現代社会はかつて経験したことがない現象を社会にもたらしている。
その一つが高齢化(長寿)と少子化なのは論を待たないだろう。
ともすればマイナスイメージで語られることが多い2つだが、新たな市場を産み出している側面もある。
その1つに「おひとり様」がある。
主役に躍り出た「おひとり様」
従来、1人はどこでも歓迎されざるものだった。
レストランでも、ショッピングでも、買い物でも、宿泊でも、1人は金にならないと敬遠された。
その最たるものは旅館で、1人で泊まろうとすれば「訳あり」と見られ、露骨に嫌がられた。
食事処の席はレストランであれ街の食堂であれ、基本は4人掛けで、1人で入ると隅の小さな席を勧められる。
ところが今は「おひとり様」と呼ばれ、歓迎される存在になっている。
その背景には従来市場の縮小という現実があり、それまで重視してこなかった小さな単位に目を向けざるを
得なくなったからだが、家族構成が小さくなったことも影響している。
かつて家族の基本単位は4人だった。
それが3人家族、2人家族と世帯構成が小さくなっていくと、行動単位も2人、あるいは1人と小さくなっていく。
だが、この1人、2人が侮れない。
中でも女性と定年退職後の世代は行動的でいろんなところに出かけるし、趣味も多彩だったり、没頭もする。
言葉を変えれば、好きなものには金も時間もかける。
しかし従来の考え方では、この層は存在しないカテゴリーである。
例えば旅行にしても団体旅行、家族旅行はあっても1人で参加できるツアー企画はない。最小単位は2人からなのだ。
これは行動的なシングルにとっては屈辱的だろう。
存在しないカテゴリーということは無視されているのと同じであり、差別である。
もちろん世の中は徐々にこの層に対応しつつあった。
スーパーやデパートの食料品売り場は「個食」対応で総菜パックに1人用が並ぶようになったし、
飲食店に1人で入っても冷たい視線を感じることはなくなった。
とはいえ、それでも1人は「孤独」「寂しい存在」という目で見られていたのは間違いないだろう。
それが変わりだしたのは「おひとり様」という言葉が流行りはじめた頃。
マーケットとして無視できない存在だと気付き、「おひとりですか」と言っていた言葉に「様」を付け、
丁寧語で呼び出したわけだ。
言葉というのは不思議なもので「様」を付けられただけで、それまでの差別的な扱いが変わったように感じる。
もちろん、呼称を変えただけでなく、マーケットとして積極的に取り込もうとしているから、
様々なサービスが1人用に提供されてもいる。
こうなるともう大威張りで「ひとりです」と言える。
いや、大威張りというのは言い過ぎだが、いままでのように卑屈になる必要はない。
1人居酒屋でも、1人角打ち、1人焼き肉でだって堂々と行ける。
別に誘う相手がいないから1人寂しく食べているわけではない。1人の時間が好きだからだ、と。
まあ、そんなわけで「孤食」ではなく「個食」が増えている。とりわけ比較的若い女性に。
そう、現代人は誰もが人付き合いに疲れ、ストレスを抱えているのだ。
せめて1人になりたい、1人の時は自分の好きなように時間を使いたい、と考えている。
それがうまくできない輩が他人にストレスをぶつけ、暴力や犯行、あるいはそれに類する行為に及んでしまう。
自由気ままな生活だけではない
「おひとり様」という言葉が流行りはじめてから、1人での行動が随分楽になった、と感じている人は多いだろう。
何も夫婦単位で行動しなくても、1人、あるいは同好の士と行動する方が余程精神的に楽かもしれない。
こう言うと色々反論もあるだろうが、まあ「おひとり様」は 自由気ままで、気楽だということだ。
これで金があればなおのことだろう。
しかし世の中、そう甘くないというか、まだまだ保守的。
「おひとり様」が自由気まま、気楽に生きていくにはまだ高いハードルがある。
何かをしようとすると旧来の概念で「ノー」と言われることが多分にあるのだ。
例えば入院・手術。
実は先月あることで入院を余儀なくされ、その際に同意書類への署名、捺印を求められた。
そこには本人の署名、捺印はもちろんだが、「親族又は理解補助者」の署名、捺印、
さらには「本人との関係」も記入しなければならない。
何かあった時の連絡先ということだろうが、そこには保証人という意味合いも含まれているようだ。
母や弟が健在だった時は別段考えることもなく、どちらかの名前を記入していたが、
2人共亡くなった現在はちょっと考えさせられた。
パートナーがいても籍を入れてなければ親族にはならない。
では「理解補助者」か。
ところが、この「理解補助者」という言葉がよく分からない。
理解者でも補助者でもない。
状況を理解し、色々補助をしてくれる人のことなのか。
補助とは補助具などのような身体的な支えのことか、それとも金銭的な補助まで含むのか。
そんなことをあれこれ考えると、親兄弟子供がいないか疎遠になっている「おひとり様」が
病気になった時は大変だということに気付かされた。
幸い私の場合はパートナーと同居していたし、大阪に甥がいるから、いざという時には助かるが、
入院程度のことで甥には頼みたくない。
「理解補助者」という言葉の概念がよく分からなかったが、パートナーに署名、捺印をお願いした。
「本人との関係」はどう書くのと問われたから「パートナー」でよかろうと答えた。
たかだか入院手続き書類にそううるさいことは言わないだろうと考えてのことだが、
これが中長期に渡る入院生活を余儀なくされたり、大手術になればどうなるか。
しかも「おひとり様」だった場合はなどと考えると少し暗い気持ちになる。
ホームレス支援団体の会報に「○月○日、△△さんを病院に連れて行き、入院させた」というような報告が
載っていたのを思い出した。
支援団体の理事長が「身元引受人」になり入院させたということなのかと今頃気付いた。
実のところ、今まで健康だったからそんなことはついぞ考えもしなかった。
むしろ独り暮らしの方がノンストレスで気楽だと、いまだに憧れているような始末。
その一方で高齢になっての独り暮らしは自由気ままな「おひとり様」生活というわけにはいかないかも。
となると、色々不満はあるが、それもお互い様だろうから、現状を感謝すべきかもと思い直したりもする。
「老後」をどう過ごすか
そういえば数年前、久し振りに会った知人から「青天の霹靂ということは本当にあるということが分かった」
と打ち明けられたことがあった。
前触れがなくいきなり「青天の霹靂」と言われたものだから何の話か分からず「ああ、そう」などと
適当に相づちを打ったが、その後の話にちょっと驚いた。
彼の年は70歳。定年退職後に胃ガン、大腸ガンの手術をしたとはいえ元気で、
年3分の1はハワイで過ごすという、こちらからみると羨ましいような生活を送っていた。
伴侶は50歳そこそこぐらいではなかったか。
もちろん後添えだが、現役の頃は結構、異性がいたようで、今の伴侶も会社の後輩ではなかったか。
まあ、そんな話はどうでもよくて、ある朝起きたら彼女が「正座して待っていた。
普段そんなことはしないのに、その日の朝に限って正座していたから何をしているんだと笑ったぐらいだから」と言う。
ところが、そのあと彼女の口から出た言葉に耳を疑った。
「あなた、私と別れて下さい」と、それこそいきなり言われたと言う。
「えっ、いきなり! それまでそういう素振りはなかったんですか。普通は何か思い当たることがあったりするでしょ」
「いや、まさに青天の霹靂ですよ。でも、今考えてみると思い当たることはあったんです。
出張で東京によく行っていましたから。
でも、それはその会社の業務にとってごく当たり前で、疑うような出張ではなかった。
だが色々聞いて分かったのは相手は同級生で同窓会で意気投合し、それから東京に出張する度に逢っていたらしい。
彼女の出身地も東京だから、東京で同窓会と聞いても別におかしくもないわけですよ」
男女を入れ替え、年齢を少し若くすれば、昔よく耳にしたような話と言えなくもない。
かける言葉がないというのは、まさにこういう場合だ。
そうなる前にどうして気付かなかったのか、と相手に質しても今更遅いし慰めにもならない。
かといって笑い飛ばすわけにもいかないし、いやあ、大変でしたね、と言うのが関の山で、
後は黙って相手の話を聞くしかなかった。
ただ、他人事とは思えなかっただけに考えてしまった。
もう少し若い時ならまだよかっただろうが70歳を過ぎて1人になるのは一寸辛いものがあるだろう。
別れ話を切り出されるなら、もう少し若い時の方がよかったよな。
そろそろ老境の域に差し掛かろうかという年齢だし、これから互いに支え合って生きていく必要がある時に
放り出されるのはちょっと辛いかもな、と思った瞬間、
あっ、老境に差し掛かるのは男の方で女性はまだ若く、これから充分やり直しがきく年齢だったと思い直した。
「おひとり様」でも元気なのは圧倒的に女性。
男性は会社勤めを辞めると多かれ少なかれ引き籠もり状態になる。
「女房孝行」と思い旅行や買い物に付き合おうとするが、案外それが鬱陶しがられる。
なんということはない、ついこの間まで男性が感じていたことを、仕事を辞めた瞬間から入れ替わってしまっている。
会社人間、仕事人間ほど、組織や職を離れた瞬間から所在がなくなる。
飲み会にも誘われなくなるし、誘ってもかつての部下からは仕事を理由に断られる。
せめて女房殿とはと思って付き合おうとするが、それも迷惑がられるといっそ「おひとり様」になった方が
よほど気楽と思うかもしれないが、急拵えの「おひとり様」はとても大変。
実のところ文字通りの「おひとり様」になってしまうと、今まで掛けていた生命保険の受取人を
誰にすればいいのかという問題も出てくる。
本人がしっかりしていれば入院・手術費用の申請は自分でできるが、動けなくなった時に
代理で医療費等の請求ができるように「代理請求人」という制度があり、その記入も求められる。
ところが代理請求人も基本は親族。
パートナーがいても未入籍の相手ならなにかとうるさい。
保険金の不正請求防止のためだろうが、同性婚が認められようという時代でもまだまだ古い常識がまかり通っている。
「おひとり様」生活を楽しめるのは40代、50代が旬。
60代もそこそこ楽しめるが、それ以上になった時はどうするか。
「人生は夕方から楽しくなる」と気楽な「おひとり様」を決め込むか、
それとも多少の我慢を強いられても現状維持で行くか。
否応なくいろんなことを考えざるをえない年代の人口が増えてきたことだけは間違いない。
その一つが高齢化(長寿)と少子化なのは論を待たないだろう。
ともすればマイナスイメージで語られることが多い2つだが、新たな市場を産み出している側面もある。
その1つに「おひとり様」がある。
主役に躍り出た「おひとり様」
従来、1人はどこでも歓迎されざるものだった。
レストランでも、ショッピングでも、買い物でも、宿泊でも、1人は金にならないと敬遠された。
その最たるものは旅館で、1人で泊まろうとすれば「訳あり」と見られ、露骨に嫌がられた。
食事処の席はレストランであれ街の食堂であれ、基本は4人掛けで、1人で入ると隅の小さな席を勧められる。
ところが今は「おひとり様」と呼ばれ、歓迎される存在になっている。
その背景には従来市場の縮小という現実があり、それまで重視してこなかった小さな単位に目を向けざるを
得なくなったからだが、家族構成が小さくなったことも影響している。
かつて家族の基本単位は4人だった。
それが3人家族、2人家族と世帯構成が小さくなっていくと、行動単位も2人、あるいは1人と小さくなっていく。
だが、この1人、2人が侮れない。
中でも女性と定年退職後の世代は行動的でいろんなところに出かけるし、趣味も多彩だったり、没頭もする。
言葉を変えれば、好きなものには金も時間もかける。
しかし従来の考え方では、この層は存在しないカテゴリーである。
例えば旅行にしても団体旅行、家族旅行はあっても1人で参加できるツアー企画はない。最小単位は2人からなのだ。
これは行動的なシングルにとっては屈辱的だろう。
存在しないカテゴリーということは無視されているのと同じであり、差別である。
もちろん世の中は徐々にこの層に対応しつつあった。
スーパーやデパートの食料品売り場は「個食」対応で総菜パックに1人用が並ぶようになったし、
飲食店に1人で入っても冷たい視線を感じることはなくなった。
とはいえ、それでも1人は「孤独」「寂しい存在」という目で見られていたのは間違いないだろう。
それが変わりだしたのは「おひとり様」という言葉が流行りはじめた頃。
マーケットとして無視できない存在だと気付き、「おひとりですか」と言っていた言葉に「様」を付け、
丁寧語で呼び出したわけだ。
言葉というのは不思議なもので「様」を付けられただけで、それまでの差別的な扱いが変わったように感じる。
もちろん、呼称を変えただけでなく、マーケットとして積極的に取り込もうとしているから、
様々なサービスが1人用に提供されてもいる。
こうなるともう大威張りで「ひとりです」と言える。
いや、大威張りというのは言い過ぎだが、いままでのように卑屈になる必要はない。
1人居酒屋でも、1人角打ち、1人焼き肉でだって堂々と行ける。
別に誘う相手がいないから1人寂しく食べているわけではない。1人の時間が好きだからだ、と。
まあ、そんなわけで「孤食」ではなく「個食」が増えている。とりわけ比較的若い女性に。
そう、現代人は誰もが人付き合いに疲れ、ストレスを抱えているのだ。
せめて1人になりたい、1人の時は自分の好きなように時間を使いたい、と考えている。
それがうまくできない輩が他人にストレスをぶつけ、暴力や犯行、あるいはそれに類する行為に及んでしまう。
自由気ままな生活だけではない
「おひとり様」という言葉が流行りはじめてから、1人での行動が随分楽になった、と感じている人は多いだろう。
何も夫婦単位で行動しなくても、1人、あるいは同好の士と行動する方が余程精神的に楽かもしれない。
こう言うと色々反論もあるだろうが、まあ「おひとり様」は 自由気ままで、気楽だということだ。
これで金があればなおのことだろう。
しかし世の中、そう甘くないというか、まだまだ保守的。
「おひとり様」が自由気まま、気楽に生きていくにはまだ高いハードルがある。
何かをしようとすると旧来の概念で「ノー」と言われることが多分にあるのだ。
例えば入院・手術。
実は先月あることで入院を余儀なくされ、その際に同意書類への署名、捺印を求められた。
そこには本人の署名、捺印はもちろんだが、「親族又は理解補助者」の署名、捺印、
さらには「本人との関係」も記入しなければならない。
何かあった時の連絡先ということだろうが、そこには保証人という意味合いも含まれているようだ。
母や弟が健在だった時は別段考えることもなく、どちらかの名前を記入していたが、
2人共亡くなった現在はちょっと考えさせられた。
パートナーがいても籍を入れてなければ親族にはならない。
では「理解補助者」か。
ところが、この「理解補助者」という言葉がよく分からない。
理解者でも補助者でもない。
状況を理解し、色々補助をしてくれる人のことなのか。
補助とは補助具などのような身体的な支えのことか、それとも金銭的な補助まで含むのか。
そんなことをあれこれ考えると、親兄弟子供がいないか疎遠になっている「おひとり様」が
病気になった時は大変だということに気付かされた。
幸い私の場合はパートナーと同居していたし、大阪に甥がいるから、いざという時には助かるが、
入院程度のことで甥には頼みたくない。
「理解補助者」という言葉の概念がよく分からなかったが、パートナーに署名、捺印をお願いした。
「本人との関係」はどう書くのと問われたから「パートナー」でよかろうと答えた。
たかだか入院手続き書類にそううるさいことは言わないだろうと考えてのことだが、
これが中長期に渡る入院生活を余儀なくされたり、大手術になればどうなるか。
しかも「おひとり様」だった場合はなどと考えると少し暗い気持ちになる。
ホームレス支援団体の会報に「○月○日、△△さんを病院に連れて行き、入院させた」というような報告が
載っていたのを思い出した。
支援団体の理事長が「身元引受人」になり入院させたということなのかと今頃気付いた。
実のところ、今まで健康だったからそんなことはついぞ考えもしなかった。
むしろ独り暮らしの方がノンストレスで気楽だと、いまだに憧れているような始末。
その一方で高齢になっての独り暮らしは自由気ままな「おひとり様」生活というわけにはいかないかも。
となると、色々不満はあるが、それもお互い様だろうから、現状を感謝すべきかもと思い直したりもする。
「老後」をどう過ごすか
そういえば数年前、久し振りに会った知人から「青天の霹靂ということは本当にあるということが分かった」
と打ち明けられたことがあった。
前触れがなくいきなり「青天の霹靂」と言われたものだから何の話か分からず「ああ、そう」などと
適当に相づちを打ったが、その後の話にちょっと驚いた。
彼の年は70歳。定年退職後に胃ガン、大腸ガンの手術をしたとはいえ元気で、
年3分の1はハワイで過ごすという、こちらからみると羨ましいような生活を送っていた。
伴侶は50歳そこそこぐらいではなかったか。
もちろん後添えだが、現役の頃は結構、異性がいたようで、今の伴侶も会社の後輩ではなかったか。
まあ、そんな話はどうでもよくて、ある朝起きたら彼女が「正座して待っていた。
普段そんなことはしないのに、その日の朝に限って正座していたから何をしているんだと笑ったぐらいだから」と言う。
ところが、そのあと彼女の口から出た言葉に耳を疑った。
「あなた、私と別れて下さい」と、それこそいきなり言われたと言う。
「えっ、いきなり! それまでそういう素振りはなかったんですか。普通は何か思い当たることがあったりするでしょ」
「いや、まさに青天の霹靂ですよ。でも、今考えてみると思い当たることはあったんです。
出張で東京によく行っていましたから。
でも、それはその会社の業務にとってごく当たり前で、疑うような出張ではなかった。
だが色々聞いて分かったのは相手は同級生で同窓会で意気投合し、それから東京に出張する度に逢っていたらしい。
彼女の出身地も東京だから、東京で同窓会と聞いても別におかしくもないわけですよ」
男女を入れ替え、年齢を少し若くすれば、昔よく耳にしたような話と言えなくもない。
かける言葉がないというのは、まさにこういう場合だ。
そうなる前にどうして気付かなかったのか、と相手に質しても今更遅いし慰めにもならない。
かといって笑い飛ばすわけにもいかないし、いやあ、大変でしたね、と言うのが関の山で、
後は黙って相手の話を聞くしかなかった。
ただ、他人事とは思えなかっただけに考えてしまった。
もう少し若い時ならまだよかっただろうが70歳を過ぎて1人になるのは一寸辛いものがあるだろう。
別れ話を切り出されるなら、もう少し若い時の方がよかったよな。
そろそろ老境の域に差し掛かろうかという年齢だし、これから互いに支え合って生きていく必要がある時に
放り出されるのはちょっと辛いかもな、と思った瞬間、
あっ、老境に差し掛かるのは男の方で女性はまだ若く、これから充分やり直しがきく年齢だったと思い直した。
「おひとり様」でも元気なのは圧倒的に女性。
男性は会社勤めを辞めると多かれ少なかれ引き籠もり状態になる。
「女房孝行」と思い旅行や買い物に付き合おうとするが、案外それが鬱陶しがられる。
なんということはない、ついこの間まで男性が感じていたことを、仕事を辞めた瞬間から入れ替わってしまっている。
会社人間、仕事人間ほど、組織や職を離れた瞬間から所在がなくなる。
飲み会にも誘われなくなるし、誘ってもかつての部下からは仕事を理由に断られる。
せめて女房殿とはと思って付き合おうとするが、それも迷惑がられるといっそ「おひとり様」になった方が
よほど気楽と思うかもしれないが、急拵えの「おひとり様」はとても大変。
実のところ文字通りの「おひとり様」になってしまうと、今まで掛けていた生命保険の受取人を
誰にすればいいのかという問題も出てくる。
本人がしっかりしていれば入院・手術費用の申請は自分でできるが、動けなくなった時に
代理で医療費等の請求ができるように「代理請求人」という制度があり、その記入も求められる。
ところが代理請求人も基本は親族。
パートナーがいても未入籍の相手ならなにかとうるさい。
保険金の不正請求防止のためだろうが、同性婚が認められようという時代でもまだまだ古い常識がまかり通っている。
「おひとり様」生活を楽しめるのは40代、50代が旬。
60代もそこそこ楽しめるが、それ以上になった時はどうするか。
「人生は夕方から楽しくなる」と気楽な「おひとり様」を決め込むか、
それとも多少の我慢を強いられても現状維持で行くか。
否応なくいろんなことを考えざるをえない年代の人口が増えてきたことだけは間違いない。