ついにここまで来たかーーという思いを強くした。
「正々堂々」「爽やか」という言葉はスポーツ、なかでもアマチュアスポーツ界を象徴する言葉だった。
しかし、今それらは死語となり、過去の歴史の中に葬り去られてしまったようだ。
関西学院大学と日本大学アメリカンフットボール部の試合がそのことを如実に物語っている。
勝てば官軍、勝つためには手段を選ばず、という考えがアマスポーツの世界にも広がりを見せているということだ。
しかも指導者たる監督やコーチが「相手を潰してこい」と指示したというから驚く。
さらに驚くのは反則プレーした日大選手が主体的に記者会見をして謝罪までしているというのに、
日大と同大アメフト部の監督等が記者会見をしたのが同選手の謝罪会見に遅れたること1日の5月23日。
この問題に関して関学大が会見を開いた12日から数えると10日以上遅れてやっと正式会見を
開いたわけで、対応の遅さにも驚くが、さらに驚いたのは会見内容。
口では「全て監督たる私の責任」と言いながら、「潰してこい」とは言ったが、
それは「ケガをさせろ」という意味で言ったわけではない。
受け取り方との間に「乖離があった」と言い、ある意味自分達に非はないと開き直ったことだ。
さらに酷かったのが同日の会見司会者。
日大広報部職員らしいが、この種の会見では前代未聞の態度だった。
そういうところにも、この問題を引き起こした背景が見て取れる、と多くの人が感じたに違いない。
問題がここまで大きくなると日大アメフト部の内田前監督は日大理事の職も辞めざるをえないだろうが、
先の会見でも自ら辞任と言わないところがなんとも。
今の時代、文字や言葉より映像。
語っても語らなくても言葉のトーンや間、表情を映し出し全てを伝えてしまう。
このところスポーツ関係が話題(悪い方で)になる事態が続いているが、
アマチュアレスリングのパワハラ問題での大学理事長の会見も酷かった。
どうも大学というところは知識も常識も教えるところではなくなったらしい。
柔道、相撲、レスリング、アメフト、いずれの場合も社会と隔絶された閉鎖的で、上下関係の厳しい社会。
一般常識とは無縁の別社会を、ある部分、特徴としてきたところもある。
しかし、その社会に変化が起き始めたのはやはりデジタル情報社会の影響が考えられるだろう。
「ベルリンの壁」も「竹のカーテン」も「北の空」も空を飛ぶ交う情報が穴を開け、崩れていった。
そして今、スポーツの閉鎖社会がSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使った
デジタル情報で風穴を開けられ、壁の中の「内部情報」が一気に外の世界と繋がったが、
そのことを理解できないのが旧世代の連中。
彼らはいまだに上からの指示(命令)で押さえ込めると思っていたようだ。
それが関学大の抗議会見から10日後の、謝罪にならない会見で、より多くの人の怒りを買ってしまったようだ。
それにしてもなぜ、スポーツマンシップと程遠いことがアマチュアスポーツの世界で行われたのか。
実のところ、こうしたことが起きる予感は以前からあった。
「参加することに意義がある」と言われたオリンピックでさえ「参加」より
「賛歌(結果)」を求められて久しい。
しかも、賛歌は国家のメダルの数に置き換えられている。
要は今の世界、「結果が全て」、結果を出すことが求められている。
そのことは横綱、稀勢の里への評価の変わり様を見ても分かる。
左胸と左上腕に大怪我を負い、とても相撲など取れる状態ではないのもかかわらず千秋楽に出場し、
本割、決定戦と連覇し優勝した時は奇跡と称賛し日本国中が稀勢の里を讃え、稀勢の里フィーバーに湧いた。
だが、その怪我が原因で休場が続くと今度は態度を一転させて「引退を」とすら言い出す。
そこにあるのは「結果が全て」という考え方であり、相撲界内部のみならず観客の側もその考えに支配されている。
「勝てば官軍」意識は明治以降の日本人に特徴的に見られた精神といえる。
過程(プロセス)を問う声は「結果オーライ」の声に掻き消され、ほとんど聞こえない、唱えない。
それが顕著なのが相撲で言えば白鳳の相撲だ。
横綱が下位力士との取り組みで張り手や猫だましを使う。
もちろん禁じ手ではないから誰が使っても問題はない。
それをいいことにしたかどうか、白鳳は一向にこうした手を改めるどころかエスカレートさせ、
平手ではなく拳打ちや肘打ちと紙一重の手まで繰り出していた。
さすがにそれは行き過ぎと苦言を呈する声が大きくなりだしたのが日本人横綱誕生、
貴乃花「改革」等で白鳳人気への依存から脱却できそうな機運が生じてからだ。
つまるところ白鳳1強で白鳳人気に頼らざるを得ない時は「不正」にも目を瞑り、
代わりが見つかり出すと途端に叩きだすというなんとも潔くないやり方が、
どうもこの国を支配しているようだ。
「結果が全て」という考えがスポーツ界を覆っている例は他にもある。
カヌー日本代表選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入し、出場停止に追いやった事件がその典型だろう。
ついにここまで来たかという感じだが、これも「結果が全て」という風潮が
広く社会一般に広がっていたからといえる。
要は個々の問題ではない。
産業界、経済界、金融業界等々、この国のあらゆる分野がこの考えに汚染されている。
いや、この国だけではないだろう。資本主義先進国も、成長著しい国も、結果を追い求める
強欲資本主義に汚染され、金を儲けることがいいことだという考えに捕らわれているのだ。
金を儲ける→手段を選ばない→多少の不正、誤魔化しを行ってでも結果を出さなければならない
→不正、誤魔化しが常態化する
こうした思考の循環に対し誰も問題を指摘しない。
あるいは指摘した人間は組織から弾き飛ばされるか閑職に追いやられてしまう。
そういう現実を目にしているから下の人間は「ヒラメ族」になり、
ひたすら上のご機嫌を見ながら仕事をしていくようになり、異議申し立てをしなくなっていく。
例えば日大アメフト部の監督とコーチが会見を開いた時のコーチの様子がそんな感じだった。
今この国は転換点に差し掛かっているようだ。
過去の精神論・情緒論的なものからシステム的・科学的な考え方に基づく指導へ、
封建的な思考を残した古い体制から新しい体制への転換点に。
こうした転換はとっくの昔に終わっていると思われていたが、実のところ底流で
根深く残っていただけではなく、泡のように沼底からブクブクと湧きだしてきているようだ。
その典型は政治の世界だが。
一体この国は変わるのか、変えるのか。
資本主義はどこに向かっているのか。
「終わりの始まり」が始まっているとすれば、その先にあるのは何か--。
私見だが、一つは縮小均衡、コンパクト化を図ることだろう。
宇宙はビッグバン後、拡張を続けているが、その動きを停止するところもいくつか存在する、と言われている。
宇宙ですら無限に拡大し続けるものばかりではないようだ。
いわんや地球上の経済は無限に拡大し続けると考えるには無理がある。
拡大への動きを止める時期が来ているのではないか。
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「正々堂々」「爽やか」という言葉はスポーツ、なかでもアマチュアスポーツ界を象徴する言葉だった。
しかし、今それらは死語となり、過去の歴史の中に葬り去られてしまったようだ。
関西学院大学と日本大学アメリカンフットボール部の試合がそのことを如実に物語っている。
勝てば官軍、勝つためには手段を選ばず、という考えがアマスポーツの世界にも広がりを見せているということだ。
しかも指導者たる監督やコーチが「相手を潰してこい」と指示したというから驚く。
さらに驚くのは反則プレーした日大選手が主体的に記者会見をして謝罪までしているというのに、
日大と同大アメフト部の監督等が記者会見をしたのが同選手の謝罪会見に遅れたること1日の5月23日。
この問題に関して関学大が会見を開いた12日から数えると10日以上遅れてやっと正式会見を
開いたわけで、対応の遅さにも驚くが、さらに驚いたのは会見内容。
口では「全て監督たる私の責任」と言いながら、「潰してこい」とは言ったが、
それは「ケガをさせろ」という意味で言ったわけではない。
受け取り方との間に「乖離があった」と言い、ある意味自分達に非はないと開き直ったことだ。
さらに酷かったのが同日の会見司会者。
日大広報部職員らしいが、この種の会見では前代未聞の態度だった。
そういうところにも、この問題を引き起こした背景が見て取れる、と多くの人が感じたに違いない。
問題がここまで大きくなると日大アメフト部の内田前監督は日大理事の職も辞めざるをえないだろうが、
先の会見でも自ら辞任と言わないところがなんとも。
今の時代、文字や言葉より映像。
語っても語らなくても言葉のトーンや間、表情を映し出し全てを伝えてしまう。
このところスポーツ関係が話題(悪い方で)になる事態が続いているが、
アマチュアレスリングのパワハラ問題での大学理事長の会見も酷かった。
どうも大学というところは知識も常識も教えるところではなくなったらしい。
柔道、相撲、レスリング、アメフト、いずれの場合も社会と隔絶された閉鎖的で、上下関係の厳しい社会。
一般常識とは無縁の別社会を、ある部分、特徴としてきたところもある。
しかし、その社会に変化が起き始めたのはやはりデジタル情報社会の影響が考えられるだろう。
「ベルリンの壁」も「竹のカーテン」も「北の空」も空を飛ぶ交う情報が穴を開け、崩れていった。
そして今、スポーツの閉鎖社会がSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使った
デジタル情報で風穴を開けられ、壁の中の「内部情報」が一気に外の世界と繋がったが、
そのことを理解できないのが旧世代の連中。
彼らはいまだに上からの指示(命令)で押さえ込めると思っていたようだ。
それが関学大の抗議会見から10日後の、謝罪にならない会見で、より多くの人の怒りを買ってしまったようだ。
それにしてもなぜ、スポーツマンシップと程遠いことがアマチュアスポーツの世界で行われたのか。
実のところ、こうしたことが起きる予感は以前からあった。
「参加することに意義がある」と言われたオリンピックでさえ「参加」より
「賛歌(結果)」を求められて久しい。
しかも、賛歌は国家のメダルの数に置き換えられている。
要は今の世界、「結果が全て」、結果を出すことが求められている。
そのことは横綱、稀勢の里への評価の変わり様を見ても分かる。
左胸と左上腕に大怪我を負い、とても相撲など取れる状態ではないのもかかわらず千秋楽に出場し、
本割、決定戦と連覇し優勝した時は奇跡と称賛し日本国中が稀勢の里を讃え、稀勢の里フィーバーに湧いた。
だが、その怪我が原因で休場が続くと今度は態度を一転させて「引退を」とすら言い出す。
そこにあるのは「結果が全て」という考え方であり、相撲界内部のみならず観客の側もその考えに支配されている。
「勝てば官軍」意識は明治以降の日本人に特徴的に見られた精神といえる。
過程(プロセス)を問う声は「結果オーライ」の声に掻き消され、ほとんど聞こえない、唱えない。
それが顕著なのが相撲で言えば白鳳の相撲だ。
横綱が下位力士との取り組みで張り手や猫だましを使う。
もちろん禁じ手ではないから誰が使っても問題はない。
それをいいことにしたかどうか、白鳳は一向にこうした手を改めるどころかエスカレートさせ、
平手ではなく拳打ちや肘打ちと紙一重の手まで繰り出していた。
さすがにそれは行き過ぎと苦言を呈する声が大きくなりだしたのが日本人横綱誕生、
貴乃花「改革」等で白鳳人気への依存から脱却できそうな機運が生じてからだ。
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カヌー日本代表選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入し、出場停止に追いやった事件がその典型だろう。
ついにここまで来たかという感じだが、これも「結果が全て」という風潮が
広く社会一般に広がっていたからといえる。
要は個々の問題ではない。
産業界、経済界、金融業界等々、この国のあらゆる分野がこの考えに汚染されている。
いや、この国だけではないだろう。資本主義先進国も、成長著しい国も、結果を追い求める
強欲資本主義に汚染され、金を儲けることがいいことだという考えに捕らわれているのだ。
金を儲ける→手段を選ばない→多少の不正、誤魔化しを行ってでも結果を出さなければならない
→不正、誤魔化しが常態化する
こうした思考の循環に対し誰も問題を指摘しない。
あるいは指摘した人間は組織から弾き飛ばされるか閑職に追いやられてしまう。
そういう現実を目にしているから下の人間は「ヒラメ族」になり、
ひたすら上のご機嫌を見ながら仕事をしていくようになり、異議申し立てをしなくなっていく。
例えば日大アメフト部の監督とコーチが会見を開いた時のコーチの様子がそんな感じだった。
今この国は転換点に差し掛かっているようだ。
過去の精神論・情緒論的なものからシステム的・科学的な考え方に基づく指導へ、
封建的な思考を残した古い体制から新しい体制への転換点に。
こうした転換はとっくの昔に終わっていると思われていたが、実のところ底流で
根深く残っていただけではなく、泡のように沼底からブクブクと湧きだしてきているようだ。
その典型は政治の世界だが。
一体この国は変わるのか、変えるのか。
資本主義はどこに向かっているのか。
「終わりの始まり」が始まっているとすれば、その先にあるのは何か--。
私見だが、一つは縮小均衡、コンパクト化を図ることだろう。
宇宙はビッグバン後、拡張を続けているが、その動きを停止するところもいくつか存在する、と言われている。
宇宙ですら無限に拡大し続けるものばかりではないようだ。
いわんや地球上の経済は無限に拡大し続けると考えるには無理がある。
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