昨夜から富豪東方酒店に逗留している。ここに泊まろうと思って選んだわけではなく、予算の制約のなかでたまたまここになった。
初めて香港を訪れたのは1985年の年末だった。利用したフライトは国際線の定期便に進出する以前の全日空のチャーター便で、使用機材はB727だった。駐機場はターミナルビルから離れた場所なのでボーディングブリッジを使うことはできず、飛行機の乗り降りにはタラップを使っていた。その時の旅の目的は国境を見ること。日本は島国なので、陸続きの国境というのはどこにもない。学生時代にはオーストラリアとインドを訪れたが、国境を目にする機会に恵まれなかった。1985年の2月から3月にかけてインドを旅したとき、国境紛争というものに初めて触れた。インドはパキスタンと中国との間で国境に関して見解の相違がある地域を抱えている。カルカッタの中華料理屋で知り合ったバックパッカー仲間がロンドンからバスを乗り継いでやって来たのだが、どうしてもパキスタンからインドへバスで越えることができず、仕方が無いのでそこだけは飛行機を利用したというのである。以来、陸上の国境というものを見てみたいとの思いが高まり、どこか近くにそういう場所は無いかと探してみると、落馬洲に「国境展望台」なるものがあるのを見つけた。当時の香港は北京条約に基づいてイギリスが中国から租借していた地域なので、香港と中国の境界は国境とは違うのだが、実質としては香港がイギリスの海外領土として機能しており、境界を越えるには然るべき手続きを必要としたのだから国境と呼んで差し支えないだろう。今は落馬洲まで鉄道が通じているが、当時は九広鉄道で上水まで行き、そこから元朗へ行く路線バスに乗って落馬洲で下車しなければならなかった。路線バスの停留所などいちいち案内が無いので、運転手に頼んで降りるべきところで声をかけてもらうようにした。落馬洲の停留所から国境展望台までは田圃のようなところを突き抜けるように伸びる細い一本道を歩く。後から知ったのだが、田圃のように見えたのは鴨の養殖池だそうだ。数分も歩けばこんもりとした木々の塊のような丘に突き当たる。その丘が「展望台」だった。人影は疎らで、絵はがき売りの老人が何人か入れ替わり立ち代わり近づいてくる程度の、観光地離れした観光地だった。ここで1985年の大晦日だったか1986年の元旦を過ごしたのである。その後、観光で1回、仕事で数回、香港を訪れたが、いずれも自分の意志ではなかったので、自分で来ようと思って来たのは今回が1985年以来だ。
クビとか解雇と書いているが、正式には「早期退職制度への応募」なので、正式な退職日までは社員として福利厚生も利用できる。今回退職する勤務先では年間6万円分の福利厚生補助金があり、それが手つかずのまま残っていた。折しも香港在住の友人が「遊びにおいで」というので、その補助金を使ってやって来たのである。補助金の利用には制約がある。そのひとつは勤務先指定の旅行会社を通じて宿泊を申し込まないといけないというものだ。もうひとつの制約は1回の権利行使で使用できるのは5万円までということ。格安なフライトと宿泊の組み合わせなどいくらでもありそうだが、そういう事情なのでフライトと宿泊の選択の余地は殆どなかった。
今逗留している富豪東方酒店は昔の空港の前にある。割り当てられた部屋の窓からはその空港跡地が見える。ただの空き地だ。市街へ出るには路線バスかタクシーを利用する。宿屋の前のタクシー乗り場には、タクシーの台数よりも待っている人の数がはるかに多いときもある。それでも近くをバスが頻繁に往来しているので、バスの利用に馴染めば穴場の宿かもしれない。年季の入った建物なので部屋は広いし、近隣には地元客相手の飲食店が軒を連ねている。名は体を表すのか名前負けしているのか知らないが、そういう富豪酒店なのである。
今日は初日なので、とにかく歩き回った。宿屋を出るときはバス路線を把握しておらず、タクシー待ちの行列が短くなる気配もなかったので、市街へ向かってとりあえず1時間歩くことにした。今回に限ったことではなく、初めての場所ではとにかく歩いてみることにしている。香港はその名が示す通り海に面しているので歩くときの目安を定め易い。水というのは生活との関わりが深く、水のある場所を拠点に地形や街が形成されている場合が殆どだ。ここ数年はご無沙汰だがトレッキングをする場合もコース設定の際には沢や川の位置に注意する。実際に現場を歩くとき、その沢や川が自分の位置を知る上での確かな目安になる。とりあえずの目的地をHung Hom駅としたのだが、1時間歩いてもそれらしい雰囲気にはならない。海沿いをただ歩くのは芸が無いので、海の位置を意識しながら、あちこちの路地やら商店街やらを歩いたので、1時間といっても最短距離で歩けば3kmちょいくらいだろう。たまたまそのときいた場所がLaguna Verdeというところで、そこを構成するいくつかの高層建築物のうちのひとつの前に客待ちのタクシーの列があった。そこでタクシーに乗って駅へ行く。メーターは23ドルだったので、距離にして2kmちょいといったところ。あのまま海沿いを歩けば、おそらく距離はもう少し短かったと思われるので、そのまま20分程度歩き続ければ駅に到達できたことになる。これで宿屋から最寄り駅までの距離感を把握することができた。
街並みという点では、昔歩いたときの感覚とそれほど変化していないように思う。もちろん、至る所が再開発されてはいるが、それは全体の雰囲気を変えるほどのものではないように感じられる。道路に大きくはみ出した看板も相変わらずだし、並んでいる商店の様子も自分の記憶のなかのものと変わらない。街並みの印象にどれほど影響を与えていることなのかよくわからないが、路地角の建物の多くが、その角の部分を曲面にしてあるのが気になる。単に立方体や直方体の建物にするのではなしに、角を丸めることで、街や人との親近感が増すように思うのである。新しい建物は工場で製造した規格化された部材を組み合わせるだけで建てられていることが殆どだが、古いものは人の手をかけた分、意匠や造作に作り手の思いや美意識がより濃厚に表現されたということだろう。これは今回香港を訪れて初めて気付いたことだ。
初めて香港を訪れたのは1985年の年末だった。利用したフライトは国際線の定期便に進出する以前の全日空のチャーター便で、使用機材はB727だった。駐機場はターミナルビルから離れた場所なのでボーディングブリッジを使うことはできず、飛行機の乗り降りにはタラップを使っていた。その時の旅の目的は国境を見ること。日本は島国なので、陸続きの国境というのはどこにもない。学生時代にはオーストラリアとインドを訪れたが、国境を目にする機会に恵まれなかった。1985年の2月から3月にかけてインドを旅したとき、国境紛争というものに初めて触れた。インドはパキスタンと中国との間で国境に関して見解の相違がある地域を抱えている。カルカッタの中華料理屋で知り合ったバックパッカー仲間がロンドンからバスを乗り継いでやって来たのだが、どうしてもパキスタンからインドへバスで越えることができず、仕方が無いのでそこだけは飛行機を利用したというのである。以来、陸上の国境というものを見てみたいとの思いが高まり、どこか近くにそういう場所は無いかと探してみると、落馬洲に「国境展望台」なるものがあるのを見つけた。当時の香港は北京条約に基づいてイギリスが中国から租借していた地域なので、香港と中国の境界は国境とは違うのだが、実質としては香港がイギリスの海外領土として機能しており、境界を越えるには然るべき手続きを必要としたのだから国境と呼んで差し支えないだろう。今は落馬洲まで鉄道が通じているが、当時は九広鉄道で上水まで行き、そこから元朗へ行く路線バスに乗って落馬洲で下車しなければならなかった。路線バスの停留所などいちいち案内が無いので、運転手に頼んで降りるべきところで声をかけてもらうようにした。落馬洲の停留所から国境展望台までは田圃のようなところを突き抜けるように伸びる細い一本道を歩く。後から知ったのだが、田圃のように見えたのは鴨の養殖池だそうだ。数分も歩けばこんもりとした木々の塊のような丘に突き当たる。その丘が「展望台」だった。人影は疎らで、絵はがき売りの老人が何人か入れ替わり立ち代わり近づいてくる程度の、観光地離れした観光地だった。ここで1985年の大晦日だったか1986年の元旦を過ごしたのである。その後、観光で1回、仕事で数回、香港を訪れたが、いずれも自分の意志ではなかったので、自分で来ようと思って来たのは今回が1985年以来だ。
クビとか解雇と書いているが、正式には「早期退職制度への応募」なので、正式な退職日までは社員として福利厚生も利用できる。今回退職する勤務先では年間6万円分の福利厚生補助金があり、それが手つかずのまま残っていた。折しも香港在住の友人が「遊びにおいで」というので、その補助金を使ってやって来たのである。補助金の利用には制約がある。そのひとつは勤務先指定の旅行会社を通じて宿泊を申し込まないといけないというものだ。もうひとつの制約は1回の権利行使で使用できるのは5万円までということ。格安なフライトと宿泊の組み合わせなどいくらでもありそうだが、そういう事情なのでフライトと宿泊の選択の余地は殆どなかった。
今逗留している富豪東方酒店は昔の空港の前にある。割り当てられた部屋の窓からはその空港跡地が見える。ただの空き地だ。市街へ出るには路線バスかタクシーを利用する。宿屋の前のタクシー乗り場には、タクシーの台数よりも待っている人の数がはるかに多いときもある。それでも近くをバスが頻繁に往来しているので、バスの利用に馴染めば穴場の宿かもしれない。年季の入った建物なので部屋は広いし、近隣には地元客相手の飲食店が軒を連ねている。名は体を表すのか名前負けしているのか知らないが、そういう富豪酒店なのである。
今日は初日なので、とにかく歩き回った。宿屋を出るときはバス路線を把握しておらず、タクシー待ちの行列が短くなる気配もなかったので、市街へ向かってとりあえず1時間歩くことにした。今回に限ったことではなく、初めての場所ではとにかく歩いてみることにしている。香港はその名が示す通り海に面しているので歩くときの目安を定め易い。水というのは生活との関わりが深く、水のある場所を拠点に地形や街が形成されている場合が殆どだ。ここ数年はご無沙汰だがトレッキングをする場合もコース設定の際には沢や川の位置に注意する。実際に現場を歩くとき、その沢や川が自分の位置を知る上での確かな目安になる。とりあえずの目的地をHung Hom駅としたのだが、1時間歩いてもそれらしい雰囲気にはならない。海沿いをただ歩くのは芸が無いので、海の位置を意識しながら、あちこちの路地やら商店街やらを歩いたので、1時間といっても最短距離で歩けば3kmちょいくらいだろう。たまたまそのときいた場所がLaguna Verdeというところで、そこを構成するいくつかの高層建築物のうちのひとつの前に客待ちのタクシーの列があった。そこでタクシーに乗って駅へ行く。メーターは23ドルだったので、距離にして2kmちょいといったところ。あのまま海沿いを歩けば、おそらく距離はもう少し短かったと思われるので、そのまま20分程度歩き続ければ駅に到達できたことになる。これで宿屋から最寄り駅までの距離感を把握することができた。
街並みという点では、昔歩いたときの感覚とそれほど変化していないように思う。もちろん、至る所が再開発されてはいるが、それは全体の雰囲気を変えるほどのものではないように感じられる。道路に大きくはみ出した看板も相変わらずだし、並んでいる商店の様子も自分の記憶のなかのものと変わらない。街並みの印象にどれほど影響を与えていることなのかよくわからないが、路地角の建物の多くが、その角の部分を曲面にしてあるのが気になる。単に立方体や直方体の建物にするのではなしに、角を丸めることで、街や人との親近感が増すように思うのである。新しい建物は工場で製造した規格化された部材を組み合わせるだけで建てられていることが殆どだが、古いものは人の手をかけた分、意匠や造作に作り手の思いや美意識がより濃厚に表現されたということだろう。これは今回香港を訪れて初めて気付いたことだ。