熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ギューちゃん

2012年02月26日 | Weblog
少し前にも書いたかもしれないが、近頃ふらりと入った飲食店が良かったというようなことが多くなったような気がする。先日、埼玉県立近代美術館を訪れたときに偶然「篠原有司男 講演会」というチラシを見つけた。日曜の午後で他に予定もなかったので、今日はそれを聴きに東京都現代美術館へやって来た。

まずは2階のCafé Haiで肉団子のフォーをいただく。腹ごしらえが済んだところで講演会の整理券を取りにいく。講演会は15時からだが13時半から整理券を配布するとチラシに書いてある。整理券を配るということはそれなりに人気のある人なのだろう。私はこの人のことを全く知らなかった。

現在、企画展のほうは靉嘔と田中敦子のそれぞれの特集が組まれており、今日は靉嘔自らが吹き抜けのフロアで作品制作の実演をしていた。常設展の中では特集展示として福島秀子を取り上げており、屋外ではブルームバーグ・バヴィリオン・プロジェクトの展示がある。私は美術にも疎いし感性も鈍い方だと自覚しているので、殊に現代美術を観て感動するというようなことはないのだが、作り手と同時代の空気を呼吸している所為か、眺めていてなんとなく楽しいと感じるものが少なくない。靉嘔の作品はあの虹柄のものしか知らなかったが、あのスタイルに至るまでの道程を今日の展示で初めて知った。そういう「知る」という具体的な行為がおそらく楽しいと感じる原動力であるように思う。

それで篠原有司男の講演会だが、身体は小柄だが人物は大柄だと思わせる愉快なものだった。話の内容は自分が何を考えて作品に向かい合っているかという至極真っ当で真面目なものなのだが、巧みな話術の効果もあって笑いが絶えなかった。

今日の講演で「読売アンデパンダン展」というものも初めて知ったが、無鑑査自由出品で公共の美術館を展示会場として提供するということが何年にも亘って行われていたということに驚いた。1949年から1963年まで毎年開催されたというから、日本の戦後復興と重なっている。物事が建設的な方向に進んでいるときというのは、社会が寛容になるのだろう。戦後復興の象徴としては東京タワー、東京オリンピック、万国博覧会といったものがあり、そこに未来に対する暗黙の希望や夢があったからこそ、秩序とは反対に向かうかのような運動も許容されていたのだろう。そうした文化的な解放感が転機を迎えるのが60年代後半ではなかったか。学生運動の過激化、公害問題の深刻化、ドルショックや石油危機に見られる経済成長の限界といった戦後秩序形成過程での矛盾が露呈するようになったことと、文化の方向の転換が重なっているように思われる。日本に関しては、その後貿易摩擦という形で経済成長にブレーキがかかり、着地を探るなかでバブルが発生と崩壊を経て取り返しのつかない状況に陥ってしまったということなのだろう。

何事にも過不足というものはつきものだ。ちょうど良い具合に最初から収まるようなことというのはありえないのではないか。そのはみ出したところから新しい価値が生まれるのではないかと思う。価値というのは、それまでにはなかったこと、という意味だろう。既存の流れやその延長線上には価値は生まれないのである。無から有を生む、それまで評価されていなかったものに注目する、というのは結局は考え方の問題だ。要するに、価値というのは自分が創り出すものなのである。自分の外側をいくら探しても見つかるはずはない。篠原有司男、通称ギューちゃんの話を聴いていて、そんなことを考えた。