栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

岡山市内で目にしたユニークな景色(2)

2018-02-23 08:15:00 | 視点


 信号の向こう側に、「ここに時計あり」と自己主張している巨大な看板。

本物の時計のようで、手持ちの腕時計で時刻を確かめると、きっちり合っていた。

それにしても巨大。

ビルの壁面一杯を使っているし、その下に駐まっている車と比べても大きさが分かる。

何のために、誰がと思うが、恐らく1階の店舗が時計屋さんなのだろう。

生憎この時は時間の関係でビルの前に行き確かめることができなかったが、

次回、機会があれば確かめてみたいものだ。

横のビルと時計ビルのどちらが先に建てられたのか分からないが、

恐らく横の高層ビルの方が後から建てられたものだろうが、

巨大な時計に敬意を払い、一歩下がって建てたのだろう。



 この家の前でも立ち止まってしまった。

場所は後楽園近くだったと思う。

どう見ても普通の民家だが、玄関脇に掛けられた時計と、その横に立てかけられている

「深井時計店」の看板が、ここがかつて時計屋だったことを物語っている。

それにしても店舗の面影がないのが不思議で、もしかすると

こちらは裏で、店舗の表は反対側なのだろうかと周囲を歩いてみた。

しかし、反対側には「通り」がなく、並びの家も裏しか見せてない。

やはり今見えている側が表なのだ。

店舗部分は取り壊したのか、それとも店舗は別の場所で営業していたが、

廃業した後、所縁の看板と時計だけを持ち帰り飾っているのだろうか。








岡山市内で目にしたユニークな景色(1)

2018-02-22 10:10:29 | 視点


 岡山駅から近い西川(にしがわ)緑道公園を歩いていて目に付いたのがこの看板。

一見してヘヤーカット用のハサミと分かり、この店は美容院だと教えてくれている。

気になるのはハサミと一緒に描かれた「Gaudi」の文字。

普通に考えれば「ガウディ」という店名だろうと思うが、「ガウディ」と聞いてすぐ思い浮かぶのは

スペインの建築家のアントニ・ガウディ。

建築家の名前とカットサロンの店名の間にどんな繋がりがあるのだろうか。

そんな色々なことを想像させたり、連想させる、ちょっとユニークな景色。



 これも西川緑道公園沿いで目にした大きな看板。

「水族館」という文字と巨大な桶に目を止め、しばし前に佇み眺めていた。

ちょっと風変わりな水族館なのか、寿司屋か。

だが、「馬刺し」「麻婆豆腐」「バーニャカウダ」の看板が、

この店は居酒屋系だと教えてくれている。

うーん、魚介類に統一した方がよかったのではないか。

スタートはそうだったが、その内、客の要望に合わせてメニューを増やしていったのか・・・。









広場と通りの関係 ~ 住宅に見るセキュリティーとコミニュケーション(2)

2018-02-21 12:17:11 | 視点
欧米の「広場」と日本の「通り」

 この閉じた住宅と、オープンテラスを備えた住宅は西洋の「広場」と、
日本や一部のアジアに見られる「通り」の違いであり、内と外、
セキュリティーとコミュニティー(=コミュニケーション)に対する
考え方の違いを表しており面白い。

 西洋の住宅は内と外の境界に塀や囲いを作り、両者をはっきり分けているのに対して、
日本の住宅は内と外の境界が曖昧である、あるいは曖昧なままにしているといえる。

 では、曖昧な部分には何があるのか。「通り」である。
今と違いかつての町には「通り」が存在した。
ところが西洋の街づくりを真似、交通重視でつくられた現代の街(町)は
人々の暮らしから「通り」を奪い、代わりに広場という名の空間をつくってきた。

 西洋における「広場」は人が集まりコミュニケーションをする場、
コミュニティーの重要な一要素だったが、形を真似ただけの広場は
コミュニケーションがすっぽりと抜け落ちた単なる「広い場」でしかなくなっている。

 こうした広場(広い場)があちこちに作られていったが、
それは大小の公園があちこちに作られたのとよく似ている。
砂場と滑り台とブランコを備えていることが公園の条件だったのはそれほど前のことではない。

 公園といえばどんなに小さな公園(空き地程度の)にでも名前が付いているのは驚く。
日本人の生真面目さというか役人の生真面目さというか。
 役人は必ず仕事の足跡を残すのだ。
それがどんなに小さな仕事でも。
いわんや政治家と会えば必ずメモを残す。
それを「ない」と言い張るものだから、ついに官僚側のリークに合い、
メモ、メール、文書の存在を次々と認めざるを得なくなったが、
文書を出してきたのが国会閉会直前というなんとも姑息な手を使ってきた。

「通り」に共通する日本の住宅

 まあ、それはさておき「通り」である。
日本の住宅は曖昧さがウリである。
西洋住宅のようにプライベート空間とそれ以外とが明確に分かれていない
(最近は西洋風にプライベート空間を設ける住宅が増えてはいるが)。

 この部屋は居間、寝室などと一応の用途は決っているが、
寝室でも布団を上げればそこが居間に早変わりするし、部屋の仕切りにしてからが襖や障子だ。
襖や障子は開き戸ではなく引き戸だから、襖を開ければ二間続きの部屋に早変わりし、
人数が増えても即座に対応できる広間になる。
このように便利でフレキシブルに対応できる仕切り(境界の拵え方)は西洋の住宅にはない。

 境界に対するこうした考え方は家の内と外でも見られる。
内と外の中間に存在しているのが「通り」である。
「通り」は人々が往来する道であるとともに、人が集(つど)い、
コミュニケーションを交わす「広場」的な役割も担っている。
西洋のように通り(ストリート)と広場を明確に分けるのではなく、
日本(と一部のアジア)の「通り」は通りであるとともに広場でもある。

 「通り」は家の内と外の境界(中間帯)であるとともに共有部分でもある。
例えば通りを挟んで向かい合う家が存在すると、通りは両家を分ける境界であるとともに、
どちらにも属さず、またどちらが利用してもいい共有・公有スペースでもある。

 西洋のコモンスペースがこれに近いが、完全なる公有ではなく
ムラに見られた入会地のような存在である。
コモンスペースは公有だが、入会地はそれとは少し違う、というか根本的な考え方が違う。

 入会地はムラ(コミュニティーの構成人員)の住民の共有地であり、
コミュニティーの構成人員は自由に出入りして、そこに生えている木や草、
茸などを自由に収穫することが許されている。
入会地の財産はムラの住民の共有財産なのだ。

 「通り」にはこのような側面もあり、通りを挟んだ家々は互いに「通り」を共有し、
夕食後はそこに縁台を出し、互いに涼んだり、時にはそこで将棋盤を指したりしながら
世間話に興じたりする。
そこは互いの内の延長でもあるわけだ。

 こうした「通り」が区画整理で、古い町名と一緒にどんどん消えていった。
それと並行して隣近所のコミュニケーションも。

 気が付いたら人は皆、家(内)、自分達だけの世界にとどまり、
外界との触れ合いをなくし、隣は何をするものぞ、我関せずと
自分の世界だけを守ろうと囲いを高く、厳重にし、これで防犯は万全と考えているが、
鍵をかけて締め出したのは泥棒だけだろうか。
高い塀で内側に閉じ込めたのがやさしい精神(こころ)、人を信じる精神(こころ)でなければいいが。









広場と通りの関係 ~ 住宅に見るセキュリティーとコミニュケーション(1)

2018-02-21 12:05:01 | 視点
 早朝、歩いているといろんなものに出合い、いろんなことを発見する。
都会の子は一様に疲れた顔をし、重いバッグを引きずるように歩いている。
あんなに重そうなバッグを肩から提げていれば学校に着いた時は疲れているだろうと、
つい同情さえしてしまう。
それに比べれば田舎の子はまだ元気だ。
朝出会えば「おはようございます」と挨拶をして通り過ぎる。
学校帰りには何と言うのだろうと思っていると「ただいま帰りました」と挨拶された。

幼稚園建設に反対する高齢者

 住宅地を歩くとほかにもいろんなものを見かける。
気になるのは空き屋の多さだ。
はっきり空き屋とは分からないまでもそれらしきものも含めると結構多い。
高齢で亡くなったのか、あるいは子供達と同居するようになったのだろうか。
そこそこの造りの家が空き屋というのはもったいない気もするが、まるっきり他人事とも
思えずなんとも複雑な気になる。

 その一方で新築住宅も増えている。
つい数か月前まで空き地か別の建物が建っていたはずだが、建物ができてしまうと
その場所の以前の姿がほとんど思い出せないから不思議だ。

 こうして街は姿を変えていくのかと思うが、新住民が増えると地域のコミュニティーが
崩れていくという声は全国で聞く。
最近では町内会にも入りたがらないそうだ。
たしかに町内の付き合いは煩わしい面もある。
できるだけ煩わしいことは避けたいと考えるのは人の常。
といっても山の中の一軒家ならいざ知らず、街(町)で暮らしていると
他人の世話にならないわけにはいかない。

 それでも干渉するのも干渉されるのも嫌だという人が増え、
ちょっとしたことで隣近所や行政に文句を言う。
 腑に落ちないのは保育園、幼稚園の建設に「子供の声がうるさい」からと
反対する人が増えていることだ。
それも高齢者が反対すると言う。

 それってちょっと違いはしないかと思うが、近頃は老いも若きも皆内向き。
自分のことしか考えないようだ。
なんとも住みにくい世の中になったものだ。

新築住宅の二極化

 こうした傾向は住宅にも現れている。
新築住宅(そのほとんどは新住民が造る住宅だが)を見ていると大きく
2つの傾向に分かれることに気づく。
 一つは塀や囲いを2、3mと高くして外から中を窺い知れないようにしている家で、
もう一つはオープンテラスを導入し内と外の境界をなくしている(より正確に言えば
内と外との間に駐車スペースや庭などの緩衝帯を設け、内と外の境界を低くしている)家で、
二極化する傾向にある。

 前者はセキュリティ重視、後者はコミュニケーションにウェイトを置いた造りといえ、
それぞれに建築者の思想が窺えると同時に、いまの社会情勢を反映しているようで興味深い。

 宅地面積が広い家、それは往々にして富裕層の家だが、それらに共通しているのは
まるでコンクリートの城壁で守られているような造りで、自他の境界を明確にし、
ここから内に一歩でも入るのは許さないと自己主張しているように感じられる。

 昨今は犯罪も多く、いつ、どこで、どんな犯罪に合わないとも限らない故、
防犯面から囲いを厳重にする気持ちは分からなくもない。
それにしても、まるで中世の城のように高い城壁で囲わなくてもと思ってしまう。

 囲いの中(塀の中ではない)には広い庭があり、そこで子供を遊ばせたり、
時には友達を呼んで茶会を開いたりすることもでき、囲いの中こそが社会だと
考えているのかもしれないが、閉め出されているのはよからぬ侵入者だけでなく
隣近所の地域住民まで拒絶されているような気がする。
                             (2)に続く



マカフィー・ストア

TVドラマ雑感

2018-02-15 18:35:53 | 視点
 休日はビデオ三昧、というほどではないが、食事をしながら録画済みのビデオを観ていることが多い。今年は年初から「陸王」を観ていた。
 基本的に連続物は自分では録画も、観ることもほとんどないが、貧乏性だから録画されていると観ないで消去することができない。取り敢えず観る、というか消すために観るわけだ。
 そんな形で年末から見始めたのが「陸王」。内容は説明するまでもないだろう。池井戸潤原作のTVドラマで、高視聴率だったようだが、池井戸作品で観たのは「下町ロケット」だけ。その前の「半沢直樹」はシリーズ何回目かの1回分を観ただけで嫌気がさし、以後は観ていないし、観たいとも思わなかった。はっきり言うと「半沢直樹」はTVドラマも主演俳優も嫌いだ。

 「半沢直樹」が嫌いなのは、流行語にもなったらしい「倍返し」というあの台詞。このドラマとは関係ないが「保育園落ちた。日本死ね!」というあれも大嫌いだ。あれを国会で取り上げて一躍人気者になった元検事の議員にも好感を持てなかった。すると案の定と言っていいのかどうか、その後、全く別のプライベート(と言っていいかどうか)な件でメディアに連日取り上げられた。なんともはや、という感じだ。

 近年どうも感覚がおかしい、メディアも人も。「倍返し」というのは「目には目を、歯には歯を」ではない。目をやられたら「目と歯を」やり返せということで、ハムラビ法典にさえ背いている。もちろん「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と諭したキリストの教えにも。
 つまり「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を」受けさせることで、それ以上、連鎖の拡大を防ぐのではなく、やられたら相手に倍の損害を与えろというのが「倍返し」という言葉で表現されているわけだ。
 ドラマとはいえ、少なくともメディアがそういう言葉を流行らせるのはおかしい。意図するとしないにかかわらず、結果としてそういうことを煽っているわけだから。

 「日本死ね!」も同じだ。以前にも書いたが、言葉は思考であり、思想である。人は言葉でものを考えるのだ。「保育園落ちた。日本死ね!」という言葉は、あまりにも短絡的な言葉(思考)だ。
 私はこの言葉に非常に危険なものを感じた。背景にあるのは「好景気」という言葉を実感できない庶民の悶々とした気持ち、なぜだか分からず、湧き上がってくる怒りと、持って行きようがない感情に押し潰されている日常・・・。
 実は今こうした感情は日本だけでなく世界中が抱えている。

 さて、ビデオで観たドラマ「陸王」だが、「面白かった」。大体、開発物語にはドラマがあるし、取材していても面白い。それを脚色してドラマ仕立てにするのだから面白いに決まっている。これで面白くなければ、よほどドラマづくりが下手ということだ。
 「下町ロケット」の帝国重工、財前部長のいつもスーツ姿は「ありえないだろう」と思わず突っ込みを入れたくなったが、それもドラマだと思ってしまえば愛嬌。テレビ朝日の「科捜研の女」が現場で鑑識や刑事まがいの行為をするのに比べればはるかにマシというものだ。

 「陸王」は観終わった後、「ああ、面白かった」だけで終わり。期待を裏切る箇所はゼロで、水戸黄門の現代版を見(観ではなく)ている感覚。娯楽番組なんだからそれでいいではないか、と言われればその通りだ。ドラマではなくエンターテインメント番組として見ていればね。
 今、この手のドラマは視聴率がいいようだ。「ドクターX」しかり。皆、ストレスが溜まっているんでだろう。現実世界の中で鬱々としているから、なまじ考えさせられるようなドラマではなく、非現実的だが完全フィクションではなく、その中に一部事実、例えば最先端医療技術や中小企業が開発した新技術を取り入れて紹介することでフィクションと現実の境を低く(融合)し、視聴者に「あり得るかも」「あったらいいな」という感覚に酔わせるドラマが支持されるのだろう。

 この数年、私の頭は「社会は、時代はどこへ向かっているのか」「文明は崩壊に向かっているのではないか」という思考に捕らわれている。さて、今年はどんな年になるのやら。




ココチモ