Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「フェルメールからのラブレター展」を観て来た。別にフェルメールが好きなわけでもないのだが、好奇心をそそられる作家のひとりであることには違いない。現存作品数が35点と極端に少なく、観たいと思ったときに観ておかないと次にいつお目にかかることができるかわからないといっても過言ではない作家なのである。本展では以下の3点が来日しているが、私はいずれも初めて実物を目にする作品だ。これで通算すると12点を観たはずなのだが、記憶のなかでは2点が抜け落ちているので、実質的には10点だ。何故2点が抜け落ちたかといえば、それを目にした当時は今のように美術に対する興味が強くなかったからだ。だからといって、そのことを惜しいとも思わないし、リカバリーショットを打ちにベルリンへ行こうとも思わない。「観たはずなんだけどなぁ。やれやれ」と頭を掻くだけのことだ。
ところで、今回の展覧会には3種類のチラシがある。大きな展覧会なら複数種のチラシが用意されるのは珍しいことではないが、Bunkamuraのような小規模のギャラリーでの展覧会で3種類というのはそうあることではあるまい。私だけがそう感じるのかもしれないが、それらのなかではやはり「青衣の女」がフェルメールのイメージとして一番しっくりくるように思う。何故そう感じるのか自分でもわからないのだが、どういうわけかフェルメールのイメージは青なのである。確かに、フェルメールが青にこだわりを持っていたらしい、ということは良く知られたことなのでそうした世評の影響を無意識のうちに受けているということもあるだろうし、「フェルメール・ブルー」と呼ばれる独特のウルトラマリンなので否応なく作家の拘りが観る者に伝わるということもあるだろう。
この青はラピスラズリという石を粉末にした顔料で、アフガニスタン産というオランダからは遠隔の地からはるばる渡ってきた貴重なものだ。今でも単なる石というより宝石として扱われるのが一般的なものだが、フェルメールはそのストックを潤沢に保有していたというのである。青く見える部分はもちろんのこと、赤いスカートや黄色い上衣からも微量のウルトラマリンが検出されており、フェルメール作品の隠し味のようなものとしてこの青が至る所に使われているのである。画家が青にこだわるのは自然なことであるように思う。
写真が登場する以前の時代において、絵画に写実性が強く求められていたのは周知のことだ。当然、画家はいかに本物らしく描くかということに腐心したはずである。目の前にある明確に物理的な存在を画面に再現することは画家という専門職になるほどの人にとってはさほど難しいことではないだろう。専門職としての腕が問われるのは、存在はわかっていてもそれが明確には表現できないものをどのように表現するかということだ。端的には空気あるいは空気中にある微粒子、人の表情の背後にある感情といったものの表現だ。空とか水を青で表現するのは文化を超えてよくあることだろう。写実というときに何を写すかということが勿論問題になるし、どのように表現するかということも大事なことになる。それには世界を構成する最小単位をどのように認識するかという世界観のようなものが問われることにもなる。そこに大気あるいは描く対象物と描き手との間の空間の表現として青に注目するのは当然の発想ではないかと思うのである。その空間の大気や水蒸気を表現しようとして青くないところにも青を使うことに不思議はない。そういうはっきりと見えないところにある、対象物と描き手との間の空間の質感が画面全体の質感を決めることにもなるということだ。となれば、たとえ高価であろうとそこに最適な素材と技能をつぎ込まざるをえないだろう。稀少で高価な宝石の粉末であろうと、それがなければ自分の表現や仕事が完成できないなら、何としてでも手に入れて、それを駆使するべく最大の努力を払うのが当然の自己表現であり職業倫理でもある。
フェルメールが絵を描き始めたのは21歳頃で30代半ばにむかって熟達の度合いを増して行くとされている。その先は見解の分かれるところだが、43歳で亡くなる晩年へ向けて衰えているとの見方がある。本展出品の3作品の制作推定年齢は「青衣の女」が32-33歳、「手紙を書く女」が33歳、「手紙を書く女と召使い」が38歳頃とされている。前2作が成熟期、後の1作が晩年ということになるが、成熟期の作品はスフマート法にも似た繊細な輪郭の処理がなされ、それが青の効果と相俟って抑制されながらもマットな質感を生み出している。その微妙なボケが空気の質感のようなものを感じさせ、そこに青を見るのかもしれない。映画にもなった「真珠の耳飾りの少女」も成熟期の作で青いターバンのようなものを身につけているのでその青が印象に残る。さらに、「青衣の女」は2年間に及ぶ修復作業を終えたばかりで、青の鮮やかさが回復されているのも青の印象を強いものにしているかもしれない。ちなみに「手紙を書く女と召使い」は明らかに雰囲気が他の2作とは異なる。あまり青を感じない作品だ。青の印象、という漠然としたテーマのようなものを抱えてこれら3作を眺めるだけでも楽しい展覧会だ。
本展でのフェルメール作品
「手紙を読む青衣の女(Girl Reading a Letter)」1663-1664年 アムステルダム国立美術館蔵
「手紙を書く女(A Lady Writing)」1665年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵
「手紙を書く女と召使い(A Lady Writing a Letter with her Maid)」1670年 アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵
上記の他に過去に観た(はずの)フェルメール作品
「ヴァージナルの前に立つ女」1669-1671年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ヴァージナルの前に座る女」1675年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ギターを弾く女」1673-75年 ケンウッド・ハウス
「レースを編む女」1665-1670年 ルーヴル美術館
「天文学者」1668年 ルーヴル美術館
「絵画芸術」1666-1668年 ウィーン美術史美術館
「地理学者」1669年 シュテーデル美術館蔵(2011年にBunkamuraで開催された「フェルメール《地理学者》とシュテーデル美術館所蔵オランダ・フランドル美術館展」にて初対面。シュテーデル美術館を訪れたことはない)
「真珠の首飾り」1662-1665年 ベルリン国立絵画館
「真摯とワインを飲む女」1658-1659年 ベルリン国立絵画館
※「絵画芸術」は2004年に東京都美術館で開催された「栄光のオランダ・フランドル絵画展」、「レースを編む女」は2009年に国立西洋美術館で開催された「ルーブル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」でも再会。
ところで、今回の展覧会には3種類のチラシがある。大きな展覧会なら複数種のチラシが用意されるのは珍しいことではないが、Bunkamuraのような小規模のギャラリーでの展覧会で3種類というのはそうあることではあるまい。私だけがそう感じるのかもしれないが、それらのなかではやはり「青衣の女」がフェルメールのイメージとして一番しっくりくるように思う。何故そう感じるのか自分でもわからないのだが、どういうわけかフェルメールのイメージは青なのである。確かに、フェルメールが青にこだわりを持っていたらしい、ということは良く知られたことなのでそうした世評の影響を無意識のうちに受けているということもあるだろうし、「フェルメール・ブルー」と呼ばれる独特のウルトラマリンなので否応なく作家の拘りが観る者に伝わるということもあるだろう。
この青はラピスラズリという石を粉末にした顔料で、アフガニスタン産というオランダからは遠隔の地からはるばる渡ってきた貴重なものだ。今でも単なる石というより宝石として扱われるのが一般的なものだが、フェルメールはそのストックを潤沢に保有していたというのである。青く見える部分はもちろんのこと、赤いスカートや黄色い上衣からも微量のウルトラマリンが検出されており、フェルメール作品の隠し味のようなものとしてこの青が至る所に使われているのである。画家が青にこだわるのは自然なことであるように思う。
写真が登場する以前の時代において、絵画に写実性が強く求められていたのは周知のことだ。当然、画家はいかに本物らしく描くかということに腐心したはずである。目の前にある明確に物理的な存在を画面に再現することは画家という専門職になるほどの人にとってはさほど難しいことではないだろう。専門職としての腕が問われるのは、存在はわかっていてもそれが明確には表現できないものをどのように表現するかということだ。端的には空気あるいは空気中にある微粒子、人の表情の背後にある感情といったものの表現だ。空とか水を青で表現するのは文化を超えてよくあることだろう。写実というときに何を写すかということが勿論問題になるし、どのように表現するかということも大事なことになる。それには世界を構成する最小単位をどのように認識するかという世界観のようなものが問われることにもなる。そこに大気あるいは描く対象物と描き手との間の空間の表現として青に注目するのは当然の発想ではないかと思うのである。その空間の大気や水蒸気を表現しようとして青くないところにも青を使うことに不思議はない。そういうはっきりと見えないところにある、対象物と描き手との間の空間の質感が画面全体の質感を決めることにもなるということだ。となれば、たとえ高価であろうとそこに最適な素材と技能をつぎ込まざるをえないだろう。稀少で高価な宝石の粉末であろうと、それがなければ自分の表現や仕事が完成できないなら、何としてでも手に入れて、それを駆使するべく最大の努力を払うのが当然の自己表現であり職業倫理でもある。
フェルメールが絵を描き始めたのは21歳頃で30代半ばにむかって熟達の度合いを増して行くとされている。その先は見解の分かれるところだが、43歳で亡くなる晩年へ向けて衰えているとの見方がある。本展出品の3作品の制作推定年齢は「青衣の女」が32-33歳、「手紙を書く女」が33歳、「手紙を書く女と召使い」が38歳頃とされている。前2作が成熟期、後の1作が晩年ということになるが、成熟期の作品はスフマート法にも似た繊細な輪郭の処理がなされ、それが青の効果と相俟って抑制されながらもマットな質感を生み出している。その微妙なボケが空気の質感のようなものを感じさせ、そこに青を見るのかもしれない。映画にもなった「真珠の耳飾りの少女」も成熟期の作で青いターバンのようなものを身につけているのでその青が印象に残る。さらに、「青衣の女」は2年間に及ぶ修復作業を終えたばかりで、青の鮮やかさが回復されているのも青の印象を強いものにしているかもしれない。ちなみに「手紙を書く女と召使い」は明らかに雰囲気が他の2作とは異なる。あまり青を感じない作品だ。青の印象、という漠然としたテーマのようなものを抱えてこれら3作を眺めるだけでも楽しい展覧会だ。
本展でのフェルメール作品
「手紙を読む青衣の女(Girl Reading a Letter)」1663-1664年 アムステルダム国立美術館蔵
「手紙を書く女(A Lady Writing)」1665年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵
「手紙を書く女と召使い(A Lady Writing a Letter with her Maid)」1670年 アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵
上記の他に過去に観た(はずの)フェルメール作品
「ヴァージナルの前に立つ女」1669-1671年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ヴァージナルの前に座る女」1675年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ギターを弾く女」1673-75年 ケンウッド・ハウス
「レースを編む女」1665-1670年 ルーヴル美術館
「天文学者」1668年 ルーヴル美術館
「絵画芸術」1666-1668年 ウィーン美術史美術館
「地理学者」1669年 シュテーデル美術館蔵(2011年にBunkamuraで開催された「フェルメール《地理学者》とシュテーデル美術館所蔵オランダ・フランドル美術館展」にて初対面。シュテーデル美術館を訪れたことはない)
「真珠の首飾り」1662-1665年 ベルリン国立絵画館
「真摯とワインを飲む女」1658-1659年 ベルリン国立絵画館
※「絵画芸術」は2004年に東京都美術館で開催された「栄光のオランダ・フランドル絵画展」、「レースを編む女」は2009年に国立西洋美術館で開催された「ルーブル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」でも再会。