熊本熊的日常

日常生活についての雑記

天気晴朗ナレド浪高シ

2012年02月24日 | Weblog
記念艦三笠を訪れる。先日、呉の大和ミュージアムへ行ったので、いつか三笠も見てみたいと思っていた。三笠は言わずと知れた日露戦争時の帝国海軍連合艦隊旗艦である。三笠といえば日本海海戦を連想し、縁起の良い艦と見る人が多いのではないかと思うが、1902年3月に竣工後、1905年9月には弾薬庫の爆発事故で沈没している。その後、引き揚げられて改修され現役復帰したものの、1922年にはワシントン軍縮条約に基づいて廃艦が決定。1923年9月の関東大震災で岸壁に衝突して着底。当初、廃艦後に解体される予定だったのが、保存の機運が高まり、1925年に保存されることになった。保存された後も、太平洋戦争後の物不足のなかで上部構造物が持ち去られたり、甲板のチーク材が剥がされて薪や建材に使われるなどして、荒廃するというようなこともあった。華々しい歴史を刻んだのは竣工から日本海海戦までの3年間しかない、と見ることもできるだろう。船というのは不思議なもので、同じ形式の艦であっても、運というか縁というか巡り合わせのようなものがそれぞれにあると聞く。三笠の場合は、三笠という艦よりもそこに座乗した東郷平八郎の持っていたものの影響が大きかったのではなかろうか。人物評についてはいろいろあるようだが、明治天皇が東郷を連合艦隊司令長官に指名した理由を海軍大臣山本権兵衛にお尋ねになられた際、山本が「東郷は運のいい男ですから」と奏したという逸話が、東郷と言う人の何事かを語っているように思う。後に軍神として祭られ東郷神社というものまで登場するようになったのだから、やはりただの人ではない。

国力に大きな差がありながら、日露戦争で日本がなんとか首尾よく講和を結ぶことができたということが世界中で多くの人を勇気づけたことは事実のようだ。トルコで対日感情が比較的良好であるとか、フィンランドで東郷をラベルにしたビールがあったとか、元国連事務総長のブトロス・ガリは日本に来ると必ず東郷神社に参拝していた、というような類のことは他にもいくらもあるのだろう。困難を乗り越えたものを目の当たりにすることで自分を鼓舞したり気持ちを解放するというのはよくあることだ。私などは生まれてこのかた順境というものを感じた経験が無いのだが、失業という現実に直面すれば、ことさらに広島を訪れるとか、こうして三笠を眺めに来るというような殊勝なことを考えるのである。東京というところで暮らすだけでも困難を克服することの実例を見るべきなのかもしれない。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど江戸は火事が多く、殊に明暦の大火は当時の江戸の町を焼き尽くしたと言ってもよいほどだったという。江戸城の天守閣が町の火事で飛来した火の粉によって火を発したというのだから、どれほどの火の粉が飛んでいたかということだ。その後も関東大震災と東京大空襲で繰り返し焼け野原になっている。その度に復興を果たして今日の姿がある。毎日暮らしているとそういう来歴を意識することなど無いのだが、それくらいに力強く復興したということでもある。近々震度7ほどの大きな地震があるらしいが、なんでも来いという気になる。既に人生そのものが焼け野原なので、今更失うものも無い。ただ、困るのは始末の付けようだ。三笠は記念艦として保存が始まった後に太平洋戦争とその後の混乱があり、一旦は荒廃したものの、関係者の努力によって現在のような良好な保存状態に復した。自分の生活のほうは荒廃したまま最期を迎えるのか、最期の前に多少は体裁を整えたほうがよいのか、最期の時期や形がわからないので困るのである。