熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ゆらゆらと

2012年01月13日 | Weblog
香港藝術館を訪れた。何の予備知識も持たずに来たので、最初の展示が何かということに興味があった。日本で公立の「美術館」というと絵画、しかも西洋絵画の展示で始まるのが一般的だ。西洋で描かれたものであれ日本人が描いたものであれカンバスに油彩で描いた作品が「美術」の筆頭となる。定着していることをとやかく言っても始まらないが、他民族国家ならいざ知らず、単一民族国家と呼ぶことに違和感のない歴史と文化を持った国の公の「美術館」が来館者に対して示す第一の作品が西洋画というのはどういうことなのだろうか、といつも思う。

それで香港藝術館だが、常設の最初は書だ。漢字を創造した国が、その美術館の最初の展示で漢字の標準を示しているのである。これ以上納得のいくことがあるだろうか。尤も、来館者の多くにとって書はさほど魅力のあるものではないらしく、展示室内に長時間に亘って滞在する人は一人もいない。少なくとも、私がこの部屋に入った時点で先客は皆無で、滞在中に何人かが入って来たが、入室から約1時間後にここを出るとき、やはり私以外に客はいなかった。書と言えば必ずと言っていいほど登場する王羲之はここでも存在感を放っている。それは自分が見知っている数少ない書家のひとりであるという所為も多分にあるだろうが、やはり本家中国となるとこうした場での展示に供される書家人口が日本の比ではないということだろう。となると自然に見覚えのあるものに目が向かうので、それを「存在感」と認識してしまうということなのかもしれない。

あくまでもなんとなくという感覚なのだが、時代が下がって20世紀後半ともなると、書家の作品にあざとさのようなものを感じてしまう。中国あるいは香港の場合、20世紀という時代は表現者にとっては必ずしも恵まれたものではなかったのではないだろうか。恵まれないどころか存在が許されないと言っても過言ではない状況だったかもしれない。もちろん、表現活動に対する社会の許容度と表現作品の質的なものとの関連は定かではないだろうが、全く無関係ではあるまい。書画という伝統分野においても、そうした社会の状況の影響があるのかないのか知らないが、所謂「現代」と括られる時代の表現の特徴は、地域を問わず、あざとさが先走り勝ちであるように個人的には感じている。

陶磁器の展示は、展示スペースの制約もあって量は必ずしも多いとは言えない。それでもさすがに本家本元であるだけに古代から清代に至るまで主だったものを一気通貫に眺めることができるのは嬉しいことだ。美術館に展示されている中国の官窯の作品は、人間技とは思えない完成度の高さが第一の特徴だ。時の権力者の愛蔵品になるほどのものなのだから究極の完成度が追求されて当然なのだが、あまりに厳しいものだと自分との間の断絶が大きすぎて、その存在に現実味を感じられなくなってしまう。それは単に私の育ちが悪い所為と言われれば反論の余地は無い。しかし敢えて言わせてもらえば、生活のなかに取り入れることのできないようなものに興味は無い。技巧を極めること、極めたものを求めることは、物事の進歩として重要なことであるには違いない。そうした進歩や最先端のことが特定の権力者にとどまるのではなしに、人々の生活のなかに反映されて広く享受されることはもっと重要だと思うのである。

現代の作品は作家の国籍とか思考のバックグラウンドから離れる傾向に在るように思う。全体的な流れとしては20世紀以降、抽象化が進む方向にあるので、作家個人の文化的背景を説明しないと伝わらないようなものよりは、世界の誰が見ても直感できるようなもの、世界の誰に対しても直感を要求するようなものが主流になっている。良く言えば普遍性が追求されている。悪く言えば排他的になっている。普遍性と排他性とは相反することのように思われるだろうが、切り口によっては同じことだと思うのである。普遍性、つまり個人とか時代とかを超えて人間の生活や歴史のなかに刻み込まれるものというのは、余計なものを削ぎ落した本質のなかの本質というようなものだ。それは具体性を削ぎ落すということでもある。なぜなら、具体性というのは言語化して説明できるということなので、言語という特殊性、それぞれの言語の成り立ちという特殊性を共有した者の間でしか伝えあうことができないことになる。つまり、普遍的なものを説明することはできず、それが当然のことと感じることしかできない。説明できないのに感じられるということは言語以前のものとして人間の間に共有されているものと言える。だから、それは人種や文化を超えて共有される、つまり普遍性があるということだ。本来的に説明できないものを表現するのが美術や芸術なのである。説明できないのだから表現したつもりでも、それが伝わっているかどうかは検証できない。となると、わかり合ったつもりでいる人たちの間でしか伝わらないということになる。そこに排他性が生じるのである。例えば、巨大なカンバスの全面に様々な色を塗り散らかしただけにしか見えないような作品を前にして、「おぉ、これいいなぁ」と心の底から感じる人がどれほどいるだろうか。その作品のその時点での「普遍性」が社会において認知されるのは、その社会における既存の権威が「これはいい」と表明しなければならない。「裸の王様」の寓話が示す如く、権威の認知があれば実体がどうあれ、人はそこに価値の幻想、あるいは価値という幻想を見るのである。つまり、芸術や美術というのも市場のなかにあるということだ。権威による裏付けだけが頼りで社会の中に存在するのである。全く紙幣と同じではないか。ただの印刷物をゴミと紙幣に分けるのは権威の裏付けの有無以外にない。

では権威とは何か。共同幻想だろう。誰もが当たり前のように信じているが、別の幻想が生まれてそれを支持する「101匹目の猿」が現れると途端に変化してしまう。世に確かなものなど何もないのである。

今日はこの後、香港歴史博物館を訪れた。先日、佐倉の歴史民俗博物館を訪れたのことをこのブログに書いたが、香港の「歴史」はもっとすごい。ここでは地球誕生まで遡って「歴史」が語られているのである。展示は実物大の模型を使ったものが多用されている体感型の構成になっている。日本の占領時代のことも触れているが、予想していたよりも小さな扱いだ。以前、シンガポールの歴史博物館を訪れたときに、少し衝撃的だったので、そういう意味ではほっとした。