熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ありえないのはわかっていても

2012年01月11日 | Weblog
西武ギャラリーで山田洋次監督の回顧展のようなことをやっている。山田監督といえば「寅さん」だが、こうしてフィルモグラフィを前にすると、かなりしっかりとした筋が通っているように感じられる。もちろん、彼の作品を全て観たわけではない。「寅さん」シリーズはたぶん殆ど観ていて、それ以外では「幸せの黄色いハンカチ」とか、最近の作品では「武士の一分」、「おとうと」などを挙げることができる。どの作品にも共通しているのが所謂「絆」がテーマになっていることだ。それはもうベタなほどの拘りようで、信念というよりも信仰に近いのではないかと思えるほどである。しかし、それが映像作品として人々から愛されるということは、社会全体としてもそうしたものへの渇望があるということだろう。

そもそもエンターテインメントとは何か、映画とは何を表現しなければならないのか、ということを思えば、人々が求めていながらも容易に手に入らないものを比較的簡便に補うものであると思う。言わば、パズルの欠けたピースのようなものではないだろうか。現実には人の人生というのは傍目にどれほど恵まれているように見えようとも我欲がある限りは満たされるということはありえない。常に何らの欠落を覚えながら生きるのが多くの人にとっての現実の生活というものだろう。その欠落をたとえ一時であっても埋めるものに人は快楽を覚えるのだと思う。それが薬物やアルコールのようなものへ向かう場合もあるだろうし、ささやかな道楽で慰められる場合もあるだろう。一口に映画といっても商業的な成功を狙ったものから作り手のマスターベーションのようなものまで様々なので、「映画」ということだけでどうこう言うことはできないのだが、少なくとも社会で認知されるためにはミッシングピースたり得るものでなければならないと思う。

寅さんのような人が現実に存在しうるとは思えないし、仮にそういうキャラクターが存在したとしても、それを映画に描かれているように周囲が暖かく受け容れるとは思えない。しかし、ああいう世界があったら楽しいだろうな、とは多くの人が感じるのである。だから「男はつらいよ」があれだけ長期間に亘って制作され続け、それが興行として成り立ち続けたのである。「黄色いハンカチ」にしても同じことだ。人は時々刻々と変化する現実を生きている。暗黙のうちに明日が今日の延長上にあると信じているが、そんな保証はどこにもない。保証がないのは承知の上で、いや、保証がないのを承知しているが故に明日を信じるのである。生活に追われていれば、いつ戻るかわからないものを待ったりはしない。だからこそ、自分を待つ誰かがいると信じたいという欲求が人並みの我欲と生命力を持っているなら、誰にでも程度の差こそあれあるのではないだろうか。

撮影中に震災があった「東京家族」で監督が何を描くのか、素朴に興味を覚える。