先週木曜に続いて今日も山田常山についての講座を受講する。今日は出光美術館の特別講座だ。これは美術館の休館日に開催されるもので、講座の前後の時間を利用して空いている展示室内をじっくりとまわることができる。講演は展示に関する内容なので、講演で聴いたことを展示を眺めながら反芻することができる大変ありがたい講座だ。この講座の講師も先週丸の内カフェの講座と同じく出光美術館学芸員の柏木麻里さんだ。私が陶芸をやっていて焼き物に興味がある所為なのかもしれないのだが、先週の講演も今日の講演も話がたいへんわかりやすくて、ついつい引き込まれてしまった。柏木さんは詩人としても活動されているので、言葉の扱いが微妙なところで常人とは違うのかもしれない。それはともかくとして、この展覧会を観るまでは山田常山という人の存在そのものを知らなかったので、こうしていろいろな背景知識を得ると自然に作品を観る眼も変化する。それでも、講演の前に観たときの感想に大きな変化は現れなかった。1月29日付のこのブログに書いたように、やはり後半の自然釉の作品群よりも初期の朱泥の作品に魅力を感じる。全くの想像だが、「山田常山」という大看板を背負うに際し、一番多く挽いてきたのが朱泥作品だったのではないだろうか。それゆえに、朱泥の急須を作るのは「作る」という意識よりも、自然に挽けてしまうという境地にまで行っていたのではないだろうか。だからあのような自然にそこに生まれてきたかのような端正な佇まいが実現できているのではないかと思うのである。自然釉のほうは「自然」に拘泥するあまり意識が勝って自然から遠くなっているように感じられ、そこに本人の意図との距離が想像されて、私には痛々しく感じられるということなのだ。
出光の講座の後、午後1時20分頃まで展示を眺めてから、同じ建物の地下1階にある伊勢廣でやきとり重をいただく。ここの焼き鳥は私が社会人になったばかりの頃からいただいているが、いつ食べても旨いと思う。
腹が膨れたところで六本木へ移動する。まずは国立新美術館で開催中の野田裕示展を観る。特に感想というほどのものはないが、やはりポロックを観たときと似たようなことを感じる。その後、サントリー美術館へ移動して東洋陶磁展を観る。
サントリー美術館では大阪市立東洋陶磁美術館のコレクションのなかから中国と朝鮮半島の作品で構成された「東洋陶磁の美」という展覧会が開催中だ。この大阪の陶磁美術館も一度出かけてみたいと思っているのだが、限られた時間で民博ともうひとつというのは厳しい。民博を外せばよいのだが、なんとなく外せないのが今のところの気分なのである。さて、サントリー美術館は2つのフロアで構成されているのだが、今回は4階に中国陶磁、3階に朝鮮陶磁が展示され、順路に従えば中国を先に観てから朝鮮に移るようになっている。中国陶磁、殊に歴代の宮廷に伝えられた品々は人間技とは思えない完成度の高さが特徴だ。対する朝鮮陶磁は言葉では表現できない味わいが素晴らしい。勿論、愛でる側の好みの問題なのだが、どちらがどうということではなしに、どちらもそれぞれに惹かれてしまう。好きになるという理由を理路整然と語るうちは本当に好きとは言えない。言語表現を超えたところに惹かれることが「好き」の本当の意味ではないだろうか。しばらく前から民藝についてあれこれ見聞したり読んだりして、その方面に関心が向いている所為もあるのだろうが、朝鮮陶磁を眺めていると自然に頬が緩んでしまう。技巧的には今ひとつというところが無きにしも非ずというようなものも無いわけでは無いのだが、好きとか嫌いという感覚と技巧の巧拙との間にはあまり関係がないということが改めて確認できる。人の心、もっと言えば自分の気持ちを撫で摩るものとは何なのか、改めて自分自身というものを問うてみたくなる。
出光の講座の後、午後1時20分頃まで展示を眺めてから、同じ建物の地下1階にある伊勢廣でやきとり重をいただく。ここの焼き鳥は私が社会人になったばかりの頃からいただいているが、いつ食べても旨いと思う。
腹が膨れたところで六本木へ移動する。まずは国立新美術館で開催中の野田裕示展を観る。特に感想というほどのものはないが、やはりポロックを観たときと似たようなことを感じる。その後、サントリー美術館へ移動して東洋陶磁展を観る。
サントリー美術館では大阪市立東洋陶磁美術館のコレクションのなかから中国と朝鮮半島の作品で構成された「東洋陶磁の美」という展覧会が開催中だ。この大阪の陶磁美術館も一度出かけてみたいと思っているのだが、限られた時間で民博ともうひとつというのは厳しい。民博を外せばよいのだが、なんとなく外せないのが今のところの気分なのである。さて、サントリー美術館は2つのフロアで構成されているのだが、今回は4階に中国陶磁、3階に朝鮮陶磁が展示され、順路に従えば中国を先に観てから朝鮮に移るようになっている。中国陶磁、殊に歴代の宮廷に伝えられた品々は人間技とは思えない完成度の高さが特徴だ。対する朝鮮陶磁は言葉では表現できない味わいが素晴らしい。勿論、愛でる側の好みの問題なのだが、どちらがどうということではなしに、どちらもそれぞれに惹かれてしまう。好きになるという理由を理路整然と語るうちは本当に好きとは言えない。言語表現を超えたところに惹かれることが「好き」の本当の意味ではないだろうか。しばらく前から民藝についてあれこれ見聞したり読んだりして、その方面に関心が向いている所為もあるのだろうが、朝鮮陶磁を眺めていると自然に頬が緩んでしまう。技巧的には今ひとつというところが無きにしも非ずというようなものも無いわけでは無いのだが、好きとか嫌いという感覚と技巧の巧拙との間にはあまり関係がないということが改めて確認できる。人の心、もっと言えば自分の気持ちを撫で摩るものとは何なのか、改めて自分自身というものを問うてみたくなる。