熊本熊的日常

日常生活についての雑記

べすとせらー

2012年02月14日 | Weblog

巷では「おじさん図鑑」なる書物が売れているらしい。なにを隠そう私も持っている。しかも「熊本熊さま なかむらるみ 2011.12.20」という筆者のサインまで入っている。なかむらるみさんに初めてお目にかかったのは2010年9月8日だ。大塚の杉田さんのお宅での彫刻教室を見学におじゃましたとき、受講生のひとりとしてスプーンを作っておられた。今のところそれが最初で最後なのだが、たいへんかわいらしいお嬢さんだという印象だけはいまだに強く残っている。「お嬢さん」というのは印象のことで、蛇足ながら書き加えておくと、なかむらさんはご結婚されている。それでサインはたまに出かける小石川の橙灯というカフェの坂崎さん経由でお願いして書いて頂いたのである。坂崎さんは本書34頁「おっちゃん探訪 大阪・名古屋」に「紀子さん」として登場する。蛇足ついでに書き加えておくと、坂崎さんもご結婚されている。それで本のことだが、先日、神保町の三省堂でベストセラーの第3位にランクされているのを見てたまげた。サインまでいただいておいてこんなことを書くのもなんだが、それほどの内容のものではないと思う。ただ、ともすればシニカルな書きようになってしまいそうな内容を好意的に書いているというところが読者獲得の主要な要因ではないかと思う。いったいどのような人が購入しているのか知らないが、多くの人が手にするものというのは、多少の毒気を感じながらも根っ子の部分にはそういう優しさのようなものがあるように思う。

ところで本についての感想だが、特にない。前に書いたように著者の暖かいまなざしが印象的だった。ただ、2カ所気になるところがあった。まず一つは42頁のコラム「ギャンブル場に行こう」に戸田ボートが抜けている。ほかにもちょいちょい抜けているのだが、戸田市で幼年時代を過ごし現在も実家がある身としては戸田ボートが抜けていることだけは看過できない。あとひとつはドヤ街でのことを書いた122頁に原発関連の仕事の相場について触れているところだ。
「日雇い労働者のおじさん達が原発で働く話は噂で聞いていたのだが、ここではリアルに行われているようだった。昔から日給7万円というような仕事はあったらしいし、地震後は「3分3万円。割り切って行ける人を募集します」なんて仕事が出るらしい。」
と、伝聞調で書いているが、それはこの本が小学館というメジャーな出版社から出ているもので滅多なことは書けないということへの配慮であって、著者はちゃんと見聞しているのではないかと私は見ている。3分3万円なら割り切ってもよいかもしれない、と今真剣に考えている。

おじさん図鑑
なかむら るみ
小学館

今日は陶芸の日だったが、年明け最初に挽いた碗が3つ素焼きから上がっていたので施釉をする。卯の斑をかけてみた。土が並信楽なので焼き上がりはクリーム色になり、還元焼成なら灰色がかった斑が出る予定だ。いままでは釉掛けの後、乾燥した釉薬のでこぼこや垂れを削って肌をきれいに整えたのだが、今日はそういうものをそのままにしておいた。中途半端に見てくれを繕うという姿勢は醜いのではないかと不意に感じたのである。せっかく釉薬という液状のものを使うのだから、その動きを景色として活かしたほうがよいのではないかとの思いが急に湧き上ったのである。この施釉のほかに、1月31日に挽いた壷2つを削って整形した。微妙な違いでしかないのだが、それでも今まで挽いたなかでは一番大きな壷と、今まで挽いていた平均的な大きさの壷である。大きいほうは削り加減に今ひとつ確信を持つことができず、ちょっと厚めになってしまったような気がする。平均的なほうは特にどうということもない。ただ、片付けて帰る段になって、やはりもう少し攻めておいたほうがよかったのかもしれないとの思いが頭をもたげた。来週削る予定の壷については、もう少し気持ちを入れて向かい合おうと思う。


私は何者なのか

2012年02月13日 | Weblog
先週木曜に続いて今日も山田常山についての講座を受講する。今日は出光美術館の特別講座だ。これは美術館の休館日に開催されるもので、講座の前後の時間を利用して空いている展示室内をじっくりとまわることができる。講演は展示に関する内容なので、講演で聴いたことを展示を眺めながら反芻することができる大変ありがたい講座だ。この講座の講師も先週丸の内カフェの講座と同じく出光美術館学芸員の柏木麻里さんだ。私が陶芸をやっていて焼き物に興味がある所為なのかもしれないのだが、先週の講演も今日の講演も話がたいへんわかりやすくて、ついつい引き込まれてしまった。柏木さんは詩人としても活動されているので、言葉の扱いが微妙なところで常人とは違うのかもしれない。それはともかくとして、この展覧会を観るまでは山田常山という人の存在そのものを知らなかったので、こうしていろいろな背景知識を得ると自然に作品を観る眼も変化する。それでも、講演の前に観たときの感想に大きな変化は現れなかった。1月29日付のこのブログに書いたように、やはり後半の自然釉の作品群よりも初期の朱泥の作品に魅力を感じる。全くの想像だが、「山田常山」という大看板を背負うに際し、一番多く挽いてきたのが朱泥作品だったのではないだろうか。それゆえに、朱泥の急須を作るのは「作る」という意識よりも、自然に挽けてしまうという境地にまで行っていたのではないだろうか。だからあのような自然にそこに生まれてきたかのような端正な佇まいが実現できているのではないかと思うのである。自然釉のほうは「自然」に拘泥するあまり意識が勝って自然から遠くなっているように感じられ、そこに本人の意図との距離が想像されて、私には痛々しく感じられるということなのだ。

出光の講座の後、午後1時20分頃まで展示を眺めてから、同じ建物の地下1階にある伊勢廣でやきとり重をいただく。ここの焼き鳥は私が社会人になったばかりの頃からいただいているが、いつ食べても旨いと思う。

腹が膨れたところで六本木へ移動する。まずは国立新美術館で開催中の野田裕示展を観る。特に感想というほどのものはないが、やはりポロックを観たときと似たようなことを感じる。その後、サントリー美術館へ移動して東洋陶磁展を観る。

サントリー美術館では大阪市立東洋陶磁美術館のコレクションのなかから中国と朝鮮半島の作品で構成された「東洋陶磁の美」という展覧会が開催中だ。この大阪の陶磁美術館も一度出かけてみたいと思っているのだが、限られた時間で民博ともうひとつというのは厳しい。民博を外せばよいのだが、なんとなく外せないのが今のところの気分なのである。さて、サントリー美術館は2つのフロアで構成されているのだが、今回は4階に中国陶磁、3階に朝鮮陶磁が展示され、順路に従えば中国を先に観てから朝鮮に移るようになっている。中国陶磁、殊に歴代の宮廷に伝えられた品々は人間技とは思えない完成度の高さが特徴だ。対する朝鮮陶磁は言葉では表現できない味わいが素晴らしい。勿論、愛でる側の好みの問題なのだが、どちらがどうということではなしに、どちらもそれぞれに惹かれてしまう。好きになるという理由を理路整然と語るうちは本当に好きとは言えない。言語表現を超えたところに惹かれることが「好き」の本当の意味ではないだろうか。しばらく前から民藝についてあれこれ見聞したり読んだりして、その方面に関心が向いている所為もあるのだろうが、朝鮮陶磁を眺めていると自然に頬が緩んでしまう。技巧的には今ひとつというところが無きにしも非ずというようなものも無いわけでは無いのだが、好きとか嫌いという感覚と技巧の巧拙との間にはあまり関係がないということが改めて確認できる。人の心、もっと言えば自分の気持ちを撫で摩るものとは何なのか、改めて自分自身というものを問うてみたくなる。

花のように

2012年02月12日 | Weblog
10日に下肢静脈瘤の手術を受け、その日から翌朝までは左脚を圧迫包帯で巻いていたのだが、包帯を解いた後は特殊なストッキングを履いている。それが何事もなく治まっていればよいのだが、歩いたりしているうちにずり落ちてくる。ずり落ちたのを直すにはズボンを脱がないといけないので、数時間おきにトイレの個室に入ることになる。ところが、トイレというものは自分の都合に合わせてそこにあるわけではない。これからしばらくはトイレの位置に気を配っておかないといけない。で、そのストッキングなのだが、ずり落ちることの他に気になることがある。脚の付け根を締め付けるテープ状の部分があり、そこに花の模様が編み込んである。男女の別のあるものではないので、女性も着用することを念頭にこのような模様があるのだろう。常々疑問に思っているのだが、女性の下着などでレース状の模様が入っているのがあるが、あれは何故なのだろうか。下着にレースの模様は果たして必要なのだろうか。そこに如何なる美意識を発露しようというのだろうか。新宿の靖国通りの地下街に女性用下着の専門店があり、その前を通るたびにそのディスプレイに眼が釘付けになるのだが、色といい意匠といい、あの装飾は一体誰に見せるつもりで施されているのだろうか。時々人に尋ねてみたりするのだが、未だに説得力のある明快な解答を得たためしが無い。ちなみに、このストッキングはドイツ製なので、日本の下着固有のことではなく、あちら側でも状況は同じなのだろう。

それで花の話題だが、今日は深沢の而今禾を訪れ花道家である上野雄次氏による花いけの実演を拝見してきた。大きな壷に桜の枝とツツジを生けたり、別の壷に別の苔のついた枝と菜の花を生ける、たいへんダイナミックなものだった。桜は勿論咲いていない。まだ漸くこれから蕾をつくろうかというようなところだ。寒い日が続いているが、それでも花の素くらいはそれとなくわかる。2月も中旬に入ったので、あと1ヶ月半もすれば咲き出すものもあるだろう。自分のことも含め、世間はあたふたとしょうもないことに追われているのだが、そんなことはお構いなしに自然は時を刻み続けている。しょうもないことやしょうもない人に自分の生活を乱されたとき、それを立て直すのに必要なのは何があっても変わらずに身近にある類のものだと思う。少しくらい寒かったり暑かったりしても毎年当たり前のように花をつけたり実を結んだりする草木もそうしたもののひとつだろう。そういう意味で草木のような人になりたいものである。

げーじゅつについて

2012年02月11日 | Weblog
たまにこのブログの読者から「よくあちこち出かけてますねぇ」と呆れられているかのような声をかけられたりする。「だって、ヒマだから」と答えているのだが、昨日からはヒマであることに加えて「安静にしていてはいけない」という新たな事情が加わった。毎日が休日なのだが、週末は就職活動や職業探訪活動もないという意味で正真正銘の休日だ。そんなわけで午前9時起床と、いつもよりゆっくりとした朝を迎える。しかし、起床後は脚の包帯を解いて洗濯したり、ついでにフツーの洗濯もしたり、トイレ掃除に室内のクリーナーがけと一連の家事をこなす。芋を蒸かし、コーヒーを淹れて遅めの朝食のような早めの昼食のような食事をして後片付けも済ませてから国立近代美術館を目指して出かける。

先日、丸の内カフェで和服についての講演を聴いたとき、資料のなかに織物の人間国宝である北村武資の展覧会のチラシが入っていて、それを観に行こうと思ったのである。巣鴨から都営三田線で神保町に出て、都営新宿線に乗り換えて九段下で降りる。さすがにサツマイモ1本だけでは早くも空腹感に襲われ、地上に出てすぐのところにあるスパゲティの店で「本日の…」をいただく。トマトとチーズのスパゲティで、期待以上の味だった。建物の2階にある店で、地上階の階段入口あたりにセンサーがあるらしく、階段を上って店の戸を開くと店員が待ち構えているという仕組みになっている。その店員がお人形さんのようなかわいらしいお嬢さんで、それだけで料理はなんでもかまわないという気になる。それでもソースは旨く、麺の茹で加減もちょうどよく、気分が良くなったところで、今日の活動が始まるという理想的な日になった。

北村武資展は工芸館で開催中だ。北の丸公園を抜けて行く。織物や布のことはよく知らないのだが、意匠全体としての静と、その意匠を織りなす糸の躍動との対比が面白いと思う。意匠そのものはいくつかのパターンの組み合わせだ。しかしその意匠を仔細に眺めれば、意匠を形作っている糸の動きは必ずしも一様ではなく舞っているかのような躍動と繊細な縦横の組み合わせとがある。そのように糸を微細繊細に舞い踊らせる技があって、織物が生きているかのような表情を見せるのだろう。問題は並んでいるこれらの織物が衣服であるということだ。着る人がこの服に負けないだけの内容のある人物でなければ、ただの野暮天になってしまう。よく人の生活の基本を衣食住と言うが、それは生きていくために必要な要素という意味もあるだろうが、その人となりを表現する基本でもある。誰もが持つものだからこそ、そこに何を選択するかということはよくよく考えないといけないこととなる。名人上手が拵えたものというのは、技が優れているとか他には滅多に無いというようなことで誰もが手にできるわけではない。難しいのは手にできる人とそのものとが調和することだ。それはその人の見た目とか財力以外のことに拠るような気がする。

美術館のほうではジャクソン・ポロック展が開催されている。前衛芸術の価値は誰よりも先んじるということにある。だから「前衛」という。ポロックのような作品であれ、他の抽象作家であれ、おそらくその人でなければ作り得なかったというものは少ないのではなかろうか。同時代の同社会を生きていれば、そこから生まれる発想は必ず誰かしかと共有されるものだ。共有されるからこそ評価されるのである。しかし、「芸術」としての価値を得るには最先端を走り続けなければならない。最先端という稀少性こそが価値なのである。何が先っぽで何が尻尾であるかということはさておいて、社会と共有するものを持ちながら、それまで誰も試みたことの無いことを表現するというのは前衛の大前提だろう。真に独創的でありながら社会の認知を受けるというのは矛盾に満ちていて不可能に思える。しかし、現実に新しい「芸術家」が次々と誕生している。

尤も、歴史に残る人々に比べると近頃の芸術家はスケールが小さく感じられないだろうか。単に同時代の眼で見るから歴史というスケールでの大小がわからないということはあるだろう。それはともかく、現在に比べて情報の伝達がはるかにゆっくりで、人々の生活のありようが現代よりも人間としての身の丈に近かった頃の芸術は人間としての普遍性を追求する余地が残されていたと言えないだろうか。科学技術が発達し、人間の五感を機械に置き換えて再現することが容易になると、芸術には科学技術が実現するものを超えた何かを表現することが要求されるようになる。風景を描くのであれば写真を超えたもの、立体を表現するのであれば図面から起こすことのできるものを超えていなければならない。大勢としては、具象は機械的なものに支配され、芸術としての価値を追求しようとすれば抽象に向かわざるを得ない状況になったということだろう。ところが抽象となると万人にとってわかりやすいというものではなくなる。その時代を牽引する権威に認められ、認められたことがブランドとなって広く大衆から支持を得るという手順を踏むことになる。権威というのは必ずしも社会の政治経済上の上位階層とは限らない。大衆にとってブランドとなるのであれば大衆との距離が遠すぎる階層の支配層よりも大衆内部の英雄的存在のほうがふさわしいこともあるだろう。いずれにしても大衆はその性質上、常に追随する対象を求めるものだ。単に追随するだけで理解しているわけではないので、容易に追随する対象を乗り換えてしまうのである。昨日の権威が今日は霧消していたり、酷い場合は憎悪の対象になっていたりすることはよくあることだ。

となると、芸術家たるためには、闇雲に新しいことを求めるのではなく、権威と結びつきやすく社会と共有できそうな最先端を常に開拓し続けなければならないということになる。かつては権威の寿命が長かった。ローマ帝国は紀元前3世紀に興り東西に分裂するのが4世紀末、末裔の東ローマ帝国が実体を失うのは11世紀を過ぎてからだ。ローマ帝国後、欧州では王朝はいくらも交代したが基本的には貴族社会であり階級社会が続いている。ローマ時代の「市民」は現代の「市民」とは異質のものであるし、現代の「市民」の原型のようなものが勃興したのは大航海時代を経て貨幣経済が世界に広まるようになった17世紀頃からだろう。「広まる」というのは異なる貨幣システム間の交換がなんとなく安定してくる、つまり相場というものが形成されるようになったということだ。そこでようやく王家とか王朝というものは別に、貨幣というデジタル表示でわかりやすい権威指数のようなものを以て資本家という新たな実力者が勃興する。新興権威たる資本家は権威の裏書きをするべく既存権威の記号である貴族という地位を金で買うようになるので、表向きは依然として王家王朝が支配する社会であるかのように見えるが、資本による裏付けのない王家王朝は消滅するよう運命付けられてしまったといえるだろう。貨幣あるいは市場が世の中を動かす基本であることは確実なものとなったが、どういうわけかそれを露骨に表現するということは受け入れられることが少ない。結局あれこれ大義名分を翳して「正当性」であるとか「正義」といった絵空事を語って物事の落ち着きどころを求めるのである。絵空事で物事が丸く収まるなら誰も苦労はしないのだが、それではどうにもならないとわかりながら右往左往しているのが現代だろう。その象徴的なことが20世紀の2つの世界大戦とそれに続く覇権国家間の対立ということではないのか。どうやら覇権を握るというのはいけないという認識が世の中にあるらしく、「覇権主義」ということばは相手を非難するときの常套文句のようになっている。それに絡むのだろうが、20世紀前半の世界大戦前後から、民族自決などと言って国民国家が当然であるかのような幻想が流布しているかのようだ。それでは当然の如く市場社会のなかで小規模国家の経済運営が立ち行かなくなり、地域連合というような方便を試してみるものの、それも崩壊の危機に瀕しているのが現代という時代だ。国という社会の基本が満足に軸足を定めることができないなかにあって、芸術というあやふやなものがそもそも成り立つわけはないのである。必然的に「芸術」の寿命、殊に新興のものは短命にならざるを得ないということになる。

それでジャクソン・ポロックだが、1950年代、彼が30代の終わり頃以降、新しい作品を生み出すことができなくなってしまったというのである。毎日アトリエに出かけてみるものの、なにも描くことができずにその日を終えてしまうということが続いたのだそうだ。もともと精神的に不安定でもあり、アルコール依存でもあり、44歳のある日、酔って車を運転していて事故を起こして即死してしまった。個人の生涯としては悲劇的かもしれないが、我々は誰しも似たような状況に置かれているのではないだろうか。人として生まれれば誰しも自我というものを持ち、欲というものを持つ。人が社会的存在だと言われるが、それは自分以外の人々から認知されることを欲しているということだ。そこには自分の自分に対するイメージと自分以外の人の自分に対するイメージとの相克がついてまわる。多くの人は適当に自己を追求し、適当に諦めて比較的穏やかにその相克を自分のなかに納めて生きる。ただ、人によってはそういう芸当ができない場合もある。正直に自分を追い求めるということは幸せなことかもしれないし不幸なことかもしれないが、そういう常人離れしたところに「芸術」が生まれるのも尤もなことだろう。一旦は断酒に成功したポロックが自身の記録映画の撮影を終えた日に再び酒に手を出すようになったということが何を語るのか。「芸術家」として生きているはずの自分が映像というアーカイブの世界に入ってしまったと感じ、生きているという実感を求めて再び酒に溺れるようになったということではないだろうか。私はジャクソン・ポロックの作品を見ても、それに感動することもないし、それを素晴らしいとも思わない。ただ痛々しくて泣けてくる。

夕食は昨日に引き続いて、タクシーの車窓から見えていた気になる店を訪れた。「肉屋の正直な食堂」という長い名前の店だ。店の作りは牛丼チェーンのようだが、牛丼チェーンと違うのは各席に電磁調理器が備え付けられていて、調理は客が自ら行うようになっていることだ。大通りに面し、駅からも近いという立地で、チェーン店ではないにもかかわらず手頃な価格を実現している。面白いフォーマットだと思う。帰りにもうひとつ気になっていたところを訪れる。鯛焼き屋で、たまに行列ができているのを見かけていた。並んで食べるほどの鯛焼きがあるのかと思っていたが、そういうものではないことがわかった。

手術の日

2012年02月10日 | Weblog
早起きをして陰毛を剃る。今日は午前中に下肢静脈瘤の手術があり、脚の付け根から内視鏡を入れるため、いわゆる「ビキニライン」部分の陰毛を剃っておくようにと事前に言われていた。私はビキニのパンツようなものは履いたことがないので、自分のビキニラインがどのあたりなのかよくわからなかったが、手術の段になって看護師さんが剃り直すというようなことがなかったので、自分が見当をつけた部分というのは正解だったのだろう。

手術自体は1時間もかからないのだが、準備と術後の注意事項の説明などで午前中一杯かかる。昼から就職活動でニューヨークの某氏に電話をすることになっているので再就職支援会社のオフィスへ向かう。オフィスに着いたのが12時を5分ほど回っていたので、急いで電話ブースに入り電話をかける。電話機に「外線は12番」と書いたものが貼ってある。受話器を取り上げ「1」「2」「0」「0」「1」…とボタンを押すがつながらない。よくよく電話機を眺めてみると短縮ボタンの「12」に「外線発信」というシールが貼ってあった。「12」「0」「0」「1」…すると自動音声で「こちらはKDDです。国際電話のかけかたが変わりました。…」正午を15分ほど過ぎたところで漸く電話がつながってみれば、今自宅に向かっているところなので5分後位にかけ直してくれとのこと。少し余裕を見て10分後くらいにかけ直し、あれこれとやり取りをする。ただでさえ英語などよくわからないのに電話越しなので余計に意味不明だ。せっかくなので、なんとなく聴いているふりをしたりいい加減なことを口走ったりしているうちに「じゃ、また」ということになった。断片的に聞こえてきたなかに「perfect」だの「I’ll arrange an another meeting in a couple of days」だのというのが聞こえたので、とりあえずこの話に関しては首の皮一枚くらいはつながっているのだろう。

今日は午前中に手術があって朝食を抜いていたので、電話の最中から腹が鳴っていた。ようやく今日予定されていたことを全て終わり、昼食をいただくことにする。この界隈には以前から気になっていた飯屋があった。勤めをしていた頃、終電後に帰宅するときにタクシーの車窓から見える「Vegetarian」というネオンサインが気になっていた。再就職支援会社のオフィスから徒歩圏内の場所なので、そこを訪れてみた。昼は3種類のメニューから選ぶようになっていて、どれも500円だ。メニューが手書きなので毎日変わるのかもしれないが、今日は以下のようなものだった。
A 牛焼肉定食
B 豚生姜焼き定食
C ハヤシライス
店名と料理とは無関係だった。ハヤシライスを頂いた。店はこの界隈にありがちな風情で、店内の雰囲気の良い店だった。

一般に手術というものの後は安静にするものなのだろうが、下肢静脈瘤に関しては逆で、安静にしてはいけないのだという。とはいえ、左脚は足首から股まで圧迫包帯でぐるぐる巻きになっていて歩きにくいことこの上ない。殊に階段の登り降りがたいへんだ。それでも歩き廻らないといけないと思い、天気もよかったので、無目的に徘徊していた。行き着いた先が秋葉原だ。竹むらでぜんざいでも食べようかと思って寄ってみたら満員で入れなかったので、秋葉原の電気街に来てみたのである。まだ昔のパーツ屋の類は残っているものの、だいぶ少なくなって、ただ騒がしいだけの街になってしまったような気がする。ラオックスのホビー館で鉄道模型を眺めてしばらく過ごす。私が子供の頃、秋葉原といえば交通博物館とカワイモデルだった。カワイモデルというのはHOという規格の鉄道模型の製造販売をしている店で、私にとっては敷居が高かったが外からガラス越しに眺めているだけで楽しいところだった。ほかに鉄道模型では銀座の天賞堂が思い浮かぶ。今は鉄道がかなりメジャーな趣味として認知されているらしく、繁華街には必ずと言ってよいほどに鉄道模型を扱う店がある。ただ、カワイが他と違うのはただ販売するのではなく自ら製造しているところだ。小学生の頃に誕生日かなにかで買ってもらったカワイの103系が今でも実家の物置に眠っているのだが、他のメーカー品にはない独特の雰囲気があるような気がする。尤も、持っているのはカワイの製品だけで他のはショーウィンドーで眺めただけなので、あくまで「気がする」というだけのことなのだが。

巣鴨に戻り、ハニービーンズでモカ・イルガチェフを買って帰る。例によって、30分ほどおしゃべりをする。手術直後は特に感じなかったのに、脚が痛くなってきたと思ったら、昼食後に飲むはずだった薬を飲むのを忘れていた。住処に戻ってすぐに飲む。

好日

2012年02月09日 | Weblog
これからの身の振り方を考える参考にと先日ガラスの表面加工について話を聞きに出かけてきたのだが、その続きで東京ビックサイトで開催中のギフトショーを見学してきた。そのガラス仕事の元締めがブースを出し、そこに実際に加工業を営んでいる何軒かの工房が出展するというので、そういう実例を前に話し合おうというのである。午前11時から1時間近く話し込んで、結論は留保したままなのだが、引き続き検討はすることになっている。それからさらに1時間ほど会場内を徘徊してきた。こういう展示会に足を運ぶのは、何年か前に通訳のアルバイトで幕張メッセに出かけて以来のことだ。その時は私の顧客がそこで開催されたセミコン・ジャパンという展示会にブースを出していて、そこに通訳として詰めていた。その数年前のセミコンに比べると今日のギフトショーのほうが人出が多いように感じられた。不景気の影響で従来の4日間開催というのを3日間に短縮しての開催なのだが、ギフトという間口の広い商材を扱う展示会という所為なのか、ひょっとして景気が少しは良くなっているのか、たいへん賑やかだった。ビックサイト全館を使った展示会なのでとても1時間では回ることができないのだが、今ここの出展社と商売をしようというつもりもないので、ざっと雰囲気だけ把握するには1時間で十分だ。腹も減ったので、会場を後にした。

今日はこの後に入っている予定が午後7時からだったので、間の時間はどこか美術館にでも出かけようかと思っていた。国際展示場前から豊洲行きのゆりかもめに乗って車窓を眺めていたら、ガスの科学館が目に入った。以前に誰かからけっこう面白いという話を聞いたことを思い出し、ちょっと寄ってみることにした。その前に豊洲駅前のなか卯で牛丼をいただく。ファーストフード系の店にはたまにしか入らないのだが、それぞれに特徴があって面白い。牛丼系の店というのは、客の殆どがカウンターやテーブルに覆い被さるように猫背で食べている。食事というより給餌のような雰囲気だ。給餌なので食べ終わればすぐに出て行く。ハンバーガー系は大きく2種類の客のパターンがある。ひとつは、食べることは二の次で、勉強や仕事をする場所として利用する人たち。もうひとつは高齢者が、まだ自分が若いということを自分に言い聞かせるべく利用するもの。あんなものを旨いと思って食べているとは思えないのだが、若い人たちに混じってハンバーガーを食べる私って棄てたもんじゃないわね、と言わんばかりの雰囲気を漂わせていたりすることが少なくない。どちらも店に滞在する時間は長い。回転寿司には妙な人がいる。「えんがわ」だの「中トロ」だのと、多少こだわりのある風なネタを注文して、どうよアタシ、というような風情の人が必ずいる。本当に寿司が好きな人は回転しない寿司屋へ行くのではないだろうか

ガスの科学館はガスの生産から消費に至るまでのことが一通りわかり易く説明されている。消費に関しては調理のことに大きく場所を割いている。直接ガスと関係ないような気がしなくもないのだが、ひとり暮らしで日々自炊をしている身には興味深いことが多く、なかなか見応えのある展示だった。あと、天然ガスがマイナス160度で液化されているというのは初めて知った。実演コーナーで説明役のオネエサンが風船を液体窒素に浸けると風船がしぼむのを見て、思い切り「へぇー!」と思った。たぶん、前のほうの席で説明を聞いていた子供達よりも私の方が驚いたのではないだろうか。透明な風船を使ったときにわかるのだが、そのしぼんだ風船のなかに少量の液体が溜まっているのである。それを液体窒素から出すと風船はもとのように膨らみ、中の液体はなくなっている。へぇー!

豊洲から地下鉄有楽町線で銀座一丁目に出て、徒歩で汐留ミュージアムに行く。現在開催されているのは「今和次郎 採集講義展」だ。私は大学時代の専門が経済史だったので柳田國男や今和次郎の著作は読んでいる。読んでいるのだが、そのときには面白いとは思わなかった。今も手元にドメス出版から出された今和次郎集のなかの第二巻「民家論」と第四巻「住居論」がある。改めてぱらぱらとめくってみると、これが興味深い記述ばかりで、どうしてあのとき全巻買わなかったのかと後悔の念に苛まれている。昨夜の和服の話にも通じることなのだが、自分とそれを取り巻く物理的なものに何を選択しどのように用いるかというのは、その人物の生き方や考え方に基づいていると言っても過言ではない。逆に、衣服や住居を見れば、その人の生き方や考え方が見えてくるということだ。河井寛次郎の言葉で「もの買ってくる 自分買ってくる」というのがあるが、これなどはまさにそういう意味だろう。今は今回展示されているようなものを見てあれこれ自分のなかにあるものと重ね合わせる楽しさを感じることができるのだが、学生時代はそれができなかった。今更ながら偏狭でつまらない人間だったと呆れてしまう。ただ、今の時代に見るからそう思うというのは承知しているけれど、今和次郎の考現学もあと少し踏み込みが欠けていたのではないかとも思う。尤も、自らの観察と記録を丹念に積み重ねていくという手法は深く思考するための大前提であり、今の時代に欠けていることでもある。情報通信技術の進歩で自分が経験していないことでもわかったようなつもりになってしまうほど潤沢な情報をいつでもどこでも必要な時に手にできてしまう、あるいは手にできてしまうという錯覚をしてしまう。これは危険なことだと思う。わかったつもりになる、ということはその先へ思考を深めることを止めてしまうということにもなる。あまり懐疑的になりすぎてもものの見方が偏狭になりかねないが、人の発想は経験を超えることができないものなので、興味を覚えたことや好奇心をそそられるようなことは、とりあえず体験してみるという姿勢を持たないと思考するという人間としての基礎能力が向上しない。今和次郎の研究成果の今日的な意義はその膨大な観察記録にあるのではなく、観察に向かわせた彼の精神の在り方を改めて見直すことにあるのではないだろうか。

夕食は銀座の煉瓦亭でオムライス、トマトサラダ、アイスクリームをいただく。煉瓦亭を初めて利用したのは大学1年の冬休み。当時、駿台でバイトをしていて、バイトの面倒を見てくださっていた正社員の方がキヤノン販売へ転職されることになった。そこで、バイト仲間のお茶大のオネエサンが幹事役となって送別会を催した会場が煉瓦亭だった。以来、平均すると年に1回くらいは利用させていただいている。日本の洋食屋さんのスタンダードと言えるような店で、料理もさることながら、食器類の佇まいや店員さんたちの立ち居振る舞いにも独特のものが感じられる。勘定を払うときに一万円札を出したら釣り札がすべて新札だった。そういう店なのである。

夜は昨日に引き続いて丸の内カフェでの教養講座聴講。今夜の講師は出光美術館学芸員の柏木麻里氏。講演は開催中の山田常山展に関するものだ。たいへんわかりやすい講演で、もう一度展覧会に足を運んでみようと思った。

和服を着てみたい

2012年02月08日 | Weblog
出かけてみようかと思うところがあったのだが、鴨鍋セットが届いたので新しいうちにいただこうと夜まで外出は控えた。一人分の鍋というのは今時珍しくはないのだが、見たところ一人で食べきれそうな量でもなかったので、昼と夜に分けて頂くことにした。昼に頂いて残りは後日、ということも考えたのだが、作ってみると鴨の脂がかなり出ていたので、時間を置かない方が健康には良いだろうと考えた。明日は終日外出なので、昼と夜は外食だ。それにしても、鴨は旨い。鴨と一緒に食べる長葱も旨い。冬は鍋が旨い。

夜は丸の内カフェで開催された和服についての講演会を聴講してきた。銀座もとじの代表取締役社長である泉二弘明氏が講師だ。呉服商の社長さんが講演をするのだから自分の店の宣伝だけかと思いきや、制作工程や素材確保の工夫などものづくりとしての和服の側面をわかり易く解説していただき大変勉強になった。もちろん、全体としてはしっかりとお店の宣伝になっているのだが、それが気にならないほど和服という商品の背景や着こなしというところが話のなかで押さえられていて、楽しい講演だった。

落語が好きということもあって、和服にも関心がないわけではない。ただ、手入れが大変そうであるとか、高価であるとか、なかなか手を出しにくいイメージが自分のなかに形作られている。話を聞いてみれば、それは「イメージ」ではなくて現実なのだが、それでも機会を作って着てみようか、それ以前に誂えてもらおうかという気分になった。

それにしても、「和服」といいながら原材料である絹は97%が輸入品だそうだ。糸を紡ぐのも織るのも染めるのも手仕事がどんどん失われ、日本の衣服でありながら国内で生産することができなくなる日が目前に迫っている。こうした状況は和服に限らず、この国の伝統工芸すべてに当てはまることだ。技術というのは一旦途絶えると再生することが困難になる。道具類は伝承できてもそれを使う人の技術、経験の蓄積によってしか得ることのできないノウハウや勘を伝えることが難しいのである。手がける人が少なくなると、その稀少性によって価格が上昇し、ますます需要が減少して生産に関わる人々の仕事が少なくなるという悪循環に陥る。確かにマスの市場を念頭に置くなら、和服産業を含めた伝統工芸品の商売というのはこれからますます困難になるだろう。しかし、価格原理だけで行動する大多数の人たちとは別に、手仕事を愛好する人々の需要は確実にある。その限られた市場を拡げることは無理であるとしても、現状維持か微かな成長と、海外の手仕事市場との交流といった方向性を変えた拡大可能性は探る価値があるのではないだろうか。現に今日の講師である泉二氏が創業された銀座の呉服商は業容が拡大しているようだし、昨年参加した民藝学校で訪れた先でもそうした世界で活躍されている作家さんたちがおられる。結局、時代の大きな流れに逆らうことはできないのだが、十人十色という言葉があるように、ピンポイントで市場を見れば絶滅寸前の手仕事でも生きながらえる要素がいくらでもあるような気がするのである。なんでもかんでも価格原理とか効率だとかいった薄っぺらなものが支配するわけではないと信じたい。

生き残り

2012年02月07日 | Weblog
朝、パソコンを開いたら勤務先だったところの直属ではない上司だった人からメールがあり、金曜日にニューヨークの某氏に電話をしろとのこと。この人は私に解雇通告を下した側の人なのだが、根が良い人らしく、その後もあれこれと気にかけてくれている。12月にも別の会社の人を紹介してもらい、今回が2社目だ。有り難いことには違いないのだが、私が何をしたいのかということを尋ねたことがない。当然のように前職と同じ職種を紹介してくる。それでも、人の縁というものは大事にしないといけないので、それなりに有り難く思いながら応対させて頂いている。早速、電話の相手にメールを入れるとすぐに返信が来た。やはり電話をしないといけないらしい。一瞬、「国際電話はかなわんなぁ」と思ったが、再就職支援会社にそれ用の電話ブースがあることを思い出したので、下肢静脈瘤の手術の帰りに寄って電話をすることにする。当面の目標として、仕事を少なくとも三つ確保することを考えている。一つは最終的な詰めに入っているので、あと二つなんとかしないといけない。複数の仕事を同時に走らせるとなると、あまり負荷の大きいものはどうかと思うので、前職と同じものくらいがちょうどよいのかもしれないとも考えてみたりする。尤も、よいもわるいも決まらなければしょうもないので、まずは決めの一歩手前くらいまでは持っていかないといけない。

さて、陶芸のほうでは、前回に続いて今日も壷を二つ挽いた。メールのやり取りで住処を出るのが遅くなったので、教室の開始時刻に10分ほど遅れたが、壷二つというのは予定通りの作業だ。どちらも一個挽きで、轆轤の上に粘土をドーナツ状に置き、その上に板を固定してその上で作品を挽く。今日は一つ目を挽くとき、途中で板が轆轤から外れてしまい、その復旧に手を焼いてしまった。中心がずれてしまうと、歪んでしまう。ちょうど筒状に伸ばし終えて、これから胴を拡げていこうとするところだったので、そこで止めるというのももったいないことで、なんとか形にまとめたものの、ぼんやりした風情になったような気がする。二つ目は練りが不十分だったのか、最初の塊をまとめる段で、なかなか思うようにいかなかった。筒状に伸ばしたところで先生に見ていただき、「無駄な土がなく、よく挽けている」とのことだが、それでも少し先生の手が入る。胴を拡げながら、形を探っているうちに少し迷いが出て中途半端なものになってしまったかもしれない。

今日は先月24日に釉薬を掛けた壷が焼き上がっていた。12月13日に挽いた二つのうちの一つだ。もう一つのほうは、翌週20日に削ったときに底を抜いてしまってお釈迦になった。壷は大きさと形状の所為で乾燥が遅いので少なくとも2週間は室のなかに置いておかないといけないと、そのとき改めて思い、今日は先週挽いたものを削るのではなく、新たに挽いたのである。これまで壷には長石系の釉薬をかけていたのだが、これには鉄赤をかけた。用途は最終的にそれを手にした人が考えればよいことなのだが、作るほうとしてはなんとなく花器を想定して作っている。どのような花を生けるのかというところまでは考えていないのだが、主役は壷ではなくて花のほうだと思っているので、喧しくならず、かといってそこそこの存在感のあるものを、というようなことを心がけているつもりだ。写真の壷が今日焼き上がったもので、赤土に鉄赤を掛けて還元焼成をした。赤土という鉄分を多く含む土に鉄をかけているので焼き上がりがメタリックな感じになる。こういうのも嫌いではないのだが、果たして焼き物としてどうなのだろうかと思わないでもない。

来週は、先週挽いた二つの壷を削り、素焼きが上がっている茶碗がいくつかあるので、それに釉薬を掛ける予定。

黒砂糖のアイスクリーム

2012年02月06日 | Weblog
夕方に就職活動で役員面接があり、その帰りにkif-kifに寄って夕食を頂いた。昨日、kif-kifのブログが更新されて、最新記事「黒砂糖のアイスクリーム」が掲載された。あの黒砂糖である。「激ウマ」のアイスクリームができたというので早速出かけてきた。食事のほうは鯛のグリルに春菊のペーストを添えたものとガーリックトーストをいただき、デザートにブログのなかで推奨されていた「黒砂糖のアイスクリーム」と「キンカンとmixスパイスのタルト」の組み合わせをいただいた。鯛も旨かったし、アイスクリームも旨かった。一昨年の冬以来、自分で使っている砂糖はこの黒潮町の黒砂糖なので、この砂糖の良さは知っているのだが、アイスクリームは自分では作れないので今回が初めての体験だ。よく「人は食うことで幸せになる」ということを言う。食材の良さや料理の腕もさることながら、一番大事なのは料理人の気持ちと、食べる側の気持ちが一致することではないかと思う。腹が膨れることも大事だが、食べることを通じて、そこに関わる人達が心を通わすというのが人間だけにできる芸当ではないだろうか。たとえひとり飯であっても、目の前の食事を用意してくれた相手がいる。たとえ自炊でも、その食材を作り育てた生産者がいる。そういう目の前にあるものの向こう側に思いを馳せることのできる人でありたいと思う。そういう人と知り合いたいと思う。

住む場所3条件

2012年02月05日 | Weblog
2月になってすぐ、勤務先の人事から現在の住処の扱いについてのメールが届いた。巣鴨の住処は形式上は勤務先名義で借り上げた社宅扱いで、給料から家賃が天引きされるという仕組みになっている。退職に伴い、これをどうするかというのである。選択肢は以下の3つ。

甲案:解約して転居する。引っ越し費用と新居の仲介手数料は勤務先負担。
乙案:自己名義に変更する。名義変更手数料が発生する場合は、当該手数料を勤務先が負担。
丙案:新たな勤務先名義に変更する。名義変更手数料が発生し、それが入居者負担となるばあいは、現勤務先が入居者に代わって負担。

解雇通知を受けたときに、住処の扱いについてもっと気をつけておけばよかったのだが、転居の際の引っ越し費用を負担してもらえるということは頭になかったので、自己名義に変更のつもりで、転居先を探すというようなことをしていなかった。今の住処に出会ったときも、ロンドンで住処を探したときも、比較的短期間のうちに見つけることができたので、今回もどうかと思い、今日は午後の早い時間から候補となる地域を歩いてみた。結論から言えば、今日はこれと思うものは見つからなかった。現在の住処の扱いを決めなければいけない時期なので、明日、自己名義に変更ということで手続きを始めることにした。

そもそも今日だけで見つかるとは思っていないので、街の雰囲気と家賃の相場といったものの感触を得ることを心がけた。場所についての条件は至って単純なのだが、最終的には費用の問題があるので新しい住処を見つけること全体としては単純にはいかない。今暮らしている巣鴨という場所は自分が設定した条件との適合性という点では理想に近いので、これを超えるというのは同じ条件では他に無いと思っている。その条件は以下の3つだ。

一、 洪積台地に位置していること
二、 路面電車の電停に近いこと
三、 深夜の交通の便が確保されていること

一つ目は自分のなかの必須条件である。何故、洪積台地かといえば、地震国に生まれ育ったことによる天然の欲求もあるが、暑がりなので風の通りが良い土地ということで必須なのである。今の巣鴨の住処は2009年以来三度の夏を過ごしたが冷房を稼働させた日が1週間を超えたのは2010年の猛暑だけだ。家屋が建て込んでいる地蔵通りに面していながら、洪積台地である上に部屋の四方に窓があるので夏でも快適である。洪積台地の判別には国土地理院の都市圏活断層図が便利だ。東京全体を概観するには中沢新一の「アースダイバー」(講談社)の巻末に付いている「Earth Diving Map」を見るとよい。

二つ目は単なる好みの問題だ。以前にもこのブログに書いた記憶があるのだが、子供の頃から鉄道が好きで、歳を重ねてからは路面電車のような街中の風景に溶け込んでいるものへの関心が強くなった。本当なら、線路脇の古いアパートのようなところで、電車が通るたびに振動するような部屋で暮らしたかったのだが、そういうものはありそうで無いものだ。

三つ目は今の住処を探していた時の仕事が夜勤だったので、終電の時間が遅い路線の沿線である必要があった。都内で終電の時間が遅いのは地下鉄や一般の私鉄よりもJR主要通勤線、なかでも中央線、京浜東北線、山手線ということになる。ちなみに、東京駅でのこれら3線の終電は中央線が0時35分発の三鷹行き、京浜東北線北行きは0時40分発の赤羽行き、南行きは0時40分発の蒲田行き、山手線内回りは0時38分発の池袋行き、外回りは1時03分発となる。

これら三条件のなかで路面電車というのが地域の絞り込みの最強条件となる。都内を走る路面電車は都営荒川線と東急世田谷線の2路線だけだ。この沿線で洪積台地上の乗り換え駅は、都営荒川線なら鬼子母神(東京メトロ副都心線雑司ヶ谷駅)と庚申塚および新庚申塚(いずれもJR山手線巣鴨駅、都営三田線西巣鴨駅、同巣鴨駅)だけだ。雰囲気として東池袋四丁目(東京メトロ有楽町線東池袋駅)が近くにサンシャイン60という地盤の強さを求める高層建築物があるので洪積台地のように感じられるが、残念ながらこのあたりは沖積低地、しかも谷地である。東急世田谷線のほうは三軒茶屋(東急田園都市線)と豪徳寺(小田急本線)だけだ。これに三番目の条件を重ねると巣鴨しか残らないのである。

次の住処は、おそらく三番目の条件が差し替えになるだろうから、そのあたりを検討して決めようと思う。

有朋自遠方来。不亦楽乎。

2012年02月04日 | Weblog
予定通り広島を発って、大阪の国立民族学博物館を訪れる。友の会の会員になって初めて会員証を使っての入館だ。現在、特別展示棟と常設のほうのヨーロッパのコーナーが改修工事中だが、それでも2時間や3時間程度では回りきれない内容なので全く問題ない。今回は陶磁器と布に焦点を当てて見学することに決めていた。最初はアメリカのコーナーで、粘土をたたいて成形する様子を映した映像に見入る。技法として、轆轤以外にいくつも成形の方法があることは承知しているし体験もしているが、たたいてこれほど整った形になるというのは、理屈としては納得できるのだが、思いもよらないことだ。展示品や映像を見る限り、ほぼ均一の厚さに仕上がっている。これに生乾きのまま彩色を施し、低火度で焼成する。焼き上がると彩色部分に土でネガティブマスクを施して燻すとマスクをしなかったところが煤け、マスクのところに地の顔料が残り、模様ができあがる。水洗いをして完成だ。日本の一般的な陶器に比べると工程が短縮されていて、できあがったものがなんとなく脆い印象を受けるが、生活に必要十分なだけの強度は確保されているはずなので、これでよいのだろう。陶磁器の歴史は古く、遡ればどれも同じような土器の類に行き着く。それが現在のように地域毎に多様性が生まれるのが、人類のそれと重なり合うようで面白い。土を成形して焼成するという基本が同じでも、手間のかけ方や装飾にそれぞれの人や土地の個性が現れている。物事の道理というものに絶対唯一というものがないということが、こういうところからもわかるのである。

今回は昨年3月に訪れたときに時間の都合で観ることのできなかった東南アジアから東アジアにかけてのところに重点を置いた。陶芸をやっている所為もあるのかもしれないが、朝鮮半島のコーナーで食器の使われ方であるとか大甕の佇まいといったものに興味を覚えた。例えば食事のとき、日本では飯碗は持って食べる。朝鮮半島の人たちは食器は卓の上に置いたまま食べる。手に持たないとなると、熱の伝導性は考慮の範囲外になる。そうなると器の厚さとか軽さ、中に熱いものを入れたときの器の感触、といった持つことをあれこれ考えて器を作ろうという発想は起こらない。こうしたことが形状や厚みに影響を与えないはずはないのである。また、今はどの家庭でもというわけではないらしいが、朝鮮半島では旧暦の端午の節句から盆にかけては陶磁器の食器を使い、それ以外の時期は金属器を使うという。食器に盛られるもののほうは、夏でも冬でもキムチに象徴される保存食が多用されていることに変わりはないので、内容物の状態に合わせて器の形状や大きさを考えるとなると、陶磁器も金属器も似たようなものになるはずだ。そこへ、成形の合理性というものを考慮して、最終的な形が決まるのだろう。また、器の内容物を口に運ぶ道具は、日本では箸が基本だが、朝鮮半島は箸と匙の両方を用いるというのも形状に影響を与えるだろう。そんなことをつらつらを思いながら展示されている器類を眺めているだけで楽しい。ちなみに、キムチの味を大きく左右するのは白菜を漬け込む前に下処理をする際の塩加減だそうだ。

14時からの友の会会員向け講演会を聴講するつもりだったのだが、展示を眺めている間に時間になってしまったので、講演のほうはパスして15時頃、博物館を出る。この後、16時過ぎに友人と梅田で待ち合わせていた。民博から梅田まではモノレールと地下鉄御堂筋線を乗り継いで30分程度なのだが、土地勘の無い場所なので、時間に余裕を持って行動する。昨年3月に初めて太陽の塔を見たときは感動した。あのときは夜行バスで新宿から大阪へ向かったのだが、車窓から見えたてっぺんの金色の顔のような部分が朝日に輝いていた。まずその風景に魅了され、万博公園に着いて正面から見上げた感じも良かった。当初は万博終了後に撤去される予定だったそうだが、残すことになったというのは自然なことのように思われる。

今日会う友人は留学時代の学友で、まさに朋友である。その後、彼はロンドン勤務以外は関西圏での勤務が続き、私のほうは専ら都内での勤務だったので、なかなか会う機会もなく、私の子供が生まれた頃に彼が勤務先の研修で東京に出て来て当時の私の住処に泊まって以来、17年ぶりの再会だ。いざ再会してみると双方ともそれほど大きな変化はないのですぐに互いを認識できた。彼は「変わっとらへんな。ちょっとこのあたりが薄くなったけど」と私の額のあたりを指差す。私が「あぁ、ここなぁ、放射能のせいなんだよ」と返すと、一瞬顔つきが真面目になって、「えっ、そうなん?」と言ってちょっとした間ができる。「んなわけないな」とまた弛緩するのだが、たとえ一瞬でも真に受けるところが彼の真面目な性格を物語っている。20時頃まで大阪駅の駅ビルにある飲み屋で語り合い、御堂筋線の新大阪で別れた。今日のブログのタイトルのように感じてもらえたら嬉しいなと思いつつ。

必ず立ち直る、立ち直ろうと思えば

2012年02月03日 | Weblog

人の話は聞くものだとつくづく思う。同時に自分の物事の把握の浅薄さを猛省する。ひろしま美術館に「かなりすごい作品」がいくつもあることを友人から聞いていた。私はそれがこの国の地方都市にありがちな箱物行政のひとつだと思っていた。今日、実際にひろしま美術館を訪れてみると、なるほど小規模ながらもよくぞ集めたと思うような作品が並んでいる。但し、蒐集に筋が無い、良く言えば総花的、悪く言えば野暮なコレクションで、まるで美術の教科書のように思われた。上野の国立西洋美術館のミニチュアのような、といえば伝わるだろうか。当然、この作品群を見れば、誰が蒐集したのだろうかと素朴に疑問が湧く。そしてこの美術館の背景を知れば、野暮だの筋が無いなどという自分の見方を赤面しながら引っ込めることになる。これは教科書のようで良いのである。それを意図したのだから。

やはりこの美術館の端緒も原爆だ。この美術館は広島銀行の創業百周年事業として時の頭取であった井藤勲雄氏がつくったものだそうだ。井藤氏は地方銀行にありがちな創業一族出身ではない。普通の行員から出世した人だ。並の銀行員と違うのは、頭取にまでなるほどの人なのだからいくらでもあるだろうが、原爆を体験し九死に一生を得たことは何にも代え難い経験だろう。既に広島は何度も空襲を受けており、井藤氏は原爆投下時には家族を温品に疎開させ、たまたま前日に広島から温品の家族のもとに来て、8月6日の朝は温品から広島市内にある勤務先の芸備銀行本店へ出勤するところだったという。朝、玄関でゲートルを巻いているとき、閃光が走ったのだそうだ。近くの火薬庫が爆発したと思い、咄嗟に近くにいた我が子2人を抱いて蔵の陰に身を隠した直後、爆風に襲われた。私は原爆の惨状は勿論経験していないので、不用意なことを書くわけにはいかない。しかし、文字通りの焦土にあって、残された者に課されたものの重さはどうしたって想像のできるものではない。井藤氏はその残された一人なのである。そこで見た惨状に何を思ったのか、何を考えたのか。当時の芸備銀行には450名の行員がいて、原爆で144名が死亡、33名が重傷、生存した行員の大部分が負傷しており、焼け残った日銀広島支店の建物を借りて2日後の8月8日午前10時に営業を再開した時点で勤務可能な行員は25名だったという。たとえ本人が無事であっても当時の広島で生活をしていれば家族の誰かしかがどうにかなっていたであろうし、そうなれば勤めどころではなかったはずだ。去年の3月11日は東京でも震度5強を記録したが、あの程度のことで精神的にショックを受けて出勤できなくなった奴が現に私の身近に複数存在した。それを思えば、爆心地から半径500メートル以内での即死および即日死による死亡率が90パーセントを超え、写真で見ても生存者がいること自体が想像できないような状況で、被爆2日後に450名の行員のうち25名が出勤して業務を再開したということが驚異的なことだ。芸備銀行本店が鎮火したのは9月10日だったそうだ。どのような建物であったのか知らないが、銀行の本店になっていた建築物が1ヶ月以上燻り続けるほどの状況で、生き残った人々は文字通り必死で活動したのである。

その必死のなか、必死であればこそ、美術品が人の心にとって大きな意味を持つことを井藤氏は身を以て知ったという。陣中見舞いに訪れた友人が持参した南画に心癒され、出勤途上に原爆ドームの近くで見つけた夾竹桃の花に感動したのだそうだ。広島銀行が絵画を購入するようになったのは井藤氏の前任の橋本龍一氏が頭取の時代からで、副頭取として橋本氏に付いて画廊を訪れていたという。井藤氏が頭取に就任後、最初に銀行として購入したのがルノアールの作品。それをきっかけに絵画の蒐集が本格化し、ひろしま美術館の所蔵作品の原型を構成するに至る。井藤氏は、はじめは自分が気に入ったものを購入していたらしいが、ロビンソン・コレクションがまとまって入ってからは、個人としての好き嫌いではなく、美術史を踏まえて系統立てて蒐集するようになったそうだ。しかし、蒐集の範囲はピカソまで。つまり、自分が楽しむことができるものは市民の多くも楽しく眺めることができるだろうということなのである。蒐集は自分のためでもなければ銀行のためでもなく、市民のため、広島を訪れる人のためなのだ。そういうコレクションを持つので、ひろしま美術館は教科書のような美術館なのである。

それで、今日観た作品のことだが、確かにどれも「かなりすごい」ものばかりだった。一番印象に残ったのはピカソの「酒場の二人の女」だ。何がどうというのではない。存在感というか、目にしたときのパンチ力だ。ピカソの作品はどれも惹き付けられてしまう。次はセザンヌ、かな。「酒場の二人の女」に描かれているのは、たぶん商売女系だ。歳を重ねてみて改めて思うのだが、所謂「いい人」風の奴にろくなのはいない。自分のことを自分で決めるという人としての基本ができないようなのが多く、話をするとたいがいはがっかりさせられる。いい歳をして人生の節目となるようなことを決めるのに、親だの親戚だのがどうこうということを言われると、心底馬鹿じゃないかと思ってしまう。商売女系も大抵はそれ未満の阿呆なのだが、この絵に描かれているオネエサンたちは、多少は話の通じる人たちであるような気を起こさせる。ピカソの手にかかると、そんなふうに人物が見えるのである。

ひろしま美術館を出て福屋八丁堀本店へ向かう。昨日、しゃもじ制作者の三好さんと電話で連絡がついて、今日午前11時に福屋の入口で待ち合わせて受け渡しをすることになったのである。私にしては珍しく、少し時間に余裕を見て待ち合わせの10分前に福屋に着いたのだが、三好さんご夫妻は既にお待ちだった。受け渡しだけで終わるはずもなく、20分ほどいろいろ楽しい立ち話をさせていただいた。これが縁になって、これからお付き合いが始まると楽しいことになるだろう。また、そういう交遊関係を築くことができるような内実のある人間にならないといけないと思う。ものづくりの当事者というのは、少なくとも私の知る限りの人たちは皆、本人がそれとは意識している様子もなく、私の心に響く言葉を語る。その度に、それに返すことのできない自分を歯がゆく感じる。やはり今回失業したことを転機に自分の生活をまともな方向へ持っていかないといけないとの思いを新たにした。

一旦宿に戻って、ひろしま美術館の図録と三好さんのしゃもじを部屋に置いた後、県立美術館へ行く。企画展は伝統工芸展だ。去年、日本橋三越で観たものが巡回しているものだが、何故か初めて目にする印象のあるものが少なくなく、改めて自分の眼のいい加減さを思い知る。常設のほうは、広島県に縁のある作家の作品を中心に展示してあるほか、県に縁の人から寄贈された作品もある。ちょうどボランティアによるギャラリートークがあったので、ご一緒させていただいだ。参加者が私を含め2人だけだったので、一方的に説明を伺うというよりも、作品を前にあれこれ会話を楽しむというものになり、午後2時に始まって、終了は午後4時だった。おかげさまで、初めての土地をひとりで訪れたのに、楽しい会話の記憶が詰まった1日になった。

明日は午前9時過ぎの新幹線で大阪へ発つ。

瓦礫の果てに紅い花~ヒロシマに美術館をプレゼントした男の物語~(仮)
長谷川 智恵子
WAVE出版

晴れたり雪だったり

2012年02月02日 | Weblog
4日土曜日は午前中に大阪に移動して国立民族学博物館へ行くつもりでいるので、既に新幹線を予約してある。乗り遅れてはいけないので、今日は予行演習のつもりで、その新幹線の時間に合わせて宿を出て広島駅へ向かった。宿から八丁堀の電停まで歩き、そこから広電に乗って駅まで所要時間は約30分。距離としてはそれほどでもないのだが、広島市街は大きな通りが多く、信号待ちの時間が長い。殊に駅近くはそうした傾向が強い。このため距離の割に余裕をもたせた移動時間を想定しておく必要がある。

今日は新幹線には乗らない。8時34分発の山陽本線普通列車岩国行きに乗ると9時ちょうどに宮島口に着く。そこから少し歩いたところにフェリー桟橋がある。ちょうど入港した9時10分発のJRのフェリーで宮島へ渡る。宮島までは10分間の航海だ。天気は良いが寒い。昨日も寒かったがそれ以上に寒く感じる。それなのに、フェリーのデッキに出て冷たい風に煽られていた。デッキには私を含めて2人の客しかいない。客室のほうにも数えるほどの人しかいない。このクソ寒いなか、広島や宮島へ観光に来るのはよほど物好きな人ということなのだろう。厳島神社の鳥居は写真の印象よりも地味な感じがした。

実は、厳島神社を訪れるつもりで宮島へ来たのではない。何のために極寒の宮島を訪れたかといえば、しゃもじを買ってくるよう友人に頼まれたのである。ご飯をよそう時に使うしゃもじだ。高校野球で広島県代表チームの応援団がしゃもじをカチカチ鳴らして応援する場面を記憶している人もいるのではないかと思うが、しゃもじは宮島の名産品のひとつでしゃもじを「宮島」と呼ぶこともある。頼まれたのはその名産品のしゃもじではない。その依頼は携帯メールでやって来た。
「おしゃもじは広島の特産品なんだけど、ミヨシさんっていう、元・自動車設計→しゃもじ職人の作ったのがスゴイらしいんですよ~!」(原文のまま)
で、他に手がかりがない。検索してもそのしゃもじがどのようなものなのか引っ掛からないのである。宮島にある「杓子の家」というところで売られているらしいこと、広島県知事賞というものを受賞したことがあるらしいこと、くらいしかわからなかった。昨日、夕食の後、コーヒーとケーキをいただいたカフェのオネエサンに尋ねてみると、知らないという。宿泊先の宿屋にコンシェルジェでもいればよいのだが、そういうリッパなところに縁がない。とりあえず「杓子の家」だけを頼りに宮島へ渡ったのである。

とはいえ、宮島のフェリー乗り場の建物内にある観光案内所で尋ねてみた。係の人はご存知無いのだが、何カ所かに電話をして聞いていただいた。結局わからなかったが、フェリー乗り場の向かいにある伝統産業会館に行って尋ねてみることを勧められた。その1階は展示場兼売店になっていて、レジのところに立っていたオネエサンに尋ねてみた。すると、すらすらと答えが返ってきた。やはり「杓子の家」に行かないといけないのだそうだ。そこでしか小売りをしていないものだそうだ。

「杓子の家」はフェリー乗り場と厳島神社の中間にある。表参道商店街のなかにあるしゃもじの専門店だ。「おはようございます」と言いながら店に入って「ミヨシさんのしゃもじというのはどこですか」と尋ねてみた。すると「今、切れちゃって、いつ入荷するかわからないんですよねぇ。」とのこと。目眩がした。

自覚はなかったのだが私がよほど落胆した様子を見せたのかもしれないし、その店の人が親切だったのかもしれないのだが、ミヨシさんの家の電話番号を教えてくれたのである。その上、ご本人が家にいる時間帯まで教えていただいた。こういうことは、東京ではありえないのではないだろうか。どこの誰ともわからない一見客に取引先の連絡先を教えてしまうのである。店で注文を預かれば、店の売上になって多少の利益になるはずだ。客、つまり私が制作者に連絡して直接購入してしまえば、店にとっては少なくとも当座の利益は生じない。勿論、中長期的に制作者との信頼関係が強くなるというようなことはあるだろう。また、最近喧しくなっている個人情報云々の問題も発生するかもしれない。私はなんだか恐縮してしまったが、店の人も恐縮した様子で在庫を切らしていることを詫びていた。人気商品なのだそうで、入荷すると直ぐに売れてしまうのだそうだ。近頃は人を見たら泥棒と思えというような狭量なものの見方が蔓延しているように感じられてならないのだが、杓子定規に物事を割り切ってしまうのではなく、自分の直観を信じてものごとを決めるという姿勢が人生や生活を豊かにすると思う。

せっかくなので、厳島神社へ行く。もちろん厳島神社自体も大きなものだが、周辺の神社仏閣と併せた地域としての特殊性がある。世界遺産に指定されたこともさることながら、それ以前に日本三景のひとつとして、あるいは歴史の舞台として抜群の集客力を発揮していたことで、人出が絶えることが無いということが街並みを活き活きとさせてきたのではないだろうか。道路は奇麗で、舗装されていないところは箒目が美しい。少し観光の時期から外れていることや、午前中の早い時間ということもあるかもしれないが、手入れが行き届いている印象があって、人通りが閑散としていても寂れた感じが無いところが嬉しい。

厳島神社のなかを通り抜け、裏手の柳小路を登り詰め、藤の棚公園から紅葉谷公園を抜けてロープウェーの駅までを歩いて往復してみる。人の姿は無いのに人の気配が感じられるのは、やはり手入れの跡が感じられるからだろう。人にも土地にも言えることだが、他人の眼を意識してこれ見よがしに飾り立てるのはどこか下品さがつきまとう。それに対し、他人の眼があろうがなかろうが居ずまいを守る姿勢には、背後に何事かに裏付けられた確かな矜持のようなものが感じられて、その場に居合わすだけでも有り難い心地がするものだ。

10時55分発のフェリーで宮島を後にする。それにしても寒い。指がちぎれるかと思うほど寒い。顔がしびれるほど寒い。トイレに入ったらキンタマが乾燥梅干しのようになっていた。生気のない性器。あまりに寒いので、連絡船を下りてから駅までの僅かな道程も長く感じる。駅で広島行きの列車の待ち時間が20分もあることを知って卒倒しそうになった。咄嗟に温かいものを腹に収めようと、売店で揚げもみじまんじゅうを買った。半分ほど食べると少し落ち着いて、凍結していた思考回路が動きだした。まず思ったのだが、もみじまんじゅうは揚げないほうがよい。

11時33分発の広島行き普通列車で終点まで行き、12時09分発の呉線普通列車に乗り換えて呉に向かう。呉到着は12時56分。古い車両で暖房の効きが悪く、車内もけっこう寒い所為もあり、思っていた以上に呉が遠くに感じられた。

呉と言えば戦艦大和だろう。というわけで大和ミュージアムを訪れる。もちろん大和に関する展示が中心だが、博物館としては大和に象徴される軍港呉、あるいは呉の近代史についてまとめたものが展示されていると見たほうがよいだろう。ちょうど昼時でもあったので、大和ミュージアムに食堂のようなものがあればそこで昼食にしようと思った。受付で尋ねると、館内にはそういう場所がないので隣のフェリーターミナルビルの中にある椿庵かショッピングビルのなかにあるレストラン街を利用してはどうかとのことだった。呉の駅からここまではデッキでつながっていて、途中YouMeという商業施設のなかを通り抜けるようになっている。そこを通過する際に一応どのような店があるのか見てあり、全国チェーンの店舗が目についていたので、椿庵へ行く。店の外に出ていたメニューの看板を見て「海軍定食」というものを食べてみることにした。これは以下のような料理で構成されている。
 鯨肉のカツ
 肉じゃが(海軍時代に実際に食されていたものらしい)
 とろろいも
 うに椎茸(佃煮)
 ご飯
 みそ汁
 香の物
 フルーツ
鯨肉と言えば今は貴重品だが、私が小学校低学年の頃までは一番安い肉だ。学校給食に出る肉といえば鯨肉以外に考えられないほどだった。そんなわけで鯨のカツにはなんとなく懐かしさを覚えた。肉じゃがは能書きが付いていたが普通の肉じゃがだった。

腹が膨れたところで改めて大和ミュージアムを訪問する。入口ホールでチケットを買って展示会場に入るとすぐに大和の10分の1の模型が鎮座している。細部まで作り込まれたものだ。その脇の部屋に入り、呉の海軍関係の歴史や呉で建造された代表的な軍艦などの展示とビデオ類が続き、特別コーナーとして大和のこと、殊に最後の出撃となった沖縄特攻について戦後に引き揚げられた遺留品や生存者の証言ビデオを交えて細かく展示されていた。ここは思わず観入ってしまった。その後に戦後の軍民転換についての展示があって、10分の1模型のところに戻るようになっている。見学順路としてこの全体の半分に相当する部分がこの博物館の根幹と言える。後はいくつかの実機と映像資料がある程度だ。日本人として今日までの50年を生きてくれば、経験はしていなくても第二次大戦のことは様々な形で自分のなかに影響を与えているものだ。今の時点ではまだ言葉にならないことばかりだが、はるばるやって来る甲斐のある場所だと思う。

大和ミュージアムの近くに潜水艦が設置されているところがある。最初に見たとき、潜水艦を模して作った建物かと思ったら、1985年に進水し2004年に除籍された「あきしお」という本物の潜水艦だ。潜水艦の実物を見るのはこれが初めてではないのだが、陸上で全容を見るのは初めてだ。全長76.2m、全高16.3mという大きなもので、この下をくぐって海上自衛隊呉史料館に入る。展示の中心は掃海についてである。戦後、海上自衛隊の前身でもある帝国海軍の呉の残存組織が掃海を担ったのだそうだ。自衛隊発足後も引き続きここの掃海部隊が日本国内のみならず湾岸戦争時のペルシャ湾にまで出掛けて行って活躍したのだという。そうしたことについての展示が中心で、その順路の最終コーナーがこの潜水艦になっている。中に入ることができるのである。当たり前のことだが、やはり窓が無いというのは居住空間としては厳しいものを感じる。実際の運用では一回の航海で何ヶ月もこの中で過ごすのだから、精神的に相当強くないと潜水艦乗りは勤まらないということが容易に想像できる。

16時52分発の快速列車に乗って広島へ戻る。呉線は海沿いを走るのだが、発車の時には晴れていた空がみるみる白くなっていく。海から湯気のように水蒸気が立ち上っているのがわかる。17時を回る頃には霧がかかったようになり、さらに時間が進むと雪になった。17時23分に広島到着。すっかり雪景色だ。電車の中も寒かったので、少し駅ビルのなかで暖を取ってから宿に戻ろうとしたのだが、雪があまりに酷いので、交通が止まって宿に戻れなくなるといけないと思い、とりあえず発車間際の路面電車に乗った。ところが、これは宿の近くには行かない路線だった。雪が小降りになってきたこともあり、そのまましばらく乗っていることにした。途中で乗り換えて繁華街へ向かい、もう歩いても宿に戻ることができると確信して、食事をしてから帰ることにした。

昨日、発想が貧困だと語った舌の根も乾かぬうにち、今夜はお好み焼きを食べに行く。パルコの裏あたりに「お好み焼き村」というものがある。飲食店の入ったビルの2階から4階の3フロア内にお好み焼きの店が軒を連ねている。ふらりと入っただけで、お目当てがあるわけではない。ビルの入口にあったフロアマップで偶然「カープ」というのが目についた。神田に広島県人が集まる同じ名前のお好み焼き屋がある。その店のことを広島出身だという人から初めて聞いたのは2009年5月のことだった。以来、是非一度訪ねてみようとおもいつつ今日に至っていたので、同じ名前の「カープ」に決めた。

雪が降っていて帰宅を急ぐ人が多いのか、単に夜の外食時間帯には少し早いのか、ビルの中には客が殆ど無く、どの店でも店員が手持ち無沙汰にしていた。「カープ」も客がいなかった。お好み焼きを焼いてもらいながら話を聞いてみたところ、神田の「カープ」とこの「カープ」は経営者どうしが兄弟で、神田へは広島カープから毎日食材を送っているという。オタフクソースは東京でも容易に手に入るが、広島のお好み焼きを作るのに東京では入手困難な食材とは何だろうと思ったら、もやしと葱だそうだ。ただ鉄板で焼くだけのものだと思っていたのだが、けっこう奥が深いようだ。ちなみに、この「カープ」は広島市内にここを含めて2店舗、東京神田に1店舗ある。この3店舗以外の「カープ」はこの店とは無関係とのこと。

広島にて

2012年02月01日 | Weblog
広島にやって来た。午前中はアイロンがけ、家の中のクリーナーがけ、トイレ掃除に勤しみ、荷造りを済ませて身支度を整え、午後1時ちょうどに巣鴨の住処を後にした。都営地下鉄三田線、浅草線、京浜急行を乗り継いで羽田の国内線ターミナルに着いたのが午後2時少し前。そのままセキュリティを経てゲートに直行し、午後3時過ぎの全日空に搭乗した。飛行機は定刻通りに広島空港に到着し、リムジンバスに乗って広島駅前に着いたのが午後5時半。市電に乗って八丁堀で下車して徒歩5分ほどで宿屋に到着。チェックインを済ませて時計を見ると午後6時ちょうどだった。

飛行機というものにはあまり縁が無いのだが、今回久しぶりに国内線を利用してみて、その便利さに感心した。今日の便は航空会社のウエッブサイトで予約をしたのだが、航空券が携帯電話に記録されるのである。全部の便が同じ様にできるわけではないらしいのだが、少なくとも幹線あるいは準幹線なら「おさいふケータイ」機能のある電話機に所定のアプリをダウンロードしておけば電話機が航空券代わりになるのだそうだ。具体的には、いかのような具合だ。
一、 空港に着いて、保安検査場に直行する
二、 その入口に端末があり、そこに航空券情報の記録された携帯電話をかざすと、便名やゲートなどの出発情報が記載されたレシート状の紙がぬるぬると出て来る
三、 そのまま保安検査を受けて、ゲートに直行する
四、 搭乗が始まり、ゲートのところの端末に携帯をかざすと、さきほどより少ししっかりした紙に便名や座席情報が記載されたものがすっと出て来る
これなら、出発時間20分前くらいに空港に着いても大丈夫であるような気がする。尤も、ずっと以前のことだが、出張の折に伊丹で出発7分前にチケットカウンターに着いて、ゲートまで航空会社のオネエサンと一緒に走った経験がある。ということは、自動化が進んだ結果、あのような滑り込みセーフ的芸当はもうできないということなのだろうか。表向きの便利さに惑わされてはいけない。感心している場合ではない。

羽田から広島までの便はB777-200だった。座席の埋まり具合はざっと6割程度だろうか。広島空港から広島駅へ直行するリムジンバスには私を含め30名が乗車した。空港を出て30分くらいは高速道路を進む。道路上の往来は活発で、大型トラックが多い。ナンバープレートは広島や福山のものが多いが九州や近畿、中部のものもある。広島駅に着いたのが通勤客の帰宅時間帯という所為もあり、駅構内の人の往来が多く、駅前から次々に出発する市電やバスはどれも立っている人の姿が見られる。八丁堀から中央通りを平和大通りまで歩いたが、ここも往来は人も車も活発だ。チェックインを済ませて、部屋に荷物を置いてすぐに街へ出たが、寂れた感じは無い。なんとなく、ほっとした。

夕食はお好み焼き、というのはあまりに貧困な発想のような気がして、宿屋の近くのビストロのようなところに入ってみた。Koharu亭という名のカウンター席だけの小さな店で、夜の食事は「おすすめ」がハンバーグのセットメニューだ。ハンバーグは10種類あって、そこからひとつ選び、それに飲み物、前菜またはデザート、ご飯またはパンが付いて1,800円だ。初めての店なので、素直に「おすすめ」を選び、ハンバーグも1番目にあったデミグラスソースの煮込み風をいただく。それに前菜とパンを付けてもらい、飲み物はオレンジジュースにした。ごく当たり前の安心していただけるものだった。敢えて個人的な好みを言わせてもらえば、ハンバーグに使う玉葱はもう少し小さく切って、ひき肉などと混ぜる前に火を通したほうがよいのではないかと思う。玉葱を生のまま肉と混ぜてハンバーグにすると、玉葱の食感が突出してしまって口に入れたときのバランス感が悪い。ハンバーグは野菜料理だとの主張があるのならこれでよいのだろうが、私のなかでは肉料理なので、違和感を覚えた。この店は開店から2年になるそうだ。近隣の飲食店は回転が早く、なかには出店して半年程度で退店してしまうところもあるそうだ。このあたりの事情は東京と同じようなものらしい。男性3人で切り盛りしており、なかなか雰囲気の良い店だ。

腹が膨れたところで、平和大通りを平和記念公園まで歩く。あまりに有名な場所ということもあり、夜なのでよくわからない部分もあり、殊更驚くようなことも無いのだが、それでも原爆ドームは印象的だった。現在、3年毎の健全度調査の最中で周囲に足場が築かれているのだが、それにしても強烈な存在感を放っているのは、私の先入観の所為ばかりではないと思う。もともとあのドーム部分を取り囲むシンメトリックな箱形の建物であったのが、原爆によってドーム部分以外が吹き飛んでしまったらしい。なぜドーム部分だけが残ったのかという説明はWikipediaなどに書かれているが、実物を前にしてみれば、ドーム部分だけが残ったということよりも、そこ以外の部分が爆発後一瞬にして消失したという事実に今更ながら驚愕を禁じ得ない。今回、広島を訪れたのは原爆ドームを見るためと言ってもよいほどだ。だから、こうして広島に着いて真っ先に見に出かけたのである。これで気が済んだ、ということではなく、ここから自分のなかで何事かが始まることになるのかもしれない。個別具体的な考えあるわけではないのだが、漠然とそんな感じを覚えている。

広島も大変寒く、わずか2時間ばかり夜の街を歩いただけで指先の感覚が怪しくなってきたので、繁華街にあるカフェでケーキとコーヒーを頂いた後、午後8時過ぎに宿へ戻った。