熊本熊的日常

日常生活についての雑記

晴れたり雪だったり

2012年02月02日 | Weblog
4日土曜日は午前中に大阪に移動して国立民族学博物館へ行くつもりでいるので、既に新幹線を予約してある。乗り遅れてはいけないので、今日は予行演習のつもりで、その新幹線の時間に合わせて宿を出て広島駅へ向かった。宿から八丁堀の電停まで歩き、そこから広電に乗って駅まで所要時間は約30分。距離としてはそれほどでもないのだが、広島市街は大きな通りが多く、信号待ちの時間が長い。殊に駅近くはそうした傾向が強い。このため距離の割に余裕をもたせた移動時間を想定しておく必要がある。

今日は新幹線には乗らない。8時34分発の山陽本線普通列車岩国行きに乗ると9時ちょうどに宮島口に着く。そこから少し歩いたところにフェリー桟橋がある。ちょうど入港した9時10分発のJRのフェリーで宮島へ渡る。宮島までは10分間の航海だ。天気は良いが寒い。昨日も寒かったがそれ以上に寒く感じる。それなのに、フェリーのデッキに出て冷たい風に煽られていた。デッキには私を含めて2人の客しかいない。客室のほうにも数えるほどの人しかいない。このクソ寒いなか、広島や宮島へ観光に来るのはよほど物好きな人ということなのだろう。厳島神社の鳥居は写真の印象よりも地味な感じがした。

実は、厳島神社を訪れるつもりで宮島へ来たのではない。何のために極寒の宮島を訪れたかといえば、しゃもじを買ってくるよう友人に頼まれたのである。ご飯をよそう時に使うしゃもじだ。高校野球で広島県代表チームの応援団がしゃもじをカチカチ鳴らして応援する場面を記憶している人もいるのではないかと思うが、しゃもじは宮島の名産品のひとつでしゃもじを「宮島」と呼ぶこともある。頼まれたのはその名産品のしゃもじではない。その依頼は携帯メールでやって来た。
「おしゃもじは広島の特産品なんだけど、ミヨシさんっていう、元・自動車設計→しゃもじ職人の作ったのがスゴイらしいんですよ~!」(原文のまま)
で、他に手がかりがない。検索してもそのしゃもじがどのようなものなのか引っ掛からないのである。宮島にある「杓子の家」というところで売られているらしいこと、広島県知事賞というものを受賞したことがあるらしいこと、くらいしかわからなかった。昨日、夕食の後、コーヒーとケーキをいただいたカフェのオネエサンに尋ねてみると、知らないという。宿泊先の宿屋にコンシェルジェでもいればよいのだが、そういうリッパなところに縁がない。とりあえず「杓子の家」だけを頼りに宮島へ渡ったのである。

とはいえ、宮島のフェリー乗り場の建物内にある観光案内所で尋ねてみた。係の人はご存知無いのだが、何カ所かに電話をして聞いていただいた。結局わからなかったが、フェリー乗り場の向かいにある伝統産業会館に行って尋ねてみることを勧められた。その1階は展示場兼売店になっていて、レジのところに立っていたオネエサンに尋ねてみた。すると、すらすらと答えが返ってきた。やはり「杓子の家」に行かないといけないのだそうだ。そこでしか小売りをしていないものだそうだ。

「杓子の家」はフェリー乗り場と厳島神社の中間にある。表参道商店街のなかにあるしゃもじの専門店だ。「おはようございます」と言いながら店に入って「ミヨシさんのしゃもじというのはどこですか」と尋ねてみた。すると「今、切れちゃって、いつ入荷するかわからないんですよねぇ。」とのこと。目眩がした。

自覚はなかったのだが私がよほど落胆した様子を見せたのかもしれないし、その店の人が親切だったのかもしれないのだが、ミヨシさんの家の電話番号を教えてくれたのである。その上、ご本人が家にいる時間帯まで教えていただいた。こういうことは、東京ではありえないのではないだろうか。どこの誰ともわからない一見客に取引先の連絡先を教えてしまうのである。店で注文を預かれば、店の売上になって多少の利益になるはずだ。客、つまり私が制作者に連絡して直接購入してしまえば、店にとっては少なくとも当座の利益は生じない。勿論、中長期的に制作者との信頼関係が強くなるというようなことはあるだろう。また、最近喧しくなっている個人情報云々の問題も発生するかもしれない。私はなんだか恐縮してしまったが、店の人も恐縮した様子で在庫を切らしていることを詫びていた。人気商品なのだそうで、入荷すると直ぐに売れてしまうのだそうだ。近頃は人を見たら泥棒と思えというような狭量なものの見方が蔓延しているように感じられてならないのだが、杓子定規に物事を割り切ってしまうのではなく、自分の直観を信じてものごとを決めるという姿勢が人生や生活を豊かにすると思う。

せっかくなので、厳島神社へ行く。もちろん厳島神社自体も大きなものだが、周辺の神社仏閣と併せた地域としての特殊性がある。世界遺産に指定されたこともさることながら、それ以前に日本三景のひとつとして、あるいは歴史の舞台として抜群の集客力を発揮していたことで、人出が絶えることが無いということが街並みを活き活きとさせてきたのではないだろうか。道路は奇麗で、舗装されていないところは箒目が美しい。少し観光の時期から外れていることや、午前中の早い時間ということもあるかもしれないが、手入れが行き届いている印象があって、人通りが閑散としていても寂れた感じが無いところが嬉しい。

厳島神社のなかを通り抜け、裏手の柳小路を登り詰め、藤の棚公園から紅葉谷公園を抜けてロープウェーの駅までを歩いて往復してみる。人の姿は無いのに人の気配が感じられるのは、やはり手入れの跡が感じられるからだろう。人にも土地にも言えることだが、他人の眼を意識してこれ見よがしに飾り立てるのはどこか下品さがつきまとう。それに対し、他人の眼があろうがなかろうが居ずまいを守る姿勢には、背後に何事かに裏付けられた確かな矜持のようなものが感じられて、その場に居合わすだけでも有り難い心地がするものだ。

10時55分発のフェリーで宮島を後にする。それにしても寒い。指がちぎれるかと思うほど寒い。顔がしびれるほど寒い。トイレに入ったらキンタマが乾燥梅干しのようになっていた。生気のない性器。あまりに寒いので、連絡船を下りてから駅までの僅かな道程も長く感じる。駅で広島行きの列車の待ち時間が20分もあることを知って卒倒しそうになった。咄嗟に温かいものを腹に収めようと、売店で揚げもみじまんじゅうを買った。半分ほど食べると少し落ち着いて、凍結していた思考回路が動きだした。まず思ったのだが、もみじまんじゅうは揚げないほうがよい。

11時33分発の広島行き普通列車で終点まで行き、12時09分発の呉線普通列車に乗り換えて呉に向かう。呉到着は12時56分。古い車両で暖房の効きが悪く、車内もけっこう寒い所為もあり、思っていた以上に呉が遠くに感じられた。

呉と言えば戦艦大和だろう。というわけで大和ミュージアムを訪れる。もちろん大和に関する展示が中心だが、博物館としては大和に象徴される軍港呉、あるいは呉の近代史についてまとめたものが展示されていると見たほうがよいだろう。ちょうど昼時でもあったので、大和ミュージアムに食堂のようなものがあればそこで昼食にしようと思った。受付で尋ねると、館内にはそういう場所がないので隣のフェリーターミナルビルの中にある椿庵かショッピングビルのなかにあるレストラン街を利用してはどうかとのことだった。呉の駅からここまではデッキでつながっていて、途中YouMeという商業施設のなかを通り抜けるようになっている。そこを通過する際に一応どのような店があるのか見てあり、全国チェーンの店舗が目についていたので、椿庵へ行く。店の外に出ていたメニューの看板を見て「海軍定食」というものを食べてみることにした。これは以下のような料理で構成されている。
 鯨肉のカツ
 肉じゃが(海軍時代に実際に食されていたものらしい)
 とろろいも
 うに椎茸(佃煮)
 ご飯
 みそ汁
 香の物
 フルーツ
鯨肉と言えば今は貴重品だが、私が小学校低学年の頃までは一番安い肉だ。学校給食に出る肉といえば鯨肉以外に考えられないほどだった。そんなわけで鯨のカツにはなんとなく懐かしさを覚えた。肉じゃがは能書きが付いていたが普通の肉じゃがだった。

腹が膨れたところで改めて大和ミュージアムを訪問する。入口ホールでチケットを買って展示会場に入るとすぐに大和の10分の1の模型が鎮座している。細部まで作り込まれたものだ。その脇の部屋に入り、呉の海軍関係の歴史や呉で建造された代表的な軍艦などの展示とビデオ類が続き、特別コーナーとして大和のこと、殊に最後の出撃となった沖縄特攻について戦後に引き揚げられた遺留品や生存者の証言ビデオを交えて細かく展示されていた。ここは思わず観入ってしまった。その後に戦後の軍民転換についての展示があって、10分の1模型のところに戻るようになっている。見学順路としてこの全体の半分に相当する部分がこの博物館の根幹と言える。後はいくつかの実機と映像資料がある程度だ。日本人として今日までの50年を生きてくれば、経験はしていなくても第二次大戦のことは様々な形で自分のなかに影響を与えているものだ。今の時点ではまだ言葉にならないことばかりだが、はるばるやって来る甲斐のある場所だと思う。

大和ミュージアムの近くに潜水艦が設置されているところがある。最初に見たとき、潜水艦を模して作った建物かと思ったら、1985年に進水し2004年に除籍された「あきしお」という本物の潜水艦だ。潜水艦の実物を見るのはこれが初めてではないのだが、陸上で全容を見るのは初めてだ。全長76.2m、全高16.3mという大きなもので、この下をくぐって海上自衛隊呉史料館に入る。展示の中心は掃海についてである。戦後、海上自衛隊の前身でもある帝国海軍の呉の残存組織が掃海を担ったのだそうだ。自衛隊発足後も引き続きここの掃海部隊が日本国内のみならず湾岸戦争時のペルシャ湾にまで出掛けて行って活躍したのだという。そうしたことについての展示が中心で、その順路の最終コーナーがこの潜水艦になっている。中に入ることができるのである。当たり前のことだが、やはり窓が無いというのは居住空間としては厳しいものを感じる。実際の運用では一回の航海で何ヶ月もこの中で過ごすのだから、精神的に相当強くないと潜水艦乗りは勤まらないということが容易に想像できる。

16時52分発の快速列車に乗って広島へ戻る。呉線は海沿いを走るのだが、発車の時には晴れていた空がみるみる白くなっていく。海から湯気のように水蒸気が立ち上っているのがわかる。17時を回る頃には霧がかかったようになり、さらに時間が進むと雪になった。17時23分に広島到着。すっかり雪景色だ。電車の中も寒かったので、少し駅ビルのなかで暖を取ってから宿に戻ろうとしたのだが、雪があまりに酷いので、交通が止まって宿に戻れなくなるといけないと思い、とりあえず発車間際の路面電車に乗った。ところが、これは宿の近くには行かない路線だった。雪が小降りになってきたこともあり、そのまましばらく乗っていることにした。途中で乗り換えて繁華街へ向かい、もう歩いても宿に戻ることができると確信して、食事をしてから帰ることにした。

昨日、発想が貧困だと語った舌の根も乾かぬうにち、今夜はお好み焼きを食べに行く。パルコの裏あたりに「お好み焼き村」というものがある。飲食店の入ったビルの2階から4階の3フロア内にお好み焼きの店が軒を連ねている。ふらりと入っただけで、お目当てがあるわけではない。ビルの入口にあったフロアマップで偶然「カープ」というのが目についた。神田に広島県人が集まる同じ名前のお好み焼き屋がある。その店のことを広島出身だという人から初めて聞いたのは2009年5月のことだった。以来、是非一度訪ねてみようとおもいつつ今日に至っていたので、同じ名前の「カープ」に決めた。

雪が降っていて帰宅を急ぐ人が多いのか、単に夜の外食時間帯には少し早いのか、ビルの中には客が殆ど無く、どの店でも店員が手持ち無沙汰にしていた。「カープ」も客がいなかった。お好み焼きを焼いてもらいながら話を聞いてみたところ、神田の「カープ」とこの「カープ」は経営者どうしが兄弟で、神田へは広島カープから毎日食材を送っているという。オタフクソースは東京でも容易に手に入るが、広島のお好み焼きを作るのに東京では入手困難な食材とは何だろうと思ったら、もやしと葱だそうだ。ただ鉄板で焼くだけのものだと思っていたのだが、けっこう奥が深いようだ。ちなみに、この「カープ」は広島市内にここを含めて2店舗、東京神田に1店舗ある。この3店舗以外の「カープ」はこの店とは無関係とのこと。