりなさい。そしてお金を貯めなさい」
真摯に生きている人でなければこんなふうには言えないだろう。この小栗さんのことを知ったという点で、この作品に出会うことができた自分にとっての意味がある。「職業に貴賤はない」というが、人には貴賤があると思う。世間的に立派な職業であっても卑小な輩は五万といるだろうし、世間が眉をひそめるような職業に就いていても自然とこちらの頭が下がるような人もたくさんいるだろう。表面的なことに左右されずに本質を見抜く眼をもちたいと思うと同時に、自分も恥ずかしくない生き方をしないといけないと気持ちを引き締めた。いつまでも「中途半端以前が続いている」などとほざいている暇はない。
その落語の本を読み終えて、たまには寄席にでも出かけてみようかと思い立った。寄席というのは出入り自由なので開演から居ることもないのだが、各定席のサイトを見たら開演前に到着できそうなのは池袋演芸場だけだった。番組表を見て、急に「そうだ映画にしよう」と気が変わった。急いで身支度をして出かけた先は円山町のオーディトリウム渋谷。「監督失格」という作品を観た。
今は学生や普通の勤め人が小遣い稼ぎにAVに出演する時代なので、「AV女優」という言葉が死語になりつつあるように思うのだが、それがまだ活き活きとしていた時代に活躍した林由美香が主人公だ。といってもAVでもポルノでもない。ドキュメンタリー作品である。作品の監督でもあり、出演者でもある平野という人には感心するところが全く無かったのだが、林の母親である小栗冨美代さんが強烈な存在感を放っていて、彼女のことが深く印象に残った。
世にラーメン通を自称するような人なら小栗さんの名を知らない人は皆無だろう。「野方ホープ」(法人名は株式会社SORYU)の社長だ。このブログに時々書いているように、私はラーメンというものは滅多に口にしない。ラーメンという食べ物自体にそれほど興味が無い上に、行列というものや流行というようなものが嫌いなのだから、生活のなかにラーメンが入ってくる機会というものが殆ど無いのである。それでも野方ホープには一度だけ行ったことがある。かつてその近所に住んでいた。なぜ、そこに居を構えたかといえば、当時の配偶者の実家が野方ホープから徒歩2分ほどのところにあるからだ。よくある話だが、実家離れのできない人で、結婚当初は板橋区内に住んだのだが、結婚5年目で彼女の実家の近くに引っ越し、さらにその5年後にその近くに家を建てたのである。別にそういう事情があってラーメンを口にしないのではなく、食事としてあまり魅力を感じないということである。
それで映画だが、林由美香はAV女優として頂点を極めたと言っても過言ではないだろう。この作品のなかの彼女は、ドキュメンタリーなのでカメラの前の姿とはいえ、私的な部分が色濃く出ているのではないかと思う。その私的ななかにあってさえ、カメラに対して自分を見せるという姿勢が貫徹されているように感じられた。それをプロフェッショナルの流儀というのかある種の職人気質というのか呼び方はいろいろだろうが、常人にはない物事の頂点に立つ人だけが持つ姿勢のようなものであるように思う。親子だということを映像を観てわかるからそう思うのかもしれないが、その由美香の姿勢と母親の小栗さんの佇まいのようなものに相通じるものがあるように感じられるのである。小栗さんのほうは言わずと知れたラーメン界の大看板である野方ホープの創業者であり社長だ。先日このブログに書いたように日本のラーメン市場は5,000億円とも7,000億円とも言われる巨大市場だが、それだけに競合が激しい。そのなかで1988年の開店から四半世紀近くも営業を続けているばかりか、野方本店を含め都内に5店舗を展開するほどにまで成長しているのである。これはラーメン界で頂点を極めていると言って差し支えないだろう。やはりその繁栄の背後には小栗さんのラーメンとその向こう側にいる客に対する真摯な姿勢があるということなのではないだろうか。
対して己の姿を反省しないわけにはいかない。真摯どころか全てにおいて中途半端以前の状態のまま今日に至っている。本作のウエッブサイトに「週刊女性」2009年6月23日号の「人間ドキュメント」に加筆をしたという小栗さんの紹介記事がある。そのなかで、自分の娘がAV女優をしているということを知ったとき、最初は「うそだろ!」と思ったという。そりゃ誰でもそう思うだろう。そして娘に問うたというのである。それは本当かと。娘がそれを認め事情を語った後の小栗さんの言葉がいい。
「どうせやるならその業界でトップになりなさい。そしてお金を貯めなさい」
真摯に生きている人でなければこんなふうには言えないだろう。この小栗さんのことを知ったという点で、この作品に出会うことができた自分にとっての意味がある。「職業に貴賤はない」というが、人には貴賤があると思う。世間的に立派な職業であっても卑小な輩は五万といるだろうし、世間が眉をひそめるような職業に就いていても自然とこちらの頭が下がるような人もたくさんいるだろう。表面的なことに左右されずに本質を見抜く眼をもちたいと思うと同時に、自分も恥ずかしくない生き方をしないといけないと気持ちを引き締めた。いつまでも「中途半端以前が続いている」などとほざいている暇はない。