芸術新潮の2月号にタル・ベーラ監督のインタビュー記事があり、それを読んで観たいと思っていた。前作「倫敦から来た男」は2007年の制作だが日本で公開されたのは2009年。本作は2011年制作で日本公開が2012年ということなので、それだけ日本での注目度が上昇しているということなのだろう。「倫敦から来た男」のほうも観て、2009年12月23日付のこのブログに書いている。前作と同じく本作も渋谷のイメージフォーラムで公開されている。
昨年11月にタル・ベーラ監督が来日した際の記者会見のなかで、氏はこう語っている。
「先日、たまたまロサンゼルスを訪れましたが、映画に関わっている方々が映画をショービジネスの一部であると、皆が強く信じていることに疑問を感じました。私はそうは思いません。映画というものは第七芸術であると思っています。二つの違った見方ではあるのですが、私は観客も知的であり、作り手として常にベストを尽くして作品を作らねばならないと思っていますが、例えば観客を子供のように、娯楽しか求めていないと決め付けて、その観点から映画をファストフードのように作ることも可能ではあります。しかし私は、観客はそれぞれが人格を持っていると思っていますし、観客に近づき、分かち合うような作品を作らねばならないという想いで映画を作ってきました。」(本作プログラム「記者会見 2011年11月22日@駐日ハンガリー大使館」より引用)
なるほどそういう作品だ。「芸」とか「美」というものが単独で存在するのではなく、それを観たり聴いたりする人間がそこに「芸」や「美」を見出すからこそ価値が生まれるのは確かなことだ。つまり、そこに作り手と受け手とのコミュニケーションが存在している。ただ、気をつけなければいけないのは、作り手が作品について饒舌に過ぎると、解釈の余地を狭めることになり、作品の奥行きのようなものが浅くなってしまうことだ。もっと言うと、受け手が「正解」を求めて表層を彷徨うことになってしまう。芸術新潮のインタビューで面白いところがある。
「私の映画の話になると、みんながメタファー、アレゴリー、シンボリズムといったことを訊きたがる。どうしてなんだろう。」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 107頁)
と語っているのだが、それは彼が
「この映画では、人生というものを純粋かつミニマルなかたちで見せているつもりです。われわれはルーティーンを生きているけれど、毎日同じかというと実は違う。人生は弱まっていく、少しずつですが。同じような食事の場面でも、日によってカメラポジションを変え、リズムを変えて撮ることで、何かが日々失われていく感覚を伝えようとしたのです」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 106頁)
などと余計なことを言うからだ。映像作家は伝えたいことを全て映像に託し、受けてはそこからそれぞれの人生経験に照らしながらそれぞれの力量に応じてそこから何事かを読み取る、というように割り切ってしまえばよいのである。映像作家が言葉で制作意図を表明すれば、観るほうは映像の構造を探ろうとするのは人情として自然なことではないか。当然、メタファーを云々したくなるだろう。
メタファーといえば、作り手がどれほど意識しているのか知らないが、画面のなかで毎日吹き荒れる風のことがとても気になった。この作品のなかで描かれる6日間のなかで、日常は少しずつ崩壊していく。稼ぎ手である馬が言うことをきかなくなり、井戸が枯れ、生活に必要なものが不足をきたし、ついにはジャガイモを生で齧らざるを得ない状況に陥る。それでも家の中にいれば外の激しい風からは守られている。結局、風は6日目にはおさまるのだが、仮に強風が続いて外に出ることができない日がさらに続いたとして、暴風から守られていることと外で暴風に教われることとの間に実質的な違いはあるだろうか。近頃、東京を巨大地震が襲うとまことしやかに喧伝されているようだが、我々はそれに対してどうしたらよいのだろうか。福島の原発事故から1年になろうとしているが、あいかわらず放射能は放出されている。どれほど気をつけたところで、その影響から逃れることはできない。そうしたなかで、我々はどうしたらよいのだろうか。生まれたからには必ず死ぬ。病気や事故で生命の危機に瀕したとき、それでも我々は延命の道を模索するのは何故だろう。何万年先か何億年先かわからないが地球は必ず最期を迎える。地球固有の事情なのか太陽の超新星爆発なのかわからないが、最期を迎えることは確実だ。滅びることが運命付けられている天体上で展開されている我々の生活に果たしてどのような意味があるのだろうか。
昨年11月にタル・ベーラ監督が来日した際の記者会見のなかで、氏はこう語っている。
「先日、たまたまロサンゼルスを訪れましたが、映画に関わっている方々が映画をショービジネスの一部であると、皆が強く信じていることに疑問を感じました。私はそうは思いません。映画というものは第七芸術であると思っています。二つの違った見方ではあるのですが、私は観客も知的であり、作り手として常にベストを尽くして作品を作らねばならないと思っていますが、例えば観客を子供のように、娯楽しか求めていないと決め付けて、その観点から映画をファストフードのように作ることも可能ではあります。しかし私は、観客はそれぞれが人格を持っていると思っていますし、観客に近づき、分かち合うような作品を作らねばならないという想いで映画を作ってきました。」(本作プログラム「記者会見 2011年11月22日@駐日ハンガリー大使館」より引用)
なるほどそういう作品だ。「芸」とか「美」というものが単独で存在するのではなく、それを観たり聴いたりする人間がそこに「芸」や「美」を見出すからこそ価値が生まれるのは確かなことだ。つまり、そこに作り手と受け手とのコミュニケーションが存在している。ただ、気をつけなければいけないのは、作り手が作品について饒舌に過ぎると、解釈の余地を狭めることになり、作品の奥行きのようなものが浅くなってしまうことだ。もっと言うと、受け手が「正解」を求めて表層を彷徨うことになってしまう。芸術新潮のインタビューで面白いところがある。
「私の映画の話になると、みんながメタファー、アレゴリー、シンボリズムといったことを訊きたがる。どうしてなんだろう。」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 107頁)
と語っているのだが、それは彼が
「この映画では、人生というものを純粋かつミニマルなかたちで見せているつもりです。われわれはルーティーンを生きているけれど、毎日同じかというと実は違う。人生は弱まっていく、少しずつですが。同じような食事の場面でも、日によってカメラポジションを変え、リズムを変えて撮ることで、何かが日々失われていく感覚を伝えようとしたのです」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 106頁)
などと余計なことを言うからだ。映像作家は伝えたいことを全て映像に託し、受けてはそこからそれぞれの人生経験に照らしながらそれぞれの力量に応じてそこから何事かを読み取る、というように割り切ってしまえばよいのである。映像作家が言葉で制作意図を表明すれば、観るほうは映像の構造を探ろうとするのは人情として自然なことではないか。当然、メタファーを云々したくなるだろう。
メタファーといえば、作り手がどれほど意識しているのか知らないが、画面のなかで毎日吹き荒れる風のことがとても気になった。この作品のなかで描かれる6日間のなかで、日常は少しずつ崩壊していく。稼ぎ手である馬が言うことをきかなくなり、井戸が枯れ、生活に必要なものが不足をきたし、ついにはジャガイモを生で齧らざるを得ない状況に陥る。それでも家の中にいれば外の激しい風からは守られている。結局、風は6日目にはおさまるのだが、仮に強風が続いて外に出ることができない日がさらに続いたとして、暴風から守られていることと外で暴風に教われることとの間に実質的な違いはあるだろうか。近頃、東京を巨大地震が襲うとまことしやかに喧伝されているようだが、我々はそれに対してどうしたらよいのだろうか。福島の原発事故から1年になろうとしているが、あいかわらず放射能は放出されている。どれほど気をつけたところで、その影響から逃れることはできない。そうしたなかで、我々はどうしたらよいのだろうか。生まれたからには必ず死ぬ。病気や事故で生命の危機に瀕したとき、それでも我々は延命の道を模索するのは何故だろう。何万年先か何億年先かわからないが地球は必ず最期を迎える。地球固有の事情なのか太陽の超新星爆発なのかわからないが、最期を迎えることは確実だ。滅びることが運命付けられている天体上で展開されている我々の生活に果たしてどのような意味があるのだろうか。