15年ぶりで香港の街をぶらぶらと歩き、その間の日本の変化と比較すると、日本の地位低下は必然であることが体感として了解されるような気がする。東京にいるとよくわからないが、都区部から出ると目に見えて活気が失せているように感じられる。端的には所謂「シャッター商店街」の広がりとか、歯が抜けたように街並みが途切れて空き地やコインパーキングになっている風景などに象徴された状況がある。都心部にしても、人の往来は活発だが、携帯端末を手にのろのろと歩く夢遊病者のような輩がやたらに多くなっているように感じられる。一方、香港は街を行く人の速さが異様に速い。これは目的を持って歩いているか否かの差のような気がする。確かにスマホなどではかなり大きな容量の通信が可能なので、経済活動として貴重な情報のやりとりをしている場合もあるだろう。しかし、決定的に重要な情報のやりとりが携帯端末で可能なのだろうか。大きな価値を生むようなことというのは、結局は生身の人間どうしの接触によってしか可能にはならないように思うのだが、どうなのだろうか。携帯端末のような限定的な伝達手段でやりとりできることは、結局はその程度のことでしかないのではなかろうか。
ある都市の単位面積あたりの活動人口が同じであったとして、それが目的を持って行動する人たちが多数である都市と暇人が多数を占める都市とで、経済力にどのような格差が生じるか、ということは誰でも容易に想像がつくことだ。景気が悪いからそういうことになるのか、夢遊病者のような輩が多いから経済が凋落するのか、ということはわからない。間違いなく言えることは、漫然とゴミのような情報を消費するだけの人間が蠢く社会に未来は無いということだ。
ある都市の単位面積あたりの活動人口が同じであったとして、それが目的を持って行動する人たちが多数である都市と暇人が多数を占める都市とで、経済力にどのような格差が生じるか、ということは誰でも容易に想像がつくことだ。景気が悪いからそういうことになるのか、夢遊病者のような輩が多いから経済が凋落するのか、ということはわからない。間違いなく言えることは、漫然とゴミのような情報を消費するだけの人間が蠢く社会に未来は無いということだ。