かれこれ10年ほど前のこと、ある講演会で講師役の大学教授が「今の学生は物心ついてから好景気というものを経験したことのない子たちなんです」とおっしゃっていていた。だからどうなのか、という話のところは今はもう記憶にないのだが、景気が良いという状況を経験せずに成人する世代が登場しているという事実に気付いて衝撃を受けた、その衝撃の感覚だけがなんとなく記憶されている。以前にもどこかに書いた記憶があるが、私は日本の経済成長と自分の生理的な成長がほぼ軌を一にしている世代に属している。ついでに日本の凋落と自分の老化のトレンドも重なっている。昨年、民藝学校というものに参加して地方都市を何カ所か訪れたが、そのゴーストタウンのような雰囲気に怪談めいた気味の悪さを覚えたのは、自分の身にしみて記憶されているものと、その地方都市の風景にあるかつての賑わいの痕跡とが作用し合って醸し出した違和感の所為ではないかと思っている。
この作品にもゴーストタウンのような商店街の風景が頻繁に登場する。舞台は甲府だそうだ。主人公は土木作業員とその周辺の人たち。土方を生業にしている人もいれば臨時雇用の人も、派遣会社から派遣された人もいる。その昔、土方といえば、聞こえは悪くとも報酬は恵まれていた時代もあった。第二次世界大戦で焦土と化した国土の復興のなかで、土木や建設という産業は国づくりの中核であり、そこに投資が集中した時期が長らく続いたのは事実だ。そうしたなかで、たとえ食い詰めたとしても土木や建築には景気に左右されることなく仕事があるという神話的な状況が生まれたのも事実だろう。土木・建設関係者のなかから総理大臣にまで出世した人がいたり、土木・建設業をタニマチにして総理大臣になった人もいたほどなのである。
私が通っていた高校の近くにも主に土方仕事を斡旋する職業紹介所があり、毎朝その前の通りには炊き出しのような屋台が出ていた。山手線沿いのその場所は、殊に今時分ともなると寒気のなかに立ち上る鍋の湯気で遠くからも自然にそれと気付くほど賑わいを見せていた。今はどうなのだろうか。少なくとも都内に関する限り、至る所に高層ビルの建築現場があり、土建業というのは活気があるかのように見える。しかし、日本全体で見れば、あるいは地方都市に焦点をあててみれば、違った様相を呈しているであろうことは、現場を目にしなくとも感覚的に了解されることだ。
作品は3時間近いが、不思議とその長さを感じなかった。おそらく、特別な人物が登場しないことで、スクリーン上で展開される物語のなかに身を置き易いということなのだろう。自分も先月の頭に失業して以来、単発のバイトを3回経験した。いずれもピッキングや工場の臨時作業員やイベント会場設営のような黙々と所定の作業に取り組みタイプのもので、そこに自分と同じように集められた人たちの様子を観察させていただくことになった。軽作業ということがわかっていながら何故かスーツ姿の人とか、バイトのプロのような人といった、少し訳あり風の人たちが、当たり前にバイトに来ている若い人たちに混じって働いていた。私のような単なる失業者かもしれないが、実はミャンマーの民主化運動の闘志であるとか、日本とフィリピンにそれぞれに配偶者を持っているとか、事業に失敗した元IT長者であるとか、なにか驚くような物語を抱えているとしても、「ま、そういう人もいるよね」と素直に納得できてしまうような雰囲気がそうした現場には漂っているのである。そこで自分と一緒に働いている人が平生どのような暮らしをしているのか知らないが、単発バイトの現場というのは、なんとはなしに人生の楽屋裏のようなもののように感じられた。その楽屋裏感が、この作品のなかの土木作業現場にも感じられるのである。
人生の楽屋裏というのは程度の差こそあれ、誰しもが意識するとしないとにかかわらず抱えているのが今の時代ではないだろうか。その昔、この国の庶民の生活というのは明け透けであったように思う。例えば農村であれば、その作業の性質上、共同で何事かをするという機会が多かったはずなので、所謂プライバシーというようなものは薄かっただろう。それが都市化や産業化の進展に伴って人の生活が労働力商品としての在り様とそれ以外、つまりプライベートの世界とに分離されるようになり、どちらも矮小になったように思うのである。組織のなかにあっては、そこに生涯所属できるわけではない仮初めのものという意識を拭いきれない。かといって、私的な部分を充実させるほど余裕がある生活を送ることのできる人というのはそうあるものでもないだろう。人が個人情報保護だのプライバシーだのと騒ぐようになったのは、個人情報の電子化が進んで透明性が高くなった結果として犯罪に利用される危険が高くなったという大義名分はあるものの、本当のところは私的な生活の矮小さや脆弱さに本能的な危機感を覚えているからではないかと私は思っている。弱い犬ほどよく吠えるし、窮鼠は猫を噛むのである。個人情報保護法が成立したのは2003年で全面施行されたのが2005年4月だ。背後にOECD8原則と呼ばれる1980年に採択された問題意識があるらしい。所謂先進国の経済成長が転換点を迎えたのがベトナム戦争の終結、ドルショック、石油危機といった政治経済の国際秩序を揺るがす一連の出来事に象徴される1970年代であったとすれば、人がささやかな私的領域に執着するようになったのは、80年代以降の成長の限界が鮮明になっていく時代の流れと軌を一にしていると見ることができるのではないだろうか。
私的領域というのは個的領域でもあり、友人知人どころか家族に対してさえ詳らかにするのを憚るのが当然という時代になっているように感じられる。勿論、家族というのは特別な関係ではなく、人が生涯の間に取り結ぶ数多ある人間関係のひとつに過ぎないのだが、共有する物理的時間的領域が大きいだけに特別視されがちなものである。そういう相手のことであってもよく知らないというのは、知る意欲と能力が低いということではないだろうか。人は関係性のなかでしか生きることができないはずなのに、それが細分化され浅薄化されて、全人的なものが失われているように思う。この作品のなかで、例えば精司は妻の恵子に対して心を閉ざしてしまい、タイ人ホステスのミャオと所帯を持つことを真剣に考えている。ところが、恵子はエステティシャンという仕事を通じて接する小金持ちの生活への憧憬が勝って精司との生活への関心はいまひとつで、ミャオも精司を客の一人としてしか見ていない。濃い関係であるようでいて、互いが自己の欲求を一方的に発露させているだけで、相手を受け止めようとする姿勢が感じられない。彼等だけでなく、主要な登場人物が誰も狭い楽屋裏に執着しているように見えるのである。
楽屋というのは舞台があってこそ意味のある場だ。楽屋だけでは何も生まれないし始まらない。それなのに、人は自分の楽屋に執着して舞台を忘れてしまったかのようだ。シャッター商店街の風景は楽屋裏への執着の結果を象徴しているようにも見える。ドラッグの幻覚のなかでは、そこにかつての賑わいを感じるのだが、薬が切れて幻覚が消えると荒涼とした現実が広がっている。旧来の商店街は寂れてしまったが、一方で大型ショッピングセンターが建設されようとしている。ゴーストタウンではないのである。自分にとっての現実と社会のそれとの乖離がシャッター商店街の風景に象徴されているのではないか。精司は恵子と別れミャオのもとへ行くがミャオに拒絶されて行き場を失う。精司の雇用主は土建業を廃業してしまう。精司のところへ派遣会社から派遣されていた猛は夜はヒップホップグループのリーダーなのだが、対立するブラジル人ラッパーを刺し殺してしまう。自分の楽屋に執着していた人たちは自分と社会との乖離の谷間に落ち込んでしまうのである。こんなふうに書くと、希望の無い映画のようだが、不思議と暗い感じがない。それは、なぜなのだろうか。たぶん、ひとりひとりにとっては厳しい現実であっても、全体としては物事が淡々と続いていく感じがあるからだろう。
毎度のことだが、まとまらなくなってしまった。
この作品にもゴーストタウンのような商店街の風景が頻繁に登場する。舞台は甲府だそうだ。主人公は土木作業員とその周辺の人たち。土方を生業にしている人もいれば臨時雇用の人も、派遣会社から派遣された人もいる。その昔、土方といえば、聞こえは悪くとも報酬は恵まれていた時代もあった。第二次世界大戦で焦土と化した国土の復興のなかで、土木や建設という産業は国づくりの中核であり、そこに投資が集中した時期が長らく続いたのは事実だ。そうしたなかで、たとえ食い詰めたとしても土木や建築には景気に左右されることなく仕事があるという神話的な状況が生まれたのも事実だろう。土木・建設関係者のなかから総理大臣にまで出世した人がいたり、土木・建設業をタニマチにして総理大臣になった人もいたほどなのである。
私が通っていた高校の近くにも主に土方仕事を斡旋する職業紹介所があり、毎朝その前の通りには炊き出しのような屋台が出ていた。山手線沿いのその場所は、殊に今時分ともなると寒気のなかに立ち上る鍋の湯気で遠くからも自然にそれと気付くほど賑わいを見せていた。今はどうなのだろうか。少なくとも都内に関する限り、至る所に高層ビルの建築現場があり、土建業というのは活気があるかのように見える。しかし、日本全体で見れば、あるいは地方都市に焦点をあててみれば、違った様相を呈しているであろうことは、現場を目にしなくとも感覚的に了解されることだ。
作品は3時間近いが、不思議とその長さを感じなかった。おそらく、特別な人物が登場しないことで、スクリーン上で展開される物語のなかに身を置き易いということなのだろう。自分も先月の頭に失業して以来、単発のバイトを3回経験した。いずれもピッキングや工場の臨時作業員やイベント会場設営のような黙々と所定の作業に取り組みタイプのもので、そこに自分と同じように集められた人たちの様子を観察させていただくことになった。軽作業ということがわかっていながら何故かスーツ姿の人とか、バイトのプロのような人といった、少し訳あり風の人たちが、当たり前にバイトに来ている若い人たちに混じって働いていた。私のような単なる失業者かもしれないが、実はミャンマーの民主化運動の闘志であるとか、日本とフィリピンにそれぞれに配偶者を持っているとか、事業に失敗した元IT長者であるとか、なにか驚くような物語を抱えているとしても、「ま、そういう人もいるよね」と素直に納得できてしまうような雰囲気がそうした現場には漂っているのである。そこで自分と一緒に働いている人が平生どのような暮らしをしているのか知らないが、単発バイトの現場というのは、なんとはなしに人生の楽屋裏のようなもののように感じられた。その楽屋裏感が、この作品のなかの土木作業現場にも感じられるのである。
人生の楽屋裏というのは程度の差こそあれ、誰しもが意識するとしないとにかかわらず抱えているのが今の時代ではないだろうか。その昔、この国の庶民の生活というのは明け透けであったように思う。例えば農村であれば、その作業の性質上、共同で何事かをするという機会が多かったはずなので、所謂プライバシーというようなものは薄かっただろう。それが都市化や産業化の進展に伴って人の生活が労働力商品としての在り様とそれ以外、つまりプライベートの世界とに分離されるようになり、どちらも矮小になったように思うのである。組織のなかにあっては、そこに生涯所属できるわけではない仮初めのものという意識を拭いきれない。かといって、私的な部分を充実させるほど余裕がある生活を送ることのできる人というのはそうあるものでもないだろう。人が個人情報保護だのプライバシーだのと騒ぐようになったのは、個人情報の電子化が進んで透明性が高くなった結果として犯罪に利用される危険が高くなったという大義名分はあるものの、本当のところは私的な生活の矮小さや脆弱さに本能的な危機感を覚えているからではないかと私は思っている。弱い犬ほどよく吠えるし、窮鼠は猫を噛むのである。個人情報保護法が成立したのは2003年で全面施行されたのが2005年4月だ。背後にOECD8原則と呼ばれる1980年に採択された問題意識があるらしい。所謂先進国の経済成長が転換点を迎えたのがベトナム戦争の終結、ドルショック、石油危機といった政治経済の国際秩序を揺るがす一連の出来事に象徴される1970年代であったとすれば、人がささやかな私的領域に執着するようになったのは、80年代以降の成長の限界が鮮明になっていく時代の流れと軌を一にしていると見ることができるのではないだろうか。
私的領域というのは個的領域でもあり、友人知人どころか家族に対してさえ詳らかにするのを憚るのが当然という時代になっているように感じられる。勿論、家族というのは特別な関係ではなく、人が生涯の間に取り結ぶ数多ある人間関係のひとつに過ぎないのだが、共有する物理的時間的領域が大きいだけに特別視されがちなものである。そういう相手のことであってもよく知らないというのは、知る意欲と能力が低いということではないだろうか。人は関係性のなかでしか生きることができないはずなのに、それが細分化され浅薄化されて、全人的なものが失われているように思う。この作品のなかで、例えば精司は妻の恵子に対して心を閉ざしてしまい、タイ人ホステスのミャオと所帯を持つことを真剣に考えている。ところが、恵子はエステティシャンという仕事を通じて接する小金持ちの生活への憧憬が勝って精司との生活への関心はいまひとつで、ミャオも精司を客の一人としてしか見ていない。濃い関係であるようでいて、互いが自己の欲求を一方的に発露させているだけで、相手を受け止めようとする姿勢が感じられない。彼等だけでなく、主要な登場人物が誰も狭い楽屋裏に執着しているように見えるのである。
楽屋というのは舞台があってこそ意味のある場だ。楽屋だけでは何も生まれないし始まらない。それなのに、人は自分の楽屋に執着して舞台を忘れてしまったかのようだ。シャッター商店街の風景は楽屋裏への執着の結果を象徴しているようにも見える。ドラッグの幻覚のなかでは、そこにかつての賑わいを感じるのだが、薬が切れて幻覚が消えると荒涼とした現実が広がっている。旧来の商店街は寂れてしまったが、一方で大型ショッピングセンターが建設されようとしている。ゴーストタウンではないのである。自分にとっての現実と社会のそれとの乖離がシャッター商店街の風景に象徴されているのではないか。精司は恵子と別れミャオのもとへ行くがミャオに拒絶されて行き場を失う。精司の雇用主は土建業を廃業してしまう。精司のところへ派遣会社から派遣されていた猛は夜はヒップホップグループのリーダーなのだが、対立するブラジル人ラッパーを刺し殺してしまう。自分の楽屋に執着していた人たちは自分と社会との乖離の谷間に落ち込んでしまうのである。こんなふうに書くと、希望の無い映画のようだが、不思議と暗い感じがない。それは、なぜなのだろうか。たぶん、ひとりひとりにとっては厳しい現実であっても、全体としては物事が淡々と続いていく感じがあるからだろう。
毎度のことだが、まとまらなくなってしまった。