熊本熊的日常

日常生活についての雑記

暑い日に

2010年08月16日 | Weblog
立秋の声を聞いて暑さが焦ったのか、連日とても暑い。昨日はとうとう家から一歩も外に出なかった。今日もそうしたかったのだが、勤めがあるので仕方なく夕方に出かけた。午後5時近かったが、それでもこれまでにないほど暑く感じた。深夜、職場があるビルから外に出たときも、これまでにないほど暑く感じた。山手線に乗って、巣鴨のホームに降り立ったとき、ようやく人心地付いたような心持になった。

気象庁によれば、今日の東京の最高気温は36.3度、最低気温28.1度、平均32.2度、最高湿度64%、最低湿度46%、平均風速2.2メートル、最大風速5.3%南南東方向、日照時間8.9時間、とのことである。体感としては、路面や建物の照り返しもあるので、もう少し暑苦しく感じられる。

普段はエアコンを使わない、という話は過去に何度か触れているが、さすがにこれほど暑いとエアコンのスイッチを入れたくなる。しかし、滅多に使わないのでリモコンがイカレテいる。恐らく、基板のどこかにガタがきている。なんとなく真ん中あたりが熱い。発火するかもしれない。とかなんとか思いつつ、一旦電池を外し、しばらく時間を置いて入れなおすと、なんとか復活する。このまま使い続けて本当に発火事故を起こしても厄介なので、メーカーの出先に電話を入れてみてもらうことにする。テレビやビデオのリモコンなら代わりのものがいくらでも量販店などで手に入るが、エアコンのリモコンとなると微妙である。というわけで、昨日、今の住まいの地域を管轄している東京ガスライフバルに電話をする。

今の住処のエアコンのメーカーは東京ガス。ますます微妙なところだ。こういう電話はなかなかつながらないものだが、さすがに公益企業ともなると呼び出し音が鳴るかならないかのうちにつながる。但し、昨日は日曜だったので、要件を伝え、今日の午前中に訪問を受けることにして、電話を切った。そして、今日の午前中に電話があり、エアコンの機種などの情報を伝え、それから1時間ほどで新品のリモコンを持ったサービス担当の人がやってきた。

リモコンが新品になったことで問題は解決。リモコンの在庫はまだ余裕があるようだが、エアコン本体の部品在庫がそろそろ品薄になっているのでそのつもりで、との助言も頂く。エアコンは住処の付帯設備なので大家さんの所有物なのだが、わざわざ報告して費用を負担してもらうほどのことでもないと思い、こちらで全て処理する。リモコンが3,990円、出張費用が2,790円、合計6,780円だった。異様に高価なリモコンだが、諸々の事情を推察すれば、こんなものだろう。さすがに東京ガスのサービスマンもリモコンの値段は言いにくそうだった。

昔はどの街にも電器店があり、家電製品はそういう店で購入し、なにか問題があればメーカーの修理窓口に連絡をする前に、まずは電器店に相談をし、たいがいのことはそこで解決されたものだ。それがいつしか家電製品は量販店で購入し、そこが修理窓口としての機能も担っているが、総じて家電製品の単価が低下した所為もあって、問題が起これば即買い替えというケースも増えているのではないだろうか。

こうした傾向は家電製品に限ったことではなく、消費財全般が量販店主体の流通機構のなかに組み込まれ、個人商店の多くが姿を消してしまった。それは流通の変化だけではなく地域社会の在り様の変化でもあるように思う。顔見知りの商店の人が、商品のことや諸々でその地域住民との接点を持ち、そうした緩やかなつながりが、ある種のライフネット的なものとして機能していたのではないだろうか。

資本の論理に従って大量流通産業が小資本を駆逐し、消費者も安価な製品を手にすることで実質的な購買力が向上した。その結果、地域単位の商店街は姿を消し、代わってコンビニが登場したものの、そこに商店街ほどのライフネット機能は期待しがたいだろう。物やサービスは過去数十年の間に確かに豊富に便利になったと思う。しかし、それがよいことばかりであったかどうか。

熱中症というのは屋内で罹ることもあるそうだ。暑いときには無用な外出は避けて家で寛ぐのがよいと思うが、家では寛げない事情の人もあるだろう。暑さもしんどいが、暑さで身の回りの人間関係の脆弱さを否応なく意識させられるのもしんどいことだ。自分の人間関係は自助努力によって開拓し維持されるべきものなのだが、そう突き放してみるのもなんとなく酷なようにも感じられてしまう。ちょっとした工夫で、もう少し楽しい暮らしができるように思うのだが、なにか上手い手立てはないものだろうか。

ところで、街の電器店といえば、何年か前に観た「幸福のスイッチ」という映画が面白かった。

あたりまえの信頼

2010年08月15日 | Weblog
ネット上で無料配信になっている「間宮兄弟」を観た。2006年5月の公開なので、製作はその前年あたりだろう。どれほどの興行成績だったのかは知らないが、気楽に眺めていることのできる楽しい作品だ。兄弟、姉妹、親子、夫婦、友人、恋人、職場というわかりやすい関係性のステレオタイプのようなものを組み合わせて物語が進行する。平均的なものというのは個別具体的なものの集合でありながら、個別具体的なものとは乖離した在り様のものであることが多い。人間関係などはその最たるものだろう。だからこそ、平均的なものを描けば、それがあたりまえのことのように世の中に受けいれられるのである。受けいれられるというのは、それが自分のことではないと思われているからだ。生々しいものは、どこか消化しにくいところが残るものである。

2005年にしても2006年にしても、今から振り返れば、今よりもいろいろな意味で余裕のあった時代のようの感じられるのは私だけなのだろうか。この4-5年の間に世界的な金融危機があり、誰もがその名前を知っているような大きな企業が破綻し、欧州では企業どころか国家までもが経済的に破綻するという事態を経験した。今なおその激動冷めやらぬなかにあるなかで、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というようなこともけっこうある。しかし、「覆水盆に返らず」ということもあるだろう。

例えば雇用関係では、安易な解雇が多くなったように感じられる。雇用関係に対する、それまでの「あたりまえの信頼感」のようなものが失われた結果として、企業の製品やサービスの質的な部分に問題が生じたケースもあるのではないだろうか。製品やサービスというのは、その生産に直接的にかかわるもののみによって生み出されるのではなく、企業組織が存在するために必要な枝葉末節的なことも含めたありとあらゆることを、それぞれの担当部署が適切に処理することによって生み出される。そうした裏方に対しても組織としてその存在を認知し評価を与えることで組織構成員間の信頼も生まれ、それが製品やサービスにも反映されるものなのではないだろうか。それが、組織が困難に直面した際に、目に見える部分だけ、あるいは組織内政治の力学だけのことで対応すると、組織に残された構成員にも理不尽な思いが蔓延し、結果として肝心な製品やサービスにそれまでには考えられなかったような問題が生じるというようなことがあるように思う。

世に「パーキンソンの法則」と呼ばれるものがある。「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」とされる第一法則と、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という第二法則があり、まとめて「ある資源に対する需要は、その資源が入手可能な量まで膨張する」とされることもある。また、「組織はどうでもいい物事に対して、不釣合いなほど重点を置く」という凡俗法則もある。英国の歴史・政治学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンはこうした法則を自国の官僚制を観察することで導き出したのだそうだが、あらゆる組織に敷衍できる普遍性があるように思われる。

組織が規模縮小を余儀なくされるような危機に直面することはいつの時代にもあるだろう。そして被雇用者の一部を解雇することも、危機対応策としては当然にあるだろう。問題はその後だ。単に頭数を減らしただけで、パーキンソンの法則的な馬鹿馬鹿しさが改善されていないとすれば、被雇用者の間には雇用者側に対する不信感が広がり、働く者が当然に持つはずの自分の仕事に対する誇りや信頼までもが揺らいでしまうことになる。自分の仕事に対する信頼の揺らぎというのは、自分自身の存在に対する信頼の揺らぎにまで至ることだってあるだろう。それが社会全体の不安をもたらすことにもなるのは当然だ。

「間宮兄弟」に描かれている人物たちは、どの人も信頼感に支配されている。間宮兄はビール会社の研究員としての自分の仕事が好きで、自分の仕事に対する信頼がある。間宮弟も小学校の校務員という仕事に誇りを持っている。間宮兄弟が利用しているレンタルビデオ店の店員は常連客の趣味嗜好を把握していて、客が借り出そうとカウンターに持ってきたDVDのタイトルを見て、それらしい言葉をかけたりする。間宮弟が兄に女性の友人ができるようにと考えるのはカレーパーティーだ。手作りのカレーライスで客をもてなそうという発想の健全性は、改めて見直してもよさそうだ。ほかにもこの作品には人の暮らしの基本要素に対する一貫した視線がある。そうした日々の暮らしのなかで自分自身の在り様を支える大小軽重さまざまの信頼感にささえられて人間とその社会の健康が得られるのではないだろうか。間宮弟が一目惚れした兄の勤務先の先輩の妻にアプローチするときの言葉が象徴的だ。「僕、そんなに悪い奴じゃないです。」クスッと笑ってしまうようなシーンなのだが、もし誰もが堂々と「私は、そんない悪い奴じゃないですよ」と言えるなら、世の中は誰にとっても暮らしやすいのではないだろうか。

仕事と衣食住という生活の基本で、自分がその場に応じた適切な信頼関係を結ぶことができている、という感覚をどれほど多くの人が持っているだろうか。それこそが、文明の指標であるように思う。

パリ 京都

2010年08月14日 | Weblog
「パリ、テキサス」という映画が昔あったが、今日は原美術館で開催中の「William Egglestone: PARIS-KYOTO」を観てきた。エグルストンが写真家を志したのはHCBやウォーカー・エヴァンズの写真集に影響を受けたから、とのことだが、言われてみればそれらしい感じが無くも無い。

パリも京都も自分にとっては同じくらい馴染みのない都市だが、自分が日本人である分だけ、同じ日本の都市である京都の写真に対する批評眼は厳しいものにならざるを得ない。「京都」と銘打つからには京都でなければ撮ることのできないものがあってもよいのではないかと思うのだが、どれも京都でなくともありそうな画ばかりのように感じられた。

ハンス・コパーの言葉に「why before how」というのがあることを先日のブログで書いた。クリエイターに限らず、誰もが何事か行動を起こすときに想起すべきことだとは思うが、現実には人の行動というのは習慣に流されているものだろう。しかし、少なくとも創造行為を生業にしている意識があるなら、自分の作品を作るときには常に「why」を心に持ち続けて然るべきだと思う。

今回の展覧会で「パリ」のほうに比べると「京都」は「why」が弱いと感じた。「パリ」が2006-08年に発表された作品群で「京都」は2001年。1998年にHasselblad Awardを受賞して、やや気持ちが弛緩した頃の作品が「京都」だったのではないか。再び写真家としての緊張感が回復してきた頃の作品が「パリ」なのではないか。そんなことを勝手に想像するのも楽しい。

Hasselblad Awardというものを今回初めて知ったのだが、エグルストンの受賞作品も今回の展示作品のなかにある。1980年から始まって、該当者無しという年もあるが、原則として毎年1人が選出されている。今年も既にフランス人写真家のSophie Calleが受賞したことが発表済みである。日本人受賞者は1987年の濱谷浩と2001年の杉本博司の2人だ。濱谷は既に故人だが、もともと報道写真を撮影しており戦時中は対外広報誌「FRONT」の製作にも参加していたが、戦後は、戦中から撮り始めた日本の農村風景に軸足を移し、おそらく彼の中の日本人の原風景、強いては自分自身の原風景を追い求めたのだろう。杉本は現役の写真家で、最近はメディアへの露出も少なくないが、彼のテーマは「時間」である。2005年に六本木ヒルズの森美術館で開催された個展が記憶に新しいが、写真家として自立できるようになるまでは、生計のために古美術商を営んでいた時代もあり、現在も蒐集は続けているようで、そうした方面での発言もしばしば見聞きする。ふたりとも、作品に「why」が濃厚に感じられる作家だ。好きか嫌いかということは別にして、筋の通ったものに出会うと、なぜか嬉しく感じられる。私は写真のことは何もしらないが、二人の作品を眺めると、とても嬉しくなる。

自分以外の存在

2010年08月13日 | Weblog
明日、子供が遊びに来るので部屋の片づけをする。机兼食卓の上に積み上げられた本を本棚の空いているところに突っ込み、それでも納まりきれないものは押入れの中に突っ込む。クリーナーをかけ、トイレを掃除し、洗濯をして本日中に片付かないものはハンガーに掛けて押入れに。もともと家財が多いほうではないので、部屋の中に唯一の押入れも余裕があり、こうした緊急事態には助かる。ばたばたとしているうちに出勤時間になるが、なんとか片付いた。

このところ子供とは外で会うことが続いたので、住処に自分以外の人が足を踏み入れるのは久しぶりのことである。それでもテーブルに本が積みあがるくらいなので、片付けに特別長い時間を要するというようなことはない。それでも、緊張感というものが人を招くのとそういうことを想定しないのとでは全く違う。

これは部屋とか家だけのことではあるまい。地域とか都市とか、あるいは国という単位に拡大してみても、決まりきった人だけの間で営まれる生活環境と、部外者の来訪を想定したそれとは印象が違うものである。

毎度同じ結論になってしまうのだが、人が関係性の上に成り立つ存在である以上、その生活圏も他者との交流を前提にしたものとして整えるのが「自然」なのではないだろうか。気持ちよく片付いた室内で一服しながら、そんなことを思った。

ハイドン 交響曲45番

2010年08月12日 | Weblog
コンサートに出かけてきたというわけではない。この曲は「告別」と呼ばれるものである。ご存知の方も多いだろうが、交響曲であるにもかかわらず、この曲は消え入るように終わる。最終楽章の途中から、楽団員が1人また1人と演奏を止めて静かに袖に引き上げる。最後に残った第一バイオリンの奏者2名だけが残って曲を終え、静かに立ち去る。初めてこの場に遭遇したときは、一体何事が起こったのかと思ったが、客席は何事もないかのように静まり返っていたので、事情を知らないのは私だけだったのだろう。

お盆の時期で都心がやや空いている雰囲気の所為もあるのだろうが、今世紀に入ってからのこの国の様子は「告別」の最終楽章のようにも感じられる。少なくとも自分が身を置く業界は参加者が顕著に減少し、今や風前の灯のようだ。例外的に気を吐いている限られた小数の参加者があるのだが、それは最後の第一バイオリンのようなものだろう。演奏者は席を立って行くところがあるからよいが、行くあての無い者はとりあえず途方に暮れてしまう。少なくとも私はかなり動揺しているのだが、街の風景は何事も無いかのようだ。私だけが事情に疎いのだろうか。

今日は以前の仕事で関係のあった人と「ふきぬき」の新宿支店で昼食を共にした。もう知り合ってから12年ほどになるのだが、仕事の関係が無くなってからも、こうして時々会っている。彼は去年だったか一昨年だったか、リストラに遭い、今は外資系企業の勝手駐在員のようなことをしている。「勝手」というのは、その企業は正式には日本に事務所を開いておらず、彼がその企業と契約して、日本での採用活動をしているということだ。日本に関係のある仕事なのだが、日本に事務所を構えるとコストが嵩むので香港とシンガポールでアジア関連の仕事とあわせて日本の仕事もカバーしているのだそうだ。人が足りなくて採用するのではなく、そのポジションにふさわしい人がいれば採用するということらしい。現時点で候補者は5人だそうだが、それぞれに問題があって採用には至っていないのだという。

私は過去に4回転職をしている。過去に勤めた4社のうち2社はもう日本に無い。さらに言えば、大学を出て最初に就職した会社は今も健在だが、社名と資本関係は大きく変化した。現存しているもう1社も株価は10円台という有様だ。今の勤め先も先月に職場を半分に縮小した。人によって考え方や感じ方は違うのだろうが、今日昼食を共にした人も、先月下旬に昼食を共にした元同僚も、世の中の様子が尋常ではないと語っていた。私も同感なのだが、何がどう尋常ではないのかということは言葉にならないのである。何かがおかしいということだ。

「告別」は最後の2人が退出した後しばらくして、指揮者の合図で全員が定位置に戻って観客からの拍手を受ける。楽団員が1人また1人と立ち去るのは、やがて戻ってくることがわかっていても、やはり不安な雰囲気を醸し出す。今、私が暮らしているのは、戻ってくるとは思えないような状況のなかである。

おそらく、誰もが同じような不安感を抱えているのではないだろうか。不安だから気持ちが萎縮する。気持ちが萎縮するからリスクを取ることができず縮小均衡を志向する。リスクを取らないので発展的な行動を取ることができない。行動がないので新しいことが生れない。かくして、物事は低調に向かい、ひとつまたひとつと活動が停止する。

なんだかんだといいながら

2010年08月11日 | Weblog
お盆で留守の家庭が多いのか、生協の配達がいつもより早く来てしまった。木工に出かけるのであたふたとしていたところに配達が来て、あたふたに拍車がかかってしまったが、幸か不幸かここ数週間は友人知人とのランチの予定がいくつかあり、発注を少なくしていたので、到着品の収納はすぐに終わった。今回はキャンセルされた商品こそ無かったが、減量されてしまった商品が2つあった。玉蜀黍とズッキーニだ。どちらも1パック2本のはずだったのが、生育遅れで各1本となった。

木工の前に配達が来ると、商品を早く家の中に収納しなければならないというプレッシャーから解放されるので、帰りに寄り道をしてゆっくりと昼食をいただくことができる。今日はcha ba naでビルマ素麺だ。カレーライスのライスの代わりに素麺にしたようなもので、自分でも作れそうな気がするのだが、香辛料の使い方が恐らく一般的なカレーとは違って東南アジア独特の雰囲気のようなものが感じられる。店の雰囲気も好きなので、都合が許す限り水曜の昼はこの店でビルマ素麺をいただく。

ビルマ素麺で満腹なのに、今朝届いた玉蜀黍もすぐに食べてみたくなる。帰宅してすぐに蒸し器を仕度して、玉蜀黍を蒸す。6月30日のブログ「夏の味覚」にも書いたのだが、蒸したての玉蜀黍はとてもおいしい。毎回異なる産地のものが届くが、どこのものもそれぞれにおいしい。あと、桃も毎回のように注文している。果物のなかでは子供の頃から桃、それも白桃が大好きで、この夏はこれまでにないくらいに桃を食べている。これも毎回産地が異なるのだが、どこの桃も甘くておいしい。特に今回届いた福島の桃はこれまでのなかで一番おいしいかもしれない。

玉蜀黍も桃も前回は注文しておいたのに「生育不良」でキャンセルされてしまった。今年の夏は各地で最高気温が更新されているが、夏といえども暑ければよいというものではないようだ。気温がそれほどでなければ人間はしのぎやすいだろうが、「冷夏」などと呼ばれて農産物の発育が阻害されたりする。かといって、気候がうまい具合に農産物の生育に望ましいような場合には「豊作貧乏」というようなことになる。結局は人間の側の勝手なのだが、勝手ついでにいろいろ不満は溢れ出るもののようだ。

今回の配達には桃と一緒に幸水もある。まだ食べていないのだが、梨をおいしくいただく頃というのは秋口という印象がある。相変わらず暑いのだが、台風の心配もしなければならない時期に入った。こうして今年の夏も過ぎていくのだろう。

真昼の丸の内にて

2010年08月10日 | Weblog
お盆で陶芸教室が休講だったので、同期入社の友人と昼食を共にした。午後1時に職場のあるビルの1階受付前で待ち合わせ、筑紫楼でランチセットを食べながら1時間半ほど雑談に興じた。前回、彼と話をしたのがいつのことだか記憶が無いのだが、私の帰国後であることは間違いないので、過去1年7ヶ月以内ではある。この間に2回ほどこうした機会があったと思うのだが、定かではない。それで、当然に私の側としては陶芸と木工のことが話題に上るのだが、彼にとっては初めて耳にする話であったらしく、たいへんウケていた。彼のほうは最近引っ越したとかで、その顛末とか仲介に立った不動産屋の話とか、実家の話といったことが話題になった。

2時半頃に食事を終えて、彼は職場に戻り、私は始業まで時間をつぶすので、出光美術館へ出かけた。職場近くで時間をつぶすとすると、候補は3つほどになる。ひとつは出光美術館、もうひとつは国立近代美術館、3つ目はブリヂストン美術館である。近代美術館は常設だけでも十分に楽しいが、どうせなら何か企画展のあるときに出かけたほうがより楽しいと思い、今日のところは見送り、ブリヂストンは「ぐるっとパス」を持っているときのほうが絶対的に家計が助かるので、これも見送り。「日本美術のヴィーナス」展を開催中で、しかも割引券の手持ちがある出光美術館に出かけることにした。

出光美術館のコレクションは出光興産が株式を公開する際に多少売却されてしまったそうだが、それでも肉筆浮世絵や陶磁器などでは依然として国内屈指の質と量とが維持されているのではないだろうか。今回の「ヴィーナス」展も数点だけが東京と京都の国立近代美術館からのもので、展示作品の殆どが収蔵品である。その所為か、見覚えのある作品が多かったが、何度でも観たいものばかりなので、かえって嬉しくなる。

浮世絵といえば版画、という固定概念が根強いようだが、肉筆浮世絵は版画の下絵ではなく、当初から鑑賞目的で描かれたものである。そもそも、下絵は版木の上に貼り付けて、木とともに彫ってしまうので後世に残ることはない。浮世絵に限らず、日本画には西洋画にはない間とリズムがあるように思う。西洋画には遠近法だとか聖書関係のモチーフの扱いだとかに関する決まりごとがあるように、日本画にも構図のパターンのようなものが感じられる。それを言葉で表現すれば「間」と「リズム」としか言いようがないように思う。

それは絵画表現だけのことではなく、言語も造形も全てに言えることではある。そうした異質のものが出遭ったところで、何がしかの反応が起こり、そこに止揚的に新たなものが創造されるというようなことを繰り返しながら歴史が刻まれてきたのだが、やはり自分のなかに素直に受容されるものというのは、自分自身の感覚のなかの「間」のようなものと呼応するものであるように思う。一方で、何事かを創造することを宿命付けられているような立場の人もいるわけで、そういう世界のなかでは創造することに価値が置かれている。しかし、全く新しいものというのは、評価する側に尺度の持ち合わせがないので、評価されないことになる。死後長い時間を経て評価される作品や作家というのがいつの時代にもいるのは、そういうことなのだろう。作り手、受け手、それらを取り巻く環境、と三拍子揃って初めて時代が軋みながらも大きく動く、ような印象を持っている。そうした出会いというのは、結局は運に拠らざるを得ないのではないだろうか。

もちろん、例えば絵の画面上の人物が、今描かれている位置から1センチでもずれていれば、画面全体の印象が変化してしまう。その最適な位置を本能的に定めることのできるのが才能であり、それは誰にでもあるものではないからこそ、その才能の作品が今に伝えられているのも事実だろう。しかし、才能というのは本人が決めるものではない。周囲がそれと認めるものなのである。やはり縁とか出遭いが無ければ世の中は動かないということなのである。

なにがどうというのではないけれど、眺めていて心踊るもの、心安らぐもの、というようなものがあるものだ。世に言う「美術品」のなかにそのようなものがあるというのは、そこに表現された技巧の妙に拠るところもあるだろうが、数々の僥倖を重ねたものが持つ輝きのようなものに観る側の第六感が刺激されているという面もあるように思う。

そんなことを考えているうちに出勤時間を迎えてしまった。

当たり前の苦痛

2010年08月09日 | Weblog
出勤前にプールで泳いでいて2回ほど足が攣りかけた。1,500mあたりと2,200mあたりだったが、そのまま堪えて泳ぎ続けた。去年、帰国後にプール通いを再開した初日、2009年5月3日には700m過ぎて足が攣り、そこで泳ぐのを止めてしまった。ロンドンにいたときは泳いでいなかったので、その前に泳いだのが2007年8月26日で1年8ヶ月超の空白期間がある。年齢や運動暦を考えれば、多少の準備運動をした程度ではすぐに足が攣るくらいのことは想定できることだったので、そのときはそのまま止めてしまった。しかし、今日は予定していた距離に達していなかったので止めたくなかった。それで、足首の角度を変え、力の入れ具合を変え、停まらずに泳ぎ続けて予定していた2,500mを超える2,750mを泳いだところで出勤時間を迎えた。

しょーもないことなのだが、年齢を重ねるというのはこういうことかと思った。能力の衰えというものがある一方で、それを補う知恵が付いている。無意識のうちに未来が過去の延長線上にあると思い込んでいるが、一寸先は闇である。闇だと認めてしまうと不安で生きていけないので防衛本能が機能して未来が現在と同じように在るという幻覚を見ているだけのことだ。現に生活していれば様々な不測の事態に遭遇する。それが幸運なことも無いわけではないが、幸運というのは振り返ってみてそう思うのであって、その最中にあるときは当然だと感じているものだ。大概は、「不測の事態」といえばそのときの自分にとっての不運を指すものだ。そいう障害をひとつひとつ乗り越えて、人は知恵をつける。そんなことがあるのかどうか知らないが、もし順風満帆だけの人生なら、本当に役に立つ知恵というようなものは身につかないのではないだろうか。

人それぞれに置かれた状況があり、同じ事象でも状況によって良くも悪くも捉えることができるものだ。自分の生活がどのように終わるのかわからないが、先につながる今の在り様の基本は、その時々の自分の内と外とを適切に観察することなのではないかと思っている。それで、こうして日記のようにブログを書いたりしているのだが、それが果たして何かにつながるのかどうか確信があるわけではない。ただ、何もしなければ何も起こらない。何かを辛抱強く続けていれば、やはり何も起こらないかもしれないし、何かが起こるかもしれない。少なくとも、自分のなかに蓄積されるものがあるはずだ、と思うよりほかにどうしょうもない。それが、例えば足の攣りを治める程度のことであっても、それをやり過ごした後に何かあるかもしれないと思えば、なんとなく未来が開けるような明るい気分に、なるかもしれない。

人生の現実

2010年08月08日 | Weblog
昨日のブログには「生きる価値は自分で作る」などと勇ましいことを書いたが、今日は終日家事に追われていた。価値を作るのは容易でない。

金曜はたまたま作業が多い日で会社を出たのが午前2時近くになっていた。家に帰ってすぐに寝てしまえばよかったのだが、ブログを書くのに、自分が新入社員だった時に面倒を見ていただいた先輩のことを検索していたら、ついつい時間が経ってしまい、就寝が4時頃になってしまった。そして昨日は午前10時から午後3時までの介護準備セミナーに続き、木工で使うために東急ハンズに注文しておいた板ガラスの受け取りや、諸々の野暮用や、実家に顔出しなどがあって帰宅が午後9時頃になった。それですぐに寝てしまえばよかったのだが、ぐずぐずしていて結局いつもと変わらない時間に就寝。

今朝は11時近くに起床して、ベッドリネンの交換と洗濯、食事の支度。今日はピーマンの在庫が少し多目になっていたので、これと豚肉を炒め、本味醂と味噌で味付け。正確にはピーマン、玉葱、椎茸、豚ロースに軽く塩胡椒をして、(当然、肉には黒胡椒で野菜には白胡椒)炒めて味醂に味噌を溶いたもので味を調えた。味醂はよくあるような調味料の味醂ではなく古来の酒として飲用されていた味醂を再現したとされる本味醂。これに納豆と海苔を添えてご飯を頂く。

食事の片付けをした後、このところ珍しく残業続きで起床が遅めになりがちでコーヒー豆の在庫も潤沢だったので、夏でもあり、水出しコーヒーを仕込む。豆はシグリ。ついでに水出しではない普通のコーヒーを淹れて一服。こちらの豆はコスタリカ。

台所のレンジフードフィルターを交換。ついでに流しの排水口のぬめり取り。さらについでに風呂場の排水口も掃除。

ブログを書いたり、なんとなくネットを眺めた後、干してあったシーツと掛け布団カバーを取り込む。掛け布団カバーは、今の時期はタオルケットのカバーに使用している。畳んで仕舞った後、夕食の支度。夕食のおかずは昼の残りを使うが、そのままでは芸が無いので、肉と野菜の炒め物にトラマキ茸を加えて軽く加熱。同時にご飯も炊いて、やはり納豆と海苔と梅干で頂く。

食べ終わって一服してから、部屋のクリーナーがけ。それからアイロンがけ。夏は洗濯物が早く乾くのでありがたい。ついでにトイレも掃除。原則としてトイレは週に1回の割合で掃除をする。

トイレは週一回程度の掃除で汚れが付きにくくなる。便器用液体洗剤はどれも同じようだが、拭き掃除用のシートは花王のトイレクイックルが一番良い。どのような点が良いかと言うと、シートがしっかりしていて無駄なく使えることと、洗剤の含有具合が適量であるという点だ。量販店などでPBの安いものもあるが、シートがすぐに破れてしまったり、洗剤の含有量が多すぎてべちゃべちゃだったりして、使いにくい。今使っているのは生協の通販で購入したものだが、これはトイレ用に開発されたものではなく、汎用品のシートに多少トイレ仕様を施しているだけのようで、使える代物ではない。

小腹が空いたので、コンビに饅頭を買いにいく。昼間に仕込んだ水出しコーヒーがちょうどいい具合に仕上がったので、器具からコーヒーの粉を取り外して片付ける。出来上がったアイスコーヒーで饅頭を頂く。アイスコーヒーは少し濃い目にしてある。

コンビにからの帰りに雨が降り出す。これで少しは涼しくなるのだろうか。シャワーを浴びて、ブログやメールを書く。これで今日もおしまい。こんなことで「生きる価値」が生れるものだろうか。

メメントモリ

2010年08月07日 | Weblog
勤務先の健康保険では、定期健康診断のように義務付けられているもの以外は、カフェテリア方式で年間6万円相当額の福利厚生を受けることができるようになっている。例えば、家庭の常備薬を購入したり、保養所を利用したり、健康や介護に関するセミナーに参加したり、というようなことができるのである。おそらく6万円も使いきれないので、健保組合からのメールにはなるべく注意を払って、利用できるものは極力利用しようとは思っている。今回はその6万円枠から5,000円を使って「今話題の介護準備学」というセミナーを受講した。

そのセミナーの会場は立正大学。主催はふれあい健康事業推進協議会。講師は午前の部(10:00-12:00)がフリーのジャーナリストでNPO法人パオッコの理事長である太田差惠子氏、午後の部(13:00-15:00)がノンフィクション作家でNPO法人SSSネットワーク代表の松原惇子氏。これに弁当とペットボトルの茶(500ml)が付く。どちらの話もたいへん興味深いものだったし、弁当もおいしかった。

講演の内容は太田氏のほうが遠隔介護という具体的な問題に関するものであったのに対し、松原氏のほうは自分自身の老後に対する心構えのようなものだった。相互の内容に直接的な連関は無いのだが、共通していたのが人間関係の重要性を強調されていたことだ。

人間はその名が示すように関係性のなかに生きるものなので、その関係性抜きに存在し得ないのは当然なのだが、その当然を殊更に強調しなければならないほど、今の時代の日本の社会が深いところで崩壊しているということなのだろう。より具体的には、社会の構成単位としての家庭のありかたが、現在の制度が設計された時点のものとは違った姿になってしまっているということなのである。それを「家庭の崩壊」と呼んでしまうと、ジャーナリスティックな見世物風の印象を与えてしまうのだが、相互扶助組織の単位としての家庭は確かに崩壊していると思う。1970年代以降、合計特殊出生率が2を下回った状態が定着した段階で、家庭という社会組織の永続性が喪失したということなのだが、制度はその永続性を前提としたまま今日に至っている。その結果として特養には非現実的なほどの順番待ちが常態化し、多くの老人は右往左往することになる。

また、家庭は単に数だけの問題ではない。例えば2世代4人家族としても、70歳代の親世代と40歳代の子世代なのか、100歳代の親世代と70歳代の子世代なのかで、その機能は全く異質なものになる。福祉とか相互扶助という点で前者は自己完結型であることが期待できるが、後者は自己完結型家庭の倍の外部からの支援や補助が必要となる。

先日、このブログのなかで不明高齢者のことを書いたが、今日の講演のなかで、どちらの講師もそれぞれの話の文脈のなかでその件に触れていた。それを聞いていて、自分の認識不足だったことに気付かされた。身内の死を隠すことで、その年金を詐欺的に取得するのは、単なる悪意の場合もあるだろうが、やむにやまれぬ場合だってあるということだ。例えば110歳であるはずの親の死を30年間隠匿していた子は80歳代だ。隠匿開始は50歳代ということになる。どのような事情があったのかは知らないが、一般的な給与生活者ならば、昇給はもはやなく、年収の維持はやや困難で退職金で多少潤った後は年金依存の生活になる。孫も同居していたが、それにしても老齢世代と現役世代の構成という点で、世帯収支が年金の有無によってどのように変化するのかということも、それによって罪状の軽重があるかどうかは別にして、考えなければなるまい。

いずれにしても、自分の人生は自分で責任を持つということだ。介護にしても自分の老後にしても、平均寿命がどうの、その間のライフイベントがどうの、という平均値の議論は保険会社や金融機関の商品設計には必要不可欠な情報だが、個人にとっては殆ど意味を成さない。自分が自分の人生をどのように考えるか、その価値観や哲学こそが必要なのである。平均値という自分の外部にあるものを尺度にしている限り、その変化に振り回されてあたふたし、気がつけば死の床にあった、などという悲劇的に喜劇的な、あるいは喜劇的に悲劇的な状況に陥りかねない。

人は生まれることを選択できない。生れてしまったからには与えられた生を生きるしかない。そうして生きた人生は結果論だ。どうなるかわからない老後を思い煩うよりも、今この瞬間をいかに充実させるかということを考えずに、生きる価値などないだろう。価値は自分が作る。他に何も無い。

マン・レイ

2010年08月06日 | Weblog
いつも不思議に思うのだが、何かを買ったり体験したりするのに長蛇の列ができることがある。どこぞのバウムクーヘンだとか、ドーナツとか、ラーメンとか。平日の昼間だというのに国立新美術館で開催中のオルセー美術館展は2階会場から1回エスカレーター下にかけて30分待ちの列ができていた。会期終了が迫っている所為もあるのかもしれないが、おそらくメディアで取り上げられたのであろう。私が会期開始直後の5月28日に訪れたときは、やはり平日の昼間だったが、楽勝でゆったりと眺めることができた。

ゆっくりと眺める分には、たいへん素晴らしい展覧会だと思う。そのことは5月28日付のブログ「誇大広告ではない」に書いた。しかし、こんな行列に並んでまで観るほどのものだろうかとも思う。昔、ミロのヴィーナスが来日したときは7時間待ちというときもあったそうだが、ルーブルでは多少人だかりがしているときもあるが、並んだりせずに舐めるように眺めることができる。モナリザはさすがに人だかりが絶えることはないのだが、それでも並ぶというほどではない。今回のオルセー展も、こんな行列に並ぶくらいなら日を改めてパリに行ったほうがよい。いまどきは国内旅行とたいして変わらない費用でパリ往復することなど容易なことなのだから。

さて、その行列を横目に1階の展示室で開催中のマン・レイ展をゆっくりと観てきた。2007年から欧州を起点に巡回を始めたものが、この7月から東京で開催されている。2008年3月にロンドンのTATE Modernで開催された「Duchamp, Man Ray, Picabia」を観たが、今回の東京展はMan Rayに絞ったものだ。今、何故、マン・レイなのか。そんなことは、どうでもよいのだが、今回の展覧会で印象に残ったのは彼の出会い、特に配偶者との関係だ。最初の妻はベルギーで出会った詩人で、この人と正式に離婚したのかどうなのかわからないが、フランスで「モンパルナスのキキ」と呼ばれた人物と6年間同棲している。キキは彼のもとを去って別の男性と結婚してしまい、そのことが彼に大きな衝撃を与えてみたりする。彼は米国に戻り、そこでジュリエット・ブラウナーと出会い、彼女をモデルにして写真を撮ったり絵を描いたりしているうちにそういう関係になる。結局、その後の生涯をジュリエットと共にすることになる。

その時々のパートナーが彼の作品に大きな影響を与えているように見える。人間なのだから、その精神状態が表現に反映されるのは当然なのだが、そうは思っても、表現の変化から彼の心情の変化を想像するのは楽しいことだ。画家や写真家の心情を推し量ることも愉快だが、表現の対象となっているモデルの心情を覗き見るのもまた楽しい。殊に写真の場合は撮影者と被写体との関係が如実に写真に現れる。最終的にジュリエットがマン・レイの後半生の伴侶となったことを知っているからそう見えるのかもしれないのだが、ジュリエットは彼が撮影したどの被写体よりも撮影されることを喜んでいるように見えるのである。彼のことが好きで好きでたまらなかったのだろうなと、思ってしまう。展示会場には彼が1951年から76年まで彼女と暮らしたパリのフェルー街のスタジオで、ジュリエットが彼を回顧しながら語るビデオが流れている。その彼女の様子が、いかにも愛おしいものを語っているようで、それだけで2人の生活がいかに充実していたかが伝わってくるかのようだ。

結局、人生の幸福というのは、人との出会いのなかにあるのだろう。そんなことを考えながら会場を後にした。

縁とか縁とか

2010年08月05日 | Weblog
先週の木曜日にかつての同僚と昼食を共にした。その人も何度目かの転職で、差し出された名刺が新しくなっていた。その名刺はそのまま携帯用の名刺入れに入ったままになっていたのだが、家で使っているROLODEXに移したときに、ふと気になってそこに書かれていた勤務先を検索してみた。するとその会社の持ち株会社の会長が、私が新入社員だったときのチューターだったのである。

大学を出て最初に就職した会社では、私が入社した年から、新入社員に教育係の先輩社員がひとりずつ付くという制度が始まったところだった。件の会長は、私の教育係の人だった。当時は入社12年目で、私が配属された部署での最年少だった。そういうこともあって、新人教育という雑用を押し付けられたのかもしれないし、多少なりとも年齢の近いほうが意思疎通を図りやすいだろうという管理職の配慮があったのかもしれない。その先輩自身は、やはり新人の面倒を見るなどということは嫌だったのだそうだ。しかし、私にしてみたら社会人になって最初の身近な先輩が彼のような人というのは幸運なことだった。彼は仕事に関しては様々な武勇伝的逸話を持っていて、多くの同僚や客先から慕われていた。日々の会社生活のなかでは、私はこの先輩にたいへんお世話になって、特に食事にはよく連れて行って頂いたし、客先の接待にもしばしば同行させて頂いた。おそらく目先の利く人間なら、彼のような人には積極的に取り入って、少しでも多くのことを吸収しようとするのだろう。ところが私は自分でも呆れるほどに愚鈍で、そういう積極性が無いのである。彼は気さくで、決して先輩風を吹かせるようなことは無かったが、それがかえって畏れ多く感じられて、彼との接点は結局この新入社員時代の1年だけになってしまった。

その後、この先輩は出世街道を驀進し、社長にまで上り詰めた。が、そこで不正経理問題が起こってしまい、結果としてはそれが実質的な会社の破綻の引き金にまでなってしまった。不正経理問題の責任を取る形で社長を辞任し、数年後に冒頭の会社の会長に収まったようだ。あるいはご自身で起業されたのかもしれない。

傍目には順風満帆でも本人にしてみれば苦痛や苦悩に満ちていることもあるだろうし、その逆だってあるだろう。このブログを書くのに、その先輩のことを検索してみたのだが、やはり不正経理事件に関係したものが多く、自分が知りたいと思うようなことは殆ど無かった。ただ、そのなかで自分の知り合いの名前がもうひとつ出てきたことに驚いてしまった。不正経理の源流のひとつとなった、あるM&A案件を手がけた投資銀行の担当者がその名前だ。留学先で知り合って、その同窓会などで顔を合わせる程度の付き合いしかないのだが、やはり気さくな人柄で、不思議と親しさを感じさせるのである。

先週の木曜に昼食を共にした知人、その勤務先のホールディングカンパニーの会長、その人がかかわった事件のもとになった案件の当事者、そんな人たちがつながっていることを知るというのは、妙な気持ちがするものだ。

何も足さない

2010年08月04日 | Weblog
木工で製作中の時計2個はパーツの切り出しと加工がほぼ終わった。組み立てた後になってしまうとやすりがけができない部分を予め紙やすりで研磨していて感じたのだが、木目というのはとてもきれいだ。研磨が進むにつれて木目がより一層はっきりとしてくるのだが、それまでぼんやりとしていたものが、まるで躍りだすかのように感じられる。特に小口の様子が好きだ。自然の造形を眺めていると、それに対して自分が余計なことをしないほうがよいのではないかという気になってくる。陶芸でもそうなのだが、ものが自然にそこにあるべくしてあるようなものを作りたいと思うのである。少し前までは、文字盤をどのようなデザインにしようかなどと考えていたのだが、そこにある木の模様を数字とか時間の刻みに見立てて、手を加えるのは最小限にするのが一番良いのではないかとの思いに変わってしまった。次回はいよいよ組み立てに入る。

家族の絆

2010年08月03日 | Weblog
東京、静岡など計9人が不明=100歳以上の高齢者(時事通信) - goo ニュース

30年間ミイラと同居している家族が紹介され、さっそく日本のあちこちでミイラ探しが始まった。当然のことながら、似たようなケースがあちらこちらから出てくる。ミイラになってしまえば臭いもさほど気にならなくなるのだろうが、死後しばらくは死臭がたいへんだろう。広い家なら開かずの間のようなものを設けることもできるのだろうが、どの家庭でもできることではない。なかにはどこかへ運んで捨ててしまうというようなこともあるだろう。東京湾だの荒川だのの底には浮かばれない死体がいくつもあると考えるのは自然なことだ。あるいはゴミとして捨てられたものもあるかもしれない。火葬場ではなくゴミ処理場で廃棄物と一緒に焼却されてしまったら、その存在の手掛かりなど何も残らない。

こういうのを何と呼ぶのだろう。独居老人の死は「孤独死」などと言われる。家族と同居しているなかで死に、その死体が遺棄されるのは、少なくとも形式的には「孤独」ではない。なかには、年金を通じて死後も家族とつながっていたりする死体もある。

年金保険料の支払が1年半ほど滞ればヤクザまがいの取立て電話をよこす行政が、30年間死体に年金を支給し続ける。人口構成の高齢化が無くても、これでは年金制度は破綻する。しかし、この問題に関しては行政を責めるわけにはいくまい。家族が病気になれば看病をし、亡くなれば所定の手続きをして弔う。それを当然のこととし、その「当然」に縋らなければ、行政コストは爆発的に膨張してしまう。今回の「事件」が波紋を広げたのは、それがどちらかといえば稀な事象であるからだ。稀でなければ報道はされない。例えば、自殺が稀であった頃には、ひとつひとつの自殺が「事件」になったが、交通事故の死者の倍ほどの自殺者があることが常態となってしまうと著名人でもない限り自殺は「事件」にはならなくなってしまった。形式的には家族と同居していることになっているのに所在不明の人が、高齢者に限らず、おそらくいくらでもいるだろう。果たしてそれは「事件」なのだろうか。「事件」だとすれば、どれほどの「事件」が解決されるだろうか。

今はまだ数えるほどの不明者だが、調べれば調べるほど不明者の数は増える。現時点での数えるほどの不明者にしても、何人消息を突き止めることができるだろうか。そう遠くない将来に、こうした不明者の発見は「事件」ではなくなる。独居でも同居でも人は必ず死ぬ時が来る。その死を安らかにするのは、行政なのか、家族の絆なのか、それとも…

プールにて

2010年08月02日 | Weblog
平日昼間の公営プールは空いている。でも、学校の夏休み期間中は別だろう、と思っていた。このところたまたま機会に恵まれずプールへの足が遠のいていたが、一月ぶりにプールに出かけてきた。やはり空いていた。

小学生や中学生は夏休みに友達同士で泳ぎに出かけたりしないものなのだろうか。学校のプールが開放されているのなら、敢えて公営のプールに出かけたりはしないのだろうが、公営プールの近くにある小学校の校内は静まり返っているし、中学校は自分の行動圏内にはないのでわからない。豊島区のサイトを見ると区立小学校は23校だが区立中学は8校しかない。やはり私立や国立へ行く子供たちが多いのだろうか。自分の経験からすれば、家が近所でも学校が違ってしまうと、一緒に遊ぶことはなくなってしまう。今の中学生は何をして遊んでいるのだろう。あるいは遊んだりしないのだろうか。

ちなみに、区内には私立小学校が2校、私立中学が9校ある。区立と私立を合わせると小学校25校に対して中学校17校で、なんとなく座りが良い。私立中学の場合は学区というものが無いのだろうから、区内の子供たちが区内の私立校に通っているわけでは必ずしもないのだが、近隣地域も同じような比率で学校があるなら、通学圏としては違和感は無い。

それにしても、夏休みなのに子供たちの姿をあまり見かけないというのは妙なことである。そうかと思えば、死体が年金を受け取っていたというニュースが流れたりする。怖い物語の始まりのような風景だ。