しばらく前から詩に興味を感じている。俳句とか短歌といった類のものを少し勉強してみたいと思い、ちょっとした歌集などを開いてみたりしている。しかし、殊に短歌は馬鹿馬鹿しい内容のものが多いように感じられて、そう感じた瞬間に興味が萎えてしまうということを繰り返して半年ほどが過ぎた。また、短歌というものは本歌取りに見られるように先人の歌についての知識が要求される。限られた文字を並べるのだから偶然既存の歌と似たようなものが出来上がってしまうという近頃喧しい著作権の問題というのもあるだろうし、素朴に先人に学ぶという意図もあるのだろうが、いずれにしても基礎的教養として主だった歌集は頭にいれておかないといけないらしい。そういうことも私にとっては敷居を高くしている要因だ。どのようなことであれ、新しいことを知るのにはその道の人に教えを請うのが確実だ。とはいえ、身近に歌のわかりそうな奴などいないので、どうしようかと思案しつつ時が過ぎている。
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
時々このブログにも書いているが、私は果物が好きで、今の時分なら林檎、春は直ぐに思い浮かばないが、夏はなんといっても桃、秋は柿を毎日欠かすことがない。それで、この句のことだが、作者を知らない人でも、日本でまともな教育を受けた人ならこれを知らない人はあるまい。作者は正岡子規。歌壇俳壇の革命児と呼んで差し支えないだろう。今日は「正岡子規と美術」という展覧会を観に横須賀美術館へ出かけて来た。
江戸から明治へと時代が転換するなかで、さまざまな新しい知識が外国からもたらされたが、そのひとつに西洋画がある。写真というものができる前は西洋画に写実性というものが強く求められていた。写実というのは単に技術の問題ではなく、ものごとを考える基本的な姿勢にも通じる問題、らしい。子規が目指したのは人が生きる現実を限られた言葉に凝縮することだったようだ。現実を端的に表現するという点では言葉も絵画も同じことで、子規は絵画に対しても大きな関心を払っていた。
「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまふ。」
というようなことも言っていたらしい。
展示のほうは子規自身の手になる絵のほか、子規と同時代に活躍して子規に影響を与えた人々の作品が並ぶ。具体的には、フォンタネージ、小山正太郎、浅井忠、五姓田義松、中村不折、下村為山などだ。子規は評価していなかったそうだが、黒田清輝の作品も並んでいる。自然へのまなざしにおいて、子規と黒田との間に通じるものがあるのではとの本展主催者の考えによる取り合わせとのことだ。
それにしても、あるものをあるがまま、ということは果たして可能なのだろうか。そもそも「あるもの」とは何か。「あるもの」というものが果たしてあるのだろうか。私が言いたいのは、「ある」というのは自分にとって「ある」と認識されているのであって、決して誰にとってもおなじようにそこに「ある」わけではない、ということだ。写生が写真と異なるのは、まさにこの点においてかもしれない。勿論、同じ風景を撮影するにしても、微妙な構図の差で全く別世界のような写真ができあがることは、意識的に写真を写すという行為を経験すれば誰しもが体験的に了解できるであろう。それを描き写そうというのである。同じ場所、同じ時間、同じ視線の位置、同じ視力であったとしても、そこに十人十色の写生画が現出するであろうことは容易に想像がつくことだ。ある風景を言葉で表現する場合でも、絵画表現と同様に様々な文言が並ぶことになるだろう。「写生」は個人にとっての「写生」であって、万人等しく納得する「写生」というのは存在し得ないのである。
結局、人はわかり合える相手としか意志の疎通ができない。同じ絵画を前にして同じことを考えるわけではない。同じ俳句を読んで、詠んだ人と同じことを思うわけではない。その乖離を埋めたりやり過ごしたりする試みが生きることの或る側面でもあろう。確かに、子規が生きた時代は西洋から新しい科学が押し寄せて来た時代でもある。あるものをあるがまま、というのは観察と表現であり、つまり科学だ。子規が目指したのは俳句や短歌の科学化ということではないだろうか。絵画は今でこそ芸術や美術として認識されるが、もともとは科学技術の一領域だ。あるものとは何か、あるとはどのようかことか、というようなことを問うよりも、物事を観察してそこから何事か普遍的なものを見出すという態度はその時代の姿勢だったのだろう。そう思って見れば、子規の時代に子規のような写生写実への傾倒が見られるのは至極当然の趨勢であるように思われる。
それでは今という時代がどのような時代なのかと思わずにはいられない。現代の俳句や短歌、現代の表現とは、どのようなものなのだろうか。
ところで、京浜急行で横浜を過ぎると車窓の風景に目を奪われてしまう。起伏に富んだ地形なのだろうが、高台はまるで家屋を積み重ねたようで、もとの土地を感じさせないのである。よくもこんなところにまで宅地を造成したものだと感心し、またよくもそんなところに住むなどということを考えるものだとその勇気に感嘆する。私は小心なので少しでも落ち着けるようにと、馬鹿の一つ覚えのように「洪積台地」と騒いでいる。この風景を眺めていると、つくづく自分が小さいと思ってしまう。浦賀から乗ったタクシーの運転手によると横須賀はトンネルの数が日本で一番多い自治体なのだそうだ。「昔からこんなふうに高台の上まで開発されていたんですか?」と尋ねると、「いやぁ、昔は違ったんですけどね。だんだん上に上がって行っちゃって。でも、去年の地震のときは崖崩れが一件もなかったんですよ。」ということだった。三浦半島というのはずいぶんしっかりした土地らしい。
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
時々このブログにも書いているが、私は果物が好きで、今の時分なら林檎、春は直ぐに思い浮かばないが、夏はなんといっても桃、秋は柿を毎日欠かすことがない。それで、この句のことだが、作者を知らない人でも、日本でまともな教育を受けた人ならこれを知らない人はあるまい。作者は正岡子規。歌壇俳壇の革命児と呼んで差し支えないだろう。今日は「正岡子規と美術」という展覧会を観に横須賀美術館へ出かけて来た。
江戸から明治へと時代が転換するなかで、さまざまな新しい知識が外国からもたらされたが、そのひとつに西洋画がある。写真というものができる前は西洋画に写実性というものが強く求められていた。写実というのは単に技術の問題ではなく、ものごとを考える基本的な姿勢にも通じる問題、らしい。子規が目指したのは人が生きる現実を限られた言葉に凝縮することだったようだ。現実を端的に表現するという点では言葉も絵画も同じことで、子規は絵画に対しても大きな関心を払っていた。
「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまふ。」
というようなことも言っていたらしい。
展示のほうは子規自身の手になる絵のほか、子規と同時代に活躍して子規に影響を与えた人々の作品が並ぶ。具体的には、フォンタネージ、小山正太郎、浅井忠、五姓田義松、中村不折、下村為山などだ。子規は評価していなかったそうだが、黒田清輝の作品も並んでいる。自然へのまなざしにおいて、子規と黒田との間に通じるものがあるのではとの本展主催者の考えによる取り合わせとのことだ。
それにしても、あるものをあるがまま、ということは果たして可能なのだろうか。そもそも「あるもの」とは何か。「あるもの」というものが果たしてあるのだろうか。私が言いたいのは、「ある」というのは自分にとって「ある」と認識されているのであって、決して誰にとってもおなじようにそこに「ある」わけではない、ということだ。写生が写真と異なるのは、まさにこの点においてかもしれない。勿論、同じ風景を撮影するにしても、微妙な構図の差で全く別世界のような写真ができあがることは、意識的に写真を写すという行為を経験すれば誰しもが体験的に了解できるであろう。それを描き写そうというのである。同じ場所、同じ時間、同じ視線の位置、同じ視力であったとしても、そこに十人十色の写生画が現出するであろうことは容易に想像がつくことだ。ある風景を言葉で表現する場合でも、絵画表現と同様に様々な文言が並ぶことになるだろう。「写生」は個人にとっての「写生」であって、万人等しく納得する「写生」というのは存在し得ないのである。
結局、人はわかり合える相手としか意志の疎通ができない。同じ絵画を前にして同じことを考えるわけではない。同じ俳句を読んで、詠んだ人と同じことを思うわけではない。その乖離を埋めたりやり過ごしたりする試みが生きることの或る側面でもあろう。確かに、子規が生きた時代は西洋から新しい科学が押し寄せて来た時代でもある。あるものをあるがまま、というのは観察と表現であり、つまり科学だ。子規が目指したのは俳句や短歌の科学化ということではないだろうか。絵画は今でこそ芸術や美術として認識されるが、もともとは科学技術の一領域だ。あるものとは何か、あるとはどのようかことか、というようなことを問うよりも、物事を観察してそこから何事か普遍的なものを見出すという態度はその時代の姿勢だったのだろう。そう思って見れば、子規の時代に子規のような写生写実への傾倒が見られるのは至極当然の趨勢であるように思われる。
それでは今という時代がどのような時代なのかと思わずにはいられない。現代の俳句や短歌、現代の表現とは、どのようなものなのだろうか。
ところで、京浜急行で横浜を過ぎると車窓の風景に目を奪われてしまう。起伏に富んだ地形なのだろうが、高台はまるで家屋を積み重ねたようで、もとの土地を感じさせないのである。よくもこんなところにまで宅地を造成したものだと感心し、またよくもそんなところに住むなどということを考えるものだとその勇気に感嘆する。私は小心なので少しでも落ち着けるようにと、馬鹿の一つ覚えのように「洪積台地」と騒いでいる。この風景を眺めていると、つくづく自分が小さいと思ってしまう。浦賀から乗ったタクシーの運転手によると横須賀はトンネルの数が日本で一番多い自治体なのだそうだ。「昔からこんなふうに高台の上まで開発されていたんですか?」と尋ねると、「いやぁ、昔は違ったんですけどね。だんだん上に上がって行っちゃって。でも、去年の地震のときは崖崩れが一件もなかったんですよ。」ということだった。三浦半島というのはずいぶんしっかりした土地らしい。