失業して一月半になるというのに不思議と危機感というものが湧いてこない。それどころか、馬鹿な上司から解放されたという清々しさのほうが勝ってしまって以前にも増して気分が良いという始末。昨夜は友人と飲み食いをして久しぶりに終電での帰還となった。普段は酒を口にすることがないのだが、相手がソムリエの資格を持っている奴なので、こちらも飲まないと相手も気を遣うだろうと思って、どぶろくと梅酒と芋焼酎を飲んだものだから、今朝は起きることができなかった。ソムリエ相手なのに何故ワインではないのか、と思う奴は野暮天だろう。ソムリエ相手だから敢えてワインは避けるのである。ワインが好きでどうしょうもなくてソムリエになったというならいざ知らず、趣味が高じて、どうせなら資格でもとってやろう、という言わば向学心のようなものでソムリエ資格を取得した根が真面目な奴なのである。酒はあくまで話のついでということで気楽に飲もうというならば、むしろワインはその場にふさわしくない。また、店のほうもワインを売りにしているようなところではないので尚更のことである。
昨夜は広尾の雲母という炭火焼の店で楽しい一時を過ごした。この店を訪れるのは10年ぶりくらいだろうか。前回にお邪魔したのは先代のご主人が亡くなった直後くらいだったと記憶している。店の主人が代替わりしたのと自分の仕事の状況が変わったのとが偶然重なって足が遠のいてしまったが、たいへん好きな店のひとつであることに変わりはなかった。失業して夜の時間ができたので、こうして久しぶりに訪れてみたのである。相変わらず美味しい食事と感じのよい店員さんたちのおかげで、この店が初めてだという相方に対して私の顔も立ち、嬉しいかぎりだ。
炭火焼きなら自分の家でもできるじゃないか、と思う人は本当の炭火焼きというものを知らない人だと思う。確かに、見た目だけでいえば、炭火で野菜や肉や魚貝を焼くだけのことだ。しかし、真似しようと思ってなかなか真似できないのはそれらの素材の下ごしらえである。塩に秘密があることは明らかだが、どのような塩をどのように調製しているかというところが店が持つノウハウらしい。その下ごしらえされた素材を炭火で焼きながら語り合うというところにこの店で食事をする楽しさがあるということだろう。
火を使う生物は人間だけである。他の動物には無い知能や精神の高さを象徴するのが火であり、火を囲むことで他の個体と知性や感性の深い部分で交流を図ることができるのが人間ということでもある。古い住居、例えば縄文時代の竪穴式住居は内部の中心に炉があり、生活圏の軸を成していた。時代が下って、かなり最近まで古民家には囲炉裏が切ってあり、そこで暮らす人々が囲炉裏端に集まって過ごす時間というものが必ずあったはずだ。茶道では今でも茶室に炉が切ってあり、炉のある室内で一期一会の世界を分かち合う。また、その分かち合いを喜び合う。親しい相手、あるいは親しくなりたい相手と火を囲むというのは自然なことなのである。炭火焼に限らず、鍋料理とか焼肉、バーベキューなど洋の東西を問わず火を囲む料理があるのは、火を囲むことの意味に文化を超えた人としての普遍的なものがあることの証左であるように思う。
昨夜は広尾の雲母という炭火焼の店で楽しい一時を過ごした。この店を訪れるのは10年ぶりくらいだろうか。前回にお邪魔したのは先代のご主人が亡くなった直後くらいだったと記憶している。店の主人が代替わりしたのと自分の仕事の状況が変わったのとが偶然重なって足が遠のいてしまったが、たいへん好きな店のひとつであることに変わりはなかった。失業して夜の時間ができたので、こうして久しぶりに訪れてみたのである。相変わらず美味しい食事と感じのよい店員さんたちのおかげで、この店が初めてだという相方に対して私の顔も立ち、嬉しいかぎりだ。
炭火焼きなら自分の家でもできるじゃないか、と思う人は本当の炭火焼きというものを知らない人だと思う。確かに、見た目だけでいえば、炭火で野菜や肉や魚貝を焼くだけのことだ。しかし、真似しようと思ってなかなか真似できないのはそれらの素材の下ごしらえである。塩に秘密があることは明らかだが、どのような塩をどのように調製しているかというところが店が持つノウハウらしい。その下ごしらえされた素材を炭火で焼きながら語り合うというところにこの店で食事をする楽しさがあるということだろう。
火を使う生物は人間だけである。他の動物には無い知能や精神の高さを象徴するのが火であり、火を囲むことで他の個体と知性や感性の深い部分で交流を図ることができるのが人間ということでもある。古い住居、例えば縄文時代の竪穴式住居は内部の中心に炉があり、生活圏の軸を成していた。時代が下って、かなり最近まで古民家には囲炉裏が切ってあり、そこで暮らす人々が囲炉裏端に集まって過ごす時間というものが必ずあったはずだ。茶道では今でも茶室に炉が切ってあり、炉のある室内で一期一会の世界を分かち合う。また、その分かち合いを喜び合う。親しい相手、あるいは親しくなりたい相手と火を囲むというのは自然なことなのである。炭火焼に限らず、鍋料理とか焼肉、バーベキューなど洋の東西を問わず火を囲む料理があるのは、火を囲むことの意味に文化を超えた人としての普遍的なものがあることの証左であるように思う。