熊本熊的日常

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2012年02月20日 | Weblog
母子殺害、元少年の死刑確定へ=犯行時18歳、上告棄却―「責任あまりに重大」(時事通信) - goo ニュース

2009年の1月早々、「なぜ君は絶望と闘えたのか」というルポルタージュを読んだ。そのことは2009年1月3日付のブログ「絶対尺度」と同年1月13日付「号泣」に書いた。今読み直してみて、修正するようなことは今のところは無いと認識している。今日、あの事件の被告の死刑判決が確定したが、それに対する識者のコメントをいくつか読んだりラジオで聞いたりして気になったことがある。学者先生が何の為の少年法かということについて触れながら死刑判決を批判していることに違和感を覚えるのである。要するに更生の可能性というものが有るや無しやということをどのように判断するのかということにまで踏み込まず、判決だけを評論家風に批判している姿勢に対して違和感を覚えるのである。確かに「可能性」という言い方をすれば、どのような犯罪者にも更生の可能性はある。しかし、可能性があることと更生することは別だろう。実際に犯罪者を更生させたという実績があって、その経験に基づいて公に批評を語るのなら文句はないが、そうした具体論なしに評論家然として「問題だと思います」と言い放つ、そのお気楽な態度のほうがよほど問題ではないかと私は思ってしまう。

弁護団のコメントのほうは立場も立場なので仕方が無いところもあるが、興味を覚えたのは以下のコメントだ。
「被告は逮捕以来13年間、社会から遮断された中で被害者の無念さと遺族の憤りを受け止め反省しているのに、裁判所は目を向けず、更生可能性を否定した」
裁判を傍聴したわけではないので、弁護団がどのような論証をしたのか知らないのだが、「更生可能性を否定した」と判決を批判するからには、更生可能性を証明して見せたということだろう。どのように更生可能性を証明したのか是非教えて頂きたいものだ。また、弁護団は「被告は犯行時18歳だったが、幼児期からの虐待によって成長が阻害され、実質的には18歳未満だった」として、こうした少年に死刑を言い渡すのは憲法や少年法に違反すると訴えたそうだが、「幼児期からの虐待」で「成長が阻害」されたまま18歳になった人間が、どのようにその後成長するというのだろうか。判決を批判するからには、当然、成長についての具体的展望を示したはずだろう。それもうかがってみたいものだ。