いまほど宗教が必要とされている時代はない。
宗教が貧者や弱者の味方であり、魂の救済を行うものならば、だ。
しかし現実は少し違っているようだ。
宗教の名の下に殺し合い、救済を唱えながら、その実、金儲けに走っている宗教が多いのはなぜなのか。
こうした現状を見るにつけ、宗教とは一体何なのか。
宗教の果たす役割とは何なのかという疑問が年々大きくなっていく。
そこで最近目に付いた2つの動きを見ながら宗教とは、宗教の役割とは何なのかについて考えてみたい。
宗教行為の商品化? アマゾンVS仏教界
日本では亡くなると多くの人が僧侶に戒名を付けてもらい、法事を営む時にも来てお経をあげてもらう。
その時にお布施を渡すのが習慣になっているが、このお布施がいま問題になっている。
お布施である以上、そこに金額の明示はない。
僧侶の方も「お気持ちですから」としか言わない。
それはそうだろう。お布施が建前である以上、金額の提示はできないはずである。
しかし、渡す側にとってはそれが困る。
まるで鮨屋の「時価」みたいなもので支払いをする段になって、いくらいくらになります、と言われるのでは私のような貧乏人は恐ろして注文もできない。
その点、回転ずしは安心だ。1皿いくらと金額が明示されているから懐具合に応じて食べられる。
それと同じことで、戒名や法事の際に僧侶に渡すお布施にも金額を明示してくれればどれほど安心できることかと思うのが庶民の常だろう。
そこで「大体おいくら」と尋ねると「お気持ちですから」という言葉が返って来る。
本当に気持ちでいいのかと思い、こんなものだろうと包むと後で露骨に嫌味を言われた、というような話はよく耳にする。
それどころか、先方(寺・僧侶)から「いくら以上」と要求されることもままあるというから驚く。
本来お布施は、それこそ「気持ち」の表れだから寺側から額を要求されるのはおかしい。
100歩譲って、要求されてもよしとしよう。
ただし、その場合は事前に明示しておくべきだ。
A、B、Cでも松、竹、梅でもいいが、このランクの戒名ならいくらと。
因みに神式では仏式の戒名に当たる諡(おくりな)は生前の氏名の後に「命」あるいは「刀自」を付けるだけで、諡にランクはない。
当然、玉串料にも差がない。
いまの世の中、寺と檀家の結び付きはどんどん薄れている。
鶏が先か卵が先かは分からぬが、地縁が薄れたからかコミュニティの崩壊が原因かは定かではないが、墓でさえ近くに移す時代である。
葬儀の時ぐらいしか縁がないのでは寺との関係も薄れるだろう。
そこに持って来て葬儀の時だけ菩提寺面されて高額な寄付を要求されるのでは寺を大事にしようという気持ちがなくなるのもやむを得まい。
できることなら、もっと身近で、気軽に来てもらえる僧侶に頼みたいと考える人が増えるのは納得できる。
需要があれば供給が生まれるのは世の常。
葬儀関連をもっとコンパクトかつ手軽にしたいという思いに応えようとする所が現れても不思議ではない。
仏壇でさえマンション仕様の小振りなものが、当初はさんざん言われたが、いまではごく当たり前に売られているのだから。
ところがインターネット通販の「アマゾンジャパン(以下アマゾン)」が「お坊さん便」と題して法事の際の僧侶手配サービスの販売を始めたものだから仏教界が反発した。
このサービス、時代のニーズをうまくとらえた便利なサービスのように思えるが、仏教界はなぜ、どこを問題にしているのだろうか。
まず、アマゾンの「お坊さん便」の内容を簡単に紹介しておこう。
1.アマゾンが直接行うサービスではなく、株式会社みんれびが販売、発送するサービスであり、その仲介をアマゾンが行っている。
2.サービスの内容は自宅・お墓などに出向き法事法要(読経・法話)を行う僧侶の手配である。
3.全国一律金額で、35,000円(移動なし、戒名なし)~65,000円(移動あり、戒名授与)と決まっている。
「移動なし」とは自宅など1箇所で行う場合のことで、自宅から霊園への移動など2箇所で行う場合は「移動あり」になるとのことだが、戒名を付けてもらっても65,000円で済むから、これは安い。
この言葉が不謹慎だと言われれば、大助かりと言い替えてもいいが、そう考える人は多いのではないだろうか。
次に、昨年12月24日付けで<「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」について>と題して報道各社に送られた全日本仏教会理事長談話の要点。
イ)今回、アマゾンが僧侶手配サービスを販売開始したが、これは2013年から「株式会社みんれび」が展開している「お坊さん便」というサービスであり、「全国どこにでも定額で僧侶を手配するというもの」。
背景には、「読経してもらいたいが、お寺との付き合いがない」「お布施をいくら包めばいいのか不安」といった社会からの声がある。
ロ)販売当初より、定額で分かり易いという賛成の声と、宗教をビジネス化しているという仏教会からの批判がある。
ハ)全日本仏教会は、お布施は宗教行為であり、営利企業のサービスの対価として定額表示して貰うような商品ではない。「戒名」「法名」も同様に商品ではない。
ニ)アマゾンの「お坊さん便」は宗教行為をサービスとして商品にしており、諸外国の事情と照らし合わせてみても許されない行為であり、宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ない。今後しっかりと対応していきたい。
ホ)伝統仏教界は、お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならない。
上記の理事長談話を一読して感じるのは、理事長は日本の仏教界が抱えている問題点を的確に把握し、「お坊さん便」批判の形を取りながら、実は現在の仏教界に警鐘を鳴らしているのではないかということだ。
こうしたサービスが現れた背景には、「読経してもらいたいが、お寺との付き合いがない」「お布施をいくら包めばいいのか不安」といった社会からの声がある、と分析し、「お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならない」と警鐘さえ鳴らしているではないか。
そこには「お坊さん便」を「宗教をビジネス化」し、けしからんと真っ正面から批判するというよりは、身内の仏教界に宗教の意義、寺が果たすべき役割について考え直すよう求めているようにさえ感じられる。
そういう意味では理事長は真っ当な感覚を持っているといえるが、現実の寺や僧侶の感覚は少し違っているようだ。
そもそも「宗教をビジネス化」しているのは当の仏教界の方ではないか。
相手を見て戒名代を決めるようなやり方などはとても「宗教行為」とは思えず、葬儀ビジネスそのもの。昔から「坊主丸儲け」と揶揄されることが多いが、あながち的外れではないだろう。
原点に立ち返り、宗教とは何か、宗教が果たす役割とは何かを当の寺・僧侶自身が真摯に考えなければ、仏教離れ、寺離れはますます進み、寺の存在意義そのものが問われることになる・・・。いや、すでに問われている。
なぜ、仏教は庶民の生活と離れ、人々の支持を失ったのか。
その原因は檀家制度と、住職の世襲制度、さらにハードとソフトの結合にあると私は考えている。
ハード、つまり寺と不動産と、ソフトである宗教が巧妙に結び付き、甘えの体質を生んでいるのではないか。
この際、ハードとソフトを分離し、僧侶を不動産である寺と切り離し、僧侶は純粋に仏の教えを説く者と位置づけてはどうか。
寺というハードと分離されるわけだから当然、住職の世襲制はなくなり、僧侶は任地先に赴くという形になる。
早い話、寺と僧侶を取り巻く環境を一変しない限り、宗教としての仏教はこの国から消え、歴史に名を留めるだけのものになるだろう。
宗教の原点に立ち返ったローマ教皇
日本の仏教界が内向きの対応に終始しているのとは反対に、キリスト教、中でもカトリックの総本山バチカンは2013年3月にフランシスコ新教皇を迎えて以降、弱者救済と世界平和へのメッセージを発信し続けている。
もちろん歴代教皇も平和へのメッセージを発信してきたが、フランシスコ教皇はさらに発信力を強めている。
(中 略)
宗教とは何か
(以下 略)
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宗教が貧者や弱者の味方であり、魂の救済を行うものならば、だ。
しかし現実は少し違っているようだ。
宗教の名の下に殺し合い、救済を唱えながら、その実、金儲けに走っている宗教が多いのはなぜなのか。
こうした現状を見るにつけ、宗教とは一体何なのか。
宗教の果たす役割とは何なのかという疑問が年々大きくなっていく。
そこで最近目に付いた2つの動きを見ながら宗教とは、宗教の役割とは何なのかについて考えてみたい。
宗教行為の商品化? アマゾンVS仏教界
日本では亡くなると多くの人が僧侶に戒名を付けてもらい、法事を営む時にも来てお経をあげてもらう。
その時にお布施を渡すのが習慣になっているが、このお布施がいま問題になっている。
お布施である以上、そこに金額の明示はない。
僧侶の方も「お気持ちですから」としか言わない。
それはそうだろう。お布施が建前である以上、金額の提示はできないはずである。
しかし、渡す側にとってはそれが困る。
まるで鮨屋の「時価」みたいなもので支払いをする段になって、いくらいくらになります、と言われるのでは私のような貧乏人は恐ろして注文もできない。
その点、回転ずしは安心だ。1皿いくらと金額が明示されているから懐具合に応じて食べられる。
それと同じことで、戒名や法事の際に僧侶に渡すお布施にも金額を明示してくれればどれほど安心できることかと思うのが庶民の常だろう。
そこで「大体おいくら」と尋ねると「お気持ちですから」という言葉が返って来る。
本当に気持ちでいいのかと思い、こんなものだろうと包むと後で露骨に嫌味を言われた、というような話はよく耳にする。
それどころか、先方(寺・僧侶)から「いくら以上」と要求されることもままあるというから驚く。
本来お布施は、それこそ「気持ち」の表れだから寺側から額を要求されるのはおかしい。
100歩譲って、要求されてもよしとしよう。
ただし、その場合は事前に明示しておくべきだ。
A、B、Cでも松、竹、梅でもいいが、このランクの戒名ならいくらと。
因みに神式では仏式の戒名に当たる諡(おくりな)は生前の氏名の後に「命」あるいは「刀自」を付けるだけで、諡にランクはない。
当然、玉串料にも差がない。
いまの世の中、寺と檀家の結び付きはどんどん薄れている。
鶏が先か卵が先かは分からぬが、地縁が薄れたからかコミュニティの崩壊が原因かは定かではないが、墓でさえ近くに移す時代である。
葬儀の時ぐらいしか縁がないのでは寺との関係も薄れるだろう。
そこに持って来て葬儀の時だけ菩提寺面されて高額な寄付を要求されるのでは寺を大事にしようという気持ちがなくなるのもやむを得まい。
できることなら、もっと身近で、気軽に来てもらえる僧侶に頼みたいと考える人が増えるのは納得できる。
需要があれば供給が生まれるのは世の常。
葬儀関連をもっとコンパクトかつ手軽にしたいという思いに応えようとする所が現れても不思議ではない。
仏壇でさえマンション仕様の小振りなものが、当初はさんざん言われたが、いまではごく当たり前に売られているのだから。
ところがインターネット通販の「アマゾンジャパン(以下アマゾン)」が「お坊さん便」と題して法事の際の僧侶手配サービスの販売を始めたものだから仏教界が反発した。
このサービス、時代のニーズをうまくとらえた便利なサービスのように思えるが、仏教界はなぜ、どこを問題にしているのだろうか。
まず、アマゾンの「お坊さん便」の内容を簡単に紹介しておこう。
1.アマゾンが直接行うサービスではなく、株式会社みんれびが販売、発送するサービスであり、その仲介をアマゾンが行っている。
2.サービスの内容は自宅・お墓などに出向き法事法要(読経・法話)を行う僧侶の手配である。
3.全国一律金額で、35,000円(移動なし、戒名なし)~65,000円(移動あり、戒名授与)と決まっている。
「移動なし」とは自宅など1箇所で行う場合のことで、自宅から霊園への移動など2箇所で行う場合は「移動あり」になるとのことだが、戒名を付けてもらっても65,000円で済むから、これは安い。
この言葉が不謹慎だと言われれば、大助かりと言い替えてもいいが、そう考える人は多いのではないだろうか。
次に、昨年12月24日付けで<「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」について>と題して報道各社に送られた全日本仏教会理事長談話の要点。
イ)今回、アマゾンが僧侶手配サービスを販売開始したが、これは2013年から「株式会社みんれび」が展開している「お坊さん便」というサービスであり、「全国どこにでも定額で僧侶を手配するというもの」。
背景には、「読経してもらいたいが、お寺との付き合いがない」「お布施をいくら包めばいいのか不安」といった社会からの声がある。
ロ)販売当初より、定額で分かり易いという賛成の声と、宗教をビジネス化しているという仏教会からの批判がある。
ハ)全日本仏教会は、お布施は宗教行為であり、営利企業のサービスの対価として定額表示して貰うような商品ではない。「戒名」「法名」も同様に商品ではない。
ニ)アマゾンの「お坊さん便」は宗教行為をサービスとして商品にしており、諸外国の事情と照らし合わせてみても許されない行為であり、宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ない。今後しっかりと対応していきたい。
ホ)伝統仏教界は、お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならない。
上記の理事長談話を一読して感じるのは、理事長は日本の仏教界が抱えている問題点を的確に把握し、「お坊さん便」批判の形を取りながら、実は現在の仏教界に警鐘を鳴らしているのではないかということだ。
こうしたサービスが現れた背景には、「読経してもらいたいが、お寺との付き合いがない」「お布施をいくら包めばいいのか不安」といった社会からの声がある、と分析し、「お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならない」と警鐘さえ鳴らしているではないか。
そこには「お坊さん便」を「宗教をビジネス化」し、けしからんと真っ正面から批判するというよりは、身内の仏教界に宗教の意義、寺が果たすべき役割について考え直すよう求めているようにさえ感じられる。
そういう意味では理事長は真っ当な感覚を持っているといえるが、現実の寺や僧侶の感覚は少し違っているようだ。
そもそも「宗教をビジネス化」しているのは当の仏教界の方ではないか。
相手を見て戒名代を決めるようなやり方などはとても「宗教行為」とは思えず、葬儀ビジネスそのもの。昔から「坊主丸儲け」と揶揄されることが多いが、あながち的外れではないだろう。
原点に立ち返り、宗教とは何か、宗教が果たす役割とは何かを当の寺・僧侶自身が真摯に考えなければ、仏教離れ、寺離れはますます進み、寺の存在意義そのものが問われることになる・・・。いや、すでに問われている。
なぜ、仏教は庶民の生活と離れ、人々の支持を失ったのか。
その原因は檀家制度と、住職の世襲制度、さらにハードとソフトの結合にあると私は考えている。
ハード、つまり寺と不動産と、ソフトである宗教が巧妙に結び付き、甘えの体質を生んでいるのではないか。
この際、ハードとソフトを分離し、僧侶を不動産である寺と切り離し、僧侶は純粋に仏の教えを説く者と位置づけてはどうか。
寺というハードと分離されるわけだから当然、住職の世襲制はなくなり、僧侶は任地先に赴くという形になる。
早い話、寺と僧侶を取り巻く環境を一変しない限り、宗教としての仏教はこの国から消え、歴史に名を留めるだけのものになるだろう。
宗教の原点に立ち返ったローマ教皇
日本の仏教界が内向きの対応に終始しているのとは反対に、キリスト教、中でもカトリックの総本山バチカンは2013年3月にフランシスコ新教皇を迎えて以降、弱者救済と世界平和へのメッセージを発信し続けている。
もちろん歴代教皇も平和へのメッセージを発信してきたが、フランシスコ教皇はさらに発信力を強めている。
(中 略)
宗教とは何か
(以下 略)
☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
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