米国でFacebookの株が公開されるらしい。会社を創業した人たちは当然に巨万の富を得るが、それにあやかろうという輩が大勢蠢いていることだろう。株とか債券などに資金を投じることを「投資」という。去年のサマージャンボで一等の3億円に当選した人は、2,000万円を投じたそうだ。これを一般的には「投資」とは呼ばないだろう。「投機」だ。株式は、その企業の事業内容や業績という内実があるので、その将来性を「分析」することによって「価値」を「計算」することができる、というのが一般的な公式見解だろう。宝くじはあくまでも確率の話だ。当たりくじが多く出る売り場、というのは発券枚数が多いというだけのことだろう。よく宝くじを買う人の行列がニュースなどに紹介されるが、理屈だけで言えば、行列に並んでも、行列のない売り場で買っても当たる確率は同じだ。当てようと思って買うのだから、気分として当たりそうなところに並ぶというだけのことだろう。そこに理屈はない。ただ、株式にしても、起業した当事者は、株式を公開するに至るまでにそれ相応の困難を乗り越えてきたのだから、その対価を得るのは当然なのだが、投資するだけの人はそれで儲けたいというだけのことだろう。なかには起業家との人間関係で、単なる損得ではなしに資金を提供したという人もいるかもしれないが、それは無視しうるほど少ないだろう。儲かりそうだ、という気分で投資するという点では宝くじを買うのと然したる違いはない、と思う。
投資と投機の違いは何か。私は以下のようなものだと考えている。
投資=投機+後講釈
やれ事業内容が、とか、やれ業績が、というようなもっともらしい講釈ができる対象に利益を求めて資金を投じることが「投資」であり、そういう講釈が無理なものに金を出すのを「投機」というのだろう。バブル期の不動産や株へ資金を投じるのは、その時点では「投資」で、今から振り返ってみたときには「投機」である。バブルの頃よく耳にした「投資尺度」に「Qレシオ」というものがあった。今は死語である。しかし、当時はそれを用いて高いの安いのと言いながら資金を投じていたのは事実だ。結果として所期の結果を得ることができれば「理論」と呼ばれるが、要するに「講釈」だ。
「講釈師 見て来たような 嘘を言い」
という川柳があるが、世に「アナリスト」だの「エコノミスト」だのと呼ばれているのはそういう人たちだ。競馬や競艇などのギャンブルにも専門紙があって、そこに記事を書いている人たちがいるが、そいうのも「アナリスト」と呼ぶのだろうか。個人的にはそういうものを読んだことがないので知らないのだが、やっていることは本質において同じことだ。
「過去を振り返るとき、人は神になる」
という言葉がある。振り返ってみれば、あのときはああするべきだったと恰も神の如くに語ることができるのである。後出しじゃんけんのようなものだ。しかし、同じ人物がその時点で同じような講釈ができたかというと、果たしてどうなのだろうか。50年近く生きてきて思うのは、世の中にはどのようなことも起こりうるということだ。眼前の現実は無数の因果関係の連鎖の結果なのだろうが、その現実を構成する因果関係のうち自分が知りうるものは極一部でしかない。それは誰しも同じことだろう。その因果関係のなかで、もっともらしく語るに足る材料をかき集めて講釈を垂れる人がアナリストとかエコノミストなどと呼ばれるのである。大事なことは「もっともらしい」ということだ。話の内容もさることながら、ヨレヨレのズボンに汚いジャンパーで耳に赤鉛筆をさしている、というような恰好ではまずい。それなりの学歴で、それなりの企業に勤めているか勤めたことがあり、利口そうに見える恰好をしていないといけない。サン=テグジュペリの「星の王子様」にも似たようなことが書いてあった。
投資は宗教であり科学である。未来を保証するものは何一つない。それでも、過去の延長線上に未来がある、という仮定の下に日々積み重ねられていく膨大な過去の記録を取捨選択し分析し加工することで世の中を動かしていると想定される原理原則を見出すのが科学である。取捨選択に無理をして、その解釈にさらに無理をしたものが宗教である。そうした科学的かつ宗教的な理屈を駆使して「儲けたい」という利己心を格好良く表現するのが投資である。それに失敗して講釈のしようがなくなったのが投機である。などと私は考えている。
ついでに書かせてもらうと、人は不確実性を生きる不安を払拭すべく宗教や科学を追求するのだと思う。それが哲学にまで深めることができるか、教条主義的に皮相な理解でとどまるのかは、各自の思考力に応じて決まるのである。社交の場では政治や宗教の話題はタブーだ、というようなことを言う。自分の信条に反する見解を不愉快と感じる人が少なくないからだろう。多少の批判や反対意見で不愉快になるというのは、その程度の信条でしかないということだ。自分が信じよう、信じたいとは思っているものの、どこか根本的なところに懐疑や不理解があるから、その理解の欠如や懐疑という後ろめたい部分を刺激されると不愉快になるのである。ちょっとくらいの批判や反対で不愉快を覚えるような信条はよくよく考え直したほうがよいということだ。尤も、考える能力があれば、の話だが。
投資と投機の違いは何か。私は以下のようなものだと考えている。
投資=投機+後講釈
やれ事業内容が、とか、やれ業績が、というようなもっともらしい講釈ができる対象に利益を求めて資金を投じることが「投資」であり、そういう講釈が無理なものに金を出すのを「投機」というのだろう。バブル期の不動産や株へ資金を投じるのは、その時点では「投資」で、今から振り返ってみたときには「投機」である。バブルの頃よく耳にした「投資尺度」に「Qレシオ」というものがあった。今は死語である。しかし、当時はそれを用いて高いの安いのと言いながら資金を投じていたのは事実だ。結果として所期の結果を得ることができれば「理論」と呼ばれるが、要するに「講釈」だ。
「講釈師 見て来たような 嘘を言い」
という川柳があるが、世に「アナリスト」だの「エコノミスト」だのと呼ばれているのはそういう人たちだ。競馬や競艇などのギャンブルにも専門紙があって、そこに記事を書いている人たちがいるが、そいうのも「アナリスト」と呼ぶのだろうか。個人的にはそういうものを読んだことがないので知らないのだが、やっていることは本質において同じことだ。
「過去を振り返るとき、人は神になる」
という言葉がある。振り返ってみれば、あのときはああするべきだったと恰も神の如くに語ることができるのである。後出しじゃんけんのようなものだ。しかし、同じ人物がその時点で同じような講釈ができたかというと、果たしてどうなのだろうか。50年近く生きてきて思うのは、世の中にはどのようなことも起こりうるということだ。眼前の現実は無数の因果関係の連鎖の結果なのだろうが、その現実を構成する因果関係のうち自分が知りうるものは極一部でしかない。それは誰しも同じことだろう。その因果関係のなかで、もっともらしく語るに足る材料をかき集めて講釈を垂れる人がアナリストとかエコノミストなどと呼ばれるのである。大事なことは「もっともらしい」ということだ。話の内容もさることながら、ヨレヨレのズボンに汚いジャンパーで耳に赤鉛筆をさしている、というような恰好ではまずい。それなりの学歴で、それなりの企業に勤めているか勤めたことがあり、利口そうに見える恰好をしていないといけない。サン=テグジュペリの「星の王子様」にも似たようなことが書いてあった。
投資は宗教であり科学である。未来を保証するものは何一つない。それでも、過去の延長線上に未来がある、という仮定の下に日々積み重ねられていく膨大な過去の記録を取捨選択し分析し加工することで世の中を動かしていると想定される原理原則を見出すのが科学である。取捨選択に無理をして、その解釈にさらに無理をしたものが宗教である。そうした科学的かつ宗教的な理屈を駆使して「儲けたい」という利己心を格好良く表現するのが投資である。それに失敗して講釈のしようがなくなったのが投機である。などと私は考えている。
ついでに書かせてもらうと、人は不確実性を生きる不安を払拭すべく宗教や科学を追求するのだと思う。それが哲学にまで深めることができるか、教条主義的に皮相な理解でとどまるのかは、各自の思考力に応じて決まるのである。社交の場では政治や宗教の話題はタブーだ、というようなことを言う。自分の信条に反する見解を不愉快と感じる人が少なくないからだろう。多少の批判や反対意見で不愉快になるというのは、その程度の信条でしかないということだ。自分が信じよう、信じたいとは思っているものの、どこか根本的なところに懐疑や不理解があるから、その理解の欠如や懐疑という後ろめたい部分を刺激されると不愉快になるのである。ちょっとくらいの批判や反対で不愉快を覚えるような信条はよくよく考え直したほうがよいということだ。尤も、考える能力があれば、の話だが。