熊本熊的日常

日常生活についての雑記

control

2008年12月05日 | Weblog
普段利用している地下鉄Jubilee LineのNorth Greenwich駅からは始発電車も出る。2番線ホームに始発電車が停車していて、1番線に隣の駅を発車した電車が接近しているという状況がある。その時、構内放送がある。
「こちらはコントロール・ルームです。次の東方面行きの電車は1番線に参りますStanmore行きです。」
この放送の内容と駅の電光案内板の表示とが一致していれば迷うことはないのだが、そうではないことも少なくない。2番線の案内板に「間もなく発車(Train Ready)」と表示されていて、放送のあった1番線は「あと2分(2 min)」などとなっていたりする。やがて1番線に電車が入線する。1番線の案内板は空白になる。さて、どちらが先に発車するのか?

こちらの鉄道は日本とちがって駅のホームに発車のベルはない。列車の車内で「ピピピピピ」と警報音が鳴ってドアが閉まる。ホームに立っている客から見れば、ドアはなんの前触れも無く閉まるのである。実際、それでドアに挟まれる事故はしょっちゅうある。

さて、放送とは逆の2番線のほうが先に発車ということも、たまにはある。そんなときは駅員がマイクを握る。
“We do apologize …”
コントロール・ルームの放送を聞いて2番線に停車中の車内から1番線へ移動していた乗客も少なくないのだが、少なくとも表面上は、客のほうに気にする様子は見られない。こんな風景を見て「大人の国」と感心するのは西洋コンプレックスが未だに抜けない人くらいだろう。こんなことは日常の風景なので、いまさら誰も気にしないというだけだ。

このコントロール・ルームというのは何を「コントロール」しているのだろうか。想像するに、地下鉄網全体を管理している機関があり、さらに駅構内を監視している部署があるということなのだろう。線路上の信号は、全体を管理しているシステムのなかで操作されているので、運行状況に応じて、駅のコントロール・ルームの頭越しに運行スケジュールを急遽変更するというようなこともあるのだろう。

South KensingtonのDistrict LineのホームのSloane Square側の端に事務室がある。その窓に列車の運行状況を表示している液晶画面がある。それを見ると、どこ行きの列車が現在どこを走行しているのかがわかる。そのなかに、行き先が”unknown”となっているものがある。イベント列車でもなければ幽霊電車でもない。District Lineにはいくつかの支線があるので、状況に応じて行き先を振り分けるということなのではないかと想像している。例えばここから西へ向かう列車には、行き先の選択肢として以下のようなものがある。
Circle Line
District Line, Ealing Broadway Branch
District Line, Richmond Branch
District Line, Wimbledon Branch
District Line, to Earl’s Court
事実、”unknown”は列車がSouth Kensingtonに近づくにつれて行き先が表示されるようになり、”unknown”のまま入線する列車は少ない。

英語の”control”には日本語の「管理、監督、支配、統制」といった訳語をあてることが多いように思う。いずれにしても物事を自分の意志の下に置くという意味である。よく耳にする言葉で「リスク・コントロール」とか「リスク管理」というものがある。これはリスクを自分の意志に下に置くということだろう。不測の事態に備えて万全の体制を敷き、その不測の事態が発生したら、それが致命的状況を引き起こさないよう監視し、二重三重に対応策を発動させるというのが「リスク管理」であるはずだ。

先日、日本のある生命保険会社が破綻したとき、その会社の社長は記者会見の席で
「リスクは適正に管理されていました」
とおっしゃっていたらしい。リスクが管理されていれば破綻には至らないのではないだろうか? 私の「リスク管理」に対する理解が誤っているのか、この社長が自身の発言の内容を理解していないのか?

リスクが適正に管理されているにもかかわらず破綻する会社もあれば、コントロール・ルームの意に反して発車する列車もある。コントロールだの管理だのというのは余程難しいことなのだろう。

不義理宣言

2008年12月04日 | Weblog
11月24日付「時候の挨拶」のなかにクリスマスカードの24枚セットを買ったと書いた。今日、その24枚の最後の1枚を投函した。これで今年のクリスマスカードは終わりである。もう書かない。

ここ3年間ほどの年賀状の束が手もとにある。その差出人の名前を眺めながら、「もうこの人とは二度と会うこともないだろうなぁ」と感じるのは1人や2人ではない。なかには「まだ生きてるかな?」と思う人も、やはり1人や2人ではない。既に学生時代や社会人の同期生のなかには病気、事故、あるいは自殺によって鬼籍に入った人もいる。

せっかく隠遁生活を送っているのだから、これを機に余計なものは整理してしまおうと考えている。24人を選ぶのは容易ではなかった。20人くらいはすぐに決まるのだが、残り4人に誰を選ぶかというのは、多少は悩むものである。

24枚のクリスマスカードは、ほぼ同じような内容の文言なのだが、万年筆で書いた。私は筆記具が好きで、今はペリカンの万年筆にペリカンのブリリアント・ブラックという色のインクを入れて使っている。2006年4月に東京駅前オアゾの丸善で店員の話を聞きながら選んだ。時間をかけて選んだ甲斐あって、なかなか使い心地がよく気に入っている。毛筆や万年筆の字は線の入と出が比較的明瞭にわかるので、その人の個性が如実に現れるような気がする。パソコンで書く文書と違って、書いてある内容とそれを表現する手書きの文字とが相まって、同じ文章でも活字よりもはるかに多くのことを相手に伝えているように思うのである。

手紙やカードを書くのは伝えたいことがあるからだ。それなら、きちんと選んだ筆記具と用紙に、たとえ悪筆でも、一文字一文字に想いを託して書きたいではないか。御座なりの、いかにも義理で書きました風の印刷や写真の書状を出すのは、かえって失礼なのではないかとさえ思う。断っておくが、印刷や写真が失礼だと言っているのではない。御座なりの印刷や写真が失礼だと言っているのである。「とりあえず出しておきました」というような「挨拶」を平気でする人間を私は信用したくはない。

捨てる神 拾う神

2008年12月03日 | Weblog
今日、職場近くで配布しているフリーペーパーCITY A.M.紙に全面を使った求人広告が掲載されていた。
“WE STILL OFFER BIG BONUSES:”
という大きな文字の下に小さな文字で
“Six weeks’ paid holiday, free healthcare, a competitive pension and subsidized rent are all part of the package you will receive as an Army Officer. Together with one of the best leadership training courses in the UK, at Sandhurst. But most of all, you’ll have the chance to make a positive impact on the lives of people all over the world. There can be few greater rewards than this.”
と続く。広告の主は英国陸軍である。

金融街で配布する金融関係の記事中心のメディアに軍隊の求人広告というのは興味深い。東京でも駅で自衛隊の隊員募集広告を目にするが、年齢制限がきつくて私などは例え応募したくても応募できない。今日手にした募集広告の面白いところは待遇面についての具体的な訴求をおこなっていることである。有給休暇、年金、家賃補助、などなど。これに比べると自衛隊の広告のほうがビジュアルには表現が豊かだが、入隊してどうなるのかという具体性に乏しいように思う。自衛隊の目下の課題のひとつは恒常的に定員割れとなっている状態をいかに解決するかということだそうだが、これから雇用悪化が深刻化する今こそ、問題解決の好機なのではないだろうか。隊員募集に真剣に取り組むことで、雇用対策にもなり、国防力向上にもなる。効果の定かでない補助金をばら撒くよりは、よほど国民生活の向上に寄与するのではなかろうか。

安産祈願

2008年12月02日 | Weblog
仕事で同僚とメールのやりとりがあり、そのなかで彼女が近く産休に入ることが書かれていた。返事を送るとき、そこに「安産をお祈りします」という意味のことを書こうとして、ふと悩んでしまった。

「安産」あるいは「安産をする」を和英辞典で引くと「have an easy birth」(ジーニアス和英辞典)、「easy delivery, safe delivery, easy labor」(英辞郎 on the WEB)といった語彙が現れる。日本語で「安産を祈る」といえば、単に分娩のことだけではなく、子宝を授かって幸福な気分を味わうという、行為に付随した気分まで含めて「安らかなお産をお祈り申し上げる」ということだろう。

英和辞典とちがって、和英辞典になかなか良いものが無いのは、そのあたりの行間を汲み取って言語化することが容易ではない所為かもしれない。あるいは、単純に編纂者や出版社の姿勢の問題かもしれない。いずれにしても、そうした現状の改善を迫る需要がないということは言えるだろう。日本語を英語に変えて表現するのに、そもそも日本語が十分に理解できていない、日本語の意味するところを深く探求する意欲や能力が欠如している、という問題がありはしないだろうか?

日本人の日本語の能力が低下しているのは確かだろう。その端的な例として映画の字幕を挙げることができる。字幕の作成を「映像翻訳」というのだが、これは所謂「翻訳」とは違う。字幕には諸々の規制があり、その制約のなかで日本語の台詞を「作る」のである。例えば原語の台詞1秒間分を4文字以内で表現しなければならない。しかも、ひとつの字幕は原則として12文字以内である。細かな規則は配給会社によって違いがあるようだが、大枠は同じであろう。数年前、「英語でしゃべらないと」というテレビ番組を観ていたら、その時のゲストである映像翻訳者の戸田奈津子氏は「1秒3文字」とおっしゃっていた。すでにそこまで絞っている配給会社もあるということだろう。映画の登場人物には早口の人もいればゆっくりしゃべる人もいる。それを一律に台詞1秒3-4文字で表現するのが映像翻訳なのである。これでは原語をそのまま日本語に「翻訳」するのは不可能だ。この文字数規制は、昭和20年代には1秒5-6文字であったそうだ。字幕が年月の経過に伴って簡略化されている背景には、観客の字幕読解力の低下がある。

日本人の言語能力の低下をここで嘆いていてもはじまらない。なにはともあれ「安産を祈る」だが、ネットで検索をしていたら「教えて!goo」に「wishing you love & happiness」という表現を見つけた。同僚へのメールには “I am wishing you love and happiness!”と書き添えておいた。

師走

2008年12月01日 | Weblog
年末の風物詩というと、東京では酉の市、羽子板市、第九の合唱、アメ横や築地市場の賑わい、といったものが取り上げられる。寺社の縁日は、季節と密接に結びついているので納得できるのだが、不思議なのは何故年末になると生鮮食品を買い込まなければならないのか、ということである。確かに、昔は年末年始といえば商店が休業してしまうので、その間の食糧を確保するという意味合いがあっただろう。しかし、今は違う。コンビニは休まず営業しているし、スーパーや百貨店も休業するのは元旦くらいのものだろう。

こうした現象は東京だけではないのである。ここロンドンでも、クリスマス前になると熱に浮かれたように商店街に足を運ぶ人々が増えるのである。毎度書いているように、通勤の行き帰りにショッピングセンターの駐車場を横断している。核テナントのSainsbury’sというスーパーは昨年11月から24時間営業になっている。それでも朝の通勤時間帯は、駐車場は疎らである。それが12月になった途端、朝から駐車場が4割程度埋まっているのである。去年もそうだった。こんな朝早くにスーパーで買わなければならないものとは一体何なのだろう?

単なる習慣なのかもしれないが、習慣で気持ちばかりの安売り商品を買うために雑踏のなかを歩いたり、朝早くからスーパーに車を走らせたりするものなのだろうか?世の中には不思議なことがたくさんあるのだが、師走の風景というのも自分のなかでは永遠の謎である。

第九もよくわからない。といいながら、一度だけ合唱団に参加したことがある。9月から週1回の割合で仕事帰りに練習に参加し、11月になるとそれが週2回になる。11月までは私のような素人だけの練習が、12月からは東京都民合唱団というセミプロ級の人たちと合流し、最後の仕上げとなる。年末に上野の文化会館大ホールで本番を迎える。観客の多くは合唱する人の身内や友人たちだ。合唱に参加する人には最大4枚までチケットの割当がもらえるのである。当日は緊張と、発声という全身運動と、照明の熱で汗びっしょりになる。多少間違えても異様なほどに合唱団の規模が大きいので気にするほどのこともない。そもそも自分の声など聞こえない。演奏が終わると、観客席は総立ちだ。スタンディングオベーションを頂けるほどのものかと思いつつも、気分は最高に良い。しかし、第九の合唱に参加したのは、このときだけだ。かねてから一度参加したいと思っていたので、その思いが叶って満足できたのである。そして逃れることのできない現実に直面したのである。私は音痴だ。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年12月01日 | Weblog

元気ですか?
そろそろカレンダーが届くと思います。感想を聞かせてください。

この週末は或る人の紹介でBENTLEYSという骨董店へ行ってきました。生憎オーナーが留守でしたが、店は営業していたので少しお邪魔してきました。この店は銀座のダンヒルのなかにも店を出しています。主にヴィトンのヴィンテージのスーツケースなどを扱っています。私が買うことのできるような値段のものはないのですが、精魂込めて作られ愛情込めて使われてきたことがわかるような佇まいの商品ばかりです。そうした品々が、きちんと手入れされた店内にきれいに並べられており、なんだかほっとするような空間でした。

この後、ロンドンで一番小さい美術館と言われているSir John Soane’s Museumを訪ねました。小さいと言っても、東京にある平均的な企業美術館と同じかそれ以上の床面積はありそうです。ここはSir John Soaneという建築家の自宅だったところを、その死の直前に寄贈され美術館として一般公開されているものです。1830年頃に寄贈されたそうなのですが、内部は当時のままの姿だそうです。印象的なのはローマ時代の遺跡から発掘されたと思しき彫刻や建築物の破片の数々です。ヨーロッパの人々にとってローマ時代というのは特別なものであるようです。私には薄気味悪い趣味にしか見えませんでしたが、Soane氏はこういう室内にほっとするものを感じたのでしょう。

もうすぐ日本へ引越しですので、そろそろ身の回りの整理を始めなければなりません。もともと余計なものはないのですが、おもしろそうなものがあれば日本へ引越荷物として送ろうと思い、本や古地図などを探しています。とはいえ、そういうものはなかなかありません。

ポンドが暴落しているので、日本に持って帰って売れそうなもの、というのも探しているのですが、これも実際に売ってみないと売れるかどうかわかりませんから難しいものです。

期末試験もあるでしょうし、寒さも厳しくなるでしょうから、健康には十分に気をつけてください。

では、さようなら、ごきげんよう。