昨夜、勤務先の人事担当者から退職日について尋ねるメールが来た。解雇通告を受けたのは昨年12月2日で即日職場への出入り禁止となったのだが、形式的な雇用関係は3月15日まで継続している。ただし、次の職場が決まるなどして、それ以前に退職を希望する場合、事務手続き上その旨を人事担当者に伝えないといけない。正式退職日が間近に迫り、人事のほうから確認のメールが来たのである。
そのメールの書き出しに
「熊本さん、その後いかがおすごしでしょうか?」
とあったので、返信の書き出しを
「○○様 ご連絡ありがとうございます。小生のほうは、おかげさまで毎日楽しく暮らしております。」
としたところ、反応が無かった。相手の質問に対し簡潔に答えを返したので、それ以上のやりとりは不要である。それとも「おかげさまで毎日楽しく」というのが嫌味に受け取られたのだろうか。まぁ、しかし事実そうなのだから仕方がない。
今日は午後の比較的早い時間に或る外資系企業の面接に出かけてきた。月曜に続いて2回目の面接で、電話によるインタビューも含めると今日が4回目だ。これと並行して進行している日系企業の話もなかなか結論に達しない。人を雇うというのは企業にとってはそれなりの投資でもあるので、軽々しく決めることではないというのは承知しているが、迅速な意思決定ができないというのもいかがなものかと思う。ふと、先日読んだ「おじさん図鑑」の記述を思い出した。
「自営業おじさんの特徴 マスターを含め、自営業おじさんはサラリーマンのおじさんと雰囲気が違う。上司がいない自営業は、何でも自分で決める癖がついていて、決断が早い。好き嫌いもはっきりしている。」(なかむらるみ著「おじさん図鑑」小学館 106頁)
洋の東西を問わず組織人は決断力が鈍いということなのかもしれない。
面接は30分ほどで終わってしまい、他にやることもなかったので銀座に出て伊東屋を覗く。いつも不思議に思うのだが、この店は銀座本店に限っていつ行ってもたいへんな賑わいだ。それでいて、レジに並んでいる人が手にしているものといえば、別にここでなくとも買うことのできるようなものばかりである。近頃は所謂「こだわり」の文房具が人気らしいが、日用品というのは作り手の押し付けがましい「こだわり」よりも、使い勝手を重視しないと買った後で後悔することになる例が多い。個人的には単機能品よりは汎用品を選好するので、この店に並んでいるようなものは品質に優れているのは確かなのだろうが、食指の動くようなものはあまりない。
伊東屋を出て京橋方面へ歩いていると炭の専門店があるのに気がついた。去年の震災以来、七輪を買おうか買うまいか迷っていて、迷う理由のひとつが燃料炭の入手可能性にある。私が子供の頃は、家の風呂を沸かすのに薪を使っていた時代があり、それが練炭になり、石油になり、ガスになった。その間10年ほどのことである。薪をどのように調達していたのか知らないが、練炭は近所の燃料店で買っていた。当時使用していた行火は豆炭が熱源だったと記憶している。炭を燃料に使う道具が当たり前にあり、炭を商う店も当然あちこちにあった。今はどうだろう。少なくとも巣鴨界隈では思い浮かばない。実家の周辺では、蕨西口商店街にある米店のなかに燃料炭を扱っているところが少なくとも一軒あるのは確認している。昨日も警察から駅へ向かう途中でその店の前を通った。しかし、流れとしては炭を扱う商店は少なくなることはあっても増えることはあるまい。正式な茶席では炭を使うし、焼き鳥屋などで炭焼きを売りにしている店も少なくないので、炭が無くなることはないだろうが、今後入手が大変になる危険性は拭いきれない。それで、その銀座の店だが、いかにも銀座の店らしい小綺麗な様子だ。紀州備長炭の専門店で、もう12年もここで営業しているのだそうだ。
京橋から地下鉄で三越前へ行き、三井記念美術館で茶道具展を観てから巣鴨に戻る。自然に茶碗に目が向かう。個別具体的に注文を受けて作られたようなものは、そう思って見る所為か、どことなくぎこちない感じがする。普段使いのつもりで挽いたようなもののほうが形が伸びやかで気持ちがよく見える。卯花墻のように何かオーラのようなものを放っているものは別にして、あまり茶道具を意識せずに作られたと思しきもののほうに私は惹かれるものが多い。
帰宅後、昨日読了した山田風太郎の「あと千回の晩飯」の付箋を貼った箇所を読み直す。以下はそのなかから。
「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやってくる」(46頁)
江戸の入谷に窯場をひらいた老乾山は晩年仕事もせず、病んでも薬も飲まず、世話する人もなくひとり老いさらばえて影のように生きていた。
ある夏の日、長屋の戸がひらかないので、近所の人がのぞいてみると、辞世を一枚残して乾山がひとり死んでいた。
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
(124頁)
平安朝のころは牛車というものが都大路をねり歩いていたのに、その後西洋のように馬車が出現しなかったのはなぜだろう? とは、私のかねてからの疑問であったが、『日本史再発見』はその謎をといてくれた。
それは、日本に山坂が多いからだとか、馬車が走れるほどに道が整備されていなかったとか、日本馬が小さかったから、などの理由のほかに、中国で馬車が流布しなかったからだという。
中国で馬車が流布しなかったわけはわからないが、とにかく日本は文化的装置や道具など、どこか外国の手本がなければ自分で発明することができない国民だから、あるいはこれが最大の理由であったかもしれない。明治になって西洋には馬車があると知って、たちまちそのまねをしはじめたのだ。(149-150頁)
それでも人間の脳というものは因果なもので、十分間も無念無想でいるわけにはゆかない。さまざまな感想や疑問や新発見や一人合点が泡のように浮かんで支離滅裂にながれてゆく。
その例として、ここ数日のそんな断片をいくつかならべてみる。
“いつか読んだ『静かに流れよテムズ川』という本で、著者(女性)が、バスにあおむけに横たわった自分の身体のぶさまさを歎いていた。イギリス暮しの長い著者でさえ西洋風呂には違和感を禁じ得ないようだ。
まして私などまったく同感の至りだが、つらつら思うにわれわれは、バスを日本流の風呂と同じように扱おうとするのが―――たとえば一定時間湯ぶねに身を沈めることなど―――まちがいじゃないのか。日本人にとって風呂は保養の場である。だから銭湯に富士山の絵など描く。
これに対して西洋人は、バスはただ身体を洗えばよい場所で、そのためには石鹸をつけてシャワーをあびれば用はつとまり、バスはそのシャワーの受け皿にしているだけじゃないのか。西洋人にとって、風呂はただ垢の処理場である。だから浴槽といっしょに便器をならべる。”(154-155頁)
それは個人的な話として、それ以外で人生の大意外事は例の大敗戦であった。戦争の様子をみていて、勝てるとは思わなかったが、まさか無条件降伏の運命に立ち至るとも予想しなかった。
それまでの軍国日本の洗脳ぶりを思い出すと、それも無理はない。特に満州事変以後の日本人を思うと、いまの北朝鮮が笑えない。
去年、旧制中学の同窓会が東京であった。あいにく私は入院中で出席できなかったが、あとで報告を読むと、一同打ちそろって靖国神社に参詣したらしい。戦後五十年たつというのに、なお靖国神社に集う老人たちの心根のいたましさよ。
ついでにいうと、戦後五十年たっていよいよ太平洋戦争の評判が悪くなるのも、私の大意外事の一つである。敗戦も五十年もたてば太平洋戦争を再評価する声もあがってよさそうに思うが、いまだに大臣連中は靖国神社に参るのに尻ごみしている。
しかし、その戦争に私自身は参加しなかった。片腕くらいなくても召集した敗戦前年、召集を受けたとき、私は肋膜炎で病床にあったからだ。
吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。右の例に見る通りだ。(221-222頁)
そのメールの書き出しに
「熊本さん、その後いかがおすごしでしょうか?」
とあったので、返信の書き出しを
「○○様 ご連絡ありがとうございます。小生のほうは、おかげさまで毎日楽しく暮らしております。」
としたところ、反応が無かった。相手の質問に対し簡潔に答えを返したので、それ以上のやりとりは不要である。それとも「おかげさまで毎日楽しく」というのが嫌味に受け取られたのだろうか。まぁ、しかし事実そうなのだから仕方がない。
今日は午後の比較的早い時間に或る外資系企業の面接に出かけてきた。月曜に続いて2回目の面接で、電話によるインタビューも含めると今日が4回目だ。これと並行して進行している日系企業の話もなかなか結論に達しない。人を雇うというのは企業にとってはそれなりの投資でもあるので、軽々しく決めることではないというのは承知しているが、迅速な意思決定ができないというのもいかがなものかと思う。ふと、先日読んだ「おじさん図鑑」の記述を思い出した。
「自営業おじさんの特徴 マスターを含め、自営業おじさんはサラリーマンのおじさんと雰囲気が違う。上司がいない自営業は、何でも自分で決める癖がついていて、決断が早い。好き嫌いもはっきりしている。」(なかむらるみ著「おじさん図鑑」小学館 106頁)
洋の東西を問わず組織人は決断力が鈍いということなのかもしれない。
面接は30分ほどで終わってしまい、他にやることもなかったので銀座に出て伊東屋を覗く。いつも不思議に思うのだが、この店は銀座本店に限っていつ行ってもたいへんな賑わいだ。それでいて、レジに並んでいる人が手にしているものといえば、別にここでなくとも買うことのできるようなものばかりである。近頃は所謂「こだわり」の文房具が人気らしいが、日用品というのは作り手の押し付けがましい「こだわり」よりも、使い勝手を重視しないと買った後で後悔することになる例が多い。個人的には単機能品よりは汎用品を選好するので、この店に並んでいるようなものは品質に優れているのは確かなのだろうが、食指の動くようなものはあまりない。
伊東屋を出て京橋方面へ歩いていると炭の専門店があるのに気がついた。去年の震災以来、七輪を買おうか買うまいか迷っていて、迷う理由のひとつが燃料炭の入手可能性にある。私が子供の頃は、家の風呂を沸かすのに薪を使っていた時代があり、それが練炭になり、石油になり、ガスになった。その間10年ほどのことである。薪をどのように調達していたのか知らないが、練炭は近所の燃料店で買っていた。当時使用していた行火は豆炭が熱源だったと記憶している。炭を燃料に使う道具が当たり前にあり、炭を商う店も当然あちこちにあった。今はどうだろう。少なくとも巣鴨界隈では思い浮かばない。実家の周辺では、蕨西口商店街にある米店のなかに燃料炭を扱っているところが少なくとも一軒あるのは確認している。昨日も警察から駅へ向かう途中でその店の前を通った。しかし、流れとしては炭を扱う商店は少なくなることはあっても増えることはあるまい。正式な茶席では炭を使うし、焼き鳥屋などで炭焼きを売りにしている店も少なくないので、炭が無くなることはないだろうが、今後入手が大変になる危険性は拭いきれない。それで、その銀座の店だが、いかにも銀座の店らしい小綺麗な様子だ。紀州備長炭の専門店で、もう12年もここで営業しているのだそうだ。
京橋から地下鉄で三越前へ行き、三井記念美術館で茶道具展を観てから巣鴨に戻る。自然に茶碗に目が向かう。個別具体的に注文を受けて作られたようなものは、そう思って見る所為か、どことなくぎこちない感じがする。普段使いのつもりで挽いたようなもののほうが形が伸びやかで気持ちがよく見える。卯花墻のように何かオーラのようなものを放っているものは別にして、あまり茶道具を意識せずに作られたと思しきもののほうに私は惹かれるものが多い。
帰宅後、昨日読了した山田風太郎の「あと千回の晩飯」の付箋を貼った箇所を読み直す。以下はそのなかから。
「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやってくる」(46頁)
江戸の入谷に窯場をひらいた老乾山は晩年仕事もせず、病んでも薬も飲まず、世話する人もなくひとり老いさらばえて影のように生きていた。
ある夏の日、長屋の戸がひらかないので、近所の人がのぞいてみると、辞世を一枚残して乾山がひとり死んでいた。
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
(124頁)
平安朝のころは牛車というものが都大路をねり歩いていたのに、その後西洋のように馬車が出現しなかったのはなぜだろう? とは、私のかねてからの疑問であったが、『日本史再発見』はその謎をといてくれた。
それは、日本に山坂が多いからだとか、馬車が走れるほどに道が整備されていなかったとか、日本馬が小さかったから、などの理由のほかに、中国で馬車が流布しなかったからだという。
中国で馬車が流布しなかったわけはわからないが、とにかく日本は文化的装置や道具など、どこか外国の手本がなければ自分で発明することができない国民だから、あるいはこれが最大の理由であったかもしれない。明治になって西洋には馬車があると知って、たちまちそのまねをしはじめたのだ。(149-150頁)
それでも人間の脳というものは因果なもので、十分間も無念無想でいるわけにはゆかない。さまざまな感想や疑問や新発見や一人合点が泡のように浮かんで支離滅裂にながれてゆく。
その例として、ここ数日のそんな断片をいくつかならべてみる。
“いつか読んだ『静かに流れよテムズ川』という本で、著者(女性)が、バスにあおむけに横たわった自分の身体のぶさまさを歎いていた。イギリス暮しの長い著者でさえ西洋風呂には違和感を禁じ得ないようだ。
まして私などまったく同感の至りだが、つらつら思うにわれわれは、バスを日本流の風呂と同じように扱おうとするのが―――たとえば一定時間湯ぶねに身を沈めることなど―――まちがいじゃないのか。日本人にとって風呂は保養の場である。だから銭湯に富士山の絵など描く。
これに対して西洋人は、バスはただ身体を洗えばよい場所で、そのためには石鹸をつけてシャワーをあびれば用はつとまり、バスはそのシャワーの受け皿にしているだけじゃないのか。西洋人にとって、風呂はただ垢の処理場である。だから浴槽といっしょに便器をならべる。”(154-155頁)
それは個人的な話として、それ以外で人生の大意外事は例の大敗戦であった。戦争の様子をみていて、勝てるとは思わなかったが、まさか無条件降伏の運命に立ち至るとも予想しなかった。
それまでの軍国日本の洗脳ぶりを思い出すと、それも無理はない。特に満州事変以後の日本人を思うと、いまの北朝鮮が笑えない。
去年、旧制中学の同窓会が東京であった。あいにく私は入院中で出席できなかったが、あとで報告を読むと、一同打ちそろって靖国神社に参詣したらしい。戦後五十年たつというのに、なお靖国神社に集う老人たちの心根のいたましさよ。
ついでにいうと、戦後五十年たっていよいよ太平洋戦争の評判が悪くなるのも、私の大意外事の一つである。敗戦も五十年もたてば太平洋戦争を再評価する声もあがってよさそうに思うが、いまだに大臣連中は靖国神社に参るのに尻ごみしている。
しかし、その戦争に私自身は参加しなかった。片腕くらいなくても召集した敗戦前年、召集を受けたとき、私は肋膜炎で病床にあったからだ。
吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。右の例に見る通りだ。(221-222頁)