熊本熊的日常

日常生活についての雑記

パスポート更新

2012年01月16日 | Weblog
先月、香港行きを決めたときにパスポートの有効期限が迫っていることに気がついた。香港の場合は入国時に出国予定日から1ヶ月の期限があればよいので、そのまま旅行の手続きをしたが、今回のように急にでかけるようなことがこの先無いとも限らないので更新しておくことにした。

生活の実質的な拠点は都内だが住民登録は実家の住所なので大宮のパスポートセンターへ出かけてきた。今は行楽時期ではないので事務所は閑散としており、申請用紙を記入し、写真を撮影してすぐに手続きに入ることができた。ただ、巣鴨から大宮というのはちょっとした距離だ。池袋に出たら、たまたま湘南新宿ラインの宇都宮行きがすぐに来たのでよかったが、そうでなければ埼京線で行くか、途中の赤羽で東北線や高崎線に乗り換えることになる。湘南新宿ラインは池袋を出ると貨物線を使った迂回路線で赤羽に出て、その次の停車駅が大宮なので時間的には20分強で着いてしまう。パスポートセンターも大宮駅の近くなので、利便性に問題はない。しかし、時間はそれほどでなくても億劫な距離だ。

一人暮らしというのは身軽でよいが、役所関係のこととなると何かと不自由なものである。これはつまり、社会の制度として家族というものが単位になっているということなのだろう。確かに、管理する立場にしてみれば、ひとりでふらふらしていて、存在するのかしないのかよくわからないような人が多いというのは社会の実態の把握を困難にする。生物として人が相棒を求める本能的な欲求を備えているのかいないのか知らないが、社会としては構成員がある程度のまとまりを持って生活していたほうが都合がよいのは確かだ。「孤独」とか「独り身」といったことに否定的なイメージが世間のなかに醸成されているような印象を受けているのだが、その背後に統治する側の策略のようなものを見出すというのは穿ち過ぎだろうか。年末に小津安二郎の9作品をDVDで観たとき、戦争を挟んで一貫して描かれていたのは、人は所帯を持って一人前という価値観であった。今の日本では単身世帯が多数派を占めつつあるが、それでも「婚活」などという言葉があったり、そうした活動を支援するサービスが商売として成り立っているところを見ると、依然として家族という単位を構成することが「自然」とする価値観が存在しているということだろう。

厚生労働省の資料によれば、日本の合計特殊出生率は人口の再生に必要とされる2.1を下回って38年が経つ。傾向としては2005年の1.26を底にわずかながら上昇しているものの2010年においては1.39という低水準のままである。単身者が増えると同時に既婚者の出産も減少しているとなれば、人は当然に家庭を持つという仮定の下に設計された社会制度は遅かれ早かれ破綻をきたす。既に年金制度は実質的には崩壊寸前だろう。少なくとも私は自分が年金を受給することなく生涯を閉じると覚悟している。綻びを繕いながら社会を運営するというのは、これから困難の度合いを増すことは誰の目にも明らかだろう。手札に希望がなければ持ち札全てを交換するというのはポーカーというカードゲームのルールに認められている。そうしないとゲームが成立しないからだ。昭和天皇の最晩年、連日輸血が行われ実態としては全血交換ではないかと思われるほどだったことも、ふと思い出した。全ての手札を一遍に交換したからといってゲームを有利に進めることができるとは限らないが、少なくともそうしなければゲームをする意味がないような状況なら、そうするよりほかにどうしょうもないのである。輸血をして症状が改善するわけではなくとも、それが残された手段としては最善のものであるならば、そうするしかないのである。毎日がなんとなく続いていると、このままなんとかなるのではないかと思い勝ちだが、それは希望的観測というものだろう。勝算があろうがなかろうが、それまでの延長にこだわらない、びっくりするようなことをやらないと生きていけない時代を生きているように思う。

夢遊病者の群れ

2012年01月15日 | Weblog
15年ぶりで香港の街をぶらぶらと歩き、その間の日本の変化と比較すると、日本の地位低下は必然であることが体感として了解されるような気がする。東京にいるとよくわからないが、都区部から出ると目に見えて活気が失せているように感じられる。端的には所謂「シャッター商店街」の広がりとか、歯が抜けたように街並みが途切れて空き地やコインパーキングになっている風景などに象徴された状況がある。都心部にしても、人の往来は活発だが、携帯端末を手にのろのろと歩く夢遊病者のような輩がやたらに多くなっているように感じられる。一方、香港は街を行く人の速さが異様に速い。これは目的を持って歩いているか否かの差のような気がする。確かにスマホなどではかなり大きな容量の通信が可能なので、経済活動として貴重な情報のやりとりをしている場合もあるだろう。しかし、決定的に重要な情報のやりとりが携帯端末で可能なのだろうか。大きな価値を生むようなことというのは、結局は生身の人間どうしの接触によってしか可能にはならないように思うのだが、どうなのだろうか。携帯端末のような限定的な伝達手段でやりとりできることは、結局はその程度のことでしかないのではなかろうか。

ある都市の単位面積あたりの活動人口が同じであったとして、それが目的を持って行動する人たちが多数である都市と暇人が多数を占める都市とで、経済力にどのような格差が生じるか、ということは誰でも容易に想像がつくことだ。景気が悪いからそういうことになるのか、夢遊病者のような輩が多いから経済が凋落するのか、ということはわからない。間違いなく言えることは、漫然とゴミのような情報を消費するだけの人間が蠢く社会に未来は無いということだ。

3時間半プラス6時間弱

2012年01月14日 | Weblog
香港を15時20分に発つフライトで帰国した。このフライトに搭乗するためには14時55分までにゲートに行かなくてはいけない。そのためには、チェックインカウンターやセキュリティチェックなどの混雑次第だが14時には空港に着いていたい。交通渋滞や不測の事態も考えれば香港市街を13時には出たい、と考えるのは合理的なことだ。今回利用したのは勤務先指定の日本の大手旅行会社のパッケージ商品で、空港と宿屋の間の送迎が含まれている。旅行会社としては限りなく個人旅行に近い客に対して個別には対応できないので、1台のバスで複数の宿屋を回って客をまとめて空港へ向かうことになる。私の宿屋がそのなかで一番の遠隔地なので、誰よりも早く出発の用意をして宿屋で待機しなければならない。指定された時間が11時半だ。結局、11時半に迎えのバスに乗り、九龍地区の複数の宿屋を回って市街を出たのが12時半頃だった。

不測の事態がなければ、空港では時間の余裕がある。出国審査やセキュリティも混雑などの障害が無ければそれほど時間を要するものでもない。仕事での往来ならフライトの時間ギリギリまで何かとやることがあるだろうが、観光なら何も無い。そこで空港内部、とりわけ出国審査後の空き時間をどのように過ごすかということが旅客にとっての課題となる。香港もそうだが、世界の主要空港はどこでもターミナルビルの当該エリアが百貨店のような様相を呈している。公共の場所が清潔で便利で快適であるというのは文明としては大事なことである。しかし、空き時間を利用するビジネスよりも、空き時間を作らずに目的地へ迅速に大量に人や物を運ぶビジネスのほうが経済効果は大きいのではないだろうか。空港内の飲食店や物販店や各種サービスが充実しているというのは、果たして本当にその場所の競争力と言えるだろうか。

フライト自体は成田まで3時間半でしかない。成田に着いたのが定刻より少し早い日本時間の20時頃。早足に入国審査場へ向かい、所定の手続きを経て成田第2ターミナル駅を20時43分に出るスカイライナーに乗った。日暮里で山手線に乗り換えて巣鴨の住処に着いたのが21時半を少し回った頃だ。結局、3時間半のフライトでも6時間近くを飛行機の外で過ごしたことになる。なにかと物騒な世の中なので、リスク管理が必要なのは仕方がないのだが、もう少しなんとかならないものなのだろうか。

ゆらゆらと

2012年01月13日 | Weblog
香港藝術館を訪れた。何の予備知識も持たずに来たので、最初の展示が何かということに興味があった。日本で公立の「美術館」というと絵画、しかも西洋絵画の展示で始まるのが一般的だ。西洋で描かれたものであれ日本人が描いたものであれカンバスに油彩で描いた作品が「美術」の筆頭となる。定着していることをとやかく言っても始まらないが、他民族国家ならいざ知らず、単一民族国家と呼ぶことに違和感のない歴史と文化を持った国の公の「美術館」が来館者に対して示す第一の作品が西洋画というのはどういうことなのだろうか、といつも思う。

それで香港藝術館だが、常設の最初は書だ。漢字を創造した国が、その美術館の最初の展示で漢字の標準を示しているのである。これ以上納得のいくことがあるだろうか。尤も、来館者の多くにとって書はさほど魅力のあるものではないらしく、展示室内に長時間に亘って滞在する人は一人もいない。少なくとも、私がこの部屋に入った時点で先客は皆無で、滞在中に何人かが入って来たが、入室から約1時間後にここを出るとき、やはり私以外に客はいなかった。書と言えば必ずと言っていいほど登場する王羲之はここでも存在感を放っている。それは自分が見知っている数少ない書家のひとりであるという所為も多分にあるだろうが、やはり本家中国となるとこうした場での展示に供される書家人口が日本の比ではないということだろう。となると自然に見覚えのあるものに目が向かうので、それを「存在感」と認識してしまうということなのかもしれない。

あくまでもなんとなくという感覚なのだが、時代が下がって20世紀後半ともなると、書家の作品にあざとさのようなものを感じてしまう。中国あるいは香港の場合、20世紀という時代は表現者にとっては必ずしも恵まれたものではなかったのではないだろうか。恵まれないどころか存在が許されないと言っても過言ではない状況だったかもしれない。もちろん、表現活動に対する社会の許容度と表現作品の質的なものとの関連は定かではないだろうが、全く無関係ではあるまい。書画という伝統分野においても、そうした社会の状況の影響があるのかないのか知らないが、所謂「現代」と括られる時代の表現の特徴は、地域を問わず、あざとさが先走り勝ちであるように個人的には感じている。

陶磁器の展示は、展示スペースの制約もあって量は必ずしも多いとは言えない。それでもさすがに本家本元であるだけに古代から清代に至るまで主だったものを一気通貫に眺めることができるのは嬉しいことだ。美術館に展示されている中国の官窯の作品は、人間技とは思えない完成度の高さが第一の特徴だ。時の権力者の愛蔵品になるほどのものなのだから究極の完成度が追求されて当然なのだが、あまりに厳しいものだと自分との間の断絶が大きすぎて、その存在に現実味を感じられなくなってしまう。それは単に私の育ちが悪い所為と言われれば反論の余地は無い。しかし敢えて言わせてもらえば、生活のなかに取り入れることのできないようなものに興味は無い。技巧を極めること、極めたものを求めることは、物事の進歩として重要なことであるには違いない。そうした進歩や最先端のことが特定の権力者にとどまるのではなしに、人々の生活のなかに反映されて広く享受されることはもっと重要だと思うのである。

現代の作品は作家の国籍とか思考のバックグラウンドから離れる傾向に在るように思う。全体的な流れとしては20世紀以降、抽象化が進む方向にあるので、作家個人の文化的背景を説明しないと伝わらないようなものよりは、世界の誰が見ても直感できるようなもの、世界の誰に対しても直感を要求するようなものが主流になっている。良く言えば普遍性が追求されている。悪く言えば排他的になっている。普遍性と排他性とは相反することのように思われるだろうが、切り口によっては同じことだと思うのである。普遍性、つまり個人とか時代とかを超えて人間の生活や歴史のなかに刻み込まれるものというのは、余計なものを削ぎ落した本質のなかの本質というようなものだ。それは具体性を削ぎ落すということでもある。なぜなら、具体性というのは言語化して説明できるということなので、言語という特殊性、それぞれの言語の成り立ちという特殊性を共有した者の間でしか伝えあうことができないことになる。つまり、普遍的なものを説明することはできず、それが当然のことと感じることしかできない。説明できないのに感じられるということは言語以前のものとして人間の間に共有されているものと言える。だから、それは人種や文化を超えて共有される、つまり普遍性があるということだ。本来的に説明できないものを表現するのが美術や芸術なのである。説明できないのだから表現したつもりでも、それが伝わっているかどうかは検証できない。となると、わかり合ったつもりでいる人たちの間でしか伝わらないということになる。そこに排他性が生じるのである。例えば、巨大なカンバスの全面に様々な色を塗り散らかしただけにしか見えないような作品を前にして、「おぉ、これいいなぁ」と心の底から感じる人がどれほどいるだろうか。その作品のその時点での「普遍性」が社会において認知されるのは、その社会における既存の権威が「これはいい」と表明しなければならない。「裸の王様」の寓話が示す如く、権威の認知があれば実体がどうあれ、人はそこに価値の幻想、あるいは価値という幻想を見るのである。つまり、芸術や美術というのも市場のなかにあるということだ。権威による裏付けだけが頼りで社会の中に存在するのである。全く紙幣と同じではないか。ただの印刷物をゴミと紙幣に分けるのは権威の裏付けの有無以外にない。

では権威とは何か。共同幻想だろう。誰もが当たり前のように信じているが、別の幻想が生まれてそれを支持する「101匹目の猿」が現れると途端に変化してしまう。世に確かなものなど何もないのである。

今日はこの後、香港歴史博物館を訪れた。先日、佐倉の歴史民俗博物館を訪れたのことをこのブログに書いたが、香港の「歴史」はもっとすごい。ここでは地球誕生まで遡って「歴史」が語られているのである。展示は実物大の模型を使ったものが多用されている体感型の構成になっている。日本の占領時代のことも触れているが、予想していたよりも小さな扱いだ。以前、シンガポールの歴史博物館を訪れたときに、少し衝撃的だったので、そういう意味ではほっとした。

角を丸める

2012年01月12日 | Weblog
昨夜から富豪東方酒店に逗留している。ここに泊まろうと思って選んだわけではなく、予算の制約のなかでたまたまここになった。

初めて香港を訪れたのは1985年の年末だった。利用したフライトは国際線の定期便に進出する以前の全日空のチャーター便で、使用機材はB727だった。駐機場はターミナルビルから離れた場所なのでボーディングブリッジを使うことはできず、飛行機の乗り降りにはタラップを使っていた。その時の旅の目的は国境を見ること。日本は島国なので、陸続きの国境というのはどこにもない。学生時代にはオーストラリアとインドを訪れたが、国境を目にする機会に恵まれなかった。1985年の2月から3月にかけてインドを旅したとき、国境紛争というものに初めて触れた。インドはパキスタンと中国との間で国境に関して見解の相違がある地域を抱えている。カルカッタの中華料理屋で知り合ったバックパッカー仲間がロンドンからバスを乗り継いでやって来たのだが、どうしてもパキスタンからインドへバスで越えることができず、仕方が無いのでそこだけは飛行機を利用したというのである。以来、陸上の国境というものを見てみたいとの思いが高まり、どこか近くにそういう場所は無いかと探してみると、落馬洲に「国境展望台」なるものがあるのを見つけた。当時の香港は北京条約に基づいてイギリスが中国から租借していた地域なので、香港と中国の境界は国境とは違うのだが、実質としては香港がイギリスの海外領土として機能しており、境界を越えるには然るべき手続きを必要としたのだから国境と呼んで差し支えないだろう。今は落馬洲まで鉄道が通じているが、当時は九広鉄道で上水まで行き、そこから元朗へ行く路線バスに乗って落馬洲で下車しなければならなかった。路線バスの停留所などいちいち案内が無いので、運転手に頼んで降りるべきところで声をかけてもらうようにした。落馬洲の停留所から国境展望台までは田圃のようなところを突き抜けるように伸びる細い一本道を歩く。後から知ったのだが、田圃のように見えたのは鴨の養殖池だそうだ。数分も歩けばこんもりとした木々の塊のような丘に突き当たる。その丘が「展望台」だった。人影は疎らで、絵はがき売りの老人が何人か入れ替わり立ち代わり近づいてくる程度の、観光地離れした観光地だった。ここで1985年の大晦日だったか1986年の元旦を過ごしたのである。その後、観光で1回、仕事で数回、香港を訪れたが、いずれも自分の意志ではなかったので、自分で来ようと思って来たのは今回が1985年以来だ。

クビとか解雇と書いているが、正式には「早期退職制度への応募」なので、正式な退職日までは社員として福利厚生も利用できる。今回退職する勤務先では年間6万円分の福利厚生補助金があり、それが手つかずのまま残っていた。折しも香港在住の友人が「遊びにおいで」というので、その補助金を使ってやって来たのである。補助金の利用には制約がある。そのひとつは勤務先指定の旅行会社を通じて宿泊を申し込まないといけないというものだ。もうひとつの制約は1回の権利行使で使用できるのは5万円までということ。格安なフライトと宿泊の組み合わせなどいくらでもありそうだが、そういう事情なのでフライトと宿泊の選択の余地は殆どなかった。

今逗留している富豪東方酒店は昔の空港の前にある。割り当てられた部屋の窓からはその空港跡地が見える。ただの空き地だ。市街へ出るには路線バスかタクシーを利用する。宿屋の前のタクシー乗り場には、タクシーの台数よりも待っている人の数がはるかに多いときもある。それでも近くをバスが頻繁に往来しているので、バスの利用に馴染めば穴場の宿かもしれない。年季の入った建物なので部屋は広いし、近隣には地元客相手の飲食店が軒を連ねている。名は体を表すのか名前負けしているのか知らないが、そういう富豪酒店なのである。

今日は初日なので、とにかく歩き回った。宿屋を出るときはバス路線を把握しておらず、タクシー待ちの行列が短くなる気配もなかったので、市街へ向かってとりあえず1時間歩くことにした。今回に限ったことではなく、初めての場所ではとにかく歩いてみることにしている。香港はその名が示す通り海に面しているので歩くときの目安を定め易い。水というのは生活との関わりが深く、水のある場所を拠点に地形や街が形成されている場合が殆どだ。ここ数年はご無沙汰だがトレッキングをする場合もコース設定の際には沢や川の位置に注意する。実際に現場を歩くとき、その沢や川が自分の位置を知る上での確かな目安になる。とりあえずの目的地をHung Hom駅としたのだが、1時間歩いてもそれらしい雰囲気にはならない。海沿いをただ歩くのは芸が無いので、海の位置を意識しながら、あちこちの路地やら商店街やらを歩いたので、1時間といっても最短距離で歩けば3kmちょいくらいだろう。たまたまそのときいた場所がLaguna Verdeというところで、そこを構成するいくつかの高層建築物のうちのひとつの前に客待ちのタクシーの列があった。そこでタクシーに乗って駅へ行く。メーターは23ドルだったので、距離にして2kmちょいといったところ。あのまま海沿いを歩けば、おそらく距離はもう少し短かったと思われるので、そのまま20分程度歩き続ければ駅に到達できたことになる。これで宿屋から最寄り駅までの距離感を把握することができた。

街並みという点では、昔歩いたときの感覚とそれほど変化していないように思う。もちろん、至る所が再開発されてはいるが、それは全体の雰囲気を変えるほどのものではないように感じられる。道路に大きくはみ出した看板も相変わらずだし、並んでいる商店の様子も自分の記憶のなかのものと変わらない。街並みの印象にどれほど影響を与えていることなのかよくわからないが、路地角の建物の多くが、その角の部分を曲面にしてあるのが気になる。単に立方体や直方体の建物にするのではなしに、角を丸めることで、街や人との親近感が増すように思うのである。新しい建物は工場で製造した規格化された部材を組み合わせるだけで建てられていることが殆どだが、古いものは人の手をかけた分、意匠や造作に作り手の思いや美意識がより濃厚に表現されたということだろう。これは今回香港を訪れて初めて気付いたことだ。

ありえないのはわかっていても

2012年01月11日 | Weblog
西武ギャラリーで山田洋次監督の回顧展のようなことをやっている。山田監督といえば「寅さん」だが、こうしてフィルモグラフィを前にすると、かなりしっかりとした筋が通っているように感じられる。もちろん、彼の作品を全て観たわけではない。「寅さん」シリーズはたぶん殆ど観ていて、それ以外では「幸せの黄色いハンカチ」とか、最近の作品では「武士の一分」、「おとうと」などを挙げることができる。どの作品にも共通しているのが所謂「絆」がテーマになっていることだ。それはもうベタなほどの拘りようで、信念というよりも信仰に近いのではないかと思えるほどである。しかし、それが映像作品として人々から愛されるということは、社会全体としてもそうしたものへの渇望があるということだろう。

そもそもエンターテインメントとは何か、映画とは何を表現しなければならないのか、ということを思えば、人々が求めていながらも容易に手に入らないものを比較的簡便に補うものであると思う。言わば、パズルの欠けたピースのようなものではないだろうか。現実には人の人生というのは傍目にどれほど恵まれているように見えようとも我欲がある限りは満たされるということはありえない。常に何らの欠落を覚えながら生きるのが多くの人にとっての現実の生活というものだろう。その欠落をたとえ一時であっても埋めるものに人は快楽を覚えるのだと思う。それが薬物やアルコールのようなものへ向かう場合もあるだろうし、ささやかな道楽で慰められる場合もあるだろう。一口に映画といっても商業的な成功を狙ったものから作り手のマスターベーションのようなものまで様々なので、「映画」ということだけでどうこう言うことはできないのだが、少なくとも社会で認知されるためにはミッシングピースたり得るものでなければならないと思う。

寅さんのような人が現実に存在しうるとは思えないし、仮にそういうキャラクターが存在したとしても、それを映画に描かれているように周囲が暖かく受け容れるとは思えない。しかし、ああいう世界があったら楽しいだろうな、とは多くの人が感じるのである。だから「男はつらいよ」があれだけ長期間に亘って制作され続け、それが興行として成り立ち続けたのである。「黄色いハンカチ」にしても同じことだ。人は時々刻々と変化する現実を生きている。暗黙のうちに明日が今日の延長上にあると信じているが、そんな保証はどこにもない。保証がないのは承知の上で、いや、保証がないのを承知しているが故に明日を信じるのである。生活に追われていれば、いつ戻るかわからないものを待ったりはしない。だからこそ、自分を待つ誰かがいると信じたいという欲求が人並みの我欲と生命力を持っているなら、誰にでも程度の差こそあれあるのではないだろうか。

撮影中に震災があった「東京家族」で監督が何を描くのか、素朴に興味を覚える。

ウォーミングアップ

2012年01月10日 | Weblog
年明け最初の陶芸教室だ。素焼きが終わった壷が2つあったので、釉薬を掛ける。それらの壷の様子を眺めて、どちらも青磁を掛けることにした。但し、首の長いほうは還元焼成で丸っこいほうは酸化焼成にすることにした。施釉の後、時間に余裕があったので碗を挽くことにした。前回から3週間空いているので、今日は大物を挽くというようなことはせず、碗を3つ挽いた。本当は5つくらい挽くつもりで土を準備したのだが、最初に挽いたものがやや肉厚になった所為で、想定していた土の配分が狂ってしまった。それでもさすがに挽くのに要する時間は短くなっている。早く挽くことが必ずしもよいことではないのだが、習熟度の向上と捉えればこれも進歩のうちだろう。

今日はこの後、再就職支援会社のセミナーに出席。いつも思うことだが、狐と狸の化かし合いのようなことに嫌悪感ばかりが高まるのだが、そういう下らぬことでも真面目に取り組んでおかないといけない状況に置かれているのだから仕方がない。ただ、化かし合いもそれなりに人の心理とか世の中の仕組みといったものと関連しているので、そうしたものを考える上では興味深いことである。講師の話術が巧みであったこともあり、楽しいセミナーだった。

燃えるような装飾意欲

2012年01月09日 | Weblog
昨日、歴博でしみじみと縄文土器を眺めてみた。弥生土器との比較として、肉厚や硬度の違いなど、焼成方法に代表される技術面はさておき、文様の違いを考えた。そのあまりに大きな差異に、縄文人と弥生人とは全く異質の人類なのではないか、というような説もあるらしい。縄文時代と呼ばれる時代は、その古さ故に不明な部分も多く、十把一絡に2万年にも亘る時間を「縄文時代」と称しているので、同じ地域のなかで当然に人の出入りはあっただろう。しかし、縄文土器の文様は単に縄文が付いているという程度のものから火焔模様と呼ばれるようなものまで様々ではあるものの、一様に模様の存在感が大きい。それは美意識というよりも、信仰や呪術的要素によるものなのだろう。長い時代のことなので、その間の事情も変化するが、基本的には狩猟漁労と初期農業によって生活が営まれていたとされている。いずれにしても農業や生態系といった科学技術面での知識は乏しく、その分、呪術や原始宗教のようなものへの信仰が厚かったことが容易に想像できる。そうした自分たちの生活を取り巻く得体の知れないものへの怖れや信仰の表現が土器の装飾とか土偶のような用途不明の人形の制作を動気付けたのではないだろうか。

弥生時代になって水稲栽培が始まると土器類も装飾に乏しい実用本位のものになるということは、社会のなかの知識量が増えてその分得体の知れないものへの怖れが減じたということを象徴しているのではないかと思うのである。水稲栽培となると、治水灌漑といった社会レベルでの作業負担が重くなり、自ずと社会性が増すことになる。当然に人と人とのコミュニケーションが質量共に増加し、科学技術をはじめとする社会として共有する知識量が大きくなっただろう。同時に生産性も向上したであろうから、そこに余剰生産物が生じる余地も出て来る。余剰が生じればその分配を巡って政治も発生する。政治が発生すれば主義主張の対立も生まれ、武力抗争も発生する。弥生時代の社会を特徴付けるものとして環濠集落や高地性集落も挙げられることがあるが、武力抗争と集落の周囲に巡らされた堀や柵との関連はともかくとして、生産活動を共同で行う集団が、その集団行動の便宜と精神的な一体感を醸成すべく物理的な共同生活の場を形成することは合理的であるように思われる。

つまり、知識量の増大と激しい装飾の度合いには関連性があるのではないだろうか。知識薄弱な状態が強いほど装飾が過剰過激になりがちで、知識の増加に従って装飾が単純化してくるという傾向があるのではないだろうか。それは古代人だけのことではなく、現代に生きる我々にもある程度当てはまるのではないかと思うのである。自分を飾り立てる心理は、不安や恐怖の裏返しではないだろうか。ブランド品や虚飾虚言で自己を大きく見せようとする背後に、浅薄空虚な実態があるのではないか。土器を眺めながら、ふとそんなことを考えた。

2万年対2時間半

2012年01月08日 | Weblog
佐倉にある国立歴史民俗博物館を訪れた。以前から一度観てみたいと思っていた博物館だったが、少し遠いのでなかなか足を運ぶ機会を作ることができなかった。今年に入ってから葉山や鎌倉の美術館を訪れたので、その勢いのようなもので、今日、足を伸ばしてみた。全く先入観無く訪れたつもりだが、見応えのある楽しい場所だった。

昨日の新年会に出かけるときに履いた靴底が思いの外摩耗していたので、午前中はその靴を持って購入店舗である外苑前のトレーディング・ポストに立ち寄る。外苑前から地下鉄銀座線で上野に出て、京成上野で12時07分発の特急に乗り換えて佐倉に行った。京成佐倉駅に着いたのが13時02分。京成本線は家屋が密集したなかを縫うように走るが、勝田台を過ぎたあたりから沿線は緑地が開けてくるというか、視界が遠方まで開けてくる。進行方向左手に印旛沼を過ごすと右手には緑に覆われた高台が見え、その緑から突き出した要塞のような建物の壁面に「歴博」の文字が浮かぶ。そこから線路に並行して道路が走っているらしく、ファミレスのロードサイド店舗の看板やコンビニのそれがいくつか続く。間もなく列車は京成佐倉駅に到着する。南口に出ると駅前にセブンイレブン。空が広い。

一見して、駅から歴博までの間に腹ごしらえをする場所がなさそうだと直感する。確かに、ファミレスはあったが、ここ数年はあの手の場所は利用しないように心がけている。駅前で適当なところを見つけて入ることにした。駅を背にして歩き出すと左手に中華料理屋がある。ここでもいいかなとは思ったが、もう少し進んで信号の角まで出る。その角に「Café de COT」という店がある。入口にメニューの一部を書いた黒板が出ていたので、それを見てこの店に入ることにした。入った瞬間の感じが良かった。まだランチの時間帯でもある所為かテーブルも半分くらい埋まっている。ランチメニューのなかから「牡蠣と牛蒡のパスタ」とアッサムを注文する。注文したものを待っている間に、先客は次々と勘定を済ませて出て行ってしまったが、ぼつぼつと新しい客が入ってくる。店の人とのやりとりを聞いていると、どの人も常連のようだ。こういう雰囲気の良い店というのが時々ある。料理も飲み物も特にどうというほどのことはないのだが、工夫が感じられる。そういう姿勢が客を吸引するのに重要なのだろう。食事を済ませて勘定を払うときに、店を開いてどれくらいになるのか尋ねてみたところ、今年で4年目に入ったという。

歴博へ歩いていくと、駅前で食事を済ませて正解だったことがわかる。このあたりは住宅街とはいえ、東京やその周辺の建て込んだものとはちがって、歩いているのが楽しくなるような長閑な雰囲気が漂う。歴博はかつての佐倉城の一画にある。維新後は陸軍佐倉連隊の駐屯地として使われた。1975年に歴史民俗博物館の基本設計が行われ、1977年に建設用地の無償所管換えが実施されて施設整備が着手された。翌78年に起工式が行われ本体施設が完成したのは1980年、翌年4月に国立大学共同利用機関として国立歴史民俗博物館が設置された。一般公開は1983年3月からである。電車の窓から見えた建物が要塞のように見えたのは、それが城を意識したものだからだろう。

さて、歴博の展示だが、閉館までの2時間半ではとても全部を観ることはできない。カバーしている時代が縄文時代から現代まで2万年なのである。それを2時間かそこらで眺めてやろうという発想に根本的な無理がある。大阪の民博もそうなのだが、歴史とか民族というような際限の無いテーマを相手にすれば、どれほど素材を厳選したところで語り尽くすことなどできるものではない。殊に歴史ともなると、そもそもの始まりがよくわからないし、「現在」というものも固定できるものではない。時々刻々と膨張を続けるのが歴史なのである。それを鉄筋コンクリートという固定された器に納めるというのだから、よほど知恵を絞らないといけないということになる。また、見学する側も、何を知りたいのか、何を見たいのか、という自分なりのテーマを持って展示の前に立たなければ、何ら得るところがない。見せる側見る側双方の気の合ったところで初めて実りあるものが生まれる。

何もこの博物館に限ったことではない。相手のあること全てに共通することだ。落語だって、漫然と聞いていたのではその本当の良さがわからないし、人との付き合いも欲得ずくでは楽しくもなんともない。どれほど些細なことであれ、自分が相手に対してどのように働きかけるか、相手に対して何ができるか、という意識がなければ関係性というものがそもそも成立しない。傍から見てどうこう、言語化数値化してどうこうというのではなく、自分の感覚として相手との対称性を認識できなければ関係と呼べるものは成立しないし維持できない。

私の場合、今回は歴史よりも民俗のほうに関心があってここを訪れた。陶芸をやっている所為もあり、器というものを考えるヒントのようなものをいつも求めている。そういう点で、縄文土器から現代の茶碗に至るまで一気通貫で概観できたことが面白かった。特に縄文土器から弥生土器に至る部分については思うところがあるが、それは明日にでも書こうと思う。

歴史に関しては、今自分が置かれている状況との関連という意味で関東大震災に関する部分や戦後の復興についてのところに強い興味を覚えたが、殊に戦後の部分で、復興や工業化の背後で農山漁村の自給自足的な生活様式が崩壊していったことを改めて認識させられたことに衝撃にも似た強い印象を持った。私個人としては親も祖父母も賃労働で生計を立てる家庭だったので、田舎の生活というものを全く知らない。ただ、以前にもこのブログで書いたかもしれないが、幼年時代に過ごした長屋は田圃を潰して造成した土地にあり、周囲には農地がかなり残っていた。殊に小学校低学年のうちは遊び相手の過半が農家の子供達だったこともあり、農家の様子というのは間接的には見聞きしている。確かにそうした農家が農業を廃業し、田畠を売却して事業を始めるとか、隠居するというような事例は身の回りにいくらでもあった。そういう家のなかには土地の売却で得た資金で大きな屋敷を建てる人が少なくなく、かなり頻繁にあちこちの棟上式に出かけて行っては、散撒かれる菓子や小銭を拾ってきた思い出がある。当時は漠然と成金はいいなというくらいのことしか思わなかったが、それが現在に至って様々な問題の根のひとつになろうとは、今から思い返せば妙な納得感がある。

企画展は「風景の記録」と題して写真資料が特集されている。関東大震災の前後、長崎への原爆投下の前後、といった写真資料は素朴な好奇心も手伝ってかなり熱心に見入ってしまった。長崎の原爆投下後の惨状を記録した写真が絵はがきに加工されて占領軍の兵士相手に販売されていたという事実には驚かされたが、戦争というのはそうしたものなのだろう。

歴博は交通の便が悪い立地の所為かもしれないが、閉館時間が16時30分とやや早めである。来る前にウエッブサイト上の利用案内を見たのだが、16時半というのは入館の最終だと勝手に解釈していた。確かに公共交通機関を利用して訪れることを考えると、職員の帰宅のことも勘案すれば、これくらいが妥当なのかもしれない。

帰りは京成佐倉16時45分発の快速西馬込行きに乗り、青砥で京成上野行きの普通列車に乗り換えて日暮里には17時49分に着いた。そこから京浜東北線と埼京線を乗り継いで実家へ行く。21時過ぎに実家を出て22時前に巣鴨の住処に戻った。

新年会

2012年01月07日 | Weblog

毎年、この時期になると以前の職場の有志の集まりがある。幹事役の強力な組織力と人徳によってもう20年くらい続いているのではないだろうか。私個人はその幹事役の人と直接の接点は無いのだが、有り難いことに毎年お声をかけて頂いている。もとは同じ組織に属していても、長い間には転職する人もあれば独立する人もあるので、結果として多様性に富んだ集まりになる。様々な世界で活躍する人たちと話をするのは大変楽しい。何かで聞きかじった言葉だが、「人一人を知るのは図書館一つを手に入れるのに勝る」と言うらしい。大袈裟な物言いのように聞こえるが、人一人が発する情報量というのは知識のような言語化できるものだけではないので、それこそ人徳というような評価のしようのないものまで含めて考えれば、図書館どころの比ではない。ひとしきり歓談した後、最後に一人ずつ2分程度で近況報告をするのだが、そこにも示唆に富んだものが多い。

よくこのブログに書くことだが、昔の私なら積極的にこうした集まりに足を運ぶということはなかった。今回も喜び勇んで、というわけではなく、多少は億劫に思うところもあった。それでも、一人でいたのでは何も生まれない、価値は人との出会いのなかにしかない、と自らを励まして人の輪のなかに飛び込むのである。入ってみれば、「案ずるより産むが易し」という通り、楽しい時間を享受することになる。「楽しい」というのは一時的な感覚のことを言っているのではない。その場限りの楽しさなら、それが終わった途端に空虚感を味わうことになる。何が楽しいのかと言えば、その場での見聞を基に、あれこれ考えを巡らすことが愉快なのである。私だけでなく、他のメンバーもそうした楽しさを感じているからこそ、こうして毎年飽きもせずに集まってくるのだろう。

以前はこの集まりは夜だったのだが、メンバーのなかに子供を持つ人が増え、子供連れで参加しやすいように昼になったと理解している。その子供達のなかにも就職する年頃の人たちが出てきた。同じことだが、メンバーのなかには老齢や病気で動きのとれない人たちも出てきた。人生のフェーズが変われば、変わったなりの経験の蓄積もでき、それが話の厚みにもつながるだろう。また、伊達に年だけとるというのでは人として情けない。どのような場所に出ても楽しく会話ができる自分というものを作り上げるのが真っ当な年のとり方だろう。

今日はこの集まりが終わってから、上野の国立博物館に立ち寄り常設展を眺めてから巣鴨の住処に戻った。高円宮の根付コレクションが展示されていたが、あまり感心するものはなかった。妙に華美に走ってみたり、繊細になってしまったり、要するに作り手が自我を押し付けるような五月蝿いものが目立つように感じた。ミュージアムショップでは書籍の安売りがあった。安売りになっているものを2冊、そうでないものを1冊買い求めた。


少しずつ立て直す

2012年01月06日 | Weblog
午前中、下肢静脈瘤の検査で専門病院を訪れる。予約したのは11月10日頃だったが、そのときで一番早い枠が今日だったのである。検査の結果、手術することになった。手術のほうは一番早い枠で来月上旬。即予約した。検査は超音波によるエコー検査で、血管をあらゆる角度から診て、内部の血流までわかる。そんなことは今の時代の医療としては当然なのだろうが、こうして体験してみるとたいしたものだと思わず感心してしまう。手術のほうはレーザーを使った日帰り手術で、術後1~3ヶ月は特殊なストッキングを着用するとのこと。それには決められた履き方脱ぎ方があり、今日はその説明も受けた。ストッキングのことは知っていたので、手術の時期は冬場がいいだろうと考えて今の時期に診察を受けることにしたのである。検査からストッキングの説明まで所要時間は約1時間。病院の近くで昼を済ませてから東京駅へ出る。

東京では保険会社へ行って、保険料の支払いを給与天引から銀行引き落としへ変更する手続きをする。2社回ったのだが、片方はその場で手続きが完了し、もう片方は銀行へ行って所定の書類を届け出なければならない。同じ事務なのに手順が違うのは興味深いことである。その場で手続きが完了したほうは、端末に引き落としに使う銀行のキャッシュカードを通して暗証番号で承認することで手続きが完了する仕組みらしい。ちょっとしたことなのだが、機械化の進展度合いの違いが大手と呼ばれる会社の間でも存在するということなのだ。

巣鴨の住処に戻るとすぐ、東京ガスの設備担当の人たちがやって来た。予定では15時から17時の間とのことだったが、まさに時間通りだった。ガスの工事なので安全第一でなければならないのだが、給湯器設置の最後の30分近くは点検と確認のための作業のようだった。物事が決められた通りに進むというのは、当たり前のようだが凄いことだと思う。

夕食はピザを焼いて食べる。昨日と一昨日にパン生地を作って冷凍してあるので、それを台として利用する。昨日作ったものには大豆を茹でたものを混ぜてみた。一昨日のは何も入っていない。今日は大豆を混ぜたほうを使う。ピザソースというような気の利いたものがないので、台の上にまずトマトのスライスを並べる。その上に玉葱のスライスを敷き詰める。その上にはエリンギのスライスを並べる。そして厚揚げのスライスを乗せ、その上からチーズをばらまく。具が多すぎて水気が出てしまったが、それを想定して深皿で焼いて、箸で頂いた。デザートは林檎。食後にコーヒーを淹れる。今日のコーヒーはマンデリン。いろいろ飲むのだが、自分はマンデリンが一番好きだなと近頃改めて思う。

食事の後片付けをしてから映画を観にでかける。テアトル新宿のレイトショーで上映中の「ミツコ感覚」を観た。酷い映画で、単に気持ち悪いだけだった。現実をスケッチしただけのような作品で、登場人物が悉く馬鹿ばかりという救いの無いものだ。救いの無い現実に生きている人に対して、「救いがないですよね」と語りかけることに何の意味があるというのだろうか。

いざ鎌倉

2012年01月05日 | Weblog
昨日、葉山の県立近代美術館へ行ったとき、同館の鎌倉のほうでシャルロット・ペリアンの展覧会が開催中であることを知った。会期が1月9日までということなので、早速今日出かけてきた。また同別館のほうでは「日本画 ザ・ベスト・コレクション」を開催していて、チラシに使われていた片岡球子の「足利尊氏」に惹かれて、こちらへも足を伸ばした。

午前中はアウトプレースメント会社での起業セミナーに出席。就職先が見つかっても見つからなくても、遅かれ早かれ自分で事業を営むということが生計を立てる上で不可欠な時代になることは目に見えている。せっかく自己負担無しでいろいろセミナーを受講できるので、この機会は無駄にしないよう心がけている。セミナーの内容や、そこで自分が考えたことについて、ここに書くことは差し控えるが、おおいに参考になったことは確かだ。

昼食をアウトプレースメント会社近くの定食屋で済ませ、東京駅13時24分発の横須賀線逗子行きに乗り、鎌倉に14時22分に到着。昨日ほどではないが、かなりの人出で、改札口が臨時に1つ設けられていた。駅からは小町通りを行くが人が多くて思うように歩くことが出来ない。人の間を縫うように進み、美術館にたどり着くと、ようやく静かになる。鎌倉は観光地なので、平日昼間でもそれなりの人出があるが、まだ松の内なので普段の週末並みの人出であるような気がする。

ペリアン展は実物よりもパネルが目立つ印象がある。スペースの関係もあるだろうし、美術品というよりも実用品なので、多少は言い訳がましくなるのも仕方が無いのかもしれない。ペリアンが商工省の招聘で輸出工芸指導顧問として来日したのは1940年。既に第二次世界大戦が始まっており、しかも敵国フランスの人だ。彼女を推薦したのが、ル・コルビュジェの事務所での同僚であった坂倉準三。本展の会場である県立近代美術館も坂倉が設計している。国の関係と個人の関係、敷衍すれば集団の関係と個人の関係、あるいは制度と個人の関係というのは必ずしも連動しないことの証左を示していると言えないだろうか。民藝運動では戦争に関係無いかのようにイギリス人のバーナード・リーチが在る。こうしたことを友情というような情緒的な言葉で片付けるわけにはいかないだろう。個人の在り様として、その世界観とか価値観というものがあり、それが相互に関係し合ってそれぞれにとっての社会や世界になる。集合論の基本でもあるが、集合を構成する個々の要素の属性と集合の属性は一致しない。制度として存在する社会や世界は、それを構成する個人のそれとは一致しないのが当たり前なのである。殊に自分の考えや信念というものをしっかりと持った人は、目先の世間のさざ波などものともしないのだろう。従って、対米開戦前とは言え、同盟国の敵国人であろうとも、その人選に自分が確信を持っているなら躊躇はしないだろうし、ペリアンの側にしても同じことだろう。尤も、会場で上映されていた女史のインタビュー映像によると、彼女は来日をためらい周囲の人々に相談したそうだ。戦火のなかにある人の行動としてはそれも当然のことだと思う。

ペリアンは1941年に東京と大阪の高島屋で「選択、伝統、創造展」という作品展を開催している。日本は既に1938年に国家総動員法を施行しており、素材に用いる物資には様々な制約があったはずだ。その制約の影響もあって、竹製品や藁を使った製品が数多く出展されたという。会場でのパネルに書かれた説明によれば、彼女は1ヶ月のうち3週間は日本各地を回るという強行軍のなか、自分のアイデアを提示しつつ各地で工芸品のサンプル制作を要請したという。そうやって集められたプロトタイプを基にその作品展の作品が作られたのだそうだ。そのときの作品のいくつかが今回の展示のなかにあった。赤松を基調にしながら異なる種類の木材を貼り合わせて天板にした大きなテーブルは、さすがに狂いが著しく現時点では使用に耐えないものとなっている。それは素材への理解が浅かったということかもしれないし、敢えて狂いを狙いながら狙い通りにならなかったものかもしれない。こうして残された資料や展示品を眺めると、そうした咀嚼不足感は否めないが、木材や藁という日本独自のものではないにしても日本風の印象のある工芸素材とフランス人である女史の感性や知性の融合された空間の在り様が独自性に富んだ興味深いものとなっている。

1953年にご主人がエール・フランスの東京支社長に就任したことに伴い再び来日したペリアンは2年後に「芸術の綜合への提案 コルビュジェ、レジェ、ペリアン3人展」を東京高島屋で開催する。こちらのほうは、戦前の展覧会の時の日本というものへの過剰な意識から解放されて生き生きとした展覧会になっているような感を受ける。その解放感は前回の戦時体制下の緊張感からの解放ということもあるだろう。今回の展覧会のチラシに使われている「オンブル」と名付けられたスタッキングチェアは文楽に着想を得たそうだが、軽やかで美しい。事ある毎に書いているが、日本の文化の特徴は軽みにあると思っている。このオンブルという椅子は、その軽みとその時代の空気としてのモダンが見事に融合したもののように私には見える。日本だけでなく欧州も先の大戦では焼け野原になった。そこから復興を開始して10年が経ち、それまでとは違った明るく希望のある世界にしようという意欲が日本にも欧州にも満ちていたのではないだろうか。その希望がデザインに表出しているようにも見えるのである。

転じて現在の我々の生活を取り巻く世界に希望と呼べるような明るい展望を抱いている人がどれほどいるだろうか。電気回路の集積度が上がるとか、LEDのような新しい部品ができるとか、通信技術が向上するというような所謂「技術の進歩」によって我々の生活は「便利」にはなったと言えるだろう。しかし、それは「豊か」になったと言い換えることができるだろうか。もちろん、「豊かさ」の定義次第ではあるのだが、「豊か」になっているのに「閉塞感」に苛まれるというようなパラドキシカルな現実はないだろうか。豊かであること、幸福であること、そうした希望のある生活の中身についてもっと問い直されてもよいのではないかと思うのだがどうなのだろう。

本館を後にして別館も訪れた。こちらでは「日本画 ザ・ベスト・コレクション」という企画展が開催されている。こちらも閉塞感が漂っているように見える。日本画とは何なのか。日本画の用具と手法を使えば「日本画」なのか。そもそも日本画と西洋画を区別する意味はあるのか。そんなことを漠然と考えた。

今日は留学先の同窓会組織の会長をしている飯田さんの作品展の初日である。鎌倉からの帰りに会場である恵比寿の飲み屋に立ち寄る。その店は風花(fuca)という名前のバーのようなところだ。カウンターだけの小さな店だが、その壁面に飯田さんの作品が並べられていた。こういう個展のやりかたもあるのかと勉強になった。店のご主人は元映像関係の仕事をされていたとう竹田津さん。野菜ソムリエの資格をお持ちだ。最初は西麻布で開店されたのだそうだが恵比寿に移って何年にもなるらしい。バーで食事というのはいかがなものかと思ったのだが、私は酒を飲まないほうである上に腹が空いていたので「食事はできますか?」と尋ねてみた。すると、なんと定食があったのである。鰈の干物か鮭の西京漬か選ぶのだが、鰈のほうを選んだ。正真正銘という魚沼産コシヒカリのご飯とシメジのみそ汁、それに小皿が3つ4つ付いたものだ。飲み屋の飯物というのはたいがい旨いのだが、ここも例外ではない。開店間もない時間に入ったので、他に客がいなかったこともあり、いろいろ楽しいおしゃべりをしながら美味しい料理を頂いた。

巣鴨に着いてから銭湯へ。明日予定通りに給湯器の交換が完了すれば、これがとりあえずの最後の銭湯になる。今晩は巣鴨湯。

社会派から始まる

2012年01月04日 | Weblog
年明け最初の美術展は神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」から始まった。「芸術新潮」の1月号がベン・シャーンの特集を組んでいて、それを読んで実物が見たいと思ったのである。「ベン・シャーン」という名前は初めて耳にするように思ったが、作品を見るとなんとなく見覚えがあるような気がした。つまり、この作家に対してはその程度の認識しかなかった。それが「芸術新潮」の記事を読んで、俄然興味が湧いてきた。どれほど高精細な写真であっても実物に勝るものはないし、なによりも実物の大きさというのが印象を左右する大きな要素なので、興味が湧いたら実物を見るというのが、その興味の先に何事かを見出す基本だ。これは絵画や写真に限ったことではないのは言うまでもない。私は自分が若い頃にその基本を疎かにしたツケを今頃になって払っている気がしてならない。殊に人に対する姿勢が消極的に過ぎたと反省している。

巣鴨から葉山までは電車とバスを乗り継いで約2時間かかる。午前10時過ぎに住処を出たが、年賀状を発送するために近所にある巣鴨郵便局に立ち寄る。くじ付の年賀切手を買って、局内の机で準備してきたはがきに切手を貼る。それを投函して外に出たら10時半を回っていた。巣鴨から山手線外回りで東京に出て、11時12分発の小田原行き普通列車に乗る。戸塚で横須賀線に乗り換える。東海道線と横須賀線が分岐するのは次の大船だが、戸塚で乗り換えると同じホームでの乗り換えとなるので、乗り換えのために電車に乗り損なうというようなことがない。戸塚11時51分発の横須賀線逗子行きに乗ると終点には12時13分に到着する。ちょうど腹の空く時間でもあるので、駅構内にある立ち食いそば屋の大船軒で「鯵賄いごはん」と単品の天ぷらを頂く。酢で締めたぶつ切りの鯵が酢飯の上に乗った素朴な丼だ。たまに立ち食い蕎麦が食べたくなって、駅構内の店を覗くのだが、思いの外、多種多様なメニューがある。ちょとしたことなのだが、それぞれの店が工夫をしている様子が伝わってきて、利用する立場としては素直に嬉しくなる。

逗子駅前からは路線バスで約20分で美術館の前に着く。このバス路線は特筆ものだ。なにが凄いかというと、普通の大型バスなのだが、バス路線の半分くらいがやけに狭い道なのである。よくもまぁこんな道にバスを通すものだと感心してしまう。今日は天気に恵まれたので、海沿いの道を行く車窓からの眺めがたいへん気持ちよいものだった。

前回、この県立近代美術館葉山を訪れたのはジャコメッティ展のときだったような記憶がある。とすると、5年半ぶりだ。尤も、あれから何か大きな変化がある様子もない。いざ、ベン・シャーンの絵や写真を眺めると、雑誌の記事であれこれ想像していたことがストンと了解されたり、あるいは、現物はこういうものなのかと驚いたり、とにかく楽しい。今回の展示作品は自分で撮った写真を基に構成したものが多く、そういう作品は絵と基になっている写真とが並んで展示されている。モチーフになっているのは市井の人々。それもどちらかといえば庶民やそれ以下の境遇に置かれている人たちだ。彼自身が帝政ロシアでユダヤ人家庭に生まれ、迫害から逃れるように米国へ渡り、苦労を重ねて芸術家となった生い立ちを持つということも、社会の弱者へ意識を向ける要因のひとつになっているのではないだろうか。彼の場合はアーティストとしての地位を確立した後も一貫して社会が抱える問題に注目し続けた。それが「社会派」と呼ばれる所以でもある。

正直なところ、彼の絵にも写真にも特段惹かれるものは覚えない。ただ単純化された構図とか、その割に几帳面に描かれた煉瓦の壁とか床の板に、妙に引っ掛かるものを感じる。また、写真と絵を並べたときに、何故、数ある人物からその人物を選んだのか、とか、背景を変えることで何を伝えようとしたのか、というようなことが気になるのである。あと、レコードジャケットの仕事はカッコいい。近頃は音楽といえば自分の気に入った曲だけをダウンロードするという買い方が一般的であるようだが、やはり「アルバム」と呼ばれたLPレコードが音楽市場のあり方としてのひとつの頂点だったように思う。ジャケットのデザインは、LPサイズだから様になるのであって、CDサイズに小さくなるとデザインの味わいが薄れてしまう。確かに、LPの時代にはジャケットのデザインに惹かれて買ってはみたものの、肝心の音楽のほうにがっかりするというようなこともあった。それでも「まぁ、いいっか」と思えるようなジャケットなら救いを感じたのである。今日の展示を観ると、そういうジャケ買い衝動を起こさせるようなものが並んでいて、ふと、そうした苦い思い出が脳裏をよぎったりした。

来日したときの写真は、やはり自分が日本人なので、素朴に興味を覚えた。62歳のときに、ニュージーランド、インドネシア、タイ、日本などを3ヶ月ほどかけて旅行したそうだが、日本では京都の俵屋旅館に1ヶ月ほど逗留したという。つまり、日本では実質的に京都にしか滞在していなかったのである。一昨年の6月、私はたまたま京都へ旅行に出かけたのだが、その時宿泊したホテルが俵屋の近くだった。さらにこれも偶然だが、彼が京都滞在中に骨董品を購入したという新門前通りはAero Conceptの直営店がある通りでもある。京都で彼が撮った写真を見ると、現在の様子とさほど変わっていない。今から50年以上も前のことなのに、今でも違和感なくすっと入ってくる風景が京都という街を特徴付けているということなのかもしれない。

ベン・シャーンの仕事で日本と関係あるものとしては第五福竜丸事件に触発されたとされる「ラッキー・ドラゴン」シリーズがある。このなかの主要なものが展示されていたが、被爆国というのも日本を特徴付ける要素の一つだとの思いを新たにした。私はまだ広島にも長崎にも行ったことがないのだが、少なくともどちらかの街を今歩いておかなければならないとの思いが日に日に強くなっている。福島の原発のことも広島長崎への思いを強くするひとつの契機だったし、それ以前に、職場の同僚のオーストラリア人が日本人の配偶者を得て、休暇で来日したときに、日本のことを知るには広島を見ておかないといけないと思った、と言ってかの地へ出かけたのも、私の中で広島への興味が湧くひとつの出来事だった。やはり、広島へ行かなければならない。

美術館の裏手は海岸で、この寒い中、サーフィンを楽しむ人たちがたくさんいた。バスで逗子駅に戻る途中、駅近くになってノロノロ走る車窓から商店街の街並みを眺めていたら、英会話教室だの中国語教室だの富士山の写真募集だのと手書きのポスターが店先に貼られているカフェが目についた。駅でバスを降りてからそのカフェへ行ってみると、店の奥では何やらサークル活動中らしき中年男女のグループがいた。カフェだがコーヒーではなく田舎しるこを頂いた。いかにも自家製という暖かい感じのおしるこだった。

帰りは逗子16時03分発の湘南新宿ライン宇都宮行きで池袋まで出て、山手線に乗り換えて巣鴨まで戻った。住処には17時半頃着いた。

年賀状を書いたり

2012年01月03日 | Weblog
年賀状は手書きで書くと宣言したのは一昨年の暮れだった。昨年は年賀状を書かなかった。あまり迷うこともなく、止めることにした。心静かにペンを握って、というような気になれなかったのである。この正月三が日は、元旦の夜に実家へ顔を出したのと銭湯に出かけた以外は住処に籠って片付けものに精を出している。文字通り散らかっているものを片付けるということもあるが、長い間冷蔵庫の隅に放置されていた大豆を煮るとか、戸棚に使いかけのまま置かれていた強力粉でパン生地を作るというようなこともあれば、読み終えて付箋を貼ったまま積んである本の付箋のところを読み直すということもした。そうやって身の回りの整理整頓をするなかで、頂いた年賀状に返事をしたためた。年賀切手がまだ売られていればそれを貼ろうと、発送は郵便事業会社が年明けの営業を再開する明日まで待っている。

今のところ、頂いた年賀状は巣鴨の住処と埼玉の実家に届いたものを合わせて20通だ。手書きをしようと思えばできない量ではないが、パソコンで一枚一枚に応じて文章を作ってプリンターで印刷した。ここ数年は、長々と下手な文章で一杯にするのが私の年賀状だったが、今年は半分をWordのテンプレートに入っている既成の絵にして、文章は3センテンス前後で短くまとめた。年賀状はおそらく読むものではなく見るものなのではないかと考えたのである。それなら一覧性を持たせることが読者に対する配慮だろうと思い、上記のような量でまとめることにした。文末にこのブログを紹介して、当方の近況はこちらに委ねたつもりだ。

ところで銭湯だが、今日は昨日の柳湯より近いところにあるニュー椿へ行った。料金も内装も紛れも無い銭湯なのだが、建屋の見た目はスーパー銭湯のようだ。たまたま銭湯の前のガードレール代わりの柱に黒塗りの年代物のアメ車が突っ込んで警察が現場検証をしている最中だった。警官はパトカーではなく自転車で現場に来ていたが、いろいろ問題があるのか、通常これくらいの時間がかかるのか知らないが、銭湯を出るときにまだそこにいた。このあたりは銭湯を利用する人が多いらしく、ニュー椿もなかなかの賑わいだ。しかも、こちらには立派な彫り物をしたおじさま方も何人かおられる。その土地がどのような場所なのかを知る一助として、そこにある銭湯を訪れてみるというのは貴重な情報獲得手段になるかもしれないと思った。

昨日に続いて今日も夕食は外食にした。巣鴨地蔵通りでは有名な定食屋で「ときわ食堂」というのが2店舗あるのだが、年明けは今日から営業だ。特別変わったところのある定食屋とも思わないのだが、たいへんな人気店でいつ覗いても満席に近い。今日は銭湯に行く途中、庚申塚のときわ食堂の前を通ったが、店の前で席が空くのを待っている人がいた。その前を通り過ぎ、都電の踏切を越えてインド料理屋のコルカタキッチンを訪れる。ここは逆にいつも空いていて、自分以外に客が居るということが滅多にない。それでいて開業してからもう1年半くらいにはなるのではなかろうか。いったいどのようにして経営が成り立っているのか素朴に謎に満ちた店なのである。このインド料理屋も客がいないということ以外は特に変わったところのない店だ。特に旨いわけでもなければ不味いわけでもない。値段が高いわけでもないし安いわけでもない。今日はベジタブルカレー、ナン、サモサ2個を頂いた。そう頻繁に訪れるわけではないが、他に客がいないということもあり、落ち着いて食事を楽しむことができるので、私はこの店が好きだ。今日は住処を出るときからここに来ると決めていたので、スパイスの匂いに晒され、手にもカレーの香りが染み込むインド料理屋を先に訪れてから、銭湯へ行った。明日は水曜日なので生協の宅配で食材が補給されるため、それを見てから夕食を外にするか内にするか決めるつもりだ。外だとすると、席が空いていれば庚申塚のときわ食堂にしようかと思う。

銭湯の日々

2012年01月02日 | Weblog
給湯器が壊れているので内風呂が使えない。昨日は風呂無しで済ませたが、今日は近所の銭湯へ出かけた。日頃の主たる移動手段が徒歩と公共交通機関なので、こういう場合にどこになにがあるということがすぐに思い浮かぶ。週に一回、実家に行くときに埼京線の板橋駅まで歩くのだが、巣鴨から板橋までの旧中山道沿いに2カ所、少し離れて白山通り沿いに1カ所の銭湯があることは把握していた。今日はまだ営業しているかどうか不安があったので、日没後まずは偵察がてら散歩に出かける。住処から一番近いのは旧中山道から庚申塚の交差点を大塚方面に折れたところにある巣鴨湯。これは休み。回れ右をして白山通りに突き当たったところがニュー椿。これは今日のところは朝湯だけの営業で明日から通常営業。白山通りを西巣鴨まで歩いて、明治通りとの交差点で池袋方面に折れる。旧中山道と交わる掘割交差点近くにある柳湯は夜8時までの短縮営業ではあるが営業中であることには違いない。急いで住処へ引き返し、タオルを持って柳湯へ。番台で入浴料のほかにシャンプーとボディソープの小瓶を買って中に入る。けっこう賑わっている。銭湯に入るのは鷺宮の借家に住んでいた頃、やはり給湯器が雪をかぶって故障してしまい、近所の銭湯を利用して以来のことだ。銭湯は衛生上の理由もあって、湯の温度がやや高めになっているが、おかげで身体が芯から温まる。今日は住処まで10分近く寒空の下を歩かなければならないのだが、そういうときでも湯冷めはしない気がする。

それでも念のため、途中にある登久という中華料理屋で店の名前を冠したラーメンである登久麺をいただく。所謂「ラーメン通」が取り上げるようなものではなく、街の中華料理屋のありふれたラーメンだ。私はこういうもののほうが好きだ。この登久麺は何が普通のラーメンと違うかというと、豊富な具材だ。基本はタンメンで、そこに卵とじが施してある。銭湯を出て、少し冷めたところで、ラーメンを食べて再加熱をする、というイメージだ。さらに都電の踏切を越えたところにあるコンビニで、だめ押しの肉まんを買って頬張る。こうして万全の体制で住処へ無事帰還した。明日は巣鴨湯もニュー椿も通常営業なので、どちらを選ぶにしろ今日のように途中で熱補給をしなくても済みそうだ。銭湯通いは今週木曜日まで続く。せいぜい楽しもうと思う。