栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

夕陽に染まる桜

2018-03-31 09:09:31 | 視点

 今年の桜は早朝の散歩時に見ることが多いが、この日は珍しく夕方に撮った。

夕陽に頬を赤く染めて恥じ入るようにも、今が盛りと誇らしげにも見える。

毎日新聞に「人生は夕方から楽しくなる」と題した連載があるが

桜も「夕方から楽しくなる」。

この後には夜桜見物という楽しみも残っているし、

もう少し花見が楽しめそうだ。







 撮影場所:福岡市南区長住中央公園




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田舎の「引き算」生活が見直される。

2018-03-23 16:39:06 | 視点
 「足し算がいいか、引き算がいいか」と問えば、恐らく多くの人が「足し算」と答えるのではないだろうか。
足し算ならモノにしろコトにしろ増えるが、引き算では逆に減っていく。
どちらが裕福かと言えば前者に決まっている、と。
若い頃は、とまでは言わなくても、比較的最近までそう思っていた。

 しかし、世の中が少し変わってきつつあると感じるようになったのはデフレ不況の頃からだろうか。
「断捨離」という言葉もそうだろう。
余分なものを持たず、必要最小限なものだけを持ち生活する。その方が豊かになれる、という考え方だ。
そういえば「フランス人は10着しか服を持たない」という本が数年前ベストセラーになったこともある。

「引き算生活」を求める若者達

 周辺を見回してみると「引き算生活」をしている人が案外いることも分かった。
例えばK氏はもう10年以上、昼食抜き・糖質制限食事を続けていると言うし、M氏は1日1食生活を、こちらも10年近く続けていると言う。

 考えてみれば、日本人が1日3食生活になったのは比較的最近のことだ。
明治の初め頃までは1日2食が当たり前だった。
それが最近はどうだ。1日3食はいい方で夜食を入れると4食食べる人も多い。しかも1食の量が多い。1食抜くぐらいがちょうどいいと言っても聞きはしない。これでは太るのが当たり前だと思うが。

 「引き算」生活なんて真っ平ゴメン。便利な都会で快適な生活を続けたいと考える人がいる一方で、地方に移住する若者もいる。
数はそう多くはないとはいえ、彼らが「足し算」ではなく「引き算」生活に価値を見出だしたのは間違いないし、そういう生活を支持する人達が若い人達の間に生まれてきたのは悪いことではない。

 経済が右肩上がりの時代に生きてきた中高年と違い、彼らは右肩上がりの経済を体験も実感もしていない。
それどころか逆に右肩下がり、あるいは現状維持の経済の中で生きてきているから、将来に対しての投資という考えがなくても当然だろう。
 むしろ将来への投資=消費と捉え、資金は使わず将来に備えて貯蓄に回すというのは堅実な考え方である。

 これでは経済が活性化しないと批判されるが果たしてそうか。
そもそもの前提が違うわけで、資本主義の歴史を振り返ってみても「消費は美徳」と言われ出したのはごく最近かつ短期間だ。
むしろ必要生産・必要消費の時代の方が長いから、今の若者の考え方の方が正統派であり、堅実と言えるだろう。

 消費行動に向かわないから経済活動をしていないわけでも、経済に貢献していないわけでもない。
要は過剰生産、作り過ぎこそが問題だ。作り過ぎるから余ったモノをどこかで捌かないといけない。

 まず自国の消費者に今まで以上にモノを買わせようとする。といっても同じモノを2つも3つも買わない。それではモノが余って商品在庫になるから、同じモノでも必要以上に買わせて在庫を減らしたい。

 そこで考え出されたのが「消費は美徳」という考えだ。
TVも、電話も、車も、一家に1台ではなく複数台持つ時代。それが豊かさの象徴である。
1つモノを大事に使い続けるのではなく、その時代に合ったものにどんどん買い換えていくことこそ新しい。
そんな宣伝文句に躍らされどんどん買い換えていく。
 それでも生産量の方が上回れば今度は海外まで出かけて行ってモノを売る。
かくして世界中がモノに埋もれ、私達はモノに囲まれた(埋もれた)生活を余儀なくされている。
それが文化であり、幸せなのだと思い込まされて。

 でも、それっておかしくないですか?
そう思い出した若者がモノに溢れた都会を離れ、地方に移住しだしている。

 ただ、繰り返しになるが、その数はまだ多くはないし、それがトレンドになることはないだろう。
それでも、消費文明とは違う価値観が少しずつだが支持されているのは事実だ。

案外便利な田舎だった

 さて、若者でもない私の場合は「終活?」と友人に言われたが、当たらずと言えども遠からずというところだろう。
田舎の家にあるものも処分しなければならない。そのための帰省という面はたしかにある。
だが逆に愛着が強くなってきた。

 高齢化が進んでいる過疎の田舎とは言え、私の実家がある場所は案外「都会(?)」である。
奈良から会いに来てくれた友人も驚いていたが、我が家から50mの距離にコンビニがある。
これだけでもイメージが随分変わると思われるが、その向かいには総菜・定食屋、郵便局があり、隣には地方銀行の支店まである。

 なぜ地銀が撤退せずに支店を置いたままにしているのかは不明だが、それなりの取引先があるからとしか思えない。それでふと思い浮かんだのが昔からある小さな撚糸工場。しかし、これだけで支店を残すとは思えない。
 そこで色々考えてみると、朝夕の送迎バスに乗るアジア系外国人の存在。
ある時、定食屋で朝食を摂っている時、隣の席で同じように朝食を摂っていたアジア系の人達に話しかけてみた。
彼らはベトナムから来た若者達で、工業団地の○○で働いていると言った。
○○の部分はよく聞き取れなかったが、工業団地内の製造業らしいということは分かった。

 他にもコンビニで朝見かけた作業服姿の日本人に話しかけると、やはり工業団地に進出している関西の企業だと言っていたから、地銀が支店を残している理由はそれらの企業の存在ではないだろうか。

 さらにJRの駅(運行本数は少ないが)や高速バスの停留所(京都・大阪便で本数が多く便利)も徒歩10分以内にあるし、ホームセンター、ドラッグストアまでも出来ている。
 いままでは、過疎地で車がなければ買い物にも行けないと思っていたが、日常生活でそれほど困ることはなさそうだ。おまけに12月には台湾人が台湾料理の店までオープンした。ただ、こちらは継続が難しいかも分からないが。

田舎生活の快適さに目覚める

 こうした利便性が私の帰省を後押ししている側面がないわけではないが、もう少し違う環境、アメニティーと言っていいかもしれないが、そこに価値を見出してきたと言った方が正確か。
と言っても、それに気付いたのはこの1、2年。母も亡くなり、残った家の行く末を考えるようになってからだが。

 アメニティーと言ったが、それに対する捉え方は人それぞれだし、見方によって随分異なる。
例えば利便性を求めれば都会生活の方がずっと快適だし、美術館や博物館といった文化的環境も整っている。
 そうしたものとは別のところに快適性(アメニティー)を求めると、逆に都会生活は厄介で、時にストレスの溜まる場所になる。

 人も車も多い都会と、長閑な田舎の生活はどちらが快適かと問うても人それぞれに捉え方が違うから一概にどうとは言えない。
交通の便が悪く、大型ショッピングセンターもない田舎は退屈きわまるという人もいるだろう。いや、そう感じる人の方が多いだろう。
だが見方を変えれば、地方に移住する人達が少数ながらいるように、田舎生活の方がアメニティーだと感じるかもしれない。

 実のところ、繰り返しになるが、私自身が比較的最近まで前者の都市生活支持者だった。
それがなぜ、と問われ、「歳を取ると田舎の方がよくなる」とか「俺には田舎の生活が合っているようだ」と適当に答えてきた。
実のところ自分でも明確な理由が分からないからだが、何かから逃げている側面はありそうだ。

 田舎に居る時は、朝起きると、まず各部屋の窓を全部開け放ち、小1時間そのままにしておく。冬は9時にならないと陽が射してこないが、春先からは鶯の鳴き声がすぐ近くで聞こえる。
その頃は「ホーホケキョ」とは鳴かない。「チチ」とか「チャッチャッ」という笹鳴きで、夏が近付いてくると「ケキョ、ケキョ」と鳴き始め、それに「ホー」が加わりだし、やがて「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ」と囀り(ツイート)出す。

 姿は見えないが鶯の成長を見ているような気になる。句の一句でも捻りたくなる。
都会のマンション生活では味わえない贅沢な時間だ。
 鳥も庭によく飛んでくる。
ある時、雀にしては少し小太りな鳥が庭に降りてきた。何だろうと近付きかけると翼を広げてパーと飛び立っていったが、その翼の美しかったこと。
翼に大きな黄色い帯模様があり、まるで金色の衣を纏っているようだった。
初めて目にした鳥だが、後で調べるとカワラヒワ(河原鶸)という種類だと分かった。

 こうした自然環境に心地よさを感じるとともに、住まいを「仮住まい」から快適空間に変更することも始めた。手始めは故障していた便座一体型ウォシュレットを別メーカー製のものに替えるリフォーム。
 続いて各部屋を仕切っていた襖、ガラス戸の類いを全部取り外し、3部屋を1つの空間にした。
すると本間サイズで20数畳の空間ができた。
それに広縁が2箇所加わる。冷暖房効率は悪いが、空間的、気分的な開放感は素晴らしかった。
 さらに食器も慶事用に仕舞われていた漆器を取り出して日常使いにするなど、1人でも食事を楽しめる雰囲気に変えていった。

 ないのは書籍とビデオと衣類。TVは昼と夕方の食事時にニュースを見るぐらいで、ほとんど見ない。
新聞は取ってないし、デジタル紙面もSIMの契約データ量の問題から見ない。
同じ理由からインターネットへの接続も最小限に留めている。

 インターネットの常時接続から解放されると時間まで解放される。
それでは情報過疎になるのではと心配する向きもあるかもしれないが、いままでが情報過多すぎ。昼と夕方のニュース番組だけで充分事足りる。
ムダを削ぎ落とし、これこそ「断捨離」。
モノがない空間で過ごすことが、こんなに快適なのかと分かり始め、やっと地方に移住する若者が求めているものが分かってきた。

 足し算でなく引き算でいい--。そう気付いた時、精神(こころ)が解放された。
いままであまりにも「常識」や既成観念、既存意識に捕らわれ過ぎていた。
残りの人生、もう少し自由に生きたい--。









コミュニケーション力も医療の重要な要素

2018-03-21 18:25:17 | 視点
 病院に行くの、案外好き、と言えば記憶力のいい読者から、おかしいではないか、と指摘されるかもしれない。そう、つい最近、病院で5時間も待たされたと不満を漏らしたばかりだから。

2時間程度の待ち時間は読書に最適

 いや~、あの時は正直参った。普通なら、もう二度と病院なんかに行くものか、と思うのが当たり前かもしれない。ところが、性懲りもなく同じ病院(診療科は違ったが)に数日前、行ってきた。今回は窓口で受付をしてから会計を済ませるまでに4時間かかった。
 にもかかわらず、病院に行くのは案外、好きと言うのだから、お前はマゾの気があるのかと笑われそうだが、そちらの気はない。好きの前に、案外と付けたのは病院そのものとか診察、あるいは医師や看護師が好きということではなく、待ち時間が好きなのだ。
 なんだ、やはりマゾっ気があるのではないかと早とちりしないで欲しい。待ち時間を利用して本を読めるから好きなのだ。

 同じ理由で列車に乗るのも好きだ。新幹線なら博多から岡山か姫路あたりまで。大体3時間弱ぐらいの時間がちょうどいい。それを過ぎると少し飽きるし、病院の待ち時間なら少々イライラしてくるから、結構我が儘な性格かもしれない。

 今回、病院に行ったのは年1回の精密検査のためである。個人的にはこの1か月を検査月間と決め、帰福して病院で検査をしている。
「車は2年に1回、車検があり、その時に色々点検するでしょう。人間も同じだと思っているんです。私は2年に1回、人間ドックに入り検査してもらっています。えっ、費用。それはかかりますよ。だけど、それで健康でいられるなら安いもんですよ。私はそう考えています」
 友人のこの言葉も頭にあった。人間ドックを受ける余裕はないが、不調を感じた箇所はできるだけ精密検査を受けるようにしている。

 今回の受診目的の一つは膵臓のMRI検査。これは年に1回定期検査を医師から勧められていたが、昨年は行かなかった。それが気になっていたこともあり、MRIの予約受診のついでに気になっていることを相談し、検査してもらおうと考えた。

 実はこの数年、緩やかに体重が減少し続け、いまや若い頃に履いていたGパンでさえガバガバ。1日3食きちんと摂っているのにだ。とにかく原因が分からないことには対策の取りようもない。
「そうですね。胃は前回の検査から5年たっていますから検査した方がいいでしょう。今日、検査しますか。食事はしてませんね」
 医師のこの一言で急遽、内視鏡検査をすることになった。朝食抜きで行っていたのがよかった。

鎮静剤なしで胃カメラ検査

 内視鏡検査はいつものように鎮静剤なし。鎮静剤を使うと直後、車の運転ができないということもあるが、なにより自分の目でリアルタイムに確認したいからだ。後でビデオを観せてくれる所もあるが、多くの病院は数枚の写真画像だけだ。
 それでは診察中に何が起きているのかが分からない。そのことの方が不安だ。局所麻酔による手術でさえ鎮静剤なしで行いたいぐらいだ。

 というのも、もう30年ほど前になるが、ある診療所で胃の内視鏡検査を受けた時、十二指腸までカメラが入らず医師が四苦八苦し、随分時間がかかったことがあった。この時は苦しくて、もういいから止めてくれと、何度か手を挙げかけた。後でビデオを観ながら説明もしてくれたが、胃壁に赤い斑点ができていたのを見つけ尋ねると、どうやら内視鏡で少し傷つけたようだった。
 「上手だから」と言う知人の紹介で受診したのだが、上手どころか、その反対だった。こうしたこともあるから、いつも鎮静剤なしでお願いしている。

 鎮静剤なしだと双方、多少緊張する。医師の方は被検者が苦しんだり、えずきそう(吐きそう)になったりしないかと思うし、被検者は喉の所をスッと通過するだろうかとか、十二指腸にカメラが入る時の、胃の内部をぐぐっと押される不快感を味わわなければならず、どうしても身体に力が入る。
 そうした緊張感を和らげるために大抵の医師は話しかけ、状況を説明してくれる。時には看護師も。

言葉を発しない医師

 目の前には小柄な若い看護師が立っていた。管を通りやすくしているのだろう、しきりになにかを塗り付けていたかと思うと、「最初は少し顎を上げて下さい」と言ったかと思うと、いきなり管を突っ込んできた。

 おいおい、看護師が検査するのかと少し驚いたが、その後は声を発することもなくカメラを操作し、管の中に液体を入れたり、管を捻ったりする。ところが管に液体を入れる時、押さえ方が緩いのか霧状のものがこちらの顔にかかる。

 こんなことは初めてだ。いくらなんでもそれはないだろうと多少憤慨したが、言葉を発することもできず、せいぜい目に入らないように目を瞑るぐらいしかできない。しかし、それでは肝心のモニターが見られない。
 これでは眠っているのと同じではないか。
普通、なにか言うだろう。「後少しで終わりますからね」とか「胃の中の様子が見やすいようにブルーの液体をかけます」「終わりましたよ。これから管を抜きますからね。お疲れ様でした」ぐらいは言うはず。ましてや女性なのだから、その程度の心遣いもできずにどうする、などと頭の中でブツブツ言ったが、その間も目の前の相手は無言のまま。いきなり管を抜いて終わった。

 最初、看護師と思った女性はどうやら医師だったようだ。ベッドに腰掛け、靴を履きながら、机の前で後ろ向きになっている女性を指さし、看護師に「先生?」と言うと「はい、先生です」。
 するといままで言葉を発しなかった女性医師が、その言葉に反応しぐっと振り返った。
「女性の医師にしてもらったのは初めてだけど、男性より大胆! 言葉も発せずいきなり奥まで突っ込むんだから。もしかするとサドの気があるのかもね」

 こう言うと彼女を始め一同爆笑。笑い方が最も豪快だったのは女性医師だった。どうやらこちらが込めた皮肉には気付かなかったようだ。もう少し相手の身になった方がいい、という皮肉には。
 後日、あることに気付いた。検査の際、鎮静剤を使う人が多いのではないか、と。眠っているような人を相手にしていれば声などかける必要はない。それが習慣になっていたのかもしれない、と。

 技術の進歩はコミュニケーション能力を人から奪っていく。それがなにを意味するのか--。