熊本熊的日常

日常生活についての雑記

燃えるような装飾意欲

2012年01月09日 | Weblog
昨日、歴博でしみじみと縄文土器を眺めてみた。弥生土器との比較として、肉厚や硬度の違いなど、焼成方法に代表される技術面はさておき、文様の違いを考えた。そのあまりに大きな差異に、縄文人と弥生人とは全く異質の人類なのではないか、というような説もあるらしい。縄文時代と呼ばれる時代は、その古さ故に不明な部分も多く、十把一絡に2万年にも亘る時間を「縄文時代」と称しているので、同じ地域のなかで当然に人の出入りはあっただろう。しかし、縄文土器の文様は単に縄文が付いているという程度のものから火焔模様と呼ばれるようなものまで様々ではあるものの、一様に模様の存在感が大きい。それは美意識というよりも、信仰や呪術的要素によるものなのだろう。長い時代のことなので、その間の事情も変化するが、基本的には狩猟漁労と初期農業によって生活が営まれていたとされている。いずれにしても農業や生態系といった科学技術面での知識は乏しく、その分、呪術や原始宗教のようなものへの信仰が厚かったことが容易に想像できる。そうした自分たちの生活を取り巻く得体の知れないものへの怖れや信仰の表現が土器の装飾とか土偶のような用途不明の人形の制作を動気付けたのではないだろうか。

弥生時代になって水稲栽培が始まると土器類も装飾に乏しい実用本位のものになるということは、社会のなかの知識量が増えてその分得体の知れないものへの怖れが減じたということを象徴しているのではないかと思うのである。水稲栽培となると、治水灌漑といった社会レベルでの作業負担が重くなり、自ずと社会性が増すことになる。当然に人と人とのコミュニケーションが質量共に増加し、科学技術をはじめとする社会として共有する知識量が大きくなっただろう。同時に生産性も向上したであろうから、そこに余剰生産物が生じる余地も出て来る。余剰が生じればその分配を巡って政治も発生する。政治が発生すれば主義主張の対立も生まれ、武力抗争も発生する。弥生時代の社会を特徴付けるものとして環濠集落や高地性集落も挙げられることがあるが、武力抗争と集落の周囲に巡らされた堀や柵との関連はともかくとして、生産活動を共同で行う集団が、その集団行動の便宜と精神的な一体感を醸成すべく物理的な共同生活の場を形成することは合理的であるように思われる。

つまり、知識量の増大と激しい装飾の度合いには関連性があるのではないだろうか。知識薄弱な状態が強いほど装飾が過剰過激になりがちで、知識の増加に従って装飾が単純化してくるという傾向があるのではないだろうか。それは古代人だけのことではなく、現代に生きる我々にもある程度当てはまるのではないかと思うのである。自分を飾り立てる心理は、不安や恐怖の裏返しではないだろうか。ブランド品や虚飾虚言で自己を大きく見せようとする背後に、浅薄空虚な実態があるのではないか。土器を眺めながら、ふとそんなことを考えた。