小説というのは散文で構成された虚構の物語ということらしいが、それなら落語を文章に起こしたものは小説なのだろうか。以前に円朝の「牡丹灯籠」を岩波文庫で読んだときには、その構成の妙に感心したものだ。落語というのは口演するもので、客はただそれを聴いて話の内容を自分なりに思い描くだけだ。本を読むというのは言語情報を入力して処理するということではただ聴くのと同じことのようだが、文字を視覚で認識して、それを意識するとしないとにかかわらず頭の中で音声化するという言わば二重の入力経路を持つことになるわけで、聴くだけというのとはやはり違うことのように思う。小説と落語とは似て非なるものということになるだろう。
今日、円朝の「真景累ケ淵」を読了した。「牡丹灯籠」に比べると分厚で、その分、話も複雑になる。複雑というよりも因果応報ということを語りたいがために妙に登場人物が多くなるという恨みがある。しかも口演を前提とした話なので、取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。概して落語の登場人物というのは能天気な人たちが多いのだが、それでは怪談が成立しないのだから、悪人が多いのは仕方ない。しかし、読み進めていくうちにデフォルメされてはいるけれど人間の業というものはこういうものかもしれないと思うようになる。「悪人」と書いたが、人を善悪に二分できるものではない。世の中のことを吉凶二元に割り切ることのできるものでもない。しかし割り切らないとよくわからないということはよくわかる。それで、「真景累ケ淵」だが、読んでいて稚拙な話だと思っていたのだが、最後まで読み進めたときにそうした否定的な思いが逆転した。サゲに感心したのではない。そのさらに先のことだ。
(拠小相英太郎速記)
と書いてある。つまり、ここまで読んだ文庫本450数頁分の文章量は口演したものということだ。円朝という人は、それが商売とは言いながら並の人間ではないと思った。もちろん一気に噺をしたわけではないだろうが、口演録として読むなら、話がくどいのも、わざとらしいのも、すべて得心できる。
話は変わるが、先日手にした「銀座百点」という冊子に小池真理子、池内紀、北原亞以子の鼎談が掲載されていた。そのなかでこんなところがある。
(以下引用)
池内:最近は男女関係もいろいろな形が出てきましたから、書かれる小説の世界も、うんと広がったんじゃないですか。どういう男女でも結びつくことができるし、別れることもできるし。
小池:逆に言えば、今、恋愛小説というのは成立しにくいですね。もうまったくタブーもないですし、そこに文学的な意味をもたせてもそれを読み取ってくれる読者がどんどん少なくなっているので、正直、恋愛小説はきついです。
北原:小耳にはさんだんですけど、今の読者の方は終わりをきちんと書いてくれって言うんですって?
小池:そうなんです。なぜ失恋したのかとか、理由がはっきりしてないとダメなんです。あやふやな終わり方とか、不幸のにおいのする終わり方も絶対受け付けないですね。それに主人公の女性が読者の年齢より高いと、自己投影ができないのか、もう読まないとか。私なんかは不倫小説をよく書いているので、一部の読者には不潔だとすごく嫌われているらしいですよ。
池内:明治時代みたいだなあ。不倫がいけないんだったら、恋愛小説なんて成り立たないですね。
小池:そうなんです。今の子はコミュニケーションして恋愛を深めていくというのはもう面倒くさいし、「くるのこないの、こないんだったら次に行くから」って感じで、色気っていうものもない。でも不倫を書いた小説は不潔だという神経が、私には信じられなくて。不倫が肯定されて、夫が不倫して自分が脅かされるのがイヤなのね。
北原:そうか、自分が不倫するのはいいのね。自分は正しいんだ。
小池:そうなんです。…恋愛小説もそうなんですけど、全体に、自分にはない世界を想像して、行間を読んで楽しむということは少なくなってきましたね。
池内:読者にバトンを渡して、あとは好きなように想像してくださいっていうのが、いちばんの文化ですのにね。それがなくなったら小説は成り立たないのにね。
(以上引用 「銀座百点」No.687 2012年2月号 94-95頁)
あくまで個人的な印象でしかないのだが、小説にしても落語にしても他の芸事にしても、近頃面白くなくなったような気がするのは、読者や客の質が落ちている所為ではないか。例えば短歌や俳句にしても、それだけを読んだのでは意味は十分理解できず、その下敷きになっている詠み手と聞き手とが共有しているはずの本歌や歴史や文化の常識が失われているのは事実だろう。そうでなければ31文字や17文字程度で世界観を表現することなどできはしまい。行間を読むというのは、その場だけのことではなく、そこに至る知的経験の蓄積作業を指すことでもある。デジタルというのは人間の身の回りのことを機械装置に置き換える上での便宜なのだが、生活の電子化が進行することで、それを利用する側であるはずの人間のほうが便宜に合わせた発想しかできなくなり、結果として物事を二元論でしか捉えることのできない浅薄な思考に陥ってしまったような気がしてならない。
今の落語家や落語作家にどれほどの力量があるものなのか、門外漢の私にはわからないのだが、「真景累ケ淵」で描かれているデフォルメされた我執や良心、また一人の人間のなかにある我欲と良心との葛藤といったことが、人間の業のダイナミズムを表現していると思う。口演で聴けば、おそらくデフォルメやわざとらしさは薄まって聞こえるだろうから、きっと噺の躍動感に感心して聴くのだろう。しかし、ふと考えたのだが、二元論に囚われた発想しかできない人に、そのダイナミズムとか躍動感が感じられるだろうか。
他人を批判したり批評したりすることは容易いが、大物が少なくなったと嘆く前に己の矮小浅薄を反省しないといけないと痛感させられた。読み進むうちに変化するものではあったにせよ、
「取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。」
などと思いながら読んでいた自分を恥ずかしく思う。朝から雨で住処に籠っていた所為もあるかもしれないが、気の滅入る日だ。
今日、円朝の「真景累ケ淵」を読了した。「牡丹灯籠」に比べると分厚で、その分、話も複雑になる。複雑というよりも因果応報ということを語りたいがために妙に登場人物が多くなるという恨みがある。しかも口演を前提とした話なので、取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。概して落語の登場人物というのは能天気な人たちが多いのだが、それでは怪談が成立しないのだから、悪人が多いのは仕方ない。しかし、読み進めていくうちにデフォルメされてはいるけれど人間の業というものはこういうものかもしれないと思うようになる。「悪人」と書いたが、人を善悪に二分できるものではない。世の中のことを吉凶二元に割り切ることのできるものでもない。しかし割り切らないとよくわからないということはよくわかる。それで、「真景累ケ淵」だが、読んでいて稚拙な話だと思っていたのだが、最後まで読み進めたときにそうした否定的な思いが逆転した。サゲに感心したのではない。そのさらに先のことだ。
(拠小相英太郎速記)
と書いてある。つまり、ここまで読んだ文庫本450数頁分の文章量は口演したものということだ。円朝という人は、それが商売とは言いながら並の人間ではないと思った。もちろん一気に噺をしたわけではないだろうが、口演録として読むなら、話がくどいのも、わざとらしいのも、すべて得心できる。
話は変わるが、先日手にした「銀座百点」という冊子に小池真理子、池内紀、北原亞以子の鼎談が掲載されていた。そのなかでこんなところがある。
(以下引用)
池内:最近は男女関係もいろいろな形が出てきましたから、書かれる小説の世界も、うんと広がったんじゃないですか。どういう男女でも結びつくことができるし、別れることもできるし。
小池:逆に言えば、今、恋愛小説というのは成立しにくいですね。もうまったくタブーもないですし、そこに文学的な意味をもたせてもそれを読み取ってくれる読者がどんどん少なくなっているので、正直、恋愛小説はきついです。
北原:小耳にはさんだんですけど、今の読者の方は終わりをきちんと書いてくれって言うんですって?
小池:そうなんです。なぜ失恋したのかとか、理由がはっきりしてないとダメなんです。あやふやな終わり方とか、不幸のにおいのする終わり方も絶対受け付けないですね。それに主人公の女性が読者の年齢より高いと、自己投影ができないのか、もう読まないとか。私なんかは不倫小説をよく書いているので、一部の読者には不潔だとすごく嫌われているらしいですよ。
池内:明治時代みたいだなあ。不倫がいけないんだったら、恋愛小説なんて成り立たないですね。
小池:そうなんです。今の子はコミュニケーションして恋愛を深めていくというのはもう面倒くさいし、「くるのこないの、こないんだったら次に行くから」って感じで、色気っていうものもない。でも不倫を書いた小説は不潔だという神経が、私には信じられなくて。不倫が肯定されて、夫が不倫して自分が脅かされるのがイヤなのね。
北原:そうか、自分が不倫するのはいいのね。自分は正しいんだ。
小池:そうなんです。…恋愛小説もそうなんですけど、全体に、自分にはない世界を想像して、行間を読んで楽しむということは少なくなってきましたね。
池内:読者にバトンを渡して、あとは好きなように想像してくださいっていうのが、いちばんの文化ですのにね。それがなくなったら小説は成り立たないのにね。
(以上引用 「銀座百点」No.687 2012年2月号 94-95頁)
あくまで個人的な印象でしかないのだが、小説にしても落語にしても他の芸事にしても、近頃面白くなくなったような気がするのは、読者や客の質が落ちている所為ではないか。例えば短歌や俳句にしても、それだけを読んだのでは意味は十分理解できず、その下敷きになっている詠み手と聞き手とが共有しているはずの本歌や歴史や文化の常識が失われているのは事実だろう。そうでなければ31文字や17文字程度で世界観を表現することなどできはしまい。行間を読むというのは、その場だけのことではなく、そこに至る知的経験の蓄積作業を指すことでもある。デジタルというのは人間の身の回りのことを機械装置に置き換える上での便宜なのだが、生活の電子化が進行することで、それを利用する側であるはずの人間のほうが便宜に合わせた発想しかできなくなり、結果として物事を二元論でしか捉えることのできない浅薄な思考に陥ってしまったような気がしてならない。
今の落語家や落語作家にどれほどの力量があるものなのか、門外漢の私にはわからないのだが、「真景累ケ淵」で描かれているデフォルメされた我執や良心、また一人の人間のなかにある我欲と良心との葛藤といったことが、人間の業のダイナミズムを表現していると思う。口演で聴けば、おそらくデフォルメやわざとらしさは薄まって聞こえるだろうから、きっと噺の躍動感に感心して聴くのだろう。しかし、ふと考えたのだが、二元論に囚われた発想しかできない人に、そのダイナミズムとか躍動感が感じられるだろうか。
他人を批判したり批評したりすることは容易いが、大物が少なくなったと嘆く前に己の矮小浅薄を反省しないといけないと痛感させられた。読み進むうちに変化するものではあったにせよ、
「取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。」
などと思いながら読んでいた自分を恥ずかしく思う。朝から雨で住処に籠っていた所為もあるかもしれないが、気の滅入る日だ。