午前中、下肢静脈瘤の検査で専門病院を訪れる。予約したのは11月10日頃だったが、そのときで一番早い枠が今日だったのである。検査の結果、手術することになった。手術のほうは一番早い枠で来月上旬。即予約した。検査は超音波によるエコー検査で、血管をあらゆる角度から診て、内部の血流までわかる。そんなことは今の時代の医療としては当然なのだろうが、こうして体験してみるとたいしたものだと思わず感心してしまう。手術のほうはレーザーを使った日帰り手術で、術後1~3ヶ月は特殊なストッキングを着用するとのこと。それには決められた履き方脱ぎ方があり、今日はその説明も受けた。ストッキングのことは知っていたので、手術の時期は冬場がいいだろうと考えて今の時期に診察を受けることにしたのである。検査からストッキングの説明まで所要時間は約1時間。病院の近くで昼を済ませてから東京駅へ出る。
東京では保険会社へ行って、保険料の支払いを給与天引から銀行引き落としへ変更する手続きをする。2社回ったのだが、片方はその場で手続きが完了し、もう片方は銀行へ行って所定の書類を届け出なければならない。同じ事務なのに手順が違うのは興味深いことである。その場で手続きが完了したほうは、端末に引き落としに使う銀行のキャッシュカードを通して暗証番号で承認することで手続きが完了する仕組みらしい。ちょっとしたことなのだが、機械化の進展度合いの違いが大手と呼ばれる会社の間でも存在するということなのだ。
巣鴨の住処に戻るとすぐ、東京ガスの設備担当の人たちがやって来た。予定では15時から17時の間とのことだったが、まさに時間通りだった。ガスの工事なので安全第一でなければならないのだが、給湯器設置の最後の30分近くは点検と確認のための作業のようだった。物事が決められた通りに進むというのは、当たり前のようだが凄いことだと思う。
夕食はピザを焼いて食べる。昨日と一昨日にパン生地を作って冷凍してあるので、それを台として利用する。昨日作ったものには大豆を茹でたものを混ぜてみた。一昨日のは何も入っていない。今日は大豆を混ぜたほうを使う。ピザソースというような気の利いたものがないので、台の上にまずトマトのスライスを並べる。その上に玉葱のスライスを敷き詰める。その上にはエリンギのスライスを並べる。そして厚揚げのスライスを乗せ、その上からチーズをばらまく。具が多すぎて水気が出てしまったが、それを想定して深皿で焼いて、箸で頂いた。デザートは林檎。食後にコーヒーを淹れる。今日のコーヒーはマンデリン。いろいろ飲むのだが、自分はマンデリンが一番好きだなと近頃改めて思う。
食事の後片付けをしてから映画を観にでかける。テアトル新宿のレイトショーで上映中の「ミツコ感覚」を観た。酷い映画で、単に気持ち悪いだけだった。現実をスケッチしただけのような作品で、登場人物が悉く馬鹿ばかりという救いの無いものだ。救いの無い現実に生きている人に対して、「救いがないですよね」と語りかけることに何の意味があるというのだろうか。
東京では保険会社へ行って、保険料の支払いを給与天引から銀行引き落としへ変更する手続きをする。2社回ったのだが、片方はその場で手続きが完了し、もう片方は銀行へ行って所定の書類を届け出なければならない。同じ事務なのに手順が違うのは興味深いことである。その場で手続きが完了したほうは、端末に引き落としに使う銀行のキャッシュカードを通して暗証番号で承認することで手続きが完了する仕組みらしい。ちょっとしたことなのだが、機械化の進展度合いの違いが大手と呼ばれる会社の間でも存在するということなのだ。
巣鴨の住処に戻るとすぐ、東京ガスの設備担当の人たちがやって来た。予定では15時から17時の間とのことだったが、まさに時間通りだった。ガスの工事なので安全第一でなければならないのだが、給湯器設置の最後の30分近くは点検と確認のための作業のようだった。物事が決められた通りに進むというのは、当たり前のようだが凄いことだと思う。
夕食はピザを焼いて食べる。昨日と一昨日にパン生地を作って冷凍してあるので、それを台として利用する。昨日作ったものには大豆を茹でたものを混ぜてみた。一昨日のは何も入っていない。今日は大豆を混ぜたほうを使う。ピザソースというような気の利いたものがないので、台の上にまずトマトのスライスを並べる。その上に玉葱のスライスを敷き詰める。その上にはエリンギのスライスを並べる。そして厚揚げのスライスを乗せ、その上からチーズをばらまく。具が多すぎて水気が出てしまったが、それを想定して深皿で焼いて、箸で頂いた。デザートは林檎。食後にコーヒーを淹れる。今日のコーヒーはマンデリン。いろいろ飲むのだが、自分はマンデリンが一番好きだなと近頃改めて思う。
食事の後片付けをしてから映画を観にでかける。テアトル新宿のレイトショーで上映中の「ミツコ感覚」を観た。酷い映画で、単に気持ち悪いだけだった。現実をスケッチしただけのような作品で、登場人物が悉く馬鹿ばかりという救いの無いものだ。救いの無い現実に生きている人に対して、「救いがないですよね」と語りかけることに何の意味があるというのだろうか。