栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

社会を変える3つの狂気~芳野連合会長の狂喜

2022-08-31 15:01:57 | 視点

芳野連合会長の狂喜

 狂気が社会を覆っている中で一人、狂喜しているのが連合の芳野会長だろう。自
民党の会合に呼ばれ、欣喜雀躍して出席するなど一人「狂喜」乱舞している。この
人、個人的に共産党が大嫌いなようで、それは個人的なことだからいいが、労働側
の権利を守り資本側と対立・交渉したり、野党という枠で選挙を闘うということな
ら労働者の団結や野党共闘が必要なのは分かり切っている。個人的な好みより組織
としての闘い方を優先すべきだろうと思うが、この人にはそうした思考はなさそう
だ。

 それにしても連合の会長に就任した途端、自民党に擦り寄りだしたから「おやお
や」という感じだ。この先、連合はどこに向かうのか。分裂するのではないかと思
っていたら、案の定、そのような動きが内部から出てきている。
 まあ、それは当然だと思うが、過去の歴史を見ても政権に擦り寄った所はほぼ衰
退している。かつての社会党然り。連合はすでに衰退傾向にあるから、その動きに
拍車がかかることになる。

 この狂気(狂喜)じみた動きは連合という組織を分裂させるだけでなく野党の弱
体化にも力を貸している。かつて母体を共にした国民民主党と立憲民主党は内ゲバ
さながらに身内憎しの関係になり、国民民主党の玉木代表は芳野連合会長と歩調を
合わせるように自民党に擦り寄り、軸足をそちら側に移そうとしている。

 両者とも「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と考えているのかもしれないが、それ
は逆で「ミイラ取りがミイラに」なり、自民党1強をさらに強くするだけだ。


 実際、ガソリン税の一部を減税する「トリガー条項」の凍結解除を条件に自民党
・公明党との「3党協議」(与党入り)を行い、トリガー条項の凍結解除が行われ
なければ「3党協議」から離脱すると息巻いていたが、結局、今に至るもトリガー
条項の凍結解除はなく、ガソリンは高いまま。引き続き協議を行うとしているが、
玉木氏は「3党協議」から離脱するどころか与党擦り寄り状態のままだ。


 一度アメを舐めると、その味は忘れられない。相手との距離を広げるどころか、
逆に距離をどんどん近付けて行き、最後は与党補完勢力に成り下がる。
 この状態が怖いのは戦前の大政翼賛会のような状態が作り出され、政権に対する
チェック機能が働かなるからで、それはプーチンのロシアを見ても明らかだろう。

 昔から自民党の懐の深さはよく知られている。「来る者拒まず」で、政権獲得・
維持のためには野党とだろうと手を組むどころか、野党党首を首相の椅子にさえ座
らせる。自社さ連立(野合)政権で社会党の村山富市氏が総理大臣になったのはま
だ記憶に新しいだろう。それとも30年近くも昔のことだから人々の記憶から薄れて
いるだろうか。
 フィリピンのマルコス政権が独裁政治を行った記憶は若い人達の記憶から消え、
マルコス(息子)が圧倒的な支持を得て大統領選に当選したぐらいだから、日本で
も同じようになっているのかも分からない。

 狂喜しているのは連合の芳野氏だけではない。自民党の麻生氏は芳野氏を党の会
合に呼んだ後「これで酒が飲める関係に」なったとニヤリとしていた。この瞬間、
連合は自民党に取り込まれた。少なくとも芳野会長は。
 一度蜘蛛の巣に引っかかればいくら足搔いても逃れられない。足搔けば足搔くほ
ど糸が絡み付くだけで、ますます取り込まれて行く。
 まあ当のご本人は足搔くどころか蜘蛛の糸に絡まったことを喜んでいるかもしれ
ない、自民党の大物議員や自民党にパイプが出来た、と。だが、それが労働者のた
めになるのか。100歩譲って、仮に「労働者」のためになるとしても、そこで言わ
れる「労働者」は大企業で働く正規社員で、同じ社内でも非正規社員は含まれてい
ないし、ましてや中小企業で働く社員・非正規社員は含まれていないだろう。芳野
氏の頭にある「労働者」とは連合傘下の労働組合員だけだ。

 労働組合と言っても内部にヒエラルキー(ピラミッド型の階層)が存在している
のは公然の事実で、一般組合員と専従組合幹部とは待遇その他からして違う。彼ら
が労働者の味方だったのはせいぜい1950年ぐらいまでだろう。
 「資本家」などと言って経営側を批判する一方で、組合幹部は一般労働者が一生
かかっても住めないような広い住居に住み、夜は銀座や地方都市の繁華街で飲み食
いし、移動はグリーン車やタクシーという優雅な生活を送っている。そんな生活を
していて、一般労働者の苦しみが分かるはずはない。彼らが送っているのは貴族生
活で、中小企業の経営者の方がはるかに労働者に近い生活を送っていた。故に組合
幹部は「労働貴族」と呼ばれたりしていた。
 その最たるものが自動車総連会長の塩路一郎氏で「塩路天皇」とまで呼ばれた。
ここまでくると労組の代表というより、労組を食い物にしている寄生虫に近いと言
うのは言い過ぎか。中にはそうでない労組幹部もいただろうが、それこそ貴重な存
在。

 労使協調路線を取る労組はかつて「第2組合」と呼ばれていたが、今や第1組合
は少数派で、大半の組合は労使協調路線であり、組合の委員長、書記職はもう一つ
の出世コース、あるいは社内出世コースに組み込まれている。
 生真面目な読者からすれば不思議に思われるかもしれないが、経営側と労働者側
に分かれていても近年の社内組合は呉越同舟ではなく、同じ穴のムジナに近い関係。
会食を何度も共にしていれば互いに通じ合い、落とし所、妥協点を出し合い、後は
それを組合に持ち帰って組合員を説得するのが組合幹部の仕事。これで酒でも共に
すればミイラ取りがミイラになる。いやもともとミイラを取りに行っているわけで
もなく、ミイラを覗いて帰ってくるだけだ。

 あまり厳しいことを言うなと言われるかもしれないが、コロナ禍に値上げラッシ
ュで人々の暮らしはますます厳しくなっている。食材を含めた生活用品の値上げは
低所得層にほど大きく影響する。その一方で大企業は過去最高益を計上している。
そんな中で狂喜している感覚がおかしい。それこそ狂気としか言いようがない。
 このような狂気に支配され、狂気が蔓延している社会だけに、それに感染しない
思考と行動が求められる。

                            2022.5.13


社会を変える3つの狂気~独裁者の狂気

2022-08-29 06:56:07 | 視点

 2つ目は独裁者の狂気である。


「独裁者」と聞いて何を想像するだろうか。暴君、暴力、強権的、弾圧等々。民衆
や反対者を暴力でもって、時には暗殺という手段も使って物理的に排除し、武力を
背景に民衆を支配する暴君、というイメージだろうか。


 独裁とは「広辞苑」によれば「独断で物事を決めること。また、特定の個人・団
体・階級が全権力を掌握して支配する」ことであり、それを行う人が独裁者と記さ
れている。ここには「暴力」とか「武力」による「弾圧」という言葉は使われてな
い。つまり独裁者=暴力的支配者を意味するわけではないということになる。にも
かかわらず「独裁者」に力による弾圧支配というイメージが付きまとうのはなぜか。

 一つには歴史上、独裁者と言われた人物は自分に反対する者を暴力的な手段で物
理的に排除してきたからで、それらは封建時代か後進国での出来事であり、民主主
義と無縁あるいは民主主義が未発達な時代や国で行われていた、行われていると思
われているからだろう。


 つまり民主主義が広まるか、文明が進めば独裁国家は過去のものとなり、独裁者
はいなくなるはず、だった。そして21世紀になると未開の地や封建国家はなくなっ
たと思われた。曲がりなりにも「文明の光」は地球上のあらゆる国・地域にほぼ届
き、残ったのはまだ「文明の光」がその国や地域の隅々まで届き切っていない途上
国ぐらいだ、と。

 これが誤解だった。技術が進み、今ではスマートフォン(以下スマホ)はほとん
どの国で使われているが、社会体制は古いままという国がまだというか、結構存在
している。それらの国はアジアやアフリカに多く存在し、そうした国の大半では民
主主義的な運営の代わりに一つの党や少数者が権力を掌握し、民衆を「指導」して
いる。


 中には形だけの民主主義を導入している国もある。複数の政党を認め、国会ある
いはそれに類する組織があり、そこで国の方針や政策等が決められる体裁を整えて
いるが、それは形式的で実際には権力党の議員が圧倒的多数を占める仕組みになっ
ていたり、権力者の意に沿わない党は議員への立候補そのものが出来なくなってい
たりするのは香港やミャンマーの例でも明らかだ。

 独裁や権力者にとって重要なのは民衆の支持を得ているという形であり、自分は
民衆の弾圧者、独裁者ではないという形なのだ。それが形だけのものであっても。
 権力者が最も恐れ、嫌うのは自分に楯突いたり、自分の立場を脅かす者である。
権力者は常に権力の簒奪を恐れ、怯えている。特にナンバー2の存在に。

 これは時代に関係なく、権力者が恐れていることのようだ。例えば毛沢東が文化
大革命を発令し劉少奇を失脚させた背景には毛の劉に対する嫉妬があったとも言わ
れている。


 中華人民共和国設立以来、「主席」として人民から慕われていた毛が第1線を退
いたのは「大躍進」政策の大失敗で多数の餓死者を出したことが関係している。そ
の尻拭いをしたのが劉少奇、鄧小平で、劉少奇は国家主席に就任した。


 毛は相変わらず中国共産党の主席ではあるが国の代表者、国家主席に劉少奇が就
いたことで「主席」と呼ばれる者が2人になった。それまでは「主席=毛沢東」だ
ったのが「主席」は毛の代名詞ではなくなったわけで、それに毛が嫉妬し、劉少奇
追い落としを画策し、路線闘争を仕掛けた側面が文化大革命の発動にはあったとい
う。

 それが主ではないにしても、嫉妬があったのは事実だろう。毛はスターリンのよ
うにされたくなかったのだ。スターリンは生前、絶対権力者として君臨したが、死
後、首相に就いたマレンコフの後を継いで首相になったフルシチョフによってスタ
ーリン批判が行われた。毛は自分もそうなることを極端に恐れ、「中国のフルシチ
ョフ」という代名詞で反対者達を粛清していった。

 似たようなことは経済界でもよくある。強力なリーダーシップを発揮し企業を発
展させてきた創業者の下に後継者が育たないのは創業者の嫉妬によるところも大き
いだろう。


 内外に「後継者」と発表されたナンバー2が次々に企業を去った例はあるし、ト
ップ(CEO)を譲ってはみたものの、結局自分が返り咲き代表取締役会長兼社長に
就任してすでに10年以上などという例は枚挙に暇がない、とまでは言わないが、こ
こで社名を言うまでもなく結構目にするはずだ。

 最高権力者が望むのは自分に付き従う者で、自分の立場を危うくする、あるいは
自分と並ぼうとする者は認めることが出来ない。それ故、敵に対するより内部の反
対者に対する闘争の方が激しく、陰惨である。


 金正恩が父親の跡を継いでトップの座に就いて間もなく近親者を次々に暗殺、処
刑していったのも同じで、粛清が一通り終わると周囲に残るのはイエスマンだけで、
常に最高権力者を賞賛する声が万雷の拍手とともに送られる。

 それでも安心できないのが絶対権力者で、次に着手するのが憲法を改正し、自ら
の任期を延ばすことだ。中国の習近平もロシアのプーチンも同じ手順で進んだ。そ
して日本でも任期を延ばした人物がいる。政界だけでなく経済界にも。


 つまり自らがトップの座にいる時に法や制度を変えて任期を延ばそうとしたり、
延ばした者は独裁への道を歩もうとしていると見て間違いない。それを阻止し、法
や制度を順守させるのが独裁者を生まない最後の砦になる。

 権力は魔物である。一度でも、わずかでも手に入れれば、さらに、もっととなり、
欲望は尽きることがなく、自制することが出来なくなる。しかも悪いことにという
か、都合がいいことに、声高に聞こえてくるのは自分を称賛する声ばかりだ。これ
ではまるで人々が自分の君臨を望んでいるかの如く勘違いする。


 故に法や制度を変えて在任期間を延ばそうとする企てには絶対に賛成してはいけ
ないのだが、今世界はそうなっていない。

 狂気が独裁を生むのか、独裁が狂気を生むのか。今、世界で支配的になりつつあ
るのは独裁である。独裁と言っても一部の国を除いて武力でもって弾圧するハード
独裁ではなく、非武力的なソフト独裁と、それを支持あるいは歓迎する独裁土壌の
広がりである。


 これは言い換えれば民衆側の独裁を歓迎する狂気、熱狂的な支持で、それは何も
独裁国家に限ることではなく民主主義国家でも起きるだけに危険だ。

 民主主義は極めて脆いものである。なぜ脆いのか。それを守り、維持していくに
は一人ひとりがかなりの労力、脳力を要するからだ。ともすれば人は誰かに決めて
もらいたがる。特に国の進路や世界の有り様などの大きな問題に関しては。


 そんな大きなことは自分ではなく他の誰かが考え、決めてくれた方が楽だから。
自分で一から考えるのは面倒臭いし大変だ。それより誰か、国のリーダーが道筋を
決め、それに対し賛成、反対などを言う方がはるかに楽ではないか。当然、自分の
責任も回避される。かといって言いなりになっているわけではない。いろんな情報
を収集し、自分なりの意見を持ち、自分の考えに近いか同じ意見の人間を支持して
いるだけに過ぎないと思い込んでいる人が増えている。

 自分の頭で考えることを避けているわけで、デジタル時代になり世界中でその傾
向が増えている。スマホがその傾向をさらに加速させているのは言うまでもない。
なぜか。スマホの小さな画面で長い文章を読むのは苦痛だから、情報の発信側もス
マホ用を意識し極力簡単な言い回し、二者択一的に書いていくから、ますます自分
の脳を使わなくて済む。

 結果、人々の脳力は落ち、極端な意見に染まりやすくなっている。狂気に染まり
やすい、狂気を受け入れる土壌がこうして出来上がっているが故に、文明が発展し
ている国で独裁者が登場してくるし、それを待ち望むようになる。独裁者という言
葉を「強いリーダー」という言葉に置き換えれば、もう少し身近に感じられるだろ
うか。

     「社会を変える3つの狂気」は2022年4月25日に執筆したもの

      全文はHP(http://www.liaison-q.com/kurino/Crazy3.html)にアップしています。


地球温暖化防止こそが焦眉の問題

2022-08-27 15:29:32 | 視点

 つくづく自然は冷たく、不平等だと思う。昔、自然は平等だと考えていた。金持ち
にも貧乏人にも雪は等しく降り、銀世界に染めるのは同じだと無邪気に思っていた。
だが、それは間違いだったと気付いた。自然は平等主義でも慈悲深くもなく、むしろ
その反対だった。

飽くなき開発が災厄を生む

 例えば今回、南部九州に始まり、九州全域を襲った水害は平等ではなかった。被災
したのは金持ちより中流階層以下へのダメージの方が大きい。
 鹿児島でも西郷隆盛など下層武士は河川敷かそれに近い土地を開墾して住み着いた
ことが知られているように、川に近い土地に住むのは低所得者か、新たにその土地に
移り住んできた新住民が多い。


 近年でこそ「ウオーターフロント」と言われ持てはやされているが、ウォータフロ
ントとは日本語に直せば水辺、海岸近くの陸地のことだ。
 都市の膨張・拡大に応じて「水辺」を開発し、そこに臨海都市を建設する動きが加
速したのは80年代。そこに都市機能を充実させ、住宅地も建設して行ったのだから、
水の危険性は当初からあった。津波が来れば直接的な被害を受けるのは当初から分か
り切っており、本来、住宅地の建設には不適格だが、当時はそんなことを考える人は
ごく少数だっただろう。
 ウォータフロント、水辺が危険と再認識したのは東北大震災とそれに続く大津波と、
ここ数年、毎年のように全国各地で起きている豪雨による大水害によってだろう。

 最近でこそ「線状降水帯」という言葉をよく耳にするようになったが、10年近く前
までは見聞きした記憶がない。つまり、この気象用語は最近使われ出したものという
ことだ。
 この30年ほどの間に日本列島の気象状況は明らかに変わってきている。例えば新幹
線が博多まで開通した1975年前後頃は大相撲九州場所が始まると必ず雪が降った。そ
れが今では雪が降るどころか、観客席では扇子や団扇で扇ぐ姿がごく普通に見られる。
それぐらい暖かくなっている。
 もちろん、その間に福岡市の都市機能が増し、人口が増えたことによる都市の気温
が上昇したということもあるだろうが、こうした現象は福岡だけに限ることではない
ので、やはり日本列島全体の温暖化が進んでいるというしかない。

 温暖化の影響と思われる現象は世界各地で起きており、冬の豪雪、夏の猛暑と水害
が特徴的で、海水面が上がり水没の危機に直面しているのはツバルやキリバスだけで
なく、水の都として知られるベネチア(英語でベニス)も同じだ。
 毎年のように日本各地で起こる大水害に対する対策はもちろんだが、目先の対策だ
けではなくもっと根本的なところで手を打つ必要がある。人類の未来のために。

環境破壊で未知のウイルスが

 今、世界のあちこちで起きていることは、人類が環境問題に真剣に取り組んでこな
かったツケが回ってきていると言っていいだろう。COVID-19の世界的流行にしてもそ
うだ。本来、森や洞窟の奥にひっそりと潜んでいたコウモリなどの宿主が棲んでいた
場所を、人類が開発という名の下に侵略し、彼らの棲む場所を奪ったため、彼らは否
応なく人の近くに出没せざるをえなくなった。

 それは鹿や狸、猪、熊にしても同じで、人と彼らとの間に存在した緩衝地帯とも言
える境界がなくなったことが原因だ。棲み処を奪われた動物達は食料を求めて人間界
に近づいて来ざるを得ない。彼らを宿主としてきたウイルスも当然、人間界の近くに
現れることになるし、本来の宿主が減少してきたため彼らは新たな宿主を求めざるを
えなくなる。

 かくしてウイルスは生存のために人類を新たな宿主にしだしたわけで、仮にSARS-C
oV-2(新型コロナウイルス)の封じ込めに成功したとしても、それに代わる新たなウ
イルスがまた現れるだろう。
 本来、「ウイルスとの共存」と言うなら、ウイルスに本来の宿主を残してやり、人
間界との境界を守らせる以外にない。

山が荒れ、保水力低下も一因

 このところ毎年のように日本各地で起きている豪雨による大災害は地球温暖化と無
関係ではない。温暖化による海面の温度上昇が水蒸気をたっぷりと含んだ高気圧を発
生させている。
 南の高気圧と北の低気圧がぶつかり均衡を保つと前線が生まれ、前線の南側に大量
の雨をもたらすというのは指摘されている通りだが、年々、高・低気圧の力が均衡し、
前線の停滞が長引く傾向にある。
 特に今年は梅雨前線の停滞が異常に長い。気象関係者によれば豪雨災害は日本では
西半分に多いらしい。範囲をもう少し広げると、中国南部の三峡ダムの決壊の恐れも
言われており、温暖化防止は人類の生存をかけた闘いと言っても過言ではないだろう。

 世界的規模で言えば化石燃料の使用過多によるCO2の増加、アマゾン他の熱帯雨林
や森林伐採を伴う乱開発によるCO2吸収量の減少、急激な都市化による都市の熱放射
(ヒートアイランド現象を含む)、地上を走り回る車と空を飛び回るジェット機、さ
らに最近は牛が出すゲップに含まれるCO2までが問題にされている。
 しかし、これらの削減による温暖化防止策には重要な観点がいくつか抜けている。
それについては後述する。

 一方、国内に限って言えば別の側面も見える。戦後の住宅ブームで林業が儲かる産
業として脚光を浴び、盛んに植林もされたが、植林されたのは杉ばかり。それが後に
安い輸入材が入ってくるようになり、競争力に敗れた国内林業が廃れていったのも知
られている通りだ。
 木材の販売額が山からの搬出費用を上回れば伐採はしても搬出せず、その場に倒木
として放置される。そこに持ってきて林業従事者の高齢化が重なればなおのことだ。
 かくして森林は荒れ、山の保水力は弱まり、大雨になれば倒木が凶器となって山肌
を滑り落ち、道路や家屋を襲い、河の流れを堰き止め、被害を大きくしていったのは
今回九州各地を襲った大水害でも目にした光景である。

 短期的には治水事業等で少しでも被害を減らさなければならないが、それらは飽く
までも対処方法で、どこかを治せば別のどこかで被害が起きる、もぐら叩きのような
ものだ。もう少し長期的な視野で当たる必要がある。
 地球温暖化防止への取り組みは待ったなしだ。選挙対策などではなく、よほど真剣
に取り組まなければ、冗談ではなく人類は滅びるだろう。

 温暖化防止が言われだしたのは何もこの10年や20年ではない。その前から指摘され
世界規模で取り組んできているが、各国の利害が複雑に絡み合い、なかなか全世界が
一致して取り組むというところには来ていない。
 しかし、ここまで自然災害が世界各地を襲い出すと、もうそんなことは言っていら
れないだろうし、もしかすると今回のCOVID-19の世界的大流行が1つの契機になるか
もしれない。

レジ袋の廃止で森林伐採が増える

 総論賛成、各論反対ということはよくある。特に政治の世界では。環境問題も似た
ようなところがあり、こちら側から見れば善だが、あちら側から見れば逆に環境破壊
に繋がるという矛盾が起こり得る。
 例えば7月1日からレジ袋の無料配布廃止が全国で一斉に始まった。プラスチック
製品の削減と、海洋生物に与える影響防止のためである。特に後者は近年、問題化さ
れており、海洋生物の体内に蓄積されたマイクロプラスチックは、魚類を食べる人間
の体内にも蓄積されていくため人類の生存とも関係してくる。
 こうしたこともありレジ袋の代わりに「マイバック」を持参する消費者が増えてい
る。私自身も買い物に行く時はマイバックを持参しているが、店によってはユニクロ
のように紙袋に替えたところもある。
 こうした動きは世界的に広まっており、プラスチック製のストローを紙製のものや
ほかのものに替えたり、ストローを廃止したところもある。

 これらは悪いことではない。しかし、ブーム的な既視感を覚える。10数年前にマイ
箸が流行り、飲食店は割り箸を塗り箸に替え、繰り返し使用するようにしたが、いつ
の間にやら割り箸が復活し、今でも塗り箸を使っている店は少数派になっている。こ
れにCOVID-19が追い打ちをかけ、塗り箸を使う店はほぼゼロになるだろう。

 もう一つはユニクロのようにレジ袋やビニール袋を紙袋に替える動きだ。たしかに
動物や海洋生物の胃袋をプラスチック製物質から守ることには役立つだろうが、紙製
品の使用が増えれば森林伐採はさらに拡大する。
 国内の間伐材を使用すると主張するかもしれないが、量と価格の両面から考えれば、
それはないだろう。

 リサイクルにも同じようなことが言える。リサイクル、リユース等を進め循環型社
会を目指すという謳い文句の下、各自治体では積極的にリサイクルに取り組んでいる
が、その実態はクエスチョンマーク付きだ。
 非常に細かく分類して収集する自治体がある一方、福岡市などのようにリサイクル
回収するのはペットボトルとビンだけで、後は燃えるゴミ、燃えないゴミに分け、焼
却か埋め立て処分というところもある。

 ここだけを見れば細かい分類をしている自治体の方がリサイクルに熱心なように思
えるが、もう少し先の出口まで見なければ、一概にどちらがどうとは言えない。 と
いうのはリサイクル品として回収されたものの大半は海外の新興国へ輸出されている
からである。輸出と言えば聞こえがいいが、実際はゴミの新興国への押し付けだから
だ。
 以前は中国が主要な「リサイクル資源」の輸出国だったが、近年は輸入禁止措置が
取られている。中国に代わるアジアの他の諸国も経済力をつけてくるに従い、「ゴミ
の輸出」拒否の姿勢を鮮明にし出したので、国内の回収リサイクルゴミは行き場を失
い、回収業者の敷地に山積みになったまま放置されている。そこに今回のCOVID-19が
追い打ちをかけ、ますますリサイクルゴミは行き場を失っている。

 リサイクルとは循環であり、それを広範囲な地域、地球規模で捉えてリサイクルと
言うのは詭弁以外の何物でもないだろう。本来、自国内で処理すべきで、そういう意
味ではCO2の排出取引というのもおかしな方法だが、何もしないよりはした方がいい
ということか。

生産量の減少こそが必要

 さて、先に「温暖化防止策には重要な観点がいくつか抜けている」と指摘した問題
に移ろう。
 現在、叫ばれ、取り組まれている温暖化防止策はすべて「出口」対策である。レジ
袋は使わないようにします、電力の使用量を減らしましょう、そのためにエアコンの
温度設定を〇度に上げましょう、〇度に下げましょう、化石燃料を自然エネルギーに
替えましょう、省エネ製品を使いましょう、ガソリン車からプラグインハイブリッド
や電気自動車に替えましょうetc。

 過去にこんなCMがTVで流れたことがある。「古い電気製品を省エネ対策の新しいも
のに替えましょう」(言葉は正確ではないが)というような内容で、電化製品を新製
品に替えた方が省エネになるというものだった。広告主は政府だった。
 このCMには強い違和感を覚えたものだが、同じように感じる人達がいたのだろう、
放映期間は短かった。
 このCMの何が問題かといえば、1つは省エネに名を借りた消費行動を促している点
であり、もう1つはトータルで見た場合の省エネ率がどうかという点である。

 私が問題にしているのは後者の点である。温暖化防止策で本当に必要なのは川下で
はなく川上対策だと考えるからだ。
 もちろんリサイクルや少消費行動は必要だ。だが、その前に物量作戦を展開してい
るメーカーこそが問題ではないのか。
 例えば車の生産台数やモデルチェンジサイクルは妥当なのか。大量生産・大量販売
を続けるユニクロなどのファストファッションメーカーは衣類を作り過ぎではないの
か。
 とにかく身の回りを見渡すだけでモノが溢れているのが現代だ。なぜ、そんなにモ
ノを作り、消費者に次から次へと買わせようとするのか。
 そのためにどれだけの資源を食い潰し、環境破壊を続けているのか。それを消費者
のためと言うなら、それは詭弁だ。すべて自分のため、自社の利益のために他ならな
いだろう。
 そうした経営者には「足るを知れ」と言いたい。被災地に寄付をしたり物資を送る
こともいいことだ。しかし、本当に望んでいるのは毎年のように各地で起きる集中豪
雨が起きる一因でもある温暖化を止めることだろう。

                          (2020年7月10日)