袖触り合うも多生の縁、という。「多生」は「他生」と同じで前世のことだが、「他生」と書いた方が意味を理解しやすい。
しかし、最近は「多少」の縁ぐらいにしか考えてない人が多い。それほど縁も軽くなったということだろう。
だからか、この頃ちょっとしたことで殺人に走る人間が増えている。
それはさておき、他生で縁でもあったのだろうかというような不思議な出会いを経験することがある。
昨年暮れのことだ。見覚えのない差出人名で電子メールが届いた。
昨秋終わり頃から急に迷惑メールが激増してきたので、これもその類いと思い削除しようとしたが、タイトル欄に「クワイ河に虹をかけた男」と表記されていたので、本文に目を通すと、次のように書かれていた。
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初めてメールを差し上げます。
「クワイ河に虹をかけた男」を制作した瀬戸内海放送の満田です。
ネットを検索しておりまして、拙作についての記事を発見したため、ご連絡させていただきました。
もちろん、理由はそれだけではありません。
栗野様とは一度お会いしているからです。4年前、雪の美作江見駅で中年のカメラマンと2人、取材していたのが私です。
栗野様のプロフィールを拝見していて、あの時の男性だとすぐに思い至りました。
KBCシネマでお会いすることはできませんでしたが、こうして拙作をご覧いただいたこと、不思議なご縁を感じております。
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「クワイ河に虹をかけた男」・永瀬隆氏を20年間取材し続け映画にまでした制作・監督の満田康弘氏からのメールだった。
制作者本人から直接メールを貰うのも珍しいが、それよりなによりちょうど4年前の年末、
帰省で駅に降り立った時、声をかけられ取材を受けた時の相手というのは奇遇としか言い様がない。
というのも列車で帰省していたのは2年間だけで、それ以前も、それ以後も車で帰省していたからだ。
偶々というか、運よくというか、その時期を外していれば決して出会ってなかったわけで、それこそ「他生の縁」でもあったのだろうかと思ってしまう。
私は運命論者でもないし、どちらかというとそういうことは信じないタイプだが、それでも不思議な縁だなと感じたのは事実。
そこで早速、以下のようなメールを返信した。
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そうでしたか。名前もお聞きしてなかったし、
まさか「クワイ河に虹をかけた男」の制作・監督とは思いもしませんでした。
恐らく初日にKBCシネマでお会いしていても気付かなかったと思います。
ローカル駅の取材番組といい、永瀬さんを追うルポといい、満田さんは今時珍しいタイプですね。
最近はジャーナリズムの分野にも骨のある人は少なくなってきましたから。
特に映像分野は視聴率とコマーシャリズムに追われ、作り手の良心はなきに等しい(失礼)のが現状ではないかと思います。
そういう中で、よくあのような番組を作られたと思います。
ローカル駅の時もそのようなことをメルマガで書いたのですが、よく上層部を口説きましたね。
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「KBCシネマで」と互いに書いているのは、上映初日には満田監督自身の来場講演があったわけで、
初日に観に行っていれば満田氏と会えていたわけだだが、当時は互いにそんな出会いがあったことなど知りもしなかった。
私の返信に対し、再び彼から次のようなメールが届いた。
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お返事ありがとうございました。
ひとつ書き忘れていたのですが、奥崎謙三はカウラ捕虜収容所に
いたそうです。カウラではおとなしくしていたようですが、1946年、
引揚船「大海丸」で帰国途中、船員が食糧を独り占めしていることに激怒して
大暴れしたという逸話が残っています。それから捕虜の食糧事情は著しく
好転したそうで、奥崎らしいエピソードですね。
実は永瀬さんは原監督が「ゆきゆきて神軍」の上映で岡山に来た際、
自分も撮ってくれと頼んだそうですが、原監督の眼鏡にはかなわなかった
ようです。たぶん永瀬さんはまともな人すぎて「狂気」が足りなかったんでしょう。
今後ともよろしくお願いいたします。
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満田氏が「ゆきゆきて、神軍」や奥崎謙三のことを知っていたことには正直驚いたが、
それと同時に彼が「クワイ河に虹をかけた男」を単なる仕事として制作したのではないということも分かり、
妙に親近感を覚えた。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」は1972年発行であり、「皇居パチンコ事件」の陳述書を
本にしたものだから、当時でもよほど興味や関心がなければ目に触れていないはずだ。
満田氏が本を同時代に読んでなかったとしても、一般の人の記憶にもないような奥崎謙三のことを
知っていたというだけで、私自身は非常に親近感を覚えた。
不思議な縁と言ってすぐ思い出す人物がもう一人いる。
元フィルムジャーナリスト(本人の弁、敢えて「フィルム」と付けたのはペンと区別する意味のほかに、
持ち運びも編集も簡単になった今のビデオと区別する意味もあったかもしれない)で
ベトナム戦争に従軍し、最前線で取材をした経験を持つM・S氏のことだ。
もう亡くなられて10年余りになるが、出会ったのはそれからさらに5年ほど遡る。
出会ったとは言ったが、実際に会ったことは一度もない。
会ったのは彼の伴侶のS・S女史。
彼女は当時、様々なプロデュースを手がけていたようで、その関係で来福した時に誰かの紹介で会ったのではなかったかと思う。
ところが、その後M・S氏からメールが届き、以来、彼が亡くなる前までメールのみの付き合いが続いた。
年齢は私より10年程上。アメリカの3大放送局の1つ、NBCの特派員として
ベトナム戦争の最前線で丸2年間フィルムを回し続けていた。
フィルムとペンという違いはあるものの同じ職業の人間として私に興味を持ったらしく、
自己紹介メールが届いたのが彼との付き合いの始まりだった。
最初は私への自己紹介メールとして書き出したメールは3回目ぐらいから個人宛ての自己紹介ではなく、
彼のネットワークの仲間にも配信しようと考えたようで、メルマガという形の配信に変わっていった。
メルマガのタイトルは「生きる力の記録」。
彼は当時すでに肝臓を患っており、タイトルにはそういうことも含まれていたように感じた。
銃弾が行き交う最前線でフィルムを回し続けた彼の体験記を読みながら、私などは足下にも
及ばないと感じたものだが、印象に残っているのは前線にいた2年間、
「最初は弾が自分を避けて行っていたが、段々自分を目がけて飛んで来だした」という言葉だった。
ギリギリの所にいると感覚が研ぎ澄まされてきて、「銃弾の意志が分かる」と言っていた。
こうした獣のような感覚をかつては人間も有していたに違いない。
それがモノに囲まれ、モノに頼る生活を続けるうちに失っていったのだ。
私の方にはそんな壮絶な体験もなく、自己紹介と言ってもせいぜい1回のメールで終わるぐらいの内容しかなく、
あとはメルマガの「栗野的通信」を彼にも配信するぐらいだったが、彼のメルマガはとても知的かつ刺激的で、
大いに刺激を受けたものだ。
それにしても人との出会いは不思議なものだ。
一度も会ったことがなくても知己の間柄にもなるし、長年付き合っていてもただ見知っているだけという
関係もあるが、私の持論は3度目が決める。
最初の出会いは偶然も影響する。
2度目は利が絡むことがある。
偶然か必然かは3度目で決まる。
3度目は会おう、会いたいという意志が働くからである。
これがなければ2度の出会いも偶然のままで終わるだろう。
袖振り合うも他生の縁--そう思える出会いにしたいものだ。