毎年、この時期になると以前の職場の有志の集まりがある。幹事役の強力な組織力と人徳によってもう20年くらい続いているのではないだろうか。私個人はその幹事役の人と直接の接点は無いのだが、有り難いことに毎年お声をかけて頂いている。もとは同じ組織に属していても、長い間には転職する人もあれば独立する人もあるので、結果として多様性に富んだ集まりになる。様々な世界で活躍する人たちと話をするのは大変楽しい。何かで聞きかじった言葉だが、「人一人を知るのは図書館一つを手に入れるのに勝る」と言うらしい。大袈裟な物言いのように聞こえるが、人一人が発する情報量というのは知識のような言語化できるものだけではないので、それこそ人徳というような評価のしようのないものまで含めて考えれば、図書館どころの比ではない。ひとしきり歓談した後、最後に一人ずつ2分程度で近況報告をするのだが、そこにも示唆に富んだものが多い。
よくこのブログに書くことだが、昔の私なら積極的にこうした集まりに足を運ぶということはなかった。今回も喜び勇んで、というわけではなく、多少は億劫に思うところもあった。それでも、一人でいたのでは何も生まれない、価値は人との出会いのなかにしかない、と自らを励まして人の輪のなかに飛び込むのである。入ってみれば、「案ずるより産むが易し」という通り、楽しい時間を享受することになる。「楽しい」というのは一時的な感覚のことを言っているのではない。その場限りの楽しさなら、それが終わった途端に空虚感を味わうことになる。何が楽しいのかと言えば、その場での見聞を基に、あれこれ考えを巡らすことが愉快なのである。私だけでなく、他のメンバーもそうした楽しさを感じているからこそ、こうして毎年飽きもせずに集まってくるのだろう。
以前はこの集まりは夜だったのだが、メンバーのなかに子供を持つ人が増え、子供連れで参加しやすいように昼になったと理解している。その子供達のなかにも就職する年頃の人たちが出てきた。同じことだが、メンバーのなかには老齢や病気で動きのとれない人たちも出てきた。人生のフェーズが変われば、変わったなりの経験の蓄積もでき、それが話の厚みにもつながるだろう。また、伊達に年だけとるというのでは人として情けない。どのような場所に出ても楽しく会話ができる自分というものを作り上げるのが真っ当な年のとり方だろう。
今日はこの集まりが終わってから、上野の国立博物館に立ち寄り常設展を眺めてから巣鴨の住処に戻った。高円宮の根付コレクションが展示されていたが、あまり感心するものはなかった。妙に華美に走ってみたり、繊細になってしまったり、要するに作り手が自我を押し付けるような五月蝿いものが目立つように感じた。ミュージアムショップでは書籍の安売りがあった。安売りになっているものを2冊、そうでないものを1冊買い求めた。