栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

なぜ、鳥越候補は都知事選に敗れたのか

2016-07-31 20:03:01 | 視点
 いよいよ東京都の新しい顔が31日に決まる。誰が都知事になるのかはまだ分からないが、事前予想に反し、野党統一候補の鳥越俊太郎氏が都知事になることはまずなさそうだ。
 ちょっと気が早いが、鳥越氏の敗因分析をしてみよう。

1.準備不足の立候補

 「究極の後出しジャンケン」と小池候補から言われたように、ギリギリになっての立候補宣言はプラスではなくマイナスに働いた。
 マイナスの最大要因は準備不足で、そのことが選挙戦を通じて最後まで響いたようだ。
 「準備のない戦いはしない」というのは戦いの基本である。仮に立候補の意志を固めていても、周囲にそのことを覚られず密かに準備をし、立ち上がったら一気呵成に攻めるのが戦いの極意と孫子は説いている。
 そういう観点ではギリギリの立候補宣言は奇襲にも似て、相手陣営に打撃を与えるに充分なものだが、それも準備あってのことだ。
 ところが鳥越氏の場合、その後の会見を見聞きしても、以前から準備していたとはとても思えず、なんの準備、志しもなく突然立候補を「思い立った」ようにしか見えない。実際、本人も参院選の結果を見て、このままではいけないと立候補を決意したと言っていた。
 問題は彼の危機感に都民が共感できるかどうかであり、それは立候補に至る動機を都民が理解・納得し、共感できるどうかだ。残念ながら鳥越氏の動機を共有できる都民はそれほど多くはなかったようだ。

2.都政と国政を混同した動機

 最も重要なのは立候補の動機だが、鳥越氏の場合「安倍政治にノー」という反アベ。たしかに現在の政治情勢に対し危機感を抱く人は少なくない。ひたすら戦争への道を突き進んでいるという見方はあながち間違いではない。大きな変化は常に小さな変化から起こるし、それを見過ごすか、そこで警鐘を鳴らすかは国の将来を左右する重大な問題である。
 としても、それは国政の問題である。もちろん都政も無関係ではないというのもよく分かる。ただ、その危機感を都民が共有してくれるかとなるとかなり疑問だ。
 多くの都民はもう少し目先の、都政をどうするかを語って欲しいと思っている。ところが、その点が鳥越氏には欠落している。選挙戦の後半、追い込みになってやっと都政の具体論を語り始めたが、すでに時遅しだ。
 もし彼が都知事選でなく、先の参院選に現在のスローガンを掲げ立候補していたならほぼ間違いなく当選していただろうが、都知事選という地方行政のリーダーを選ぶ選挙ではあまりにも抽象的に聞こえる。
 抽象的に聞こえるということは政策の中身がない、具体的な政策を考えていないということであり、それは弱点になる。

3.選挙戦術のミス

 鳥越氏は事前準備なく選挙戦に入ったから、本来なら選挙戦前にやるべきことを選挙戦突入後も続け、そのことで他候補と違った戦い方、鳥越氏の個性を際立たせようとしたが時間がない中での戦い方としては他の戦術的戦いの方を優先すべきだったと思われる。
 個別施設訪問を優先し、街頭立会演説が他候補より極端に少なかったのは知名度アップと、具体的な政策の中身を聞きたいと思っていた有権者の期待に充分応えられたとは言い難いだろう。

4.真剣さで他候補に負けていた

 上記選挙戦術のミスと関係し、鳥越氏の演説、動きをTVで観ても、他候補、とりわけ小池氏、益田氏に比べ真剣さに欠ける嫌いがあった。野党連合という組織戦の力を過大評価したのかどうか分からないが、浮動票は案外候補者の熱意、真剣さで動くものでもある。
 とにかく熱意・真剣さでは他の2候補に圧倒的な差を付けられたのは間違いない。

5.知名度を優先した野党共闘のミス

 野党共闘ができたのは選挙戦ではプラス要因だったが、民進党の一致団結、真剣さが欠けているように映ったのはマイナス面だ。
 短期決戦ということから知名度優先で候補者選びをしたのだろうが、その過程でも二転三転フラフラしている印象を都民に与えた。
 また都民が今回の都知事選で求めた新リーダーに対する期待を読み間違えたようだ。いままでのように知名度が高い人より、しっかりと都政を担ってくれる人を今回は選びたいと考えていたにもかかわらず、知名度にこだわったのは野党の失敗だ。
 具体的な政策、真面目そうな人柄という点では宇都宮健児氏を野党連合候補として応援した方がよほどよかったのではと思うが、後の祭りか。

 さて、接戦と伝えられ、開票も行われず、結果も明らかになってない中で、結果予想をし、敗因分析を勝手にしてみたが、結果はどうなっているだろうか。大外れか、それとも予想通りに鳥越氏敗北で終わったか--。
         (この原稿は31日10:30メルマガで配信したもの。ブログへのアップは投票が締め切られた直後にした)








社会の内向き化がもたらす危険性(2)~想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

2016-07-30 14:53:01 | 視点
内界の拡大による境界の消滅

 社会の内向き化は最初は内のもの・ことを外に持ち出すことから始まった。
つまり内の外への拡大であり、どこでも自分がいる場所・空間を内と認識する内界の外在化である。
そしてそれは内と外との境界の消滅を意味し、このことが我々が住んでいる社会のみならず世界に大きな変化をもたらしつつあることは注意を要するし危険でもある。
しかし、それにどれほど多くの人が気付いているだろうか。

 大きな変化は常に小さな変化、取るに足らないような変化として最初現れる--。
社会の内向き化も最初は自分の好きなことを外に持ち出す、屋内でしていたことを屋外でもするというような現象として現れた。
例えばウォークマンで歩きながら音楽を聞いたり、携帯電話でどこでも大声で電話したり、自家用車内で化粧をする等の行為として。
 こうした行為に違和感を感じていたのは大人達(古い世代の人達と言い換えてもいい)だが、次第に彼ら自身も波に呑まれていき、内の世界を外に拡大していき、車内で化粧をする程度のことにはほとんど違和感がなくなりつつあり、なんの臆面もなく行い出している。
さすがにまだ公共交通機関内でそういうことをする大人は数少ないが、近い将来それもなくなるかもしれない。

かくして内界の拡大はどんどん進み、内と外との境界が消滅しつつある。
あらゆるものは一度消滅しかけると加速度的に進んでいくが、境界も例外ではない。
例えば壁が壊れたことで、善きにつけ悪しきにつけ、それまでの社会の秩序、道徳といったものまでもが一緒に壊れていくように、音を立てて、いや音もなく境界が消えていき、内界の外在化が加速度的に進んでいる。
そう、それはあらゆるものを呑み込み、さらに拡大しているのだ。
 このことは他者と自者(己)の区別をも消滅していき、他を自の境界内部に取り込んでいくことで、自つまり内の境界が外に拡大している。

 内と外の境界の消滅は内界の外在化だが、あらゆるベクトルは逆に内に向かう。
内界の拡大だからベクトルは外に向かっていると考えるかもしれないが、その逆だ。
本来、外にあるものを内に取り込むことで、内側が膨れ、自然に拡大しているわけで、積極的に外界を侵略しているわけではない。
 例えばいつも自分がいる空間、マイスペースを外に持ち出しているだけで、そこが車内だったり、バスや電車だったりするだけだから、それを外とする認識がない。
外界ではなくマイスペースとの認識だから、車内やバス、電車の中で化粧をするのは自分の部屋で化粧をしているのと同じであり、そこには何ら違和感がない(と彼らは感じている)。
かくして内はどんどん広がっている。

想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

 内界の拡大は我が儘と不寛容の拡大を生む。
人はマイスペース内では我が儘を通すことができる。
例えば食事をしてもしなくても、何を食べようと、何時に寝ようと自分の意のままだ。
 インターネットに接続しさえすれば、自室に籠っていても外界の情報は入手できるし、ピザでも丼ものでも食べられる。
生身の異性と付き合うのは金も時間もかかるし、会話するために相手と話を合わせなければならないが、ネットの中の世界には幼顔で体だけはグラマラスな女性(少女と言ってもいいような)がビキニ姿やミニスカート姿で微笑みかけてくるし、ヌードやSex写真は溢れ、果ては人妻の浮気話、不倫話がこれでもかというほど載っている。

 早い話、ネットの中の社会はなんでもあり状態で、日常的にそうした社会に接していれば、それが現実、女性とはそうしたものだ、と思い込んでくるだろう。
ましてや生身の異性と交際した経験が少なければ。
かくして歪な女性観を持つことになる。

 彼らにとってはネットの中の社会こそが「ホンモノ」で、現実世界は「リアル」という「仮装」社会である。
ここではバーチャルとリアリティの逆転現象が起きていると同時に、「現実」世界と「仮装」世界という構図が出来上がっている。
 つまり彼らは「現実(実際はバーチャル)」世界の住人であり、この世では仮装して生きているという意識構造の中にある。
 これは現実と仮想現実の逆転認識というより、境界の消滅からくる「現実」認識である。
2つの世界の境界が消滅したことによる不連続の連続認識と言ってもいいだろう。

 犯罪を考えることと、それを実行することとの間には大きな壁がある。
一度や二度ぐらい、伴侶や親の首を絞めたいと思った人はいるに違いない。
だが、そう思うことと、実際の行動に移すこととの間には大きな壁があり、ほとんどの人はそれを行動に移すことはない。
そこに抑止力が働くからだ。

 では、何が抑止力となるのか。
想像力である。
その行為を行った後のこと、後に起きる様々なことを想像することで人は思いとどまれるのである。
私にしても、怒りに任せて相手を殴ってやろうかと考えたことは一度や二度ならずある。
そんな時、決まって頭に浮かぶのは翌日の新聞紙面だ。
こんなこと(ちょっとした暴力沙汰とかセクハラ)で新聞に名前が載るのは嫌だ、と思う。
だから思いとどまる。
しかし、想像力が欠如していると、この抑止力が働かない。

 最近、両親、家族を惨殺する犯罪が目に付くが、両親がいなくなれば嫌な小言を言われたり怒られたりしなくて済むから、せいせいする、これで嫌なことがなくなったと感じるのかもしれないが、その後に待っていることを想像すれば冷静にならざるをえないだろう。
 家族がいなくなれば、その後の長い人生を自分一人で過ごさなければならなくなる。
その時、生活(費)はどうするのか、どこに住むのか、周りからどんな視線を注がれるのか、今後一人で本当に生きていけるのか・・・。
ちょっと思いを巡らすだけで抑止力になるはず。

 想像力は人間が持っている素晴らしい能力の一つで、ほかの生物と異なる点である。
想像力を駆使することで我々人間は数々の技術、製品を生み出してもきた。
それなのにいつから想像力をなくし始めたのだろうか。

 想像力の欠如と社会のデジタ化は無関係ではない。
コンピューターの普及が情報の汎用化を進め、携帯端末の普及で消滅スピードは加速度的に増していった。
いまや想像とか思考は検索という言葉に変わり、人々は考えるより手っ取り早く検索するようになっている。
掌の中にある小さなツールが万能の神であり、「これさえあれば、なにもいらない」だ。


 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
  http://archives.mag2.com/0000138716/20160724230919000.html


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社会の内向き化がもたらす危険性(1)

2016-07-29 23:49:35 | 視点
 社会が内向きになりだした--。
そう感じ出したのはもう随分前、40年も前のことだ。
その当時は内向き社会がもたらす危険性をまだ十分に認識していなかった。
ただ、なんとなく社会や他者への関心が薄らぎ、自分の手が届く範囲のことが最大関心事になってきているようだという認識程度しかなかった。
 その後、内向き化現象は加速度的に進み、いま、人々の関心は自分自身と、掌の中の世界にしかないように見える。
この先に待ち受けているのは一体何なのか。
我々はどこへ行こうとしているのか--。

「反体制」から「マイン」に

 40年前にはスマホはもちろん携帯電話も温水洗浄便座も、ウォークマンもなかった。
車は「ケンとメリーのスカイライン」の時代だ。
当時、生まれた子供はいま40歳。
本来なら不惑の年齢だが、いまは8掛けか7掛け(精神年齢的には7掛けだろう)年齢としても身を立てる年齢である。
 ところが現実はどうだ。
50歳でも不惑どころか迷いの真っ最中。
70歳でも80歳前でも枯れるどころか元気一杯。
それはいいことだが、「生き仏」と言われながらセクハラで訴えられるようでは呆れ果てる。
週刊誌が「死ぬまでSex」という特集を組むくらいだから、近頃使うのは頭ではなく下半身ばかりのようだ。

 それはさておき、社会が内向きになってきたと初めて感じたのは井上陽水と荒井由実の歌だった。
「世は歌につれ、歌は世につれ」と言われるように、歌は当時の世相を色濃く反映している。
だから両者の思考が、というより時代が内向きになりだしたことを敏感に感じ取った彼らが、それを歌詞にしたわけで、彼らの感性の鋭さには敬服するばかりである。
 それにしても荒井由実氏の一連の歌詞には大いに驚いた。
なかでも「ルージュの伝言」の「ママに叱ってもらうわ」という下りには仰け反った。
「おいおい、結婚した、いい大人がママに叱ってもらうだって。自分で直接、旦那に言えばいいだろう」と思ったものだ。
いまでもこの歌を聞く度にそう思う。
よくもまあ、こんな歌を歌えたものだ。
松任谷由実氏はいまでもこの歌を歌えるのだろうか、それとも荒井由実だから歌えたのだろうか、と。

 同じような変化はファッションの世界でも起きていた。
ファッションの主題が「マイン」になっていった。
「マイン」つまり「自分」である。
それまで(60年代後半70年代)のファッションは「反体制、反秩序」だった。
既成の秩序に対する「アンチテーゼ」として主張していたのだ。
 だが「マイン」には「アンチ」がない。
牙が抜かれたというか、自ら牙を抜いたというか、既成秩序に対し賛成でも反発でもなく「そっぽを向き」、ひたすら関心を自分自身に向け始めたのである。
それはとりもなおさず社会に対する無関心を意味した。
「あっしには関わりのねぇことでござんす」とニヒルに呟く木枯し紋次郎が流行ったのもほぼ同時代ではなかったか。
 それから少ししてウォークマンが流行り、若者は外界への交通を遮断し、ひたすら自分の世界に閉じこもるようになった。

 外界と関わることはたしかに煩わしさを伴う。
一方、その煩わしと関わることで人との接し方を学んでいく。
エチケットやマナー、言葉遣いを覚え、忍耐や妥協、協力関係を身に着けることで人として成長していくのだ。
 ところが、外界との接触を煩わしさととらえ、内に籠もるから歳だけは取っても内面は子供のまま。早い話が幼稚化である。
 こういう大人が増えているからやりにくくて仕方がない。
ちょっと注意すれば、すぐ不貞腐れ、やる気をなくしたと反抗する。
挙句の果てには「褒められて伸びるタイプですから」などとほざく。
 私などは学生の頃から反発心でやってきた方だから、逆に褒められるとそこで慢心してしまうから逆効果だった。
比較的早い時期に組織人を辞めたからよかったが、そうでなければパワハラで訴えられるか、こちらの方がストレスで病気になっていたかもしれない。

 実は10年近く前まで、「時代」には修正作用があると考えていた。
しかし、そうした考えは、あまりにも楽観的過ぎたと、ここ数年、考えを改めだした。
「時代」の修正作用が一向に働かないどころか、「時代」は傍観者の役目を決め込んでいるようにさえ見える。
まるで、この社会はどこまで行くのか見極めてやろうと思っているかのように。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(4)

2016-07-26 12:15:00 | 視点
生え抜きを指名、トップに抜擢した例

 少し古い話で恐縮だが、いまから20年程前に九州の某地方銀行で行われた人事の話を。
 当時、地方銀行の頭取は大蔵省からの天下りポストというのが当たり前だった。金融の自由化が進み、それまでの護送船団方式で金融業界が保護されることは表向きなくなっていたが、横並び意識はいまでも日本企業から抜け切ることがないように、他と違うことをやるのはかなりのリスクを伴う。
 ところが、その地銀トップは自らの出身母体、大蔵省から次期頭取を招きことを拒否し、自らが頭取に就任した直後から「次は生え抜きから」と公言していた。もちろん、就任時にそう表明する人はいる。しかし、バトンタッチが現実のものになってくると、そんな言葉はサラリと忘れ、大蔵省人事に従うのが常だ。早い話が保身だ。天下り人事を受け入れることで、自分の大蔵省外郭団体への再天下りも保証される。
 つまり次期頭取を生え抜きから選ぶということは、ある部分で自分の退路を断つことを意味するだけでなく、地方銀行にとっても大蔵省の保護を得られないというリスクを伴う。

 誰だってリスクは冒したくない。だが、部下に夢も見せたい。幻想かもしれないと思っていても、「もしかすると」という夢を。鳩山元首相だって最初から騙そうと思っていたわけではないだろう。純粋にそうしたいと思っていたはずだ。だが、彼にはそこまでの信念と行動力がなかった。結果、沖縄県人を騙したことになり、彼らの激しい落胆と反感を買う羽目になってしまった。
 これが企業なら社員は見限って辞めるだけだ。しかし、彼らは日本人であることを捨てる選択をすることはできなかった。少なくともいままでは。しかしスコットランドがイギリスからの独立を現実的な選択肢として考えるだけでなく行動する時代である。沖縄の人達が琉球人に戻る行動を起こすことは非現実的なことではないだろう。

 さて、銀行頭取の話である。私は当時の頭取T氏が頭取職を生え抜き行員に譲り、自らは会長になった後、数回取材したことがある。
 その時の取材内容は直接、銀行に関係することではなくT氏が兼ねている他の公職に関することだったが、ついでに後任頭取人事のことも尋ねた。実はメーンテーマ以外のことをさりげなく雑談的に尋ねるというのは結構本音が聞かれるものなのだ。メーンテーマと外れるから相手の警戒心も緩むのだろう。

 聞きたかったのは自らの出身母体の大蔵省OBではなく、なぜ生え抜きから現頭取を選んだのかという点だった。
 答えは簡単明瞭だった。「彼が優秀だったからですよ」。いやいや、そう言われても、いざその段になるとやはり大蔵省出身者を迎える銀行がほとんどだし、第一、優秀だという判断の根拠はと、さらに尋ねる。
 T会長曰く。優秀な男だったので、さらに確かめるべく、いろんな部署を経験させてみた。すると、どの部署でもきちんと結果を出してきた。別に何が何でも次は生え抜きと決めていたわけではない。たまたま行内に優秀な人材がいたからで、そうでなければ生き残るためには大蔵省にお願いしてでも優秀な人材を派遣してもらっていた。

 もう1点どうしても聞きたかったのは実権のことだった。というのも当時、都市銀行では頭取より会長の方が実権を握っている例があったからだ。
 それに対しては「それは相談を受けることはありますよ。だが、会長就任とともに銀行のことには基本的にノータッチ」とのこと。とはいえ、それは表向きということはよくある。しかし、T氏の肩書は「会長」で代表取締役の文字はなかったし、ご本人も「代表権は返上しています」。

 もう一度まとめてみよう。
1.まず自らが頭取就任間もなく「次期頭取は生え抜きから」と行員に公言
  行員に希望とやる気が芽生える
2.後継者を育成するため、後継者候補に幾つもの部署を経験させている
3.早期にバトンタッチ
4.会長就任とともに代表権は放棄

 ポイントは後継者の育成をするかどうか、という点だろう。そのプロセスがなく、直系だから、成果を上げたからという点だけで後継者に任命すると、3代目が会社を潰したり、庇を貸して母屋を取られたりということになりかねないので、くれぐれもご用心を。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(3)

2016-07-26 09:59:14 | 視点
トップに居座り続ける都合のいい理由

 もう1つは福岡市のシステム会社。地元放送局と電機メーカーの共同出資で設立された会社で、トップは放送局からの天下り。同社のT氏は転職組だが、ほとんどプロパー社員と変わらなかった。私が同氏を知った時は専務取締役だったが、それから間もなく代表取締役専務になり、さらに代表取締役社長へと登り詰めた。
 能力があり人当たりもよく人望もあったので社長になるのは当然と思っていたが、本人もその気満々なのは専務時代に「早く代表権を寄こせと言っているんですよ」と半ば冗談めいて言っていたことからも分かる。
 私自身も彼は早く代表権を持つべきだと思っていたし、多少そうけしかけもしていたが、程なく希望通りに代表取締役専務になった。代表権を握り裁量権も大きくなったのだろう、それから同社の業績は拡大していった。やがて代表取締役社長に就任。親会社の天下りポストは代表取締役社長から代表取締役会長に替わった。

 同氏が代表権を持つようになって19年がたった頃、会社設立40周年記念パーティーの案内に呼ばれた。即座に考えたのは40周年を花道に引退するのだろうということだ。
 たしかにT氏の功績は大きいが代表権を握って19年。オーナー経営者でもないサラリーマン社長にしては長すぎる。ここらが引き際。次にバトンタッチすべき時期だろう。
 「権不10年」ではないが、どんなに優れた経営者でもトップの座に20年近くもいれば、裸の王様状態で周りはイエスマンだらけになる。おまけに功績大となれば、社内外から聞こえてくるのは賛美の声だけ。かくして「カリスマ」「名経営者」と呼ばれる人達が道を踏み外していく。そうなる前に後進に道を譲るべきだと思うが、悲しいかな足るを知る人間は少なく、もっと、もっとと欲が出る。

 T氏の場合も例外ではなく、辞めることなどサラサラ考えてないようで、まだまだやる気十分。そんな彼にちょっと辛口を叩いてみた。
「Tさんの後継者は決まっているんですか」
「決まってますよ」
「誰ですか」
「紹介しましょうか。Iですよ」
「えっ、Iさん。Iさんなら知っていますよ。以前、次は彼だと言われていたI部長でしょ」
「ええ、そうです。いまは常務ですけどね」
「彼はいくつですか。もう50は過ぎてますよね。50半ば。そうですか。では、もうバトンタッチですね。今日はその発表もあるのかと思ってましたけど」
「いやあ、取引先がまだお前がやれって言うもんですから」
「でも、代表権を握ってもう19年はたつでしょ。ご自分が代表取締役になったのは40代なんだから」
「私に辞めろというんですか」
 そう言うと近くに居た人を引っ張ってきて、私に押し付けながら
「この人は私に辞めろ辞めろと言うんですよ」と笑いながら、その場を離れて行った。

 いや、私は「辞めろ」と言っているわけではない。優秀な経営者だと認めているし、早くから次の後継者候補も決めていたようだから、後継者の年齢を考えても、もうバトンタッチする時期ではないかと考えただけだ。このままトップの座に居座り続けると自身が以前言っていたこととの整合性も取れなくなるし。

 結局、T氏はその後も辞めることなく代表取締役会長まで務めて引退したようだが、会長就任も引退挨拶も彼から来ることはなかった。
 後日談だが「いま辞めたら親会社から天下りで会長が来る。それは阻止しなければならない」と言っていたから、会長までトップとして君臨するのは本人にしてみれば既定路線だったのだろう。

 人は変わるものである。いい方にも悪い方にも。願わくばいい方に変わりたいと思うが、自分では真っ直ぐ進んでいるつもりでも少しずつ歪んでいくというのはままある。
 「君子は豹変し、小人は面(おもて)を革(あらた)む」。先代存命中は言葉巧みに近づき、表面だけは従う態度をとっているが、先代が亡くなり息子が跡を継いだ途端、本性を表し庇と母屋を取り替える者がいないとも限らない。後継者を見る目を養うのは難しいとつくづく感じる。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(2)

2016-07-24 12:19:50 | 視点
後継者選びの難しさ

 とはいえバトンタッチは、組織が小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに問題があり、本当に難しい。
いま中小企業が抱えている真剣な問題は後継者不足だろうが、仮に後継者候補がいても選び方を間違えて失敗というパターンも多い。
今回のソフトバンクの問題はその一例といえる。

 後継者の選び方は大別すると次の3つになる。
1.社内の優秀な人材の中から選ぶ
2.直系を据える
3.ヘッドハンティングで外部から人材を招聘する

 望ましいのは「1.社内の優秀な人材から選ぶ」だろう。
これが公平感もあり、社内の不満も比較的少ない。
ここで敢えて「比較的」としたのは全くの公平感というのは難しい(ありえないと言ってもいいか)からだ。
「なぜ、あいつの方が俺より優秀なのだ」という不公平感を持つ人間は必ずいる。
それでも大多数の社員が認める人事に近いものを行うことはできるだろう。

 中小企業に最も多いのが息子などの直系を後継者にするパターンだ。
娘しかいない場合、娘婿を社長に据えるケースもあるが、それは孫に譲るまでのショートリリーフで、なぜか直系にこだわる。
 中小企業といっても経営実態は個人商店の延長といったところが多く、社員の方も「どうせ息子が跡を継ぐんだから」と端から諦めている。
それ故、後継者が多少能力不足、実力不足でも社内がそれで揉めることはない。
 ただ、そんな後継者人事が決まった時、能力も実力もある社員は会社の将来を見限り去るだけだ。
それを「新体制」と喜んでいるようでは先が知れている。
ある程度の規模の企業なら、いずれどこかに吸収合併されるか、会社を乗っ取られるか、それとも待っているのは破産か。
「3代目が潰す」というのはいまでも真実だ。

 3の社外から後継者人材をヘッドハンティング

(中 略)

 アローラ氏の退社は、こうした社内のギクシャクした関係を解消する意図もあったのかもしれない。
まあ、その辺のところは分からないが、結局、宮内氏が再び代表取締役副社長に復帰。
ソフトバンクグループの後継者選びは再び振り出しに戻ったのだけは間違いない。
 これでは「後5年、10年、社長を続けて行く」と言わざるを得ないのかも。
というのも宮内氏の年齢は1949年11月生まれの66歳。
後継者になるには年齢が行き過ぎている。

老害だろう、代表取締役相談役

 直系を後継者に据えても、外部から引っ張ってきてもそれぞれに問題があり、どれもこれも最善とは言い難い。
とはいえ3つの中では1の社内の優秀な人材の中から選ぶというのがベターだろう。
資本と経営が分離されている方が社内に優秀な人材が集まりやすいのは事実だから。
 しかし、中には代表権を握った途端になんでもできると勘違いをして、いつまでもトップの座に居座り続ける者も出てくるからよけいに難しい。
いや、どこぞのコンビニエンスストアの会長だった人のことを言っているのではない。
それは大企業だけの話ではなく、中小企業でも、地方自治体の首長でも起こる話だ。

 「権不10年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で熊本県知事を退任した細川護熙氏は、途中で県政を投げ出した等の批判もあったが、トップの座に居座り続ける首長ばかりが多い昨今、この潔さを見習って欲しい

 それはさておき、以下に2つの例を紹介する。
 1つは「うどん県」に倣って、温泉をテーマに「○○県」と称し、ユニークな自治体CMを流している九州の某県。そこのデパート

(以下 略)



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(1)

2016-07-23 10:22:41 | 視点
 中小企業で後継者不足から廃業する企業が増えているというニュースが昨今、メディアを賑わせているが、それ以上に問題なのは後継者の選び方ではないだろうか。むしろ、後継者選びに失敗した結果、事業継承に失敗したと言えるのではないか。
 先代がいつまでも現役で居続けることからくる弊害、バカ息子を後継者に据えたが故の失敗、外部(から招いた)人材に会社を乗っ取られた(牛耳られた)等々。中でも最悪なのは資本と経営の分離を口実に、気が付いたら会社を乗っ取られていたというケースだ。実は最近このケースで揉める例が増えているだけに要注意だ。

ソフトバンク、お前もか

 6月21日、ソフトバンクグループが代表取締役副社長ニケシュ・アローラ氏の退任を突然発表した。表向きの理由は、60歳で後継者にバトンタッチするつもりだった孫正義氏が、60歳を目前にした途端「急に寂しくなった」、「もう少しやっていたいという欲望が出た」から、今後も5年、10年、社長を続けていくと言う。そこで話し合いアローラ氏の退任が決まったというが、これを言葉通りに信ずる者はいないだろう。

 創業者のわがままを演出し、アローラ氏もそれを受け入れての円満退社と両者でアピールしていたが、アローラ氏の退社が株主総会の前日だったこと、それも唐突に決まったこと、さらにその前に投資家グループによりアローラ氏の副社長としての資質に問題があるとの書簡が寄せられていたことなどから、なんらかのマズイ問題があったのは想像に難くない。
 アローラ氏もここで揉めるよりはすんなり退社した方が得策と踏んだのだろう。なんといってもビックリするほどの報酬を得ていたのだから。かくして両者は互いを認め、褒めたたえ合いながら分かれるという「大人の対応」をしたというところだ。

 まあ、ソフトバンク内部の問題は別にして、この1年近くの間にカリスマ経営者とその周辺で同様というか、内部権力闘争とでもいうべき問題がいくつも繰り広げられたのは記憶に新しい。
 ひと言で言えばバトンタッチの難しさということに尽きるが、その一方で「老害」問題も見え隠れする。
 いくら長寿社会とはいえ80歳前後でまだ代表権を持つのは異常だろう。そういう人に限って自ら恥じることがない。その歳まで後継者を育てられなかったことをこそ恥じるべきだと思うが、その部分はすっぽり抜け落ちて、権力を手放さないことのみ考えている。孫氏もマイクロソフトのビル・ゲイツ氏を見習ったらどうだと思うが、それはなかったようだ。

 思わず失笑したのは株主総会で社外取締役の2人が揃っていつまでも孫氏に社長を続けるようにと発言したことだ。「孫社長はまだ60にもなっていない。なのに引退? 冗談じゃないぞ」(ファーストリテイリング・柳井正氏)だって。
 そういえば柳井氏も自身が進めた多角化が失敗し、業績が悪化した時期に社長職を譲り、自らは会長職に就いた。といっても責任を取って社長を譲ったわけではなく、「逃げた」というイメージを持ったのは私一人だけだろうか。だが「普通の会社」になるのが我慢できず、結局、社長に復帰して代表取締役会長兼社長だ。

 自らの失敗の責任は取らないが、他人のわずかなミスも許せないのがワンマン経営者の常。どこぞの都知事と似ているが、それを地で行くワンマン創業者だけに「孫さんみたいな人はいない。だから次の後継者は、孫さんのような方ではなくて、事務経営をされる方にしなさい」とアドバイスしたと言う。
 「事務経営をされる方」とはどういうことを意味しているのだろうか。路線は全部自分が敷いておくから、後継者はその路線通りに進むだけでいいということなのか。とすれば、それが可能なのは自身がまだ元気な間で、それでは真の意味で企業の後継者ではないだろう。
 まあ、それはともかく古今東西、「帝国」と呼ばれる組織は必ず没落しているし、「カリスマ」と呼ばれたトップも例外なく最後は身を亡ぼしている。「帝国」だ「カリスマ」だと言われて喜んでいると「ブルータス、お前もか」と叫ぶはめになる。そうなる前に後継者にバトンタッチしておくべきだろう。その前に後継者足り得る人材を育てておかなければならないが。






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食虫花? いや、黄色い睡蓮の花

2016-07-15 15:35:04 | 視点


 近寄る虫を大きな口を開けてパクリと食べてしまいそうに見えるこの花は

食虫花、ではなく睡蓮の花。

水面に浮かんだきれいな睡蓮の花も真上から見るとちょっと不気味。

極楽浄土というより地獄に咲く花に見えるから不思議だ。

きれいなものには棘がある。

上辺のきれいさ、耳あたりのよい言葉に騙されるな、ということか。

 さて、今度の東京都知事は誰に決まるのだろうか。

個人的には告示日前日に立候補を取り下げた宇都宮さんのような人にこそ

都知事になってもらいたいと思ったが。

私利私欲がなく大局観があり、顔つきは穏やかだし、政策だって鳥越氏よりは

内容的にもよほどしっかりしている。

鳥越氏は急に立候補を思い立ったというだけに政策の具体的な中身に欠ける嫌いがある。