各地でモミジが色づき始めた。
真っ赤に染まったモミジもいいが
緑色から黄色、紅色へと変化する過程のモミジを見るのも楽しい。
撮影場所:山口県長門市・大寧寺
各地でモミジが色づき始めた。
真っ赤に染まったモミジもいいが
緑色から黄色、紅色へと変化する過程のモミジを見るのも楽しい。
撮影場所:山口県長門市・大寧寺
島原市で1泊した翌日、車で原城跡へ向かう途中、南島原市の地図に
「キリシタン墓碑」と記された箇所が何か所か目に付いたので、1、2か所に
寄って行こうと考え、国道からあまり離れていない所に寄ってみることにした。
小川(こがわ)キリシタン墓碑と有家セミナリヨ跡で、南島原市の地図に明記されている
くらいだからすぐ行けるだろうと思ったが、これが大違いで大変な目(?)に遭った。
地図を見ても国道から入る箇所がよく分からなかったので、取り敢えず車を南島原市役所に止めた。
その日は土曜日で役所は休み。尋ねようと思っても庁舎は閉まっている。
と、たまたま庁舎の駐車場に入ってきた人が目に付いたので、南島原市の地図を片手に車から降り
急ぎ呼び止めて尋ねた。
「済みません。この近くにキリシタン墓碑があると思うんですが、どう行けばいいでしょうか」
「キリシタン墓碑? あちこちにあるにはあるが・・・」
持っている地図を見せながら、「ここに小川(こがわ)キリシタン墓碑とあるでしょう。
これが近くだと思うんですが」
「ああ、小川キリシタン墓碑ね。たしかあの辺りに案内板が出ていたね。でも車では行けないかも」
どうやらそこに行くには道が狭いし、入り組んでいるから車は難しいと言う。
因みに歩けばどれくらいかと尋ねると15分ぐらいだとのこと。
それなら歩いて行きます、と返事し、教えられた方角に向かった。
まず最初に見つけたのが上の写真の「有家セミナリヨ跡」。
これは国道沿いだったのですぐ分かったが、想像と異なりあまりにもこじんまりとしていた。
セミナリヨとはキリシタン神学校のことだから学校跡。
なのにあるのは4柱の石塔のみ。
石塔に刻まれた花飾り十字がわずかに見て取れ、それがこの石塔がキリシタンのものだと教えてくれている。
国道を挟んで有家セミナリヨ跡の向かい側に「小川キリシタン墓碑はこの先」という案内が建っていたので、
矢印が示す方向に歩いて行くと、途中の道角などに案内があり、それに導かれながら歩いて行った。
ところが、「この先」と記された案内を最後にプッツリ消えた。
普通なら、ここが小川キリシタン墓碑と記された案内板があるはずだが、それが見当たらない。
だから、さらに歩いて行くが、いくら周囲を探し歩いても案内板はどこにも建ってない。
まるで狐につままれたように突然消えたから参った。
歩く範囲を広げウロウロしているうちに目に付いたのが海岸沿いに一列に並んだ石塔。
海の向こうを見るように一列に並び、逆光で光を背にして浮かぶ影はどこか神秘的にさえ見えたし
石塔の上に十字架めいたものも見えたから、これこそキリシタン墓碑。
さすが地図に載せるだけのことはあると喜び、その時までに歩き疲れていた足を急がせた。
海岸まで歩き海側から見て、ん? 違うかも、と思った。それはどう見ても仏式の墓地だったからだ。
墓石を丹念に見ても十字架はどこにも刻まれてなく、読めるのは仏式の戒名。
直ぐ側にお寺があったから、どうやらその寺の墓地らしい。
では、キリシタン墓碑はどこにあるのか。
これも遠目にはキリシタンの墓石かと思ったが、近付いてよく見ると恵比須様を祀ったもの。
すぐ側が海だから豊漁を願う漁師達が建てたものだろう。
もうこの周辺だけで40分余りも歩き回っている。歩き疲れたし原城跡に着く時間も遅れるから
引き返そうとした時、運よく民家に人影を見、「すみませ~ん」と声を掛け
「この辺りに小川キリシタン墓碑があると思うんですが、場所が分からなくて」と尋ねる。
「たしか個人のお宅の庭の中で、分かりにくいと思いますけど、ちょっと開放されたようにはなっています。
それにしても訪ねて来られた人は今までいなかった。あなたたちはキリスト関係ですか」
いやいや、そうではありませんよ。たまたま南島原市の地図に載っていたから来てみただけです。
話しぶりからどうもご自分の目で確認したことはないようだった。
そういえば最初に道を教えてもらった人も案内板は見るが、実物は見たことがないと言っていた。
それを外部の人間が訪ねていくのだから余程の好き者と思われたに違いない。
結局、場所は最後の案内板が建っていたすぐ近くの角の家の庭で、もしかするとここかもと考え、見た所だった。
ただ、そこにあったのは写真の不動明王像。
いくらなんでも不動明王とキリシタンは関係ないだろうと通り過ぎたが、話から判断してその場所しかない。
地元の人すらよく知らない場所で、案内板もそこに建ってないということは家主がキリスト教とは関係がなく、
人が訪れるのを極端に嫌い、恐らくかつては存在したであろう案内板も撤去したのではないかと想像される。
それなら市の地図に明記するのはやめて欲しいものだ。
地図に描かれてなければ、ここまで探し回ることもなかった。
南島原市の不親切な対応が少々腹立たしかった。
路線廃止の前に発想の転換を
地方の人口減少、街の構造変化により、鉄道が果たす役割はある部分で終わったとも言える。
大量輸送の時代から中量・少量輸送に変化し、JR自体もコンパクトな体制に変化すべき時だろう。
常に大量輸送を念頭に置き赤字の一部負担を地方自治体に求める体質は改めるべきだ。
では輸送手段としての鉄道の役割は終わり、赤字区間は廃止にすべきかと言えばそうではないだろう。
輸送を人員から貨物へと変換し、貨物輸送の比率をもっと増えすべきだと思うがいかがか。
少貨物輸送は現在、トラック中心だが環境問題の観点からしても鉄道の方がいい。
貨物輸送と言えばコンテナ等を積んだ20両編成かそれ以上の車両による大量輸送をすでに実施していると
言うかもしれないが、それはそれとして残しつつ、新たに中量・少量輸送を開始すればいいではないか。
現在の運行車両に少量貨物も載せ、「人+貨物」輸送車両として運行する。
人と貨物の比率はどちらが多くてもいいだろう。
人と貨物の混在車両というジャンルを新たに創出すれば「地域の足」としての役割部分も多少は残せる。
駅から先の輸送は運送業者に任せれば、彼らの仕事を奪うことにもならないだろう。
もう1つは観光・イベント列車への移行である。
観光=豪華列車という発想は止めるべきだ。
豪華列車でなくても観光はできるし、工夫・企画次第で楽しくユニークな観光はいくらでもできる。
速く走らせればいいわけではない。むしろ鈍行列車か快速列車程度の方がいい。
イベント列車と言えば夏はビア列車、秋はワイン列車というのもいいだろうが、
もっと地方と連携し、地域おこしに繋がるイベント・観光列車を走らせるべきだ。
例えば姫新線・智頭急行線の停車駅に佐用駅(兵庫県佐用町)がある。
佐用町は休耕田を利用したひまわり畑が有名だ。
ひまわり畑と言えばソフィア・ローレンの「ひまわり」を思い出す人も多いだろう、特に今年は。
あの映画の舞台がウクライナだっただけに。
ラストシーンで映し出された、どこまでも広がるひまわり畑。
悲しいラストシーンにもかかわらず、あまりにも美しいひまわり畑に惹きつけられた人は多いと思う。
そして今、舞台も同じウクライナ。
時代を超えて重なりすぎている部分が多いだけに、今夏は佐用町のひまわり畑を観に来る人は
例年以上になりそうな予感がする。
元々、佐用町のひまわり畑は有名でバスツアーにも組み込まれているし、撮影旅行で来る団体もある。
そして期間中の週末は佐用駅からひまわり畑までシャトルバスも運行されている。
また智頭急行駅でもある上郡駅は町内に「かみごおりさくら園」という桜の名所がある。
ここは3月中旬から4月下旬にかけて大寒桜、河津桜、小松乙女、思川、越の彼岸、鬱金桜、
八重桜の関山(カンザン)などの桜が次々に咲く桜の名所だが、その割には知られていない隠れた名所。
桜の季節には「かみごおりさくら園に桜を見に行こう」と謳ったキャンペーンを行えば多くの観光客が訪れると思う。
上郡駅から車で4分。歩いても30分で行ける。
今は自然が集客に繋がるし、自然を上手に利用すれば集客できる時代に変わっているのだ。
それも人工的に作られた自然ではなく、できるだけ素に近い自然が求められている。
実は地方(ローカル)にはこうした宝が豊富に存在しているのだが、地方にいる人達は見慣れた景色故に、
それが宝だとは気づいていない部分がある。
また、気づいても、もうひと工夫が足りない。
ただ単に観光客が来るだけでは地域に経済的な影響はない。
逆に道路の渋滞やゴミといったマイナス面の影響はあるだろうが。
例えば伯備線のJR美袋(みなぎ)駅。
今回発表の17路線30区間には含まれてはいないが、利用者が多いとは思えないローカル線の駅だが、
この駅では素晴らしいものに出合える。
春になれば駅舎の両側にウコン桜と御衣黄(ぎょいこう)桜が咲くのだ。
ともに桜の一種だが、この桜の花は桜色をしていない。
ウコン桜は漢字で書けば「鬱金桜」となる。
そう黄色をした鬱金のような色の花が咲くことからウコン桜と命名されている。
一方の御衣黄桜は「緑色の桜」として知られ、花は八重で緑色をしている珍しい桜だ。
ウコン桜と御衣黄桜が1箇所で、それも駅舎の両サイドに咲いているのを同時に見られるわけで、
こんな駅は他にはない。
私的なことだが、私はそのことを知り、わざわざ出かけたぐらいで、写真好きにはたまらない場所だろう。
もちろん列車と桜の写真も撮れる。
こんな素敵な駅を放っておく手はない。
桜の季節に「ウコン・御衣黄列車」を走らせれば十分、人を呼べる。
ただ、駅前には食事処等の休憩施設がないので週末だけ、臨時に設置したり、
道の駅を開設すれば地域の活性化にも繋がる。
近年、「道の駅」は人気で、それを目当てに行くドライバーが増えている。
なにも「道の駅」を車にだけ使わせる必要はない。
駅と「道の駅」。シャレではないがローカル線の駅には無人駅が多い。
「道の駅」とコラボして「駅に買い物に行こう」と打ち出せば利用客も増え、地域も活性化するのではないか。
自然を売りにできる地域は山陰側には結構多い。
そいう所を発掘し、ローカル路線でゆっくり巡る旅の企画を作ってみてはどうか。
「赤字だから廃線にする」と言う前にJRはもっと知恵を絞るべきではないか。
ローカル線切り捨てと豪華列車
腑に落ちない最大の理由は先にも述べたが、一部路線の発表だけに留まっている点だ。
全路線の収支を発表せずに17路線だけの発表だと、その他の路線は黒字なのか、それとも
他にも赤字路線があるのか分からない。
もし後者だとすれば、なぜ17路線だけを槍玉に挙げるのか。不公平ではないか。
なにかを隠しているのかと勘ぐられても仕方ない。
2番めの理由はJR九州の「成功」を見て、各社とも豪華列車の製造・運行を行っているが、
その収支も発表すべきだろう。
特に知りたいのは豪華列車製造にかかった全経費とチケットの売り上げである。
JR九州は豪華列車の予約は数年先まで埋まっていると、しきりに好調さをPRしているが
実際のところ収支はどうなっているのか。
そこに車両製造・デザインコストは含まれているのか。デザイン料は見合ったものなのか。
内装材料等にはかなり高価なものが使われているだけに、収支はぜひ明らかにしてもらいものだ。
原発コストの時は建設コストや使用済み燃料の最終処分費用を低く見積もっていたりしたが、
それと同じような試算方法が取られていないか。
それらのことをチェックした上で、豪華列車が収益にプラスになっているのか、
いないのかを明らかにして欲しい。
もし、豪華列車の運行が収益にプラスどころかマイナスならば即刻取り止め、
その分を赤字路線の改善に回すべきだろう。
昨今のJR各社は公共交通としての使命、役割を放棄し、自社の利益追求のみに走っているように見える。
その典型が駅施設で、ローカル路線は無人化し、駅施設を地方自治体に「押し付け」る一方、
京都駅や博多駅などの主要駅は再開発し賑わいの場へと変えている。
といっても駅への囲い込みを行っただけで、再開発前には「駅周辺地域の活性化」とか
「地域の回遊性を高める」などと尤もらしいことを唱え、周辺地域と再開発協議会などをつくり
協議を重ねるものの、それらは官僚がよくやる「アリバイ作り」みたいなもの。
いざ完成してみると、回遊性は駅施設内だけで、周辺地域へ人が流れるどころか
逆に人が巨大な駅施設に吸い込まれ、周辺地区は潤うどころか逆に寂れて行っている。
駅が巨大なブラックホールと化し、周辺地域だけではなく沿線都市からも貪欲に客を吸い込み
駅施設外に出さないから博多駅や京都駅などの大都市の中心駅施設のみが賑わう1極集中が進んでいる。
まさに「一将功成りて万骨枯る」だ。
こう言えばデジャブー(既視感)を覚える人もいるだろう。
そう、郊外に大型ショッピングセンターが建設され駅前をはじめてとした地元商店街が
次から次に客を奪われシャッター通りと化した当時を。
JRとは一体何者だろう。
ある時は公共交通機関の顔をし、ある時は不動産屋の顔をし、またある時は商社の顔を見せる。
しかも、その時々で変面ショーのように見せる顔をクルリと変える。
一体どれが本当の顔なのか。
鉄道輸送は赤字だと言いながら、その一方で「儲かりそう」と見れば何にでも手を出す。
ホテルにコンビニに飲食店。果てはドラッグストアにまで手を出したが、悲しいかな、いずれも武士の商法。
どれもこれもうまくいったという話は聞かないし、ホテル以外は大抵撤退している。
大体、本業で知恵を絞らない会社が他分野に手を出してうまくいった例は少ない。
赤字路線の廃止を言う前に、責任を取ってトップが辞任するなり給与を返上するなりをしてみたらどうだ。
それもせず湯水のように金を使って豪華列車を造り運行してみたり、高給を取っていることに
痛みを感じないのだろうか。
地方へ赤字を押し付けるJRの体質
JR各社が行ってきたのは地方への押し付けである。
利用者減は地域過疎化による利用者減で、それはJRの責任ではなく地方自治体の責任という論理だ。
故に赤字路線は地方自治体で第3セクターによる会社を設立し運行してください、と言う。
これって何かおかしくない?
こういう時だけ民間企業の論理を出してくる。
公共交通としての使命や役割の意識は微塵もないとは言わないが、希薄ではないか。
彼らは鉄道の使命は「大量輸送」だと言う。
だが、時代は変わり鉄道の使命は「大量輸送」だけではなくなっている。
「大量輸送」が必要とされているのは東京などの都心部だけで、地方都市は中心部であっても
「大量輸送」が絶対条件ではなくなり、むしろ「中量輸送」に変わってきている。
当然、JR各社もその認識はあるが故に、近年、脱鉄道に動き、不動産事業その他を始めるなど
儲かりそうなものには何にでも手を出し、社内から「商社化している」と言う声さえ聞かれる程だ。
ここで問題にしたいのは脱鉄道の動きを加速させる中で公共交通機関としての役割について
真剣に検討してこなかったのではないかということだ。
ローカル赤字路線を切り捨て、沿線自治体に押し付けてるだけで、自らの責任に対する自覚と危機意識が
希薄だったと言わざるを得ない。
それを今になって「被害者意識」で経営危機を言い出すから腑に落ちないのだ。
次に17路線30区間のみ「収支」を発表した点。
他の路線の収支も発表すべきではないか。全体で赤字と言うが、黒字路線はどこなのか、
他にも赤字路線はあるのかないのか。鉄道事業以外の収支はどうなっているのかも併せて発表しなければ、
今後の検討も出来ないだろうし、沿線自治体の理解も得られないと思うが。
鉄道利用者減に街の変化も影響
車社会になり交通体系が変わってきたのは間違いない。
街・町の構造が変わり、駅前はどこも賑わい地・中心地ではなくなっている。
そのことが鉄道利用者数の減少にも繋がっている。
となれば今後も鉄道の利用者数が回復することは望めないだろう。
例えば岡山県美作市を通っている鉄道は兵庫県姫路と岡山県新見(にいみ)を結ぶ姫新(きしん)線で、
同路線の輸送密度は1119人。
「実質的な廃止基準」である2,000人を下回ってはいるが、それでもかろうじて4桁の数字を維持している。
しかし、今後も4桁の数字で推移する可能性は低い。美作市内の高校は林野高校1校で、
隣接地域の勝間田高校を含めても2校。
ところが両校とも生徒数減少に悩まされ、最近では両校の合併話も取り沙汰されていると聞く。
生徒数の減少はJRの利用者減にほぼ直結する。
それはローカル線のダイヤを見れば明らかで、生徒の通学時間帯に合わせて運行時間帯・本数が決まっており、
それ以外の時間は2時間に1本あるかないか。
全国のローカル線の運行状態は似たようなものだろう。
要は通学生の定期券購入がJRの路線区間を支えているようなものだが、学校が駅の近くにあるとことは
少なく、上記の林野高校でもJR駅からバスか30分近く歩くかしかない。
通学生にとっても鉄道はそれほど利用しやすい乗り物ではないのだ。
となると学校側はスクールバスの導入を考えざるを得ないだろうし、すでにそうしている学校もあるだろう。
問題は路線区間の廃止が地域住民の生活に与える不便さだが、極端な影響はないように見受けられる。
というのは高校は駅から離れているところがほとんどだし、スーパーやホームセンター、
家電量販店も駅から離れたロードサイドで、そこには高速バスその他が乗り入れているからバス利用ができる。
運行本数の問題がある地域はバス運行会社と本数、路線の問題を検討すれば解決できない話ではないだろうし、
すでにコミュニティバスや地域共同バスという形態で運行している地域もある。
地方の人口減少だけでなく街・町の構造が変わり、全国的に見ても駅前がかつてのような賑わいの場所、
中心地ではなくなっている以上、鉄道に「地域の足」としての役割を求め続けるべきではないかもしれない。
今回「鉄道のあり方」を抜本的に考え直す時期だろうとは思うが、JRの「赤字路線の廃止」という
「方向」には即座に賛成しかねるし、JRの発表が腑に落ちない部分がある。
4月11日、地方に衝撃と戸惑いが走った。
この日、JR西日本が不採算17路線の収支を「ローカル線に関する課題認識と情報開示について」の中で
具体的に発表したからだ。
JR西日本は「路線廃止ありきという話ではない」とは言うものの「利用者数が極端に少ない」
「赤字路線」を発表されれば、明日、明後日の路線廃止はないにしても、近々路線廃止になると
受け取るのは沿線自治体ならずとも当然だろう。
JR西日本、赤字路線名を発表
JR西日本がローカル路線の「見直し」に言及したのは突然ではない。
2月16日、長谷川一明社長が会見で「ローカル線に関する課題認識」について触れており、
4月の発表内容はほぼそれに沿ったものだ。
「見直し」の標的にされたのは17路線30区間で、それらは山陰・中国地方北部に集中している。
1日の利用者数が2,000人未満の赤字路線の中でも最も採算性が悪いと槍玉に上がったのが
芸備(げいび)線。
芸備線といっても鉄道ファンか、その地域に関係ある人以外には地理的なイメージすら
湧かないかもしれないが、名前からある程度は想像つくだろう。
「芸」は「安芸(あき)」あるいは「芸州」の「芸」で広島地方を指す古い呼び名(旧国名)。
「備」は岡山県西部を指す備中。つまり芸備線は広島市と岡山県新見市の
備中神代(びっちゅうこうじろ)駅を結ぶ路線のことである。
芸備線の中でも採算性が最も悪いと指摘されたのが東城駅(岡山県)と
備後落合駅(広島県)間で、輸送密度はわずか11人。
輸送密度とは1kmあたりの1日の平均乗客数を示す指標で、乗客数などの数値を営業日数
などで割って算出した数値だが、旧国鉄時代に4,000人未満の区間はバスへの転換が
経営上効率的で、2,000人未満は実質的な廃止基準とされたことを考えると11人という数字は
あまりにも悪い。ほとんど利用されていないと言っても過言ではない。
因みに東城ー備後落合間は100円の収益を得るのにかかる経費が2万5416円と算出されている。
こうした数字を提示されれば沿線自治体、沿線住民ですら「廃止やむなし」と考えるに違いない。
いや、それより前から「いずれ路線廃止になる」という諦めの気持ちがあっただろう。
とにかく芸備線の利用者数は少ない。2,000人未満どころか100人にも満たない。
備後落合駅ー備後庄原駅間は62人、備中神代ー東城駅間が81人だ。
これを見ればJR西日本に同情したくなるかもしれない。
よくぞまあ列車を走らせてくれている。さすが公共交通の役割とは何なのかを理解している。
なんとか利用者を増やすように協力したい、と思うかもしれない。
芸備線の利用者数が少ない理由
それにしてもなぜ芸備線の利用者はここまで少ないのか。
地方、特に山間部の少子高齢化、過疎化は加速しているが、それはなにも芸備線沿線に
限ったことではない。
にもかかわらず、なぜ芸備線のみ利用者数が極端に減少しているのか。
個人的には中国自動車道を年に何回も走っている感覚からすれば広島県庄原ー東城は
近距離的なイメージだが、この間をJRで移動すると結構時間がかかる。
高速道路に対し鉄路は北の方に大きく迂回した路線になるから想像以上に時間を要する。
東城ー備後庄原間は高速バスを利用すれば30分あまりだが、鉄道だと1時間40分もかかる。
余程途中の備後落合にでも寄る必要がなければ高速バスの方を利用するはず。
しかも鉄道は高速バスに比べて圧倒的に運行本数が少ない。
時間が短く、運行本数が多い方を選ぶのは当然だ。
このことからJR芸備線の利用者数が少ないのは少子高齢化や過疎化だけが原因ではないと分かるだろう。
かといって今更、東城ー備後庄原間に新路線を敷けといっても、それは予算的にも
経営的にも無理だろう。
結局、芸備線の廃止は規定事実であり、社内ではスケジュール化されているはずで、
そのことを関係自治体に明らかにしたというのが今回の発表。
事実、JR西日本は「廃止ありきという話ではない」と言いながら、その一方で
「路線存続が前提(の話)ではない」と認めている。
上記のような状態を聞けば、不採算17路線30区間の廃止はやむを得ない、
と考えるかもしれない。
しかし、どうも腑に落ちない。餅が胸の辺りでつかえて苦しく、コブシで胸を叩くが
ストンと胃に落ちて行かない。
理由はいくつかある。まずJR各社の努力不足だ。
地方路線→赤字→運行本数削減→利便性低下→利用者数減少→運行本数のさらなる削減→
ますます利便性低下→赤字の拡大
という負のスパイラルに陥っている。
その間に大した手は打っていない。
JR各社は「努力している」と言うかもしれないが、どのような手を打ってきたのか
時系列に提示すべきだろう。
でなければ「努力してきた」という弁明は通じない。
2022.5.23
HP:「リエゾン九州」内の「栗野的視点」に収録
芳野連合会長の狂喜
狂気が社会を覆っている中で一人、狂喜しているのが連合の芳野会長だろう。自
民党の会合に呼ばれ、欣喜雀躍して出席するなど一人「狂喜」乱舞している。この
人、個人的に共産党が大嫌いなようで、それは個人的なことだからいいが、労働側
の権利を守り資本側と対立・交渉したり、野党という枠で選挙を闘うということな
ら労働者の団結や野党共闘が必要なのは分かり切っている。個人的な好みより組織
としての闘い方を優先すべきだろうと思うが、この人にはそうした思考はなさそう
だ。
それにしても連合の会長に就任した途端、自民党に擦り寄りだしたから「おやお
や」という感じだ。この先、連合はどこに向かうのか。分裂するのではないかと思
っていたら、案の定、そのような動きが内部から出てきている。
まあ、それは当然だと思うが、過去の歴史を見ても政権に擦り寄った所はほぼ衰
退している。かつての社会党然り。連合はすでに衰退傾向にあるから、その動きに
拍車がかかることになる。
この狂気(狂喜)じみた動きは連合という組織を分裂させるだけでなく野党の弱
体化にも力を貸している。かつて母体を共にした国民民主党と立憲民主党は内ゲバ
さながらに身内憎しの関係になり、国民民主党の玉木代表は芳野連合会長と歩調を
合わせるように自民党に擦り寄り、軸足をそちら側に移そうとしている。
両者とも「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と考えているのかもしれないが、それ
は逆で「ミイラ取りがミイラに」なり、自民党1強をさらに強くするだけだ。
実際、ガソリン税の一部を減税する「トリガー条項」の凍結解除を条件に自民党
・公明党との「3党協議」(与党入り)を行い、トリガー条項の凍結解除が行われ
なければ「3党協議」から離脱すると息巻いていたが、結局、今に至るもトリガー
条項の凍結解除はなく、ガソリンは高いまま。引き続き協議を行うとしているが、
玉木氏は「3党協議」から離脱するどころか与党擦り寄り状態のままだ。
一度アメを舐めると、その味は忘れられない。相手との距離を広げるどころか、
逆に距離をどんどん近付けて行き、最後は与党補完勢力に成り下がる。
この状態が怖いのは戦前の大政翼賛会のような状態が作り出され、政権に対する
チェック機能が働かなるからで、それはプーチンのロシアを見ても明らかだろう。
昔から自民党の懐の深さはよく知られている。「来る者拒まず」で、政権獲得・
維持のためには野党とだろうと手を組むどころか、野党党首を首相の椅子にさえ座
らせる。自社さ連立(野合)政権で社会党の村山富市氏が総理大臣になったのはま
だ記憶に新しいだろう。それとも30年近くも昔のことだから人々の記憶から薄れて
いるだろうか。
フィリピンのマルコス政権が独裁政治を行った記憶は若い人達の記憶から消え、
マルコス(息子)が圧倒的な支持を得て大統領選に当選したぐらいだから、日本で
も同じようになっているのかも分からない。
狂喜しているのは連合の芳野氏だけではない。自民党の麻生氏は芳野氏を党の会
合に呼んだ後「これで酒が飲める関係に」なったとニヤリとしていた。この瞬間、
連合は自民党に取り込まれた。少なくとも芳野会長は。
一度蜘蛛の巣に引っかかればいくら足搔いても逃れられない。足搔けば足搔くほ
ど糸が絡み付くだけで、ますます取り込まれて行く。
まあ当のご本人は足搔くどころか蜘蛛の糸に絡まったことを喜んでいるかもしれ
ない、自民党の大物議員や自民党にパイプが出来た、と。だが、それが労働者のた
めになるのか。100歩譲って、仮に「労働者」のためになるとしても、そこで言わ
れる「労働者」は大企業で働く正規社員で、同じ社内でも非正規社員は含まれてい
ないし、ましてや中小企業で働く社員・非正規社員は含まれていないだろう。芳野
氏の頭にある「労働者」とは連合傘下の労働組合員だけだ。
労働組合と言っても内部にヒエラルキー(ピラミッド型の階層)が存在している
のは公然の事実で、一般組合員と専従組合幹部とは待遇その他からして違う。彼ら
が労働者の味方だったのはせいぜい1950年ぐらいまでだろう。
「資本家」などと言って経営側を批判する一方で、組合幹部は一般労働者が一生
かかっても住めないような広い住居に住み、夜は銀座や地方都市の繁華街で飲み食
いし、移動はグリーン車やタクシーという優雅な生活を送っている。そんな生活を
していて、一般労働者の苦しみが分かるはずはない。彼らが送っているのは貴族生
活で、中小企業の経営者の方がはるかに労働者に近い生活を送っていた。故に組合
幹部は「労働貴族」と呼ばれたりしていた。
その最たるものが自動車総連会長の塩路一郎氏で「塩路天皇」とまで呼ばれた。
ここまでくると労組の代表というより、労組を食い物にしている寄生虫に近いと言
うのは言い過ぎか。中にはそうでない労組幹部もいただろうが、それこそ貴重な存
在。
労使協調路線を取る労組はかつて「第2組合」と呼ばれていたが、今や第1組合
は少数派で、大半の組合は労使協調路線であり、組合の委員長、書記職はもう一つ
の出世コース、あるいは社内出世コースに組み込まれている。
生真面目な読者からすれば不思議に思われるかもしれないが、経営側と労働者側
に分かれていても近年の社内組合は呉越同舟ではなく、同じ穴のムジナに近い関係。
会食を何度も共にしていれば互いに通じ合い、落とし所、妥協点を出し合い、後は
それを組合に持ち帰って組合員を説得するのが組合幹部の仕事。これで酒でも共に
すればミイラ取りがミイラになる。いやもともとミイラを取りに行っているわけで
もなく、ミイラを覗いて帰ってくるだけだ。
あまり厳しいことを言うなと言われるかもしれないが、コロナ禍に値上げラッシ
ュで人々の暮らしはますます厳しくなっている。食材を含めた生活用品の値上げは
低所得層にほど大きく影響する。その一方で大企業は過去最高益を計上している。
そんな中で狂喜している感覚がおかしい。それこそ狂気としか言いようがない。
このような狂気に支配され、狂気が蔓延している社会だけに、それに感染しない
思考と行動が求められる。
2022.5.13
2つ目は独裁者の狂気である。
「独裁者」と聞いて何を想像するだろうか。暴君、暴力、強権的、弾圧等々。民衆
や反対者を暴力でもって、時には暗殺という手段も使って物理的に排除し、武力を
背景に民衆を支配する暴君、というイメージだろうか。
独裁とは「広辞苑」によれば「独断で物事を決めること。また、特定の個人・団
体・階級が全権力を掌握して支配する」ことであり、それを行う人が独裁者と記さ
れている。ここには「暴力」とか「武力」による「弾圧」という言葉は使われてな
い。つまり独裁者=暴力的支配者を意味するわけではないということになる。にも
かかわらず「独裁者」に力による弾圧支配というイメージが付きまとうのはなぜか。
一つには歴史上、独裁者と言われた人物は自分に反対する者を暴力的な手段で物
理的に排除してきたからで、それらは封建時代か後進国での出来事であり、民主主
義と無縁あるいは民主主義が未発達な時代や国で行われていた、行われていると思
われているからだろう。
つまり民主主義が広まるか、文明が進めば独裁国家は過去のものとなり、独裁者
はいなくなるはず、だった。そして21世紀になると未開の地や封建国家はなくなっ
たと思われた。曲がりなりにも「文明の光」は地球上のあらゆる国・地域にほぼ届
き、残ったのはまだ「文明の光」がその国や地域の隅々まで届き切っていない途上
国ぐらいだ、と。
これが誤解だった。技術が進み、今ではスマートフォン(以下スマホ)はほとん
どの国で使われているが、社会体制は古いままという国がまだというか、結構存在
している。それらの国はアジアやアフリカに多く存在し、そうした国の大半では民
主主義的な運営の代わりに一つの党や少数者が権力を掌握し、民衆を「指導」して
いる。
中には形だけの民主主義を導入している国もある。複数の政党を認め、国会ある
いはそれに類する組織があり、そこで国の方針や政策等が決められる体裁を整えて
いるが、それは形式的で実際には権力党の議員が圧倒的多数を占める仕組みになっ
ていたり、権力者の意に沿わない党は議員への立候補そのものが出来なくなってい
たりするのは香港やミャンマーの例でも明らかだ。
独裁や権力者にとって重要なのは民衆の支持を得ているという形であり、自分は
民衆の弾圧者、独裁者ではないという形なのだ。それが形だけのものであっても。
権力者が最も恐れ、嫌うのは自分に楯突いたり、自分の立場を脅かす者である。
権力者は常に権力の簒奪を恐れ、怯えている。特にナンバー2の存在に。
これは時代に関係なく、権力者が恐れていることのようだ。例えば毛沢東が文化
大革命を発令し劉少奇を失脚させた背景には毛の劉に対する嫉妬があったとも言わ
れている。
中華人民共和国設立以来、「主席」として人民から慕われていた毛が第1線を退
いたのは「大躍進」政策の大失敗で多数の餓死者を出したことが関係している。そ
の尻拭いをしたのが劉少奇、鄧小平で、劉少奇は国家主席に就任した。
毛は相変わらず中国共産党の主席ではあるが国の代表者、国家主席に劉少奇が就
いたことで「主席」と呼ばれる者が2人になった。それまでは「主席=毛沢東」だ
ったのが「主席」は毛の代名詞ではなくなったわけで、それに毛が嫉妬し、劉少奇
追い落としを画策し、路線闘争を仕掛けた側面が文化大革命の発動にはあったとい
う。
それが主ではないにしても、嫉妬があったのは事実だろう。毛はスターリンのよ
うにされたくなかったのだ。スターリンは生前、絶対権力者として君臨したが、死
後、首相に就いたマレンコフの後を継いで首相になったフルシチョフによってスタ
ーリン批判が行われた。毛は自分もそうなることを極端に恐れ、「中国のフルシチ
ョフ」という代名詞で反対者達を粛清していった。
似たようなことは経済界でもよくある。強力なリーダーシップを発揮し企業を発
展させてきた創業者の下に後継者が育たないのは創業者の嫉妬によるところも大き
いだろう。
内外に「後継者」と発表されたナンバー2が次々に企業を去った例はあるし、ト
ップ(CEO)を譲ってはみたものの、結局自分が返り咲き代表取締役会長兼社長に
就任してすでに10年以上などという例は枚挙に暇がない、とまでは言わないが、こ
こで社名を言うまでもなく結構目にするはずだ。
最高権力者が望むのは自分に付き従う者で、自分の立場を危うくする、あるいは
自分と並ぼうとする者は認めることが出来ない。それ故、敵に対するより内部の反
対者に対する闘争の方が激しく、陰惨である。
金正恩が父親の跡を継いでトップの座に就いて間もなく近親者を次々に暗殺、処
刑していったのも同じで、粛清が一通り終わると周囲に残るのはイエスマンだけで、
常に最高権力者を賞賛する声が万雷の拍手とともに送られる。
それでも安心できないのが絶対権力者で、次に着手するのが憲法を改正し、自ら
の任期を延ばすことだ。中国の習近平もロシアのプーチンも同じ手順で進んだ。そ
して日本でも任期を延ばした人物がいる。政界だけでなく経済界にも。
つまり自らがトップの座にいる時に法や制度を変えて任期を延ばそうとしたり、
延ばした者は独裁への道を歩もうとしていると見て間違いない。それを阻止し、法
や制度を順守させるのが独裁者を生まない最後の砦になる。
権力は魔物である。一度でも、わずかでも手に入れれば、さらに、もっととなり、
欲望は尽きることがなく、自制することが出来なくなる。しかも悪いことにという
か、都合がいいことに、声高に聞こえてくるのは自分を称賛する声ばかりだ。これ
ではまるで人々が自分の君臨を望んでいるかの如く勘違いする。
故に法や制度を変えて在任期間を延ばそうとする企てには絶対に賛成してはいけ
ないのだが、今世界はそうなっていない。
狂気が独裁を生むのか、独裁が狂気を生むのか。今、世界で支配的になりつつあ
るのは独裁である。独裁と言っても一部の国を除いて武力でもって弾圧するハード
独裁ではなく、非武力的なソフト独裁と、それを支持あるいは歓迎する独裁土壌の
広がりである。
これは言い換えれば民衆側の独裁を歓迎する狂気、熱狂的な支持で、それは何も
独裁国家に限ることではなく民主主義国家でも起きるだけに危険だ。
民主主義は極めて脆いものである。なぜ脆いのか。それを守り、維持していくに
は一人ひとりがかなりの労力、脳力を要するからだ。ともすれば人は誰かに決めて
もらいたがる。特に国の進路や世界の有り様などの大きな問題に関しては。
そんな大きなことは自分ではなく他の誰かが考え、決めてくれた方が楽だから。
自分で一から考えるのは面倒臭いし大変だ。それより誰か、国のリーダーが道筋を
決め、それに対し賛成、反対などを言う方がはるかに楽ではないか。当然、自分の
責任も回避される。かといって言いなりになっているわけではない。いろんな情報
を収集し、自分なりの意見を持ち、自分の考えに近いか同じ意見の人間を支持して
いるだけに過ぎないと思い込んでいる人が増えている。
自分の頭で考えることを避けているわけで、デジタル時代になり世界中でその傾
向が増えている。スマホがその傾向をさらに加速させているのは言うまでもない。
なぜか。スマホの小さな画面で長い文章を読むのは苦痛だから、情報の発信側もス
マホ用を意識し極力簡単な言い回し、二者択一的に書いていくから、ますます自分
の脳を使わなくて済む。
結果、人々の脳力は落ち、極端な意見に染まりやすくなっている。狂気に染まり
やすい、狂気を受け入れる土壌がこうして出来上がっているが故に、文明が発展し
ている国で独裁者が登場してくるし、それを待ち望むようになる。独裁者という言
葉を「強いリーダー」という言葉に置き換えれば、もう少し身近に感じられるだろ
うか。
「社会を変える3つの狂気」は2022年4月25日に執筆したもの
全文はHP(http://www.liaison-q.com/kurino/Crazy3.html)にアップしています。
つくづく自然は冷たく、不平等だと思う。昔、自然は平等だと考えていた。金持ち
にも貧乏人にも雪は等しく降り、銀世界に染めるのは同じだと無邪気に思っていた。
だが、それは間違いだったと気付いた。自然は平等主義でも慈悲深くもなく、むしろ
その反対だった。
飽くなき開発が災厄を生む
例えば今回、南部九州に始まり、九州全域を襲った水害は平等ではなかった。被災
したのは金持ちより中流階層以下へのダメージの方が大きい。
鹿児島でも西郷隆盛など下層武士は河川敷かそれに近い土地を開墾して住み着いた
ことが知られているように、川に近い土地に住むのは低所得者か、新たにその土地に
移り住んできた新住民が多い。
近年でこそ「ウオーターフロント」と言われ持てはやされているが、ウォータフロ
ントとは日本語に直せば水辺、海岸近くの陸地のことだ。
都市の膨張・拡大に応じて「水辺」を開発し、そこに臨海都市を建設する動きが加
速したのは80年代。そこに都市機能を充実させ、住宅地も建設して行ったのだから、
水の危険性は当初からあった。津波が来れば直接的な被害を受けるのは当初から分か
り切っており、本来、住宅地の建設には不適格だが、当時はそんなことを考える人は
ごく少数だっただろう。
ウォータフロント、水辺が危険と再認識したのは東北大震災とそれに続く大津波と、
ここ数年、毎年のように全国各地で起きている豪雨による大水害によってだろう。
最近でこそ「線状降水帯」という言葉をよく耳にするようになったが、10年近く前
までは見聞きした記憶がない。つまり、この気象用語は最近使われ出したものという
ことだ。
この30年ほどの間に日本列島の気象状況は明らかに変わってきている。例えば新幹
線が博多まで開通した1975年前後頃は大相撲九州場所が始まると必ず雪が降った。そ
れが今では雪が降るどころか、観客席では扇子や団扇で扇ぐ姿がごく普通に見られる。
それぐらい暖かくなっている。
もちろん、その間に福岡市の都市機能が増し、人口が増えたことによる都市の気温
が上昇したということもあるだろうが、こうした現象は福岡だけに限ることではない
ので、やはり日本列島全体の温暖化が進んでいるというしかない。
温暖化の影響と思われる現象は世界各地で起きており、冬の豪雪、夏の猛暑と水害
が特徴的で、海水面が上がり水没の危機に直面しているのはツバルやキリバスだけで
なく、水の都として知られるベネチア(英語でベニス)も同じだ。
毎年のように日本各地で起こる大水害に対する対策はもちろんだが、目先の対策だ
けではなくもっと根本的なところで手を打つ必要がある。人類の未来のために。
環境破壊で未知のウイルスが
今、世界のあちこちで起きていることは、人類が環境問題に真剣に取り組んでこな
かったツケが回ってきていると言っていいだろう。COVID-19の世界的流行にしてもそ
うだ。本来、森や洞窟の奥にひっそりと潜んでいたコウモリなどの宿主が棲んでいた
場所を、人類が開発という名の下に侵略し、彼らの棲む場所を奪ったため、彼らは否
応なく人の近くに出没せざるをえなくなった。
それは鹿や狸、猪、熊にしても同じで、人と彼らとの間に存在した緩衝地帯とも言
える境界がなくなったことが原因だ。棲み処を奪われた動物達は食料を求めて人間界
に近づいて来ざるを得ない。彼らを宿主としてきたウイルスも当然、人間界の近くに
現れることになるし、本来の宿主が減少してきたため彼らは新たな宿主を求めざるを
えなくなる。
かくしてウイルスは生存のために人類を新たな宿主にしだしたわけで、仮にSARS-C
oV-2(新型コロナウイルス)の封じ込めに成功したとしても、それに代わる新たなウ
イルスがまた現れるだろう。
本来、「ウイルスとの共存」と言うなら、ウイルスに本来の宿主を残してやり、人
間界との境界を守らせる以外にない。
山が荒れ、保水力低下も一因
このところ毎年のように日本各地で起きている豪雨による大災害は地球温暖化と無
関係ではない。温暖化による海面の温度上昇が水蒸気をたっぷりと含んだ高気圧を発
生させている。
南の高気圧と北の低気圧がぶつかり均衡を保つと前線が生まれ、前線の南側に大量
の雨をもたらすというのは指摘されている通りだが、年々、高・低気圧の力が均衡し、
前線の停滞が長引く傾向にある。
特に今年は梅雨前線の停滞が異常に長い。気象関係者によれば豪雨災害は日本では
西半分に多いらしい。範囲をもう少し広げると、中国南部の三峡ダムの決壊の恐れも
言われており、温暖化防止は人類の生存をかけた闘いと言っても過言ではないだろう。
世界的規模で言えば化石燃料の使用過多によるCO2の増加、アマゾン他の熱帯雨林
や森林伐採を伴う乱開発によるCO2吸収量の減少、急激な都市化による都市の熱放射
(ヒートアイランド現象を含む)、地上を走り回る車と空を飛び回るジェット機、さ
らに最近は牛が出すゲップに含まれるCO2までが問題にされている。
しかし、これらの削減による温暖化防止策には重要な観点がいくつか抜けている。
それについては後述する。
一方、国内に限って言えば別の側面も見える。戦後の住宅ブームで林業が儲かる産
業として脚光を浴び、盛んに植林もされたが、植林されたのは杉ばかり。それが後に
安い輸入材が入ってくるようになり、競争力に敗れた国内林業が廃れていったのも知
られている通りだ。
木材の販売額が山からの搬出費用を上回れば伐採はしても搬出せず、その場に倒木
として放置される。そこに持ってきて林業従事者の高齢化が重なればなおのことだ。
かくして森林は荒れ、山の保水力は弱まり、大雨になれば倒木が凶器となって山肌
を滑り落ち、道路や家屋を襲い、河の流れを堰き止め、被害を大きくしていったのは
今回九州各地を襲った大水害でも目にした光景である。
短期的には治水事業等で少しでも被害を減らさなければならないが、それらは飽く
までも対処方法で、どこかを治せば別のどこかで被害が起きる、もぐら叩きのような
ものだ。もう少し長期的な視野で当たる必要がある。
地球温暖化防止への取り組みは待ったなしだ。選挙対策などではなく、よほど真剣
に取り組まなければ、冗談ではなく人類は滅びるだろう。
温暖化防止が言われだしたのは何もこの10年や20年ではない。その前から指摘され
世界規模で取り組んできているが、各国の利害が複雑に絡み合い、なかなか全世界が
一致して取り組むというところには来ていない。
しかし、ここまで自然災害が世界各地を襲い出すと、もうそんなことは言っていら
れないだろうし、もしかすると今回のCOVID-19の世界的大流行が1つの契機になるか
もしれない。
レジ袋の廃止で森林伐採が増える
総論賛成、各論反対ということはよくある。特に政治の世界では。環境問題も似た
ようなところがあり、こちら側から見れば善だが、あちら側から見れば逆に環境破壊
に繋がるという矛盾が起こり得る。
例えば7月1日からレジ袋の無料配布廃止が全国で一斉に始まった。プラスチック
製品の削減と、海洋生物に与える影響防止のためである。特に後者は近年、問題化さ
れており、海洋生物の体内に蓄積されたマイクロプラスチックは、魚類を食べる人間
の体内にも蓄積されていくため人類の生存とも関係してくる。
こうしたこともありレジ袋の代わりに「マイバック」を持参する消費者が増えてい
る。私自身も買い物に行く時はマイバックを持参しているが、店によってはユニクロ
のように紙袋に替えたところもある。
こうした動きは世界的に広まっており、プラスチック製のストローを紙製のものや
ほかのものに替えたり、ストローを廃止したところもある。
これらは悪いことではない。しかし、ブーム的な既視感を覚える。10数年前にマイ
箸が流行り、飲食店は割り箸を塗り箸に替え、繰り返し使用するようにしたが、いつ
の間にやら割り箸が復活し、今でも塗り箸を使っている店は少数派になっている。こ
れにCOVID-19が追い打ちをかけ、塗り箸を使う店はほぼゼロになるだろう。
もう一つはユニクロのようにレジ袋やビニール袋を紙袋に替える動きだ。たしかに
動物や海洋生物の胃袋をプラスチック製物質から守ることには役立つだろうが、紙製
品の使用が増えれば森林伐採はさらに拡大する。
国内の間伐材を使用すると主張するかもしれないが、量と価格の両面から考えれば、
それはないだろう。
リサイクルにも同じようなことが言える。リサイクル、リユース等を進め循環型社
会を目指すという謳い文句の下、各自治体では積極的にリサイクルに取り組んでいる
が、その実態はクエスチョンマーク付きだ。
非常に細かく分類して収集する自治体がある一方、福岡市などのようにリサイクル
回収するのはペットボトルとビンだけで、後は燃えるゴミ、燃えないゴミに分け、焼
却か埋め立て処分というところもある。
ここだけを見れば細かい分類をしている自治体の方がリサイクルに熱心なように思
えるが、もう少し先の出口まで見なければ、一概にどちらがどうとは言えない。 と
いうのはリサイクル品として回収されたものの大半は海外の新興国へ輸出されている
からである。輸出と言えば聞こえがいいが、実際はゴミの新興国への押し付けだから
だ。
以前は中国が主要な「リサイクル資源」の輸出国だったが、近年は輸入禁止措置が
取られている。中国に代わるアジアの他の諸国も経済力をつけてくるに従い、「ゴミ
の輸出」拒否の姿勢を鮮明にし出したので、国内の回収リサイクルゴミは行き場を失
い、回収業者の敷地に山積みになったまま放置されている。そこに今回のCOVID-19が
追い打ちをかけ、ますますリサイクルゴミは行き場を失っている。
リサイクルとは循環であり、それを広範囲な地域、地球規模で捉えてリサイクルと
言うのは詭弁以外の何物でもないだろう。本来、自国内で処理すべきで、そういう意
味ではCO2の排出取引というのもおかしな方法だが、何もしないよりはした方がいい
ということか。
生産量の減少こそが必要
さて、先に「温暖化防止策には重要な観点がいくつか抜けている」と指摘した問題
に移ろう。
現在、叫ばれ、取り組まれている温暖化防止策はすべて「出口」対策である。レジ
袋は使わないようにします、電力の使用量を減らしましょう、そのためにエアコンの
温度設定を〇度に上げましょう、〇度に下げましょう、化石燃料を自然エネルギーに
替えましょう、省エネ製品を使いましょう、ガソリン車からプラグインハイブリッド
や電気自動車に替えましょうetc。
過去にこんなCMがTVで流れたことがある。「古い電気製品を省エネ対策の新しいも
のに替えましょう」(言葉は正確ではないが)というような内容で、電化製品を新製
品に替えた方が省エネになるというものだった。広告主は政府だった。
このCMには強い違和感を覚えたものだが、同じように感じる人達がいたのだろう、
放映期間は短かった。
このCMの何が問題かといえば、1つは省エネに名を借りた消費行動を促している点
であり、もう1つはトータルで見た場合の省エネ率がどうかという点である。
私が問題にしているのは後者の点である。温暖化防止策で本当に必要なのは川下で
はなく川上対策だと考えるからだ。
もちろんリサイクルや少消費行動は必要だ。だが、その前に物量作戦を展開してい
るメーカーこそが問題ではないのか。
例えば車の生産台数やモデルチェンジサイクルは妥当なのか。大量生産・大量販売
を続けるユニクロなどのファストファッションメーカーは衣類を作り過ぎではないの
か。
とにかく身の回りを見渡すだけでモノが溢れているのが現代だ。なぜ、そんなにモ
ノを作り、消費者に次から次へと買わせようとするのか。
そのためにどれだけの資源を食い潰し、環境破壊を続けているのか。それを消費者
のためと言うなら、それは詭弁だ。すべて自分のため、自社の利益のために他ならな
いだろう。
そうした経営者には「足るを知れ」と言いたい。被災地に寄付をしたり物資を送る
こともいいことだ。しかし、本当に望んでいるのは毎年のように各地で起きる集中豪
雨が起きる一因でもある温暖化を止めることだろう。
(2020年7月10日)
一体この国はどうなったのだろうか。いや、この国だけではなく、この世界は。
覇権主義が横行し、世界は猛スピードで歴史を逆回転させているように見える。
それにつれて人々の理性も知性も感情も逆回転している。
かつて平岡正明が「ジャズ宣言」の中で「感情、感情こそが全てである」と獣の感情を忘れた現代人に
「鋭い感情を取り戻せ」と警鐘を鳴らしてから50年近くも経つというのに、我々の「感情」は
鋭くなるどころか逆に鈍くなり、怒りは小さくなるばかりだ。いや「怒り」はとっくに失っている。
「怒れる若者」はその後中年、シニア、老年と歳を重ねるに従い「怒り」をすっかり忘れ、
孫の話に眉を下げるだけの好々爺になってしまっている。
いや彼らは「怒り」を忘れたのではない。最初から「怒り」を知らなかったのかもしれない。
好々爺になることを否定しはしない。好々爺になって過ごせることは「平和」なことの証だから。
「ゴルフ」だって健康のためと言えばジョギングやウォーキングと同じで、今では大してカネが
かからないスポーツになっている。広々としたゴルフ場を歩き、汗を流すのはいいことだ。
だが、と敢えて言いたい。誰と一緒にコースを廻るのかは重要だ。
岸田か安倍か田中か。それとも反社勢力か総会屋か。
食事だってそうだ。ちゃんこ料理は私も大好きだ。
冬は鍋に限るし、色んな具をブチ込めるちゃんこ鍋はおいしい。
だが食べる相手や店はやはり問題になる。そんな感性さえ持ち合わせていないなら
「ボーッと生きてんじゃないよ」と5歳の子供に叱られても仕方がない。
ゴルフに興じたり、ちゃんこ料理店でご機嫌を取っている間にも、食べるものさえなく餓死したり、
病気で亡くなっている子供が世界に、いやこの国にだっていることに思いを馳せれば、
そのわずかな金額をホームレス支援団体やユニセフ、「国境なき医師団」に寄付しようと思っても
バチは当たらない。それともそんな感情さえ失くしてしまっているだろうか。
100万円をばらまいたり、100億円近くを投じて宇宙に行った人がいる一方で、
ジェフ・ベゾス氏から宇宙飛行に誘われたトム・ハンクスは断ったらしいが、
その理由を「2800万ドル(32億円)は払わない」と述べている。
そして「無料だったらロケットに乗っていただろう」が、それは「ビリオネア(10億万長者、大富豪)
でいるフリをする喜びをただ経験するために」だと茶目っ気たっぷりに述べている。
きっと彼は同じ32億円を使うなら、自己満足や数分の宇宙飛行のためでなく、
もっと他のことに使いたいと言いたかったのだろう。
因みにジェフ・ベゾス氏は環境問題や子供の貧困問題に取り組む財団を立ち上げたり、
そういう活動をしている団体に寄付をしたりもしているということも付け加えておく。
たしかに日本の大金持ちや、先の御仁もあまり報じられないだけで寄付や慈善活動は
きっとしていることだろう。札束をばら撒くぐらいだから。
今の世界を取り巻く環境や世界の情勢を見れば、そういう気になるはずだ。
1日100円、月3000円の寄付で120人にはしかの予防注射ができたり、
清潔な飲料水を126人に届けることができるのだから。
ましてや1億円あればどれだけの命が救われるか。
1万円は金持ちにとっては紙くずだろうが、貧乏人、困窮者にとっては大金だ。
そんな中で数千円を捻り出し、寄付をする人達がいる。
「れいわ新選組」に寄付をした人達はそういう人が大半だという。
なぜ彼らはそこまでして寄付をするのか。それは今の社会や政治に対する「怒り」だろう。
その一方で「死刑になりたくて」無差別殺人をしたり、走る列車内で全く無関係の人間を死傷したり、
人の命を救う仕事の看護師が点滴液に細工をしたり、注射器で空気を入れて何の関係も罪もない人を
複数殺したりする事件が相次いでいるのを見れば、この世は怒りに満ち溢れていると思うかもしれない。
しかし、それは怒りなんかでないことは彼、彼女達が無感情、無表情に犯罪を実行していることからでも分る。
ましてや、かつての若者が抱いた「怒り」や平岡正明が言う「感情」と、彼らの「怒り」や「感情」は程遠い。
今この世に満ちているのは身の回りや向こう三軒両隣の私的なことをさも重大事であるかのように
感じる怒りばかりで、公的で大きな問題には怒りの感情がほとんど向いていない。
60年代なら間違いなくデモが起きていただろうと思われる、田中前理事長の日大私物化と
不正問題に学内から怒りが渦巻かないのはなぜなのか。
日大教職員も学生も己のことしか眼中にないのか、それともすっかり飼い慣らされて怒ることさえ忘れているのか。
日大をめぐる不正問題は3か月も前から捜査の手が入り、11月29日には田中前理事長が逮捕。
そして日大が会見を初めて開いたのが12月10日。
加藤直人学長は「前代未聞」「強い憤りを感じる」と述べたが、対応はあまりにも遅すぎるし、
文科相でさえ「社会から十分な理解が得られたとは到底思えない」と苦言を呈する会見内容であったが、
日大の対応を擁護する見解を述べたスポーツライターがいたことには驚いた。
この会見を見聞きする限り日大に自浄作用が働くとはとても思えない。
「理事会そのものが形骸化し、報告会のような形になっていた。大きな問題点だった」
というのはその通りだが13年間もそれを放置してきた加藤学長を含む理事の責任についてどう考えているのだろうか。
なにか不祥事がある度に似たような謝罪会見が企業で繰り返されるが、いずれも経過報告、
事情説明みたいなもので、再発防止体制についてはほとんど触れられない。
これでは舞台を変えるだけで同じ問題が繰り返し起きるのは当然だろうと思ってしまう。
もはやこの国には義憤、公憤という言葉すらなくなっているのかしれない。
かつて義憤、公憤を感じた者もいたであろう団塊の世代も今ではすっかり精神的に老いてしまっている。
もちろんそうでない者も多数いるだろうが、彼らが若かった当時でさえ、意思表示を明確にせず、
「怒り」から距離を保ち、傍観を決め込み、その後大企業に入ってそこそこの地位を得、
安泰の生活を送ってきた者もまた多い。
そのことをとやかく言うつもりはない、道は人それぞれだから。
だが、日大の田中前理事長の年齢が75歳で、日大卒業後、大学職員になり、
相撲部監督として実績を残し、学内外で権勢を誇っていったのを見ると、「団塊の世代」と
ひとまとめで言いたくはないが、それでもその世代の責任感を問いたくなってしまう。
あなた達は「飼い犬」になってしまい、吠えることすら忘れたのか、と。
2021.12.16
歴史に学ぶとは、ただ単に歴史を振り返ることではない。
なぜそうなったのか、なぜそこで止められなかったのかという教訓を学び取り、
同じ過ちを繰り返さないようにするためである。
我々日本人は日中戦争、太平洋戦争を教訓とすべきである。
あの戦争は軍部の暴走という単純なことではない。
大本営発表の戦勝ニュースを疑うことなく8月15日まで信じ、
戦勝を祝う提灯行列をし「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」と
1億総合唱し戦争に突き進んでいったのだ。
今、ロシアでまったく同じことが行われている。
我々がプーチンのロシアを非難する時、このことを忘れ、非難しているだけなら
再び同じ状態になった時、権力者の言いなりになるだろう。
大事なのは最初の1歩を止めることだ。それを許せば次の2歩3歩が出る。
ロシアのウクライナへの軍事侵攻を止めることが出来なかったのは最初の1歩を黙認したからだ。
さらに2歩3歩と進むのを許せば、プーチンのロシアはもちろんのこととして
習近平の中国、そして金正恩の北朝鮮がロシアに倣おうとするだろう。
そのことは「No.760:急激に逆回転している時代の歯車を止められるか。」で書いた。
独裁政権が倒れるのはほとんどの場合、内部崩壊である。
指導部か軍部内に反旗を翻す動きが出て来たり、国民の反政権運動の激化により
独裁者が倒されるパターンだが、そういう動きが出る元になっているのは
外部情報等で戦地の実情を知ることからだ。
要は権力側が流す一方的な情報ではなく、様々な情報を知ることから
総合的に判断できる状況が必要ということで、その重要な役割を担っているのが
戦地で取材活動をしているジャーナリスト達である。
彼らは文字通り命を懸けて活動しているわけだが、
今回の戦争程ジャーナリスト達が「戦死」した例はない。
それはロシア軍が誰彼見境なく砲撃し、狙撃しているからだ。
狙撃とは文字通り狙い撃ちで、狙撃相手が戦士か民間人か報道陣か
分かっているにもかかわらず撃っている。
現地で取材している人間は基本的にジャーナリストであることを記す
「PRESS(プレス)」の腕章を撒いて取材しているし、武器も携帯していない。
にもかかわらず「撃つな。プレス、プレス」と叫んでもロシア兵から狙撃された
という証言も多く伝えられている。
我々がウクライナの現状を知ることができているのは彼らが現地・戦地で生の情報を
伝えてくれているからで、情報の瞬時性が第2次世界大戦までと大きく異なるところだ。
我々は彼らのお陰で現地で行われていることを知り得ているわけで、
ウクライナの人々への支援と同時に死を賭して戦地から情報を伝えてくれている
ジャーナリストに対する支援をすることも必要ではないか。
ウクライナの戦いは「自由への戦い」である。
もしウクライナがプーチンのロシアに屈することになれば、世界は自由をなくすことになる。
ウクライナ単独の問題ではないのだ。
いまこそ自由陣営は結束して独裁者に当たるべきだろう。
個人で出来ることは限られているだろうが、人は出来ることを行えばいい。
ところでちょっと気になることを耳にした。
ウクライナ義勇軍に参加しようとしている人のニュースを見て
「この人達はそんなに戦争したいのか」と非難する声を。
恐らく傭兵と義勇兵を混同しているのだと思う。
確かに両者の区別は曖昧なところがあるが、概して傭兵はカネで雇われて
戦地に行き戦う人間で、武器の扱いにも慣れた戦争のプロ。
対して義勇軍に参加する人はカネではなく、それ以外の様々な理由、
多くは自由への戦いを続けるウクライナのためという大儀のために参加する人間で、
報酬が動機になってない。それは武器以外の装備はすべて自費で賄ったと
取材に応じていた元米兵の証言からも分かる。
私が今回のウクライナ義勇兵のことを聞いて即座に思い出したのは
スペイン内戦(スペイン市民戦争)である。
自由主義陣営の国々が参加を見合わせるのを尻目にドイツ、イタリアの
ファッシスト政権はフランコ将軍の支援に動いた。
それに対してヨーロッパの国々やアメリカ人が義勇兵として参加し、
自由のために戦ったが、その数は4万人とも6万人とも言われている。
アーネスト・ヘミングウェイも義勇兵として参加し、その時の経験を後に
「誰がために鐘が鳴る」「武器よさらば」という小説にしている。
スペイン市民戦争は遠い昔のことでも日本に関係ないことでもない。
スペインで義勇兵として戦い戦死した日本人がいたことも知られている。
はっきり分かっているのはジャック白井氏ただ1人だが。
スペイン市民戦争当時と現在では武器は比較できない程進化・複雑化し、
素人が扱えるものではないだろうが、義勇軍に参加しようという人々の動機は
当時も今も変わらないだろう。そして、それを止める権利は国にも個人にもない。
今プーチンがウクライナで行っていることはかつて例を見ないほど残虐非道で、
ジェノサイド(民族大量虐殺、国家破壊)以外の何物でもない。
世界はあらゆる手段を用い、プーチンを止めるべきだろう。
何も武器を持ち現地で戦わなくても他の方法もある。
サイバー技術に長けたものはその技術を用いロシア国民に現地の情報を伝えれば、
ロシア内部から反戦争運動が広がるかもしれない。
企業は経済制裁を即時に行えばいいし、NGOや国際赤十字機関、国境なき医師団、
国境なき記者団等への寄付もいいだろう。
大事なのは「声を上げ続ける」ことだ。
栗野的視点(No.762) 2022年3月27日
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ウクライナ国民の自由への戦いに連帯を
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ウクライナ情勢がかなり危険域に近付いてきた。
もはや一刻の猶予もない状態と言っていい。
対岸の火事と見たり、洞ヶ峠を決め込んではいられない。
そう考えた読者も多いと思うが、17日付けで配信した
「栗野的視点(No.761):ウクライナを孤立させるな」に対し、次のようなメールが届いた。
> 大変参考になりました。現状分析は解りました。
> が、このままだとこれからどうなるのか?
> 今やらなければいけないことは具体的に何か?
> 今回で学んだことの教訓、今後の課題は何か?です。
> お示しください。
どうも私の文章は言葉足らずで説明不足らしい。
その点は率直に謝らなければいけないが、デジタル普及の影響か、
一昔前に比べ人々の想像力が落ちてきているように感じる。
1から10まで懇切丁寧に説明しなければ伝わらないようだ。
さて、上記メールに対し次のようにできるだけ「具体的に」書き返信した。
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今すべきですことですが、ある程度書いているつもりです(過去の歴史から分かるように)が
個人でできることと、企業や国などの大きな組織ですべきことを分けて考える必要があるでしょう。
大きな組織に属していない我々個人が出来ることには限りがありますし、
大きなことを望んでもできません。
とりあえず個人レベルでできることはまずウクライナ募金でしょう。
一応、募金先も載せてみました。
私も1桁単位の少額ですがユニセフに寄付しました。
なんといっても住民税非課税で国が10万円を今回くれるような貧乏人ですから、
2桁まではちょっとキツイ。
他にもロシアの侵攻反対、戦争反対の声を上げ続けることでしょう。
1人の声は小さくても集まれば大きな声(世論)になります。
デモもその1つでしょう。
それがより大きな組織を動かすことに繋がります。
ユニクロが3月一杯でロシアでの販売停止に踏み切ったのも社外からの声に
動かされ、社員(取締役)達が柳井氏の現状維持の命令に反対したからです。
ロシアと取り引きしている企業は即座にプーチンが戦争をやめるまで
取り引きの凍結を打ち出し、ロシアに圧力をかけることでしょう。(これも書いていると思います)
西側諸国がすることはウクライナが求めている支援をできる限り行うことでしょう。
本当はもっと早い段階、プーチンがウクライナへの侵攻を始める前に外交的に
軍事的圧力をかけるべきだったのですが、静観表明をしたので、プーチンは
ウクライナへ侵攻してもアメリカは動かないと踏み、軍を他国に進めることが出来た。
日本が満州国をでっちあげる前と全く同じ構図で、同じことが出来たわけです。
軍事侵攻すれば欧米とも戦争になるかもしれないと考えれば、
当時の日本軍部もプーチンも侵攻を躊躇ったでしょう。
遅きに失したが今はロシア経済が破綻すると思わせる程度の
経済制裁を数日内に行うことが1つ。
もう1つは、もはや事ここに至ってはウクライナに武器を送るかでしょう。
第3次世界大戦になるのを避けるギリギリのところで。
NATOから直接武器を提供していないという言い訳が出来る形で。
もしロシアにウクライナ占領を許すと中国も北朝鮮も同じことをするでしょうから。
これについては3/10配信の
「栗野的視点(No.760):急激に逆回転している時代の歯車を止められるか。」
http://www.liaison-q.com/kurino/Russia-Ukraine1.html
で触れています。
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戦局は刻一刻と変化しているし、抜き差しならない段階まで突入している。
プーチンはサリン等の化学・生物兵器はおろか核さえ使うことを厭わないようだ。
いや、どうも本気で、これら大量破壊兵器を使用しようとしているように見える。
それを横目で見ながら北朝鮮の若き指導者はICBM(大陸間弾道ミサイル)を
3月24日に打ち上げた。一体、北朝鮮は今年になって何発のミサイルを発射したのか。
こうした状況を見れば第3次世界大戦は言葉の上だけのことではないと誰しも感じるのではないか。
歴史は悪しき形で繰り返される。
栗野的視点(No.761) 2022年3月17日
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ウクライナを孤立させるな
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時代は繰り返す--。今回のロシアのウクライナへの軍事侵攻を見ていると、
どうしても既視感に捕らわれる。そして人間とは歴史に学ばないものだとつくづ
く感じる。
ロシアの大統領プーチンはウクライナへの軍事侵攻の理由として
・ウクライナの現政権はファッシストであり、民衆を抑圧し、民族虐殺を行って
いる。民族虐殺に遭っている民衆はロシアに助けを求めている。
・ウクライナの民衆を守るためにウクライナを非軍事化、非ナチス化しなければ
ならない。
・ウクライナが核兵器を開発している疑いがある。
・米国がウクライナ国内で生物兵器の研究所を設置している
・ウクライナが西側諸国に近付きNATOに加盟すると、ウクライナにNATOの軍事施
設が建設され、ロシアの直接的な脅威となる。
・ウクライナを非軍事化、中立化させ、ロシアと西側諸国との間の緩衝地帯にす
る必要がある。
こうした理由を次々に展開しウクライナへ軍事的侵攻を開始し、今や両国は全
面戦争になっている。
プーチンが言うこれらの理由はことごとく嘘っぱちであり、それらの大半はウ
クライナではなくロシアが行っていることなのはロシア以外の多くの国、報道の
自由が許され、インターネットの接続が規制されず自由に接続でき、諸外国やウ
クライナが発するニュースやSNSに接することができる国の人々は知っている。
自由とはそういうことであり、それほど大事ということである。そして、こう
したニュースに接し、ウクライナで今行われている現実を見聞きしている人は、
私も含め何とかこの戦争を止められないか(ロシアの侵攻、無差別攻撃、虐殺を
止められないか)、ウクライナに連帯し、支援を行えないかと思っているに違い
ないし、すでに様々な方法で支援活動を行っている人もいるだろう。
プーチンのウクライナ侵攻の最重要目的は同国の非軍事化・中立化にあるのは
間違いないだろう。
問題はウクライナの「非軍事化・中立化」がなぜそれほど重要であり、プーチ
ンが拘るのかだ。そこで思い出すのがスターリン。
スターリンは国際共産主義運動を主導したが、それはソ連中心で、それ以外の
社会主義国はソ連を守るために存在した。
プーチンの頭の中にあるのもスターリン同様にロシア一国をいかに守るかとい
うことであり、かつてのソビエト連邦構成国が西側に近付き、NATOに次々と加盟
すればロシアがNATOと国境を接することになる。
これはロシアにとって「脅威」だから、NATOとの境界線の間に緩衝地帯が必要
になる。以前、ウクライナは親ロシア派の大統領だったがゼレンスキー大統領に
なってからNATO加盟を表明するなど西側の一員になりたがっている。プーチンは
それが許せなかった。
そこでありとあらゆる理由を付けてウクライナに軍事的侵攻を開始した。結局、
プーチンはウクライナが非武装化し中立化(ロシア側に近い形での)しない限り
諦めないだろう。
問題は西側諸国の対応だ。ウクライナに攻め込むまでほぼ座して待った。その
後、経済制裁を加えだし、確かに効き目は出ているようだがプーチンは一向にこ
の戦争をやめる気配はない。今ロシアがウクライナで行っているのは「ジェノサ
イド」と言っても言い過ぎではない。民間人も病院も学校も避難所も、とにかく
ありとあらゆる建物を爆撃し、攻撃し続けている。そしてそれらはすべてウクラ
イナが行っているから反撃しているだけで、ロシアは攻撃していない、とさえ言
っているのだから開いた口が塞がらない。「ナチス化」しているのはロシアの方
であり、プーチンは完全にヒットラーと化している。
なぜ人は歴史に学ばないのだろうか。様々に都合のいい理由を付けて隣国へ侵
攻したのはナチスドイツで経験しているはずだし、今回、ロシアのやり方を見て
いるとかつて日本が中国に侵略し、満州国をでっち上げた時と実によく似ている。
我々はまるで過去の歴史を見せられているような既視感を覚えるではないか。
あの時も欧米列強は日本の動きを察知しながら西側諸国から遠く離れた東側の出
来事に多大な関心を示さなかった。
それを見た関東軍は中国東北地域に軍事進攻し、愛新覚羅溥儀を担いで傀儡政
権とし、満州国をでっち上げたわけで、プーチンの手法も実によく似ている。
歴史に「もしも」はないし、過ぎたことを今更とやかく言っても現実が変わる
わけではないが、それでも言いたい。もしバイデン米大統領が早い段階で「米軍
はウクライナでの紛争に関与しない」と明言しさえしなければロシアはウクライ
ナに侵攻していただろうか、と。
今、世界に求められているのはウクライナを孤立させないことと、ロシアの侵
攻を止めさせることだ。
そのためにできることを今すぐ実行すべきだろう。経済制裁が効果を発揮して
いるなら、さらなる経済制裁を、今すぐ実行すべきだ。
日本企業も政府も様子見を決め込むのではなく、できることを今すぐ行うべき
だ。重要なのは「今すぐ」で、3月いっぱいでロシアから撤退みたいな悠長なこ
とではなく、今でしょ!
米企業等と比べて日本企業の撤退、一次販売停止等の動きは遅すぎる。販売停
止ぐらいすぐやるべきだ、柳井さん。
「衣服は生活の必需品。ロシアの人々も同様に生活する権利を持っている」と柳
井正代表取締役会長兼社長。
そう言えばこのご仁、新彊ウイグル自治区のウイグル民族に対する中国の人権
抑圧が問題になった時も、調査したが人権抑圧はなかったとして新疆ウイグル製
綿花の使用をやめるとは一切言わなかった。決算発表会見(2021年4月)でも質
問が出る度に「政治的な質問にはノーコメント」と繰り返している。
こうした言葉からはファーストリテイリング社の利益第一と考えているとしか
受け取れない。
独裁者の思考とよく似ている。まあ代表取締役会長と代表取締役社長を兼任し
ていることからもナンバー2は置かないという独裁者に共通した点が見て取れる
が。
それにしても、なぜ、ソ連、ロシア、中国、北朝鮮の権力者はこうも似たよう
に猜疑心が強く、似たような行動を取るのだろうか。
ともあれ我々庶民が取れる行動は限られている。ロシアの侵略戦争に反対する
声を上げ続けるか、ウクライナの人々に連帯し、戦火を逃れてきたウクライナ難
民への支援ぐらいしかできないが、できることを少しでもしていきたいと思う。
もし、私と同じように考えている人のために、ウクライナ支援募金を募集して
いる機関を下記に載せておきます。
国連UNHCR協会 ウクライナ緊急支援
https://www.japanforunhcr.org/
日本ユニセフ協会 ウクライナ緊急募金
https://www.unicef.or.jp/kinkyu/ukraine/
栗野的視点(No.758) 2022年2月17日
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アマゾンプライムビデオに嵌まっている。
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最近、アマゾンプライムビデオ嵌まっている。理由はいくつかあるが、
1つは最近のTV番組が面白くなく、せいぜい夕食時に7時のNHKニュースを見るぐらい。
後は映画やドラマを録画していて見る程度だ。
TV番組を観なくなったのはドラマの作りや俳優の演技に深みがなくなったことも原因している。
ドラマを見ながら「そこは違うだろ」みたいな独り言を言うようになり、TVを見ながら
文句を言うぐらいならいっそ見ない方がよほど精神的にいいと悟ったからだ。
ドラマも演技も質が落ちたTV
とにかく「大根」に近い演技の俳優(役者ではない)が増え過ぎている。
なぜ、こんな番組を何年もシリーズでやるのか分からないものや、
なぜこんな番組が人気番組と言われるのか分からないものが多い。
その筆頭が沢口靖子の「科捜研の女」。
とにかくこの番組程視聴者をバカにしたものはない。
いくらドラマとはいえ科捜研と鑑識を勘違い、混同しているばかりか、
上下関係が厳しい警察組織にありながら上司をまるで同僚か部下のように使うとか、
「科捜研の女」が刑事の仕事をするなど、もう全てがグチャグチャ。
ここまでひどいドラマはない。
鑑識と合同で現場鑑定を行うこともあるようだが、科捜研の職員の身分は研究員。
研究所で様々な鑑定を行うのが仕事で、刑事紛いの捜査などしない。
ひどいと言えば沢口靖子の演技。
常に一本調子の喋り方、能面のような表情、よくぞこんな俳優を使っているものだと
テレビ朝日に感心してしまう。
これを大根役者と言わずにどれを言うのかと一人怒っている。
もちろん、もう何年も前から彼女が出演する番組はバカらしくて一切見ていないが。
映画と違ってTV中心に出ている俳優は総じて演技が下手。
映画は監督に何度もダメ出しをされ、演技にうるさく注文を付けられるから演技力が増していくが、
製作費と時間に追われて作るTVドラマでは「はーい、それでいいです。お疲れさまでした」で終わる。
特に主役の演技が見られない。
「おい、おい。よくそんな演技でやってられるな」と文句を言いたくなる。
バイプレーヤー(脇役)も脇の時はいい演技をしていたのが売れ出して主役、
準主役級になると途端に演技も役柄も一本調子になっていく。
そんなのを見ていると脇に置いてた方がよかったのでないかと思ってしまうし、
舞台でいい演技をしていた役者がTVにどんどん出だすと、どれを見ても同じ役柄で
同じような演技になるのは本人が悪いのか、それともそういう設定の役を要求する制作側の責任か。
まあ、俳優の立場になれば分からないことはない。
気取っていても飯は食えないから、来る仕事を選ばず、何でも適当にこなせば
制作側の受けがよくなり仕事も実入りも増えるというものだ。
「所さん、大変ですよ」と言い、訳の分からないCMにでも出まくっていれば
視聴者にも顔を覚えられ、俳優以外の仕事も舞い込む。
だが、いつの時代も、どの分野でも「大量生産」は質を落とす。
かくして、いいバイプレーヤーが次々にダメになっていく。
それでも地方局では需要があるから、「都落ち」をすればまだまだ稼げるが。
石橋蓮司は変わらずいい役者だが、國村隼は当初いい役者だなと思っていたが、
出まくりだしてから演技が一本調子になった。
最低だったのはTVの「日本沈没」。
学者を演じていたが、学者は常に物静かだと考えているところが大間違い。
元々世間知らずの連中だけに、有名になればなる程、自分の学説を否定されれば
ヒステリックに怒り出す人間が多い。
それなのに相変わらず腕の組み方も喋り方もいつもの國村隼。
少しは役柄に合わせて演技しろ、と言いたくなる。
歳を取る程にうまくなるクリント
逆に上手いなと思うのは中井貴一。
NHKの「サラメシ」の甲高いナレーションには驚いたが、どんな役でもこなすし、
その役に合った顔を見せる。
こういうのを「役者」と言うのだろう。
中でもNHKの時代劇で演じた「雲隠れ霧左右衛門」役はよかった。
ちょっと軽い役から雲霧のような重厚な役まで演じ分けられる貴重な存在だ。
まあ、そんな風でTVに観るべきものがないからアマゾンプライムビデオに逃げ込んだ。
録画したものを観る感覚で、当初、それほど期待はしてなかったが、
洋画やWOWOWの過去放映分が見られたりし、
へえー、こんな映画や放送があってたんだと興味が湧いてきた。
なんといっても、もうというかまだ「好奇」高齢者。
いくつになっても新しいことを発見したり、出合うのは楽しい。
クリント・イーストウッドの監督・主演映画をアマゾンプライムビデオで見つけた時はうれしかった。
たしか彼はもう役者はやらないと言っていたから、久方ぶりの出演作。
題名は「運び屋」で日本では2019年に上映されていたみたいだが、映画館に
ほとんど足を運ばないから知らなかった。
映画館で年間400本前後観ている友人がいるが、彼なら知っていたと思うが。
背が少し曲がり、腕も皺くちゃの姿を晒しながら、イーストウッド扮する老人が
カネのために麻薬の運び屋になっている。
当人は荷物が麻薬とは知らずにただ指定された場所までドライブするだけで
カネになるいい仕事と思っている。
この映画、実話をヒントに製作されたみたいだが、「マディソン郡の橋」にしろ
イーストウッドは老体を隠すことなく晒している。
その歳にならないと演じられないものがあるし、それを演じるイーストウッドには
感動さえ覚える。歳を取ることは悪いことではない、と。
俳優に遠慮すると駄作になる
逆にバカらしかったのが邦画の「デンデラ」。
当初、「楢山節考」の監督、今村昌平の息子が監督というテロップを見て期待して観たが、
期待通りだったのは山に捨てられに行く最初のシーンと冬山の景色。
雪景色の撮り方は実に上手で、まるで絵を観ているような感動を覚えた。
ストーリーは70歳になると村の掟で山に捨てられに行く老女達が、
そこで生き残り「デンデラ」という老女だけの国を作り、自分達を捨てた村の男達に
復讐しようとするもので、ストーリーが面白いわけではない。
老人達が戦うという設定だけを見れば「吉里吉里人」とどこか重なるが、
「デンデラ」の映画を見た限りでは及ばない。
錚々たる女優陣が出演しているにもかかわらず、この映画が三流になっているのは
脚本もさることながら俳優の演技が光らないからだ。
草笛光子や田根楽子、角替和枝はよかった。特に草笛光子のメーキャップは。
メーキャップで期待したのは浅丘ルリ子。
何に出てもアイライン、目の縁取りをくっきり入れることに拘っている彼女が
お馴染みのスタイルを捨てて役になり切るのかどうか。
「やすらぎの郷」の時でさえ化粧ばっちりで通した女優だからね。
最初のシーンだけは目元薄目のノー化粧風だったが、途中から相変わらずの
アイラインが目立ち興ざめ。
倍賞美津子に至ってはまるで片目の海賊風。
全員70歳以上という設定のはずなのに倍賞美津子は顔肌も若すぎる。
今の70歳ならまだしも分からないでもないが、時代設定を考えれば今の80代後半。
もう少し年寄り感を出さないと嘘っぽい。
結局、監督より俳優の方が上で、錚々たる女優陣に監督がああしてくれ、
こうして欲しいと注文を付けられなかったということだろう。
だから三流映画になってしまった。
映画館で観ていたら「カネ返せ」と言いたくなる。アマゾンプライムビデオとはいえ損した気分。
いままで各社のSIMフリーを使ってきた結果、おすすめのMVNO、おすすめでないところが自分なりに分かってきた。
まず、ネットの紹介記事は話半分しか参考にできない。
というのも、結局A社はここがいいとか、料金を安く抑えたい人にはB社のSIMがいいというような記事ばかりで、加入前に本当に知りたいことには、ほとんど触れられてない。
たしかに速度や料金も問題だが、それ以上にサポートの良し悪しの方がはるかに重要ではないだろうか。
そういう目でy.uモバイルを見れば、この会社は決して勧められない。
以下、その理由を述べていく。ちなみにこれは実際に私が経験したことでもある。
1.y.uモバイルのHPを信じてはいけない。
同社はヤマダ電機とUーNEXTによって設立された会社である。いうならヤマダ電機のグループ企業で、ヤマダ電機グループ(ヤマダ電機、ベスト電器)の店頭で加入手続きができるし、店舗で即日開通できるとHPに掲載されている。
しかし、即日開通と載っている店舗に出かけて行っても新規加入も転入手続きも出来ない。
岡山市と福岡市のヤマダ電機、ベスト電器で期間を開けて複数回確認したが、どこの店舗内ショップでも返事は同じだった。
返ってくる言葉は「SIMの在庫がない」だ。
では、「いつならSIMが入庫されるのか」と尋ねると、どこの店舗内ショップでも「すみませ~ん。入荷時期は私達にも分からないんです」という信じられない言葉が返ってくる。
さらに続けて「予約いただいても、いついつまでに入ると言えないんです」と申し訳なさそうに言う。
因みにショップの担当者はどこも丁寧で感じがいいし、本当に申し訳なさそうに言う。
問題はy.uモバイルという会社の姿勢で、一体どういうシステムになっているのか。
この会社はやる気があるのかどうかを疑う。
2.問い合わせはメールのみで、電話もチャットもなし。
今や東京、大阪に次ぐ都市と言われる福岡市のヤマダ本店でさえショップに在庫がなく、入荷予定も分からないというから、店頭での即日開通を諦め、仕方なくネットで申し込みをすることにし、その前にいくつか事前確認したかった。
ところが問い合わせ電話がない!
でも、チャットで問い合わせぐらいはできるだろうと思ったが、これもなし!
あるのはメールによる問い合わせだけ。
メールでは返事が来るまでに時間がかかる。
これでは同社のカスタマーサービスはとても期待できない。
こんな会社のSIMに加入すると後々後悔することになるのは間違いない。
3.加入手続きが面倒で、何度もはじかれる。
y.uモバイルの場合、他社と異なるのはまず最初にU-NEXTに登録しなければならない点だ。一手間余計にかかる。
その後は住所や電話番号を登録したり身分証明書を撮影して送るという作業になる。
この流れは他社と比べて差があるわけではないが、電話番号のところで「070」で始まる番号を登録すると審査ではじかれ、「090」なら通ったという書き込みを見かける。「070」が通らない理由は不明。
私の場合、身分証明書(運転免許証)の添付の箇所で何度(7回)もはじかれた。
まず免許証の写真は表だけと考えていたが、裏面の写真も必要と指摘され、撮り直す。
その間に時間がかかると最初からのやり直しになる。
続いて免許証を撮影した写真をトリミングして800×600ピクセルのサイズで送ると「画像不鮮明」ではじかれた。
撮影画像を確認したが不鮮明どころか鮮明で、細かい文字も十分読み取れる。
次に画像サイズを少し大きくして送るが、やはり「画像不鮮明」と言ってくる。
3度目は撮影画像にシャープをかけて、さらに鮮明にして送ってやるも、同じく「画像不鮮明」で返され、「撮り直せ」と書いてある。
他社ではこんなことはなかったのに、一体y.uモバイルはどうなっているんだと腹立たしくなるが撮り直して送付。
今度は「縁が切れている写真はダメ」と返される。
こんなやり取りを5回も繰り返せば、いい加減嫌になるし、そこまでしてy.uモバイルに加入しなければならない理由はないのでカスタマーサービスにメールを送った。
「審査不十分の理由が分からない」「HP上で即日開通できると謳っている店舗に行っても、連絡しても、どこも在庫がないという。HPは嘘っぱちではないか」と。
カスタマーサービスからの返信メールには「その時によって在庫切れもある」というもの。
それが嘘なのは上記に述べたように、複数の店舗に1週間から1か月の期間をずらして電話したが、どこでも「在庫がない」と言われたことからも明らか。
こうした点はネット情報でも全く触れられていないが、これらを考えればy.uモバイルへの加入は決してお勧めできないと言わざるを得ない。