栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

崩壊するニッポン(5)~社会に蔓延している、「結果が全て」の風潮

2018-07-20 10:10:15 | 視点
 ついにここまで来たかーーという思いを強くした。
「正々堂々」「爽やか」という言葉はスポーツ、なかでもアマチュアスポーツ界を象徴する言葉だった。
しかし、今それらは死語となり、過去の歴史の中に葬り去られてしまったようだ。

 関西学院大学と日本大学アメリカンフットボール部の試合がそのことを如実に物語っている。
勝てば官軍、勝つためには手段を選ばず、という考えがアマスポーツの世界にも広がりを見せているということだ。
しかも指導者たる監督やコーチが「相手を潰してこい」と指示したというから驚く。

さらに驚くのは反則プレーした日大選手が主体的に記者会見をして謝罪までしているというのに、
日大と同大アメフト部の監督等が記者会見をしたのが同選手の謝罪会見に遅れたること1日の5月23日。

 この問題に関して関学大が会見を開いた12日から数えると10日以上遅れてやっと正式会見を
開いたわけで、対応の遅さにも驚くが、さらに驚いたのは会見内容。
口では「全て監督たる私の責任」と言いながら、「潰してこい」とは言ったが、
それは「ケガをさせろ」という意味で言ったわけではない。
受け取り方との間に「乖離があった」と言い、ある意味自分達に非はないと開き直ったことだ。

 さらに酷かったのが同日の会見司会者。
日大広報部職員らしいが、この種の会見では前代未聞の態度だった。
そういうところにも、この問題を引き起こした背景が見て取れる、と多くの人が感じたに違いない。

 問題がここまで大きくなると日大アメフト部の内田前監督は日大理事の職も辞めざるをえないだろうが、
先の会見でも自ら辞任と言わないところがなんとも。

 今の時代、文字や言葉より映像。
語っても語らなくても言葉のトーンや間、表情を映し出し全てを伝えてしまう。

 このところスポーツ関係が話題(悪い方で)になる事態が続いているが、
アマチュアレスリングのパワハラ問題での大学理事長の会見も酷かった。
どうも大学というところは知識も常識も教えるところではなくなったらしい。

 柔道、相撲、レスリング、アメフト、いずれの場合も社会と隔絶された閉鎖的で、上下関係の厳しい社会。
一般常識とは無縁の別社会を、ある部分、特徴としてきたところもある。

 しかし、その社会に変化が起き始めたのはやはりデジタル情報社会の影響が考えられるだろう。
「ベルリンの壁」も「竹のカーテン」も「北の空」も空を飛ぶ交う情報が穴を開け、崩れていった。

 そして今、スポーツの閉鎖社会がSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使った
デジタル情報で風穴を開けられ、壁の中の「内部情報」が一気に外の世界と繋がったが、
そのことを理解できないのが旧世代の連中。
彼らはいまだに上からの指示(命令)で押さえ込めると思っていたようだ。
それが関学大の抗議会見から10日後の、謝罪にならない会見で、より多くの人の怒りを買ってしまったようだ。

 それにしてもなぜ、スポーツマンシップと程遠いことがアマチュアスポーツの世界で行われたのか。
実のところ、こうしたことが起きる予感は以前からあった。

 「参加することに意義がある」と言われたオリンピックでさえ「参加」より
「賛歌(結果)」を求められて久しい。
しかも、賛歌は国家のメダルの数に置き換えられている。

 要は今の世界、「結果が全て」、結果を出すことが求められている。
そのことは横綱、稀勢の里への評価の変わり様を見ても分かる。

 左胸と左上腕に大怪我を負い、とても相撲など取れる状態ではないのもかかわらず千秋楽に出場し、
本割、決定戦と連覇し優勝した時は奇跡と称賛し日本国中が稀勢の里を讃え、稀勢の里フィーバーに湧いた。
だが、その怪我が原因で休場が続くと今度は態度を一転させて「引退を」とすら言い出す。
そこにあるのは「結果が全て」という考え方であり、相撲界内部のみならず観客の側もその考えに支配されている。

 「勝てば官軍」意識は明治以降の日本人に特徴的に見られた精神といえる。
過程(プロセス)を問う声は「結果オーライ」の声に掻き消され、ほとんど聞こえない、唱えない。
それが顕著なのが相撲で言えば白鳳の相撲だ。

 横綱が下位力士との取り組みで張り手や猫だましを使う。
もちろん禁じ手ではないから誰が使っても問題はない。
それをいいことにしたかどうか、白鳳は一向にこうした手を改めるどころかエスカレートさせ、
平手ではなく拳打ちや肘打ちと紙一重の手まで繰り出していた。

 さすがにそれは行き過ぎと苦言を呈する声が大きくなりだしたのが日本人横綱誕生、
貴乃花「改革」等で白鳳人気への依存から脱却できそうな機運が生じてからだ。
つまるところ白鳳1強で白鳳人気に頼らざるを得ない時は「不正」にも目を瞑り、
代わりが見つかり出すと途端に叩きだすというなんとも潔くないやり方が、
どうもこの国を支配しているようだ。

 「結果が全て」という考えがスポーツ界を覆っている例は他にもある。
カヌー日本代表選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入し、出場停止に追いやった事件がその典型だろう。
ついにここまで来たかという感じだが、これも「結果が全て」という風潮が
広く社会一般に広がっていたからといえる。

 要は個々の問題ではない。
産業界、経済界、金融業界等々、この国のあらゆる分野がこの考えに汚染されている。
いや、この国だけではないだろう。資本主義先進国も、成長著しい国も、結果を追い求める
強欲資本主義に汚染され、金を儲けることがいいことだという考えに捕らわれているのだ。

 金を儲ける→手段を選ばない→多少の不正、誤魔化しを行ってでも結果を出さなければならない
→不正、誤魔化しが常態化する

 こうした思考の循環に対し誰も問題を指摘しない。
あるいは指摘した人間は組織から弾き飛ばされるか閑職に追いやられてしまう。
そういう現実を目にしているから下の人間は「ヒラメ族」になり、
ひたすら上のご機嫌を見ながら仕事をしていくようになり、異議申し立てをしなくなっていく。

 例えば日大アメフト部の監督とコーチが会見を開いた時のコーチの様子がそんな感じだった。

 今この国は転換点に差し掛かっているようだ。
過去の精神論・情緒論的なものからシステム的・科学的な考え方に基づく指導へ、
封建的な思考を残した古い体制から新しい体制への転換点に。

 こうした転換はとっくの昔に終わっていると思われていたが、実のところ底流で
根深く残っていただけではなく、泡のように沼底からブクブクと湧きだしてきているようだ。
その典型は政治の世界だが。

 一体この国は変わるのか、変えるのか。
資本主義はどこに向かっているのか。
「終わりの始まり」が始まっているとすれば、その先にあるのは何か--。

 私見だが、一つは縮小均衡、コンパクト化を図ることだろう。
宇宙はビッグバン後、拡張を続けているが、その動きを停止するところもいくつか存在する、と言われている。
宇宙ですら無限に拡大し続けるものばかりではないようだ。
いわんや地球上の経済は無限に拡大し続けると考えるには無理がある。
拡大への動きを止める時期が来ているのではないか。




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歴史の歯車の気になる2つの動き~メディアの「強いものに巻かれろ」化

2018-07-19 09:54:21 | 視点
 次は「緩変」「ゆでガエル」の話題。
この頃、TVが面白くないこともあり、田舎に滞在中はほとんどTVをつけない。
せいぜい昼食時と、夕食時にニュースを観るぐらいだがニュース番組も面白くないので、最近はニュースも観なくなった。

 ニュースに面白いも面白くないもないだろうと言われそうだが、どのチャンネルでも
同じような事件を同じような切り口で繰り返し流されれば面白くないというかうんざりする。
だったら観なければいいではないかと言われればその通りで、このところ福岡にいる時でもニュースさえ観なくなった。

 まあ、TVに限らずメディアの画一化傾向は今に始まったわけではないが、
ますます酷くなるのを見ていると不安に駆られる。

 昔、キャビンクルー(客室乗務員)が機内食を運んできて「meat or fish?」と尋ね、
「meat」と乗客が言うと「fish.it's only」と客室乗務員が答えるCMが流れていたのをご記憶だろうか。

 人をバカにしたようなCM(の場面)だが、このCMの面白さ(小バカさ加減)は、
さも肉か魚を選べるような聞き方をしながら、実は魚しか選べないという点だ。

 笑えないのは、こうしたことが現実世界で案外見られるからである。
一見、選択肢があるように見せながら実は選択肢がないだけではなく、
その1つのものを自分で選んだと思わせられている。
そう、カードマジックでよく見られるシーンだ。
マジックの場合はマジックと分かりながら見ているからまだいい。それでも欺されるが。

 もし、これが現実世界で行われていたらどうか。
自分で選択したのではなく、選択させられていたのだとすれば。

 実はつい最近、それに似たようなことを報道各社が行っていた。
TOKIOのメンバー(当時)山口達也が起こした強制わいせつ事件の報道である。
どのチャンネルも繰り返し、この事件を取り上げるのには辟易したが、
疑問を感じたのは「山口メンバー」という呼称である。
なぜ「山口達也」でも「山口達也容疑者」でもなく「山口メンバー」なのか。

 恐らくこの呼称に対して違和感を感じている人が結構いたのだろう。
朝日新聞は5月11日付の紙面で<なぜ山口達也「メンバー」? あの事件、あの人の呼称は>
と題した記事を書き、次のように弁明している。

 <朝日新聞ではかつて、刑事事件の容疑者を原則として呼び捨てで報道していたが、
人権への配慮から1989年、逮捕された人を原則として「容疑者」と呼ぶ方針に変わった。
書類送検の場合は、事件事故の報道の際の表記のガイドラインに基づき、
事案の軽重や当事者の属性などを踏まえて実名か匿名か、
どのような呼称にするかを個別に判断することとしている。>

 一見もっともらしい説明である。
しかも「どのような呼称にするかを個別に判断する」と逃げている。

つまり明確なルールはない。
その時々で呼称を変えるから「メンバー」と表記しようと「容疑者」と表記しようと自由だ、
と言っているのだ。

 第一、そんな弁明を紙面でいちいちしなければならない方がおかしい。
これがスポーツ新聞なら(失礼)まだ分からないことはない。
だが、天下の朝日新聞が、いやお堅い一般紙がわざわざ紙面を割いて
弁明しなければいけないところにこそ問題がある。
朝日新聞も芸能新聞になってしまったのか、朝日の矜持はどこへ行ったのだ、
というのは大袈裟過ぎるだろうか。

 朝日新聞に限ることではなく他紙やTV各局は一様に「メンバー」という呼称を使っている。
例外は読売新聞の「容疑者」と日刊スポーツの呼び捨てだった
(もしかするとほかにもあったかもしれないが、私の知る範囲では)。
朝日新聞より系列スポーツ紙の方が余程潔い。

 今回の事件は強制わいせつ事件である。
最終的には被害者と示談が成立しており不起訴となったが書類送検もされた事件だ。
しかも相手は未成年。それなのにメディア各社の「メンバー」連呼は何だ。

 ここでちょっと前の事件、草彅剛氏が酔って公園で裸になったとして逮捕された事件
(不起訴)を思い出して欲しい。
公然わいせつ罪だったが、草彅容疑者という呼称が使われている。
この2つを比較するだけでも、今回の「メンバー」呼称に違和感を感じた人は多いだろう。

 ついでに言うと、無理矢理キスを迫って「強制わいせつ」という表現にも疑問を感じるが、
その点は置くとしても、強制わいせつで書類送検された
(少なくとも不起訴処分になる前)段階でさえ「山口メンバー」という呼称を
連呼するのには強い違和感を感じる。
そして前述の朝日新聞のような「言い分け」を鵜呑みにしている人達がある程度いたことに対しても。

 メディアによる呼称の使い方は強いものへの「忖度」である。
タレントを抱える芸能事務所にしてみれば所属タレントが「容疑者」と呼ばれるのは好まない。
タレントはイメージ商売だから、そのイメージが著しく傷付くことになるのは
なんとしても避けたいところだろう。

 一方、メディアの方は芸能事務所との良好な関係を続けたい。
逆に言えば、芸能事務所から今後、他の所属タレントも出演させないと
言われることを恐れるわけだ。
特に力のある芸能事務所の機嫌を損ねることは営業上極力避けたい。

 かくして双方の思惑が一致し、「忖度」が行われ
(芸能事務所からの圧力とまでは言わないが)、今回のような呼称が使われることになる。

 怖いのはメディアのこうした姿勢が深く静かに、そして急速に広まりつつあることだ。

 たかがタレントの呼称1つと思うかもしれないが、ひとたび矜持を失ったメディアは
次から次へとなし崩し的に後退していく。
気が付けば強いものに巻かれてしまい、言われるがままの情報を流し、
国民を選択肢がない「it's only」状態に導いていく。

 メディアが本来果たすべき「権力の監視」を放棄すれば、それは自らの死を意味する。
その瀬戸際に今立たされているという自覚がメディアに欠如していることが怖い。

 大政翼賛会のようになるなという野中広務氏の警告、遺言を我々は、
なかでもメディアに従事している人々は思い起こし、肝に銘ずべきだろう。
かつてメディアは大本営発表の情報を鵜呑みにし(強いものに巻かれ)、
国民に誤った情報を伝え、戦争への道を突き進んでいった。
いままた同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。

 野中広務、山崎拓、古賀誠といった自民党員ながらも筋を通してきた政治家が亡くなったり、
1線を退いた今、自民党や政府で活動している政治家は戦争を知らない世代、
「ノーと言えない」世代ばかり。
禅譲を期待したり、空気を読んで動向を決めてどうする。
理念、信条はないのか、と言いたい。

 今、「ダメなものはダメ」と言い、「やるっきゃない」と、
それこそ「岩盤に穴を開ける」政治家はいないのか。
辛うじて野田聖子氏あたりがそれに入るか入らないかという程度だろう。

 政治家がこれだからメディアは推して知るべし。
考えているのは視聴率とスポンサーのことだけ。
その結果が愚にもつかない言い分けで、国民を「ゆでガエル」にしてしまう。

 立憲民主党の支持が広がりを見せているのも、筋を通さない政治、
「強いものには巻かれろ」化のメディアに対する反発からだろう。

 我々は「居心地のいい社会」に慣れすぎて、あまりにも警戒心を失い過ぎている。
今必要なのは研ぎ澄まされた獣の精神を取り戻すことではないだろうか。




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歴史の歯車の気になる2つの動き~独裁者も豹変す

2018-07-18 18:40:33 | 視点
 皆さんGWはいかがお過ごしでしたか。私はGWが終わるまでの1か月間を岡山県北東部の田舎で、
新聞、TVもほとんど見ず、ノンビリ(?)と過ごしていました。
 とはいえ、こちらとは無関係に世の中は動き、その間にも様々な事件が起きており、
田舎でノンビリ、田舎は長閑などと、それこそノンビリとしてばかりもいられないのが現実。

 花の写真を撮りに行けば季節の異常さ、環境異変を思い知らされるし、
庭先でハナモモの写真を撮らせてもらった民家の主人との立ち話では限界集落化について
考えさせられるし、奈義町の民家の軒先でたまたま立ち話をすれば、相手が町長と分かり、
つい地域おこしの話になりコーヒーを振る舞われながら縁側に腰を掛けて20分近くも
話し込んだりと、それなりに刺激的で面白い日々。

 困ったのは物忘れの進行と集中力、持続力の衰え。
最近、頻繁に帰省し、ある程度の期間、滞在しているものだから地元の人の対応にも少し変化が見られだした。
お客さん、よそ者対応からの変化と言えば分かってもらえるだろうか。

 ある時、庭木の剪定をしていると、近付いてきて声を掛けられ、そのまま道端に座り込み、
しばらく話したことがあった。
先方はこちらのことをよく知っている風で色々話してくるので話しは合わせていたが、
最後まで相手がどこの誰か分からなかったのには参った。

 まあ、それでも相手が帰る段になり軽トラックに乗り込んだ時になって、
やっと相手の素性が分かりホッとしたのは笑い種なのか笑えないことか。
軽トラックのボディーに先方の屋号が書かれており、それで分かったのだが、
もしその後も分からずじまいだったらと思うと、我が身の先行きがちょっと悲しい。

 というのも、その数日後、またやって来て、剪定した枝を「捨てに行ってあげる」
「車を使ってもらってもいい」などという親切な申し出を受けたからだ。
彼の話し振りから、なんとなく私が田舎に帰ってくるのではないかと感じているようなところがあった。
それもこれも、この1、2年頻繁に帰省している姿を見ているからだろう。

独裁者も豹変す

 さて、そんな私の生活とは無関係に、気になる動きが起きていた。
ともに歴史の歯車を動かしそうな出来事で、1つは突然、表舞台に飛び出し、
もう1つは静かに進行している。

 人は前から来るもの、変化がはっきり見えるものに対しては身構えたり、
受け入れたりの対応ができるが、後ろから静かに、徐々に来る動きには気付きにくい。

むしろ警戒すべきは激変より「緩変」。

緩やかに進行する変化である。

気付いた時は「ゆでガエル」というやつだ。

 まず激変の動き。
今春、世界を驚かせた大きな変化と言えば朝鮮半島情勢。
「君子は豹変す」とはまさにこのことで、いままで暴君の限りを尽くしていた
金正恩朝鮮労働党委員長がハト派に豹変したのだからビックリ。
恐らく世界の人々が驚き、南北首脳会談のTV中継を刮目して見たに違いない。
 (君子は豹変す=徳の高い人物は自分の過ちに気付けば即座に改め、
  よい行いへと転じることが、きわめて素早く、はっきりしていること)

 かく言う私自身もそうだったが、ニクソン・毛沢東会談のようなことが
朝鮮半島で起こると予想した人がいただろうか。
金正恩委員長の異母兄、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール空港で毒殺されたのが
1年前の2017年2月。
金正日総書記の後継者の地位に就いた後、残虐の限りを尽くしてきた男が、
わずか1年後、満面に笑みをたたえた「平和のハト」に変身するとは思いもしなかった。

 ただ、彼の変化には少し前から気付いてはいた。
後継者に就任後、政敵となりうる相手を次々に残虐な方法で処刑してきたが、
その頃は(あくまで映像で見る限りだが)どこか落ち着きがなく、
演説中、身体が左右に揺れるのが見て取れた。
それが金正男氏暗殺以後は顔からオドオドした表情が消え、態度も自信に満ちていた。
後顧の憂いがなくなったのと、相次ぐ核とミサイルの発射で軍事的にも自信を持ってきたからだろう。

 その後に待ち受けているのはさらなる強攻策。
国際的な緊張感、危険性が高まると多くの人が感じていたに違いない。
その矢先に政策を180度転換し、アイドル然としたにこやかな顔で国際舞台に
登場したのだから驚かない方が無理だろう。

 もちろん一直線にこのまま進むとは思われないし、北朝鮮の核廃棄に至っては
実現までにかなりの紆余曲折があると予想される。
それでも世界は彼の豹変と、平和への動きを歓迎するだろうし、そうすべきだ。
端から疑いの目で見、平和への歩みを邪魔するのではなく、
平和に向かって1歩でも2歩でも進むように働きかけることこそが重要だ。

 もしかすると、逆行し始めている歴史を再び前進させられるかもしれないではないか。

 残念なのは日本が蚊帳の外に置かれているということだ。
圧力一辺倒で、柔軟な外交戦略をなくしている安倍政権故と言える。
その反省に立ち、自民党政権にはかつての柔軟さを取り戻して欲しいと願う。



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崩壊するニッポン(4)~社会に蔓延する虚偽と保身

2018-07-18 10:23:44 | 視点
 あれは共産圏、独裁国家のことで日本ではそんなことはない、と思っている人がいるなら、その人はよほどのお人好しかもしれない。
 そういう人にはミルトン・マイヤーの著書「彼らは自由だと思っていた」を紹介すれば充分だろう。
 マイヤーは同書の中でマルティン・ニーメラーの詩を引用しながら次のように書いている。

 ナチスが共産主義者を攻撃した。
 彼はやや不安になったが、彼は共産主義者ではなかったので、何もしなかった。
 そして彼らは社会主義者を攻撃した。
 彼は不安だったが、社会主義者ではなかったので何もしなかった。
 それから学校が、新聞が、ユダヤ人がとなり、彼はそのたびに不安になったが、
 やはり何もしなかった。
 そして彼らは教会を攻撃した。
 彼は教会の人間であった。だから彼は何かを行なった。
 しかし、それは遅すぎた。

 いかなることも最初は小さなことから始められる。
25億円着服した男が数日前、台湾で逮捕されたが、彼もいきなり25億円横領したわけではない。
最初はもっと少ない金額を着服し、徐々に着服金額と回数が増えていき、
14年間で合計金額が25億円に達したのである。

 それにしても14年間もよく気付かなかったものだと思う。
よほど管理がずさんだったのか、よほど儲かっていた会社なのか。
いずれにしろリスク管理ができていなかったことだけは間違いない。

 犯罪であれ、歴史の改竄であれ、最初は小さなことから行われる。
いかに早く小さな段階で気付き是正するか、これぐらいはいいだろうと見過ごし、
いよいよになって声を上げた時は「遅すぎた」と後悔することになる。

 公文書の改竄、「モリカケ」問題はその一歩である。
次は「存在」を「不存在」とし、「なかったことにする」。
巷で流行っているダイエットなどのCMに習ったわけではないだろうが、
自衛隊の日報や官僚のセクハラを「なかったことに」されたのではたまったものではない。

 昔は(といってもせいぜい20、30年前だが)国会で証人喚問に呼ばれば
極度の緊張のあまり宣誓書へ署名する手が震えたほどだが、
この頃は高を括って、「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えたい」と
平然と証言を拒否する始末。
この戦術を編み出した弁護士自身が「最近はやり過ぎで、許せない」と憤慨している程だ。

 昨今、平然と嘘をつく人が増えているが、官僚も信じられないとなると、
本当にこの国には信ずるものがなくなってしまう。
人を見れば嘘つきと思わなければいけないようでは安心して住むこともできない。

 佐川宣寿・元理財局長、福田淳一・財務事務次官という官僚トップが平然と、
あったものを「なかったことにする」のだから、こうした権力を嵩にきたパワハラ、
セクハラ、保身のために嘘をつく風潮は社会全体にますます蔓延していく危険性がある。

 この国に再び「安全・安心」は戻るのだろうか、戻せるだろうか。










崩壊するニッポン(4)~独裁国家は歴史を改竄する

2018-07-17 11:48:23 | 視点
 公式記録から抹消と聞いて思い浮かべるのはかつてのソ連邦、中国などの共産圏諸国が行った公式文書・写真からの削除、改竄である。
劉少奇や林彪は失脚後、毛沢東と一緒に写った彼らの姿は写真から削除され、その場にいなかったことにされた。
歴史から抹殺されてしまったのだ。

 そして彼らの功績は歪め、貶められ、党への反逆を目論んだスパイ、根っからの悪人として
新たに記録され直し、人々の記憶からも抹殺された。
代わりに彼らの功績はスターリンや毛沢東といった党指導者のものに書き換えられていった。

 こうなると公式記録はどこまでが真実か、何を信じていいのか分からなくなる。
同時代を生きてきた人でも年数を経れば記憶が薄れていく。
そうなると頼れるものは記憶ではなく記録だが、その記録が、真実を伝えていなくても
記録として存在している以上、そこに記されていることが「真実」になる。
まさに歴史は勝者によって創られる、だ。

 こうした現実をジョージ・オーウェルは「1984年」で書き、人々に警告した。
それから70年近く、中国文化大革命からでも半世紀が経つ。
もはや人々は記憶ではなく「記録」に頼るしかない。
ところが、その記録が真実を伝えていない、改竄されたものなら、真実は「藪の中」どころか、闇の中だ。

 つまり公文書の改竄はそれほど恐ろしい犯罪行為だということである。

にもかかわらず当の官僚達にその意識がない。
そのことに恐ろしさを感じる。
「戦前の軍部独裁と同じ」という指摘は大仰でもなんでもないだろう。

 歴史を自分に都合よく書き換えるのは独裁者・独裁国家の常套手段である。
彼らはあらゆるものを支配しようとするが、最も支配したいのは人の頭脳と精神である。

 自由な思考を奪われる怖さと監視社会の怖さはすでに70年近くも前に
ジョージ・オーウェルが「1984年」で描写している。
読んだことがない方はぜひ、読まれた方ももう一度同書を一読されることをお勧めしたい。
併せてスノーデン氏の告発も。

 「1984年」はフィクションで、現実世界のことではないと思われる方は、
つい先頃行われた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の党中央委員会総会の光景を思い出して欲しい。

 数か月前まで核とミサイル開発・保持を主張していた金正恩委員長が4月21日の同総会で
「核実験とミサイルの発射実験中止」「核実験場の廃棄」を唱えると満場一致で承認された光景に驚いたことだろう。

 党の方針の急変。コペルニクス的転回、驚天動地。
当の国民は腰を抜かさんばかりに驚いたのではないだろうか。
それともかの国では朝令暮改は当たり前、真実なんて端からないと無関心を決め込んでいる(装っている)のか。

 同じことは中国でも言える。
先頃、中国共産党が全国人民代表大会(全人代)で習近平氏の主席永続化に道を拓く
憲法改正案が提案されたが、賛成2958票、反対2票、棄権3票の圧倒的支持で承認された。
反対したのはたったの2人だけというのは異常すぎる。
全人代議員は党の決定をただ承認するだけの組織、セレモニーになっている、とはいえ、
かの国の10年後に思いを馳せると精神(こころ)が寒くなる。
どうかすると習近平時代は毛沢東時代より独裁化が進んでいるかもしれない。

 いずれの国でも党が発表する数字、事実こそが「真実」である。
それは数年、数か月前と違う数字、事実であっても、
新しく発表された数字、事実こそが「真実」であり、
それに異を挟むことは許されない。
許されているのは拍手で「指導者」の決定に賛意を示すことだけだ。

 このような体制下で人はどうなるのか。
「1984年」の最後の件(くだり)を再読して欲しい。
オーウェルの予言を読み暗澹たる気持ちになることだろう。
だからこそ、早いうちに「ノー」の声を上げるべきだと。



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崩壊するニッポン(4)~日本型システムの崩壊

2018-07-16 21:00:45 | 視点
 日本人は概して真面目である。
「概して」と表現したのは近年、必ずしもそう言えない人達が増えてきたからだ。
犯罪の国際化と同じく、悪しき国際化があらゆる分野で見られるようになってきた。

 それはさておき、真面目な人種(?)の一つに官僚がいた。
彼らは職務に忠実であるだけでなく、自らの立場をわきまえている。
つまり政権が変わっても(この国ではあまり変わらないが)自らがなすべきことをきちんとなしていたし、職務上では政治的中立の姿勢を貫いていた。
だから安心できた。

 ところが、この日本型システムが安倍政権下で崩れ始めた。
政治的中立の姿勢を貫いていた官僚が政権トップの意向を「忖度」し、
政権トップにおもねった判断を下したのだ。
しかも下位の者達ではなく、官僚組織のトップクラスか、それに近い幹部達が。

 縁故主義、権力者へのおもねりがモノを言うのは洋の東西を問わず、いつの時代でも同じだ。
これを完全になくすことは難しいが、問題はその幅の範囲だ。
民主主義は上記の幅を極力狭めることにあった。
ところが21世紀になってからまるで時代に逆行するようにトランプのアメリカを始め、
プーチンのロシア、韓国、そして安倍の日本で「お友達」が幅を利かせている。
その「お友達」の輪に官僚までもが入ろうとしているのだから、
この国のシステムは崩壊しつつあるといえるだろう。

 それにしてもなぜ、いままで職務に忠実だった官僚が政権トップにおもねりだしたのか。
 人が動くものに3つある。
利と理に義だ。

「利」は言うまでもないだろう。利益、カネのことだ。
「理」は道理、理屈、理性、「義」は道義、義理の義だ。

 本来、官僚は「理」で動いてきた。
それが「り」は「り」でも、「理」ではなく「利」の方で動いたのが今回だ。
直接的な金銭が彼らの懐に入るわけでも入ったわけでもないが、省庁利益と強弁しようとも、
つまるところは自分に跳ね返ってくる利益のためだ。

 その「利」のために、「ある」ものを「ない」と言い、虚偽の返答をしたものだから、
今度は辻褄を合わせるために、あろうことか記録文書を書き換えた。公文書の改竄である。

 それもどうやら権力者の書き換え指示・圧力で行ったのではなく自ら積極的に行ったようだ。

 自主規制の類いと同じだけに、よけいに嫌なものを感じる。
圧力に屈してなら、まだ救われる。と言うか許される。
「許される」というのは、そういう行為に走ったのは少しは「理解できる」という意味であり、
だからといって本当に許されるわけではない。
裁判で言えば「情状酌量の余地」が全くないわけではないが、
それで罪1等を軽減する程のものではない、ということだ。





崩壊するニッポン(4)~垂直思考は得意、水平思考は苦手な日本企業

2018-07-16 16:29:22 | 視点
 「経高政低」あるいは「経済は一流、政治は二流」「技術立国」という言葉が
日本を象徴する言葉として語られてきた。
政治の二流はいまだ変わらないが、「経済は一流」も「技術立国」も実に幻想だったことが、
最近ようやく周知されだした。
いまや技術は韓国、中国の後塵を拝する有様である。まだ、その現実を認めようとしない企業人は多いが。

 デジタル時代は多くのものをコモディティ化したのは事実だが、デジタル時代になり
新規技術で日本がリードした分野はそう多くはない。
その一つにカメラがあるが、それもスマートフォンのカメラ機能にかなりの部分で浸食されている。

 仮に日本企業、パナソニックでも富士通、ソニーでもいいが、それらの企業が
スマートフォン市場で存在感を示していたとして、スマートフォンのカメラを片側ダブルレンズにし、
一眼レフカメラのような撮影効果を持たせる機能を付加しただろうか。
答えはノーだろう。富士通も、ソニーでさえまだダブルレンズは搭載していない。

 なぜ、日本企業はそのような商品を作れないのか。
日本企業は垂直思考は得意だが、水平思考は苦手だからだ。

 例えば写真の映りをよくしたいと言われれば、センサーの画素数を上げ、
できるだけ鮮明な映りにしようとするし、そうした垂直思考は得意である。
ところが、ダブルレンズにしてボケ味を出そうという発想には行かない。

 どちらも映りをよくしたい、一眼レフカメラに少しでも近づけたいという思考は同じである。
前者は一眼レフカメラに近づけるために解像度を上げ画像を精細にするという発想であり、
後者は一眼レフカメラのように前後のボケ味を楽しみたいという発想から作っている。

 写真を楽しもうという発想からのアプローチと、写真の出来をより高度にしようという
アプローチの違いであり、高解像度を追求する方向はいかにも日本人技術者らしい生真面目さだが、
ユーザー視点に立てばボケ味が楽しめる映りの方が面白いだろう。

 なんといっても一眼レフカメラの面白さは被写体の前後をボケさせて、
被写体を際立たせる、クローズアップさせるところなのだから。
言い換えれば、これは「省く」技術であり、高解像度を追求する方は「足す」技術。
日本人が弱いのは「省く」技術である。






崩壊するニッポン(4)~崩壊した製造業の信頼

2018-07-15 10:38:43 | 視点
 いつ頃からこうなったんだろうか--。
かつてこの国は安全で安心して住める国だった。正確に言えば「比較的」という形容詞付きだが。

 組織も人もどちらかと言えば遵法精神に富んでいた。
それが今はどうだ、学校も職場も道路や公共の場でさえも安全でなくなったばかりか、政治家の言葉はもとよりとしても、商品カタログに書かれている内容さえも信じられなくなった。

 存在するものを「ない」と言い、データを改竄するのは当たり前。
公文書でさえ都合よく改竄するのだから、もう何を信じていいのか分からない。

 歴史は勝者によって書き換えられる、というのは民主主義が確立される以前の時代のことと思っていたが、まさかこの平成の時代に平然と行われていたとは、時代は進歩しているのかそれとも退歩しているのか。

崩壊した製造業の信頼

 我々は一体何を信じればいいのか。
愛などという不確かなものと違い、データは根拠がある確かな数字である。
それさえもが実は不確かな数字に書き換えられていたとなれば、この世に確かなものは何も存在しなくなる。

 考えてみれば、我々は不確かなものを確かなものと勘違いしていたのかもしれない。
パンフレットに書かれた数値は正しいに違いない、注文書通りに作るだろう、
大手企業が不正をするはずがない、政治的に中立であるべき官僚が時の権力者におもねって公文書を改竄したり嘘の答弁をするはずがない等々と。

 これらは相互信頼の下に成り立つわけで、信頼は過去の実績の上に培われている。
実績は物的な形となって残っており、それの積み重ねである。
注文書通りに作られているかどうかは目測とか見た目というような不確かな形ではなく、
計測で確かめられる。
計測、つまり物的な形として確かめられているわけだ。

 ところがチェックは最初の1回のみで、それにパスすれば後はノーチェックで通る。
1回の審査、あるいは納入業者になるまでは厳しい審査をするが、一度パスすれば後は余程のことでもない限り抜き打ち検査などもなく、「信頼関係」という不確かな土台の上に双方が乗り仕事をしている。

 大学入試段階は厳しいが、一度入ってしまえば後は余程のことがない限りエスカレーター式に進んで卒業できる日本の大学のことでも、近年急成長している新興国で起きていることでもない。
これはれっきとした工業先進国、資本主義先進国の日本で21世紀の今、行われている、起きていることである。

 上記の部分のみを見聞きすれば、まさかこの日本で、今行われていることと理解できる人は数少ないのではないか。

 「メード・イン・ジャパン」は「信頼」の証だと思われていた。
その裏返しとしてアジア諸国産を低品質とバカにする風潮もあった。
ところが、あっという間に、本当にここ数年でスマートフォンは一部の人々によってバカにされていた「中華製」に取って代わられた。
国内市場はもちろん世界市場も。
こうした現状を目にしてもまだ「中華製」をバカにできるだろうか。

 その間に日本企業が行ってきたことは何か。
根拠がない優位性と不正というのはあながち言い過ぎとは言えないだろう。
三菱マテリアルは直接的には子会社の不正とはいえ、20年近く前からデータの改竄を行っていたし、
神戸製鋼グループ、東レ子会社、日産、スバルの無資格者による検査など、日本を代表する大手企業が次々に不正を行っていたわけである。

 スズキの無資格者による完成車検査は約30年前から行われていたというから、
もうこうなると「メード・イン・ジャパン」の信頼は地に落ちた、
というより幻想だったことがよく分かる。

 それにしてもなぜ、一時は信頼のブランドだった「メード・イン・ジャパン」は地に落ちたのか。
それはスズキの無資格者による完成車検査が約30年前から、三菱マテリアル子会社のデータ改竄が約20年前から行われてきたことから見える。
バブル経済が崩壊し産業界でコスト意識が高まりだした頃と軌を一にしているではないか。

 コスト優先主義は年々強まり、企業は非生産部門を次々に縮小していった。
メンテナンスサービス、アフターサービスは縮小・廃止もしくは本体から分離。
人件費までもコストと考えだし、正社員を減らし非正規社員に替え、人材教育等への投資も大幅にカット。

 その結果が無資格者の完成車検査であり、データの改竄に繋がっていく。
「その程度の数値は誤差の範囲内、許容範囲だ」ということになり、
今度はその数値が正規数値のように代々受け継がれていく。

 こうした傾向は今回発覚した企業だけに止まるものではないだろう。
多かれ少なかれ同じようなことは他社でも行われていたのではないか。

 問題はコスト優先主義だが、その背景にあるのは大量生産である。

同一製品を大量に作るものだから、作られたモノは購入先を求めて市場をさまようことになる。
最初は生産地の近くだった市場はどんどん拡大していき、やがて自国を飛び出し他国にまで売りに行く。

 その行き着く先に待っているのは貿易戦争だ。
どこの国だって自国の産業を守りたいのは当たり前で、なんとか他国の製品が大量に流れ込むのを避けるために関税をかける。

 売り込む方は関税をかけられるとその分価格が高くなり、相手国で売れなくなるから関税の撤廃を望む。
これは双方同じだから後は政治的な駆け引きの問題になる。

 今日、世界が抱えている問題の根底には大量生産による作り過ぎがある

ということは冷静に考えれば誰もが分かることだ。
しかし、もはや誰も、どこも作り過ぎをやめようとはしない。
OPECでさえ減量ができないのだから。

 結局、行き着くところまで行かなければ止まらないのだろう。
行き着くところとは、それはあまりにも悲惨だから口にしたくはない。
しかし、もういい加減に人類は気付くべきだろう。我々の未来について。