たまにこのブログの読者から「よくあちこち出かけてますねぇ」と呆れられているかのような声をかけられたりする。「だって、ヒマだから」と答えているのだが、昨日からはヒマであることに加えて「安静にしていてはいけない」という新たな事情が加わった。毎日が休日なのだが、週末は就職活動や職業探訪活動もないという意味で正真正銘の休日だ。そんなわけで午前9時起床と、いつもよりゆっくりとした朝を迎える。しかし、起床後は脚の包帯を解いて洗濯したり、ついでにフツーの洗濯もしたり、トイレ掃除に室内のクリーナーがけと一連の家事をこなす。芋を蒸かし、コーヒーを淹れて遅めの朝食のような早めの昼食のような食事をして後片付けも済ませてから国立近代美術館を目指して出かける。
先日、丸の内カフェで和服についての講演を聴いたとき、資料のなかに織物の人間国宝である北村武資の展覧会のチラシが入っていて、それを観に行こうと思ったのである。巣鴨から都営三田線で神保町に出て、都営新宿線に乗り換えて九段下で降りる。さすがにサツマイモ1本だけでは早くも空腹感に襲われ、地上に出てすぐのところにあるスパゲティの店で「本日の…」をいただく。トマトとチーズのスパゲティで、期待以上の味だった。建物の2階にある店で、地上階の階段入口あたりにセンサーがあるらしく、階段を上って店の戸を開くと店員が待ち構えているという仕組みになっている。その店員がお人形さんのようなかわいらしいお嬢さんで、それだけで料理はなんでもかまわないという気になる。それでもソースは旨く、麺の茹で加減もちょうどよく、気分が良くなったところで、今日の活動が始まるという理想的な日になった。
北村武資展は工芸館で開催中だ。北の丸公園を抜けて行く。織物や布のことはよく知らないのだが、意匠全体としての静と、その意匠を織りなす糸の躍動との対比が面白いと思う。意匠そのものはいくつかのパターンの組み合わせだ。しかしその意匠を仔細に眺めれば、意匠を形作っている糸の動きは必ずしも一様ではなく舞っているかのような躍動と繊細な縦横の組み合わせとがある。そのように糸を微細繊細に舞い踊らせる技があって、織物が生きているかのような表情を見せるのだろう。問題は並んでいるこれらの織物が衣服であるということだ。着る人がこの服に負けないだけの内容のある人物でなければ、ただの野暮天になってしまう。よく人の生活の基本を衣食住と言うが、それは生きていくために必要な要素という意味もあるだろうが、その人となりを表現する基本でもある。誰もが持つものだからこそ、そこに何を選択するかということはよくよく考えないといけないこととなる。名人上手が拵えたものというのは、技が優れているとか他には滅多に無いというようなことで誰もが手にできるわけではない。難しいのは手にできる人とそのものとが調和することだ。それはその人の見た目とか財力以外のことに拠るような気がする。
美術館のほうではジャクソン・ポロック展が開催されている。前衛芸術の価値は誰よりも先んじるということにある。だから「前衛」という。ポロックのような作品であれ、他の抽象作家であれ、おそらくその人でなければ作り得なかったというものは少ないのではなかろうか。同時代の同社会を生きていれば、そこから生まれる発想は必ず誰かしかと共有されるものだ。共有されるからこそ評価されるのである。しかし、「芸術」としての価値を得るには最先端を走り続けなければならない。最先端という稀少性こそが価値なのである。何が先っぽで何が尻尾であるかということはさておいて、社会と共有するものを持ちながら、それまで誰も試みたことの無いことを表現するというのは前衛の大前提だろう。真に独創的でありながら社会の認知を受けるというのは矛盾に満ちていて不可能に思える。しかし、現実に新しい「芸術家」が次々と誕生している。
尤も、歴史に残る人々に比べると近頃の芸術家はスケールが小さく感じられないだろうか。単に同時代の眼で見るから歴史というスケールでの大小がわからないということはあるだろう。それはともかく、現在に比べて情報の伝達がはるかにゆっくりで、人々の生活のありようが現代よりも人間としての身の丈に近かった頃の芸術は人間としての普遍性を追求する余地が残されていたと言えないだろうか。科学技術が発達し、人間の五感を機械に置き換えて再現することが容易になると、芸術には科学技術が実現するものを超えた何かを表現することが要求されるようになる。風景を描くのであれば写真を超えたもの、立体を表現するのであれば図面から起こすことのできるものを超えていなければならない。大勢としては、具象は機械的なものに支配され、芸術としての価値を追求しようとすれば抽象に向かわざるを得ない状況になったということだろう。ところが抽象となると万人にとってわかりやすいというものではなくなる。その時代を牽引する権威に認められ、認められたことがブランドとなって広く大衆から支持を得るという手順を踏むことになる。権威というのは必ずしも社会の政治経済上の上位階層とは限らない。大衆にとってブランドとなるのであれば大衆との距離が遠すぎる階層の支配層よりも大衆内部の英雄的存在のほうがふさわしいこともあるだろう。いずれにしても大衆はその性質上、常に追随する対象を求めるものだ。単に追随するだけで理解しているわけではないので、容易に追随する対象を乗り換えてしまうのである。昨日の権威が今日は霧消していたり、酷い場合は憎悪の対象になっていたりすることはよくあることだ。
となると、芸術家たるためには、闇雲に新しいことを求めるのではなく、権威と結びつきやすく社会と共有できそうな最先端を常に開拓し続けなければならないということになる。かつては権威の寿命が長かった。ローマ帝国は紀元前3世紀に興り東西に分裂するのが4世紀末、末裔の東ローマ帝国が実体を失うのは11世紀を過ぎてからだ。ローマ帝国後、欧州では王朝はいくらも交代したが基本的には貴族社会であり階級社会が続いている。ローマ時代の「市民」は現代の「市民」とは異質のものであるし、現代の「市民」の原型のようなものが勃興したのは大航海時代を経て貨幣経済が世界に広まるようになった17世紀頃からだろう。「広まる」というのは異なる貨幣システム間の交換がなんとなく安定してくる、つまり相場というものが形成されるようになったということだ。そこでようやく王家とか王朝というものは別に、貨幣というデジタル表示でわかりやすい権威指数のようなものを以て資本家という新たな実力者が勃興する。新興権威たる資本家は権威の裏書きをするべく既存権威の記号である貴族という地位を金で買うようになるので、表向きは依然として王家王朝が支配する社会であるかのように見えるが、資本による裏付けのない王家王朝は消滅するよう運命付けられてしまったといえるだろう。貨幣あるいは市場が世の中を動かす基本であることは確実なものとなったが、どういうわけかそれを露骨に表現するということは受け入れられることが少ない。結局あれこれ大義名分を翳して「正当性」であるとか「正義」といった絵空事を語って物事の落ち着きどころを求めるのである。絵空事で物事が丸く収まるなら誰も苦労はしないのだが、それではどうにもならないとわかりながら右往左往しているのが現代だろう。その象徴的なことが20世紀の2つの世界大戦とそれに続く覇権国家間の対立ということではないのか。どうやら覇権を握るというのはいけないという認識が世の中にあるらしく、「覇権主義」ということばは相手を非難するときの常套文句のようになっている。それに絡むのだろうが、20世紀前半の世界大戦前後から、民族自決などと言って国民国家が当然であるかのような幻想が流布しているかのようだ。それでは当然の如く市場社会のなかで小規模国家の経済運営が立ち行かなくなり、地域連合というような方便を試してみるものの、それも崩壊の危機に瀕しているのが現代という時代だ。国という社会の基本が満足に軸足を定めることができないなかにあって、芸術というあやふやなものがそもそも成り立つわけはないのである。必然的に「芸術」の寿命、殊に新興のものは短命にならざるを得ないということになる。
それでジャクソン・ポロックだが、1950年代、彼が30代の終わり頃以降、新しい作品を生み出すことができなくなってしまったというのである。毎日アトリエに出かけてみるものの、なにも描くことができずにその日を終えてしまうということが続いたのだそうだ。もともと精神的に不安定でもあり、アルコール依存でもあり、44歳のある日、酔って車を運転していて事故を起こして即死してしまった。個人の生涯としては悲劇的かもしれないが、我々は誰しも似たような状況に置かれているのではないだろうか。人として生まれれば誰しも自我というものを持ち、欲というものを持つ。人が社会的存在だと言われるが、それは自分以外の人々から認知されることを欲しているということだ。そこには自分の自分に対するイメージと自分以外の人の自分に対するイメージとの相克がついてまわる。多くの人は適当に自己を追求し、適当に諦めて比較的穏やかにその相克を自分のなかに納めて生きる。ただ、人によってはそういう芸当ができない場合もある。正直に自分を追い求めるということは幸せなことかもしれないし不幸なことかもしれないが、そういう常人離れしたところに「芸術」が生まれるのも尤もなことだろう。一旦は断酒に成功したポロックが自身の記録映画の撮影を終えた日に再び酒に手を出すようになったということが何を語るのか。「芸術家」として生きているはずの自分が映像というアーカイブの世界に入ってしまったと感じ、生きているという実感を求めて再び酒に溺れるようになったということではないだろうか。私はジャクソン・ポロックの作品を見ても、それに感動することもないし、それを素晴らしいとも思わない。ただ痛々しくて泣けてくる。
夕食は昨日に引き続いて、タクシーの車窓から見えていた気になる店を訪れた。「肉屋の正直な食堂」という長い名前の店だ。店の作りは牛丼チェーンのようだが、牛丼チェーンと違うのは各席に電磁調理器が備え付けられていて、調理は客が自ら行うようになっていることだ。大通りに面し、駅からも近いという立地で、チェーン店ではないにもかかわらず手頃な価格を実現している。面白いフォーマットだと思う。帰りにもうひとつ気になっていたところを訪れる。鯛焼き屋で、たまに行列ができているのを見かけていた。並んで食べるほどの鯛焼きがあるのかと思っていたが、そういうものではないことがわかった。
先日、丸の内カフェで和服についての講演を聴いたとき、資料のなかに織物の人間国宝である北村武資の展覧会のチラシが入っていて、それを観に行こうと思ったのである。巣鴨から都営三田線で神保町に出て、都営新宿線に乗り換えて九段下で降りる。さすがにサツマイモ1本だけでは早くも空腹感に襲われ、地上に出てすぐのところにあるスパゲティの店で「本日の…」をいただく。トマトとチーズのスパゲティで、期待以上の味だった。建物の2階にある店で、地上階の階段入口あたりにセンサーがあるらしく、階段を上って店の戸を開くと店員が待ち構えているという仕組みになっている。その店員がお人形さんのようなかわいらしいお嬢さんで、それだけで料理はなんでもかまわないという気になる。それでもソースは旨く、麺の茹で加減もちょうどよく、気分が良くなったところで、今日の活動が始まるという理想的な日になった。
北村武資展は工芸館で開催中だ。北の丸公園を抜けて行く。織物や布のことはよく知らないのだが、意匠全体としての静と、その意匠を織りなす糸の躍動との対比が面白いと思う。意匠そのものはいくつかのパターンの組み合わせだ。しかしその意匠を仔細に眺めれば、意匠を形作っている糸の動きは必ずしも一様ではなく舞っているかのような躍動と繊細な縦横の組み合わせとがある。そのように糸を微細繊細に舞い踊らせる技があって、織物が生きているかのような表情を見せるのだろう。問題は並んでいるこれらの織物が衣服であるということだ。着る人がこの服に負けないだけの内容のある人物でなければ、ただの野暮天になってしまう。よく人の生活の基本を衣食住と言うが、それは生きていくために必要な要素という意味もあるだろうが、その人となりを表現する基本でもある。誰もが持つものだからこそ、そこに何を選択するかということはよくよく考えないといけないこととなる。名人上手が拵えたものというのは、技が優れているとか他には滅多に無いというようなことで誰もが手にできるわけではない。難しいのは手にできる人とそのものとが調和することだ。それはその人の見た目とか財力以外のことに拠るような気がする。
美術館のほうではジャクソン・ポロック展が開催されている。前衛芸術の価値は誰よりも先んじるということにある。だから「前衛」という。ポロックのような作品であれ、他の抽象作家であれ、おそらくその人でなければ作り得なかったというものは少ないのではなかろうか。同時代の同社会を生きていれば、そこから生まれる発想は必ず誰かしかと共有されるものだ。共有されるからこそ評価されるのである。しかし、「芸術」としての価値を得るには最先端を走り続けなければならない。最先端という稀少性こそが価値なのである。何が先っぽで何が尻尾であるかということはさておいて、社会と共有するものを持ちながら、それまで誰も試みたことの無いことを表現するというのは前衛の大前提だろう。真に独創的でありながら社会の認知を受けるというのは矛盾に満ちていて不可能に思える。しかし、現実に新しい「芸術家」が次々と誕生している。
尤も、歴史に残る人々に比べると近頃の芸術家はスケールが小さく感じられないだろうか。単に同時代の眼で見るから歴史というスケールでの大小がわからないということはあるだろう。それはともかく、現在に比べて情報の伝達がはるかにゆっくりで、人々の生活のありようが現代よりも人間としての身の丈に近かった頃の芸術は人間としての普遍性を追求する余地が残されていたと言えないだろうか。科学技術が発達し、人間の五感を機械に置き換えて再現することが容易になると、芸術には科学技術が実現するものを超えた何かを表現することが要求されるようになる。風景を描くのであれば写真を超えたもの、立体を表現するのであれば図面から起こすことのできるものを超えていなければならない。大勢としては、具象は機械的なものに支配され、芸術としての価値を追求しようとすれば抽象に向かわざるを得ない状況になったということだろう。ところが抽象となると万人にとってわかりやすいというものではなくなる。その時代を牽引する権威に認められ、認められたことがブランドとなって広く大衆から支持を得るという手順を踏むことになる。権威というのは必ずしも社会の政治経済上の上位階層とは限らない。大衆にとってブランドとなるのであれば大衆との距離が遠すぎる階層の支配層よりも大衆内部の英雄的存在のほうがふさわしいこともあるだろう。いずれにしても大衆はその性質上、常に追随する対象を求めるものだ。単に追随するだけで理解しているわけではないので、容易に追随する対象を乗り換えてしまうのである。昨日の権威が今日は霧消していたり、酷い場合は憎悪の対象になっていたりすることはよくあることだ。
となると、芸術家たるためには、闇雲に新しいことを求めるのではなく、権威と結びつきやすく社会と共有できそうな最先端を常に開拓し続けなければならないということになる。かつては権威の寿命が長かった。ローマ帝国は紀元前3世紀に興り東西に分裂するのが4世紀末、末裔の東ローマ帝国が実体を失うのは11世紀を過ぎてからだ。ローマ帝国後、欧州では王朝はいくらも交代したが基本的には貴族社会であり階級社会が続いている。ローマ時代の「市民」は現代の「市民」とは異質のものであるし、現代の「市民」の原型のようなものが勃興したのは大航海時代を経て貨幣経済が世界に広まるようになった17世紀頃からだろう。「広まる」というのは異なる貨幣システム間の交換がなんとなく安定してくる、つまり相場というものが形成されるようになったということだ。そこでようやく王家とか王朝というものは別に、貨幣というデジタル表示でわかりやすい権威指数のようなものを以て資本家という新たな実力者が勃興する。新興権威たる資本家は権威の裏書きをするべく既存権威の記号である貴族という地位を金で買うようになるので、表向きは依然として王家王朝が支配する社会であるかのように見えるが、資本による裏付けのない王家王朝は消滅するよう運命付けられてしまったといえるだろう。貨幣あるいは市場が世の中を動かす基本であることは確実なものとなったが、どういうわけかそれを露骨に表現するということは受け入れられることが少ない。結局あれこれ大義名分を翳して「正当性」であるとか「正義」といった絵空事を語って物事の落ち着きどころを求めるのである。絵空事で物事が丸く収まるなら誰も苦労はしないのだが、それではどうにもならないとわかりながら右往左往しているのが現代だろう。その象徴的なことが20世紀の2つの世界大戦とそれに続く覇権国家間の対立ということではないのか。どうやら覇権を握るというのはいけないという認識が世の中にあるらしく、「覇権主義」ということばは相手を非難するときの常套文句のようになっている。それに絡むのだろうが、20世紀前半の世界大戦前後から、民族自決などと言って国民国家が当然であるかのような幻想が流布しているかのようだ。それでは当然の如く市場社会のなかで小規模国家の経済運営が立ち行かなくなり、地域連合というような方便を試してみるものの、それも崩壊の危機に瀕しているのが現代という時代だ。国という社会の基本が満足に軸足を定めることができないなかにあって、芸術というあやふやなものがそもそも成り立つわけはないのである。必然的に「芸術」の寿命、殊に新興のものは短命にならざるを得ないということになる。
それでジャクソン・ポロックだが、1950年代、彼が30代の終わり頃以降、新しい作品を生み出すことができなくなってしまったというのである。毎日アトリエに出かけてみるものの、なにも描くことができずにその日を終えてしまうということが続いたのだそうだ。もともと精神的に不安定でもあり、アルコール依存でもあり、44歳のある日、酔って車を運転していて事故を起こして即死してしまった。個人の生涯としては悲劇的かもしれないが、我々は誰しも似たような状況に置かれているのではないだろうか。人として生まれれば誰しも自我というものを持ち、欲というものを持つ。人が社会的存在だと言われるが、それは自分以外の人々から認知されることを欲しているということだ。そこには自分の自分に対するイメージと自分以外の人の自分に対するイメージとの相克がついてまわる。多くの人は適当に自己を追求し、適当に諦めて比較的穏やかにその相克を自分のなかに納めて生きる。ただ、人によってはそういう芸当ができない場合もある。正直に自分を追い求めるということは幸せなことかもしれないし不幸なことかもしれないが、そういう常人離れしたところに「芸術」が生まれるのも尤もなことだろう。一旦は断酒に成功したポロックが自身の記録映画の撮影を終えた日に再び酒に手を出すようになったということが何を語るのか。「芸術家」として生きているはずの自分が映像というアーカイブの世界に入ってしまったと感じ、生きているという実感を求めて再び酒に溺れるようになったということではないだろうか。私はジャクソン・ポロックの作品を見ても、それに感動することもないし、それを素晴らしいとも思わない。ただ痛々しくて泣けてくる。
夕食は昨日に引き続いて、タクシーの車窓から見えていた気になる店を訪れた。「肉屋の正直な食堂」という長い名前の店だ。店の作りは牛丼チェーンのようだが、牛丼チェーンと違うのは各席に電磁調理器が備え付けられていて、調理は客が自ら行うようになっていることだ。大通りに面し、駅からも近いという立地で、チェーン店ではないにもかかわらず手頃な価格を実現している。面白いフォーマットだと思う。帰りにもうひとつ気になっていたところを訪れる。鯛焼き屋で、たまに行列ができているのを見かけていた。並んで食べるほどの鯛焼きがあるのかと思っていたが、そういうものではないことがわかった。