栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

どこか薄気味悪さを感じる「令和」フィーバー

2019-08-25 17:40:59 | 視点

 ゴールデンウィークの10連休、事前予想は大混雑、あるいは混雑は分散などと分かれていたが、

結果は分散で例年より混雑は少なかったというのが個人的な印象だった。

 実際、私が出かけたヤマサ蒲鉾工場(姫路市。芝桜の時期のみ一般公開)、藤公園

(岡山県和気町。岡山県下では藤の花の名所といえば最初に挙がる)、姫路市のテーマパーク・太陽公園はGWだから特に混んだという感じはなかった。

 極めつけは6日の高速道路(中国道)。いつもの週末より上下線ともに車は少なかった。

途中、サービスエリアで混雑程度を尋ねたが「ピークは3日、4日ですね」とのこと。

「今日(6日)はちょっと少ないのでは」と水を向けると「正直ちょっと期待外れですね」と苦笑い。それほど車が少なかった。

 九州では3日4日の「博多どんたく」の人出が全国ニュースでもよく取り上げられるが、今年はどうだったのだろうか。岡山県にいると、その辺の情報が伝わってこないので、どの程度の賑わいだったのか分からない。というより、帰省中、特に4月5月はTVをほとんど見ていない。観たいと思える番組がないのが主因だが、もう一つは元号変更に便乗した「令和」フィーバーともいう現象に辟易し、TVのスイッチを入れなかったこともある。
 どのチャンネルに替えても「平成最後の」「令和最初の」で始まるし、4月末日はまるで大晦日のカウントダウンにも似た騒ぎ。それを延々と放映し続けるTVにはある種の気味悪ささえ感じたものだ。

 それにしても、この国は「横並び」「皆さんご一緒」が好きなようだ。

一時期、「脱横並び」が唱えられたが、気が付けば相変わらずというか、同質化はさらに進んだように感じる。

企業活動ですら「横並び」は顕著でコンビニエンスストア(コンビニ)は地域に関係なく一律24時間営業

(「お上」から「力」が加わり、やっとこの頃見直す素振りを見せてはいるが)だし、通信料金は大手3キャリアはほぼ同じ料金体系。

それを打破すべく登場した格安SIM取り扱い業界も料金、サービスともほぼ横並びになってきている。


 さらに品質検査不正まで自動車、鉄鋼、油圧機器、住宅業界と横並びで行われているに及んでは、

この国は一体どうなっているんだと思わない方がおかしい。

 TVのワイドショーが横並びで各局同じ情報しか流さないのは今に始まったことではないが、その傾向はますます強まっている。

テレビ朝日などは自らがTV局という意識すらなくしているようで、「今ネットで最も見られている情報をランキング形式で」届ける

と昼の番組内で紹介している。

 これはリツイートと同じで、後追いどころか同じ情報の拡散でしかない。

なんともいやはや、というか、TVの取材力はますます落ちていき、TV離れがますます進むのは当然だろう。

 見ていて尻がムズムズする感覚を覚えるのが、最近増えている「ニッポンっていいな」という日本礼賛番組だ。

伝統産業や零細企業の技術にスポットを当てて紹介するのは大賛成だが、やり過ぎると礼賛の裏に何かあるのかと勘ぐってしまう。

 皆で盛り上がろう、という感覚が強くなったのはスマートフォンの普及と無関係ではないだろう。

どこでも、いつでも、掌の小さな機械を操作すれば、すぐ何らかの発信ができる。

最初の発信者にならなくても賛意を示すことはもっと簡単だ。

前の人の情報をそのまま転送しさえすればいいのだから。あるいは「good(いいね)」をクリックしさえすればすむ。

 ちょっと前なら、そうした行動は付和雷同と言われたが、今やこの言葉はほとんど死語同然である。

代わりに登場したのが「お祭り騒ぎ」「炎上」「拡散希望」だ。

 「皆で渡れば怖くない」あるいは「皆で騒ぎましょう」と皆が同じ方向を向き、同じ顔で、同じ言葉を発する。

そこには個人の考えがない。人だかりを見て、覗き込み、よく分からぬが騒ぐ群集心理のネット版である。

 騒いでスカッとしたい! こうした傾向は以前からあった。

飲み会で「イッキ、イッキ」と囃し立て、一気飲みを煽るのもそれだ。

不適切行為を動画に次から次へとアップする行為が後を絶たないのもそうだろう。

直近では渋谷のスクランブル交差点にベッドを運び寝ていた様子を動画で配信した7人が逮捕された。
 いずれも深い考えがあってやったことではない。

ただ、騒ぎたかった、注目されたかっただけだろうが、それだけにこのような風潮が蔓延することが怖い。

そうした行為に走らせる背景があるからだ。

 動画配信サイトのユーチューブで動画を配信する人間を「ユーチューバー」と呼ぶそうだ。

そしてそれを職業と考え、「将来、ユーチューバーになりたい」と夢(?)を語る子供がいるそうだ。

ユーチューブでの配信はもう趣味ではなく職業になっているのだ。

何人が自分の動画を見てくれたかが収入になるらしい。

 つまるところカネなのだ。

カネになるから、奇抜なことをし、耳目を集めようとする。

ここに「フェイクニュース」と呼ばれる「ニセ情報」が流れる背景がある。

 もう一つは鬱積した不満だろう。

社会で「好景気」と言われながら、一向に改善しない自分の生活。

「勝ち組」「負け組」と分けられてからずっと続いている格差社会。

どこかおかしい、なにかおかしい、と感じていたのもむかしのことで、

今ではそれさえも感じることなく受け入れてしまい、怒りの矛先を向ける先さえ分からなくなっている。

それを見つけることさえ面倒臭くなるほど余裕がなくなれば、刹那の「快楽」で鬱憤を晴らすしかなくなる。


 たった一人の反乱はエネルギーがいるが、皆で騒げば、皆が騒ぐのに便乗するのは楽だ。

 そして皆が同じ方向に向き、小さなことでフィーバーし、盛り上がり、一体感を刹那的に感じる。

 そんな思考停止状態が長く続いた先に待っているものは・・・。

私にとっては決して居心地がいい社会ではない気がする--。


老害と世襲が幅を利かせる人生100年時代

2019-08-07 11:25:51 | 視点
老害と世襲が幅を利かせる

 人はいつかは退く日が来る。退かなければならない日が来る。
できることなら、その時期は自分で決めたいものだと思うが、高齢化社会故かいつまでも現役将校を続けたがる人が多い。
というか年々増えているように思う。

 自民党が下野していた時、70歳定年制を敷いたがそれに反発して他党に移り立候補し議員を続けている人物もいる。
自民党内でも定年制はなし崩し的に不問に付されつつある。
それはそうだろう、お隣の国を見習ってか、お隣の国が日本を見習ってか知らないが、総裁任期を延長しているぐらいだから。
このまま行けば4選もあり得るかもしれない。
そこまで党員はバカではないと思いたいが。

 団塊の世代がまだ40代の頃までは「老害」という言葉が頻繁に語られた。
権力を若者に取り戻せ、と。
政治の世界はもちろんのこと、企業経営でも。
70歳過ぎた老人が政治や経営の実権を握っているのはおかしい。
老人から権力を簒奪せよ、と。

 それがいまはどうか。
老人は相変わらず権力を握ったままだし、後を継いだ者達も簒奪するどころか禅譲されて喜んでいる始末。
これでは変革などできないのは当たり前で、気が付けば政治の世界も企業経営の世界も2世、3世だらけで、
いまや完全に世襲制が当たり前になっている。

 こうした現状を憂う親も子もないどころか、70歳過ぎて議員立候補を決意したり、立候補を勧める者までいる始末。
それがボケ防止になるなどと言うに至っては世も末だ。

 70歳といえば論語に言う「耳順」を通り越し「従心」と言われる歳である。
それがどうだ。70にして心の欲するところに従えども矩をこえず
(自分の心のままに行動しても人の道に外れなくなった)どころか、
欲望、権力にしがみつき、パワハラ、セクハラ、不正のやりたい放題(は、ちと言い過ぎか)では
孔子先生ならずとも、この世はどうなっているのだと嘆き、怒るだろう。

 それにしても、なぜ老人がこれほど幅を利かせるのか。
「冗談じゃない。今の世の中、70歳は老人なんかではない。まだ現役世代だ」と
お怒りになる向きがあるのはよく理解できる。

 たしかにかつての70歳に比べ、現在の70代は若い。
皆、元気いっぱいだ。
だからといって若者と同じように振る舞う必要はない。
ましてや彼、彼女達の立場や権力、権限を奪い、いつまでも第1線で指揮を執る必要はないだろう。
今まで頑張ってきたのだから一歩下がって若者に道を譲り、もう少しゆっくり歩んでいいのではないか。

人生100年時代のカラクリ

 人生100年時代だから、まだまだ働けるし、働かなければ、と言うのもよく分かる。
だが、ちょっと考えてみよう。100歳を超えて本当に元気な人がどれだけいるか。
今年亡くなった有名人の中に100歳を超えていた人はいないし、人生100年というのは平均寿命100歳という意味ではないことを。
それなのに、なぜ「人生100年時代」と言うのか。誰が(どこが)唱えているのか。
少し考えれば政府だということに気づくだろう。

 そう、政府におだてられているわけだ。
人生100年時代だから、もっと働け、仕事をしろ。
企業は定年を延長したり、高齢者を採用して仕事をさせろ。
そうすれば人手不足は防げる、と。

 一理ある。60歳あるいは65歳で会社勤めを辞めた途端、会社ロス、仕事ロスになり
生きる意欲さえ失う人がいるのも事実だ。
彼らのうち何%かは引きこもりになっているらしい。
そうしたことを防ぐためにも「人生100年時代」だから、と言って働かせるのは一定の効果はあるかもしれない。

 だが、年取ってくると現役世代のように働けないのは事実だ。
もう少しゆっくりして、いいじゃないか。
そうすればイライラすることも、キレる高齢者と言われることもなくなるだろう。

 そうしたいのに、そうできないのは老後の生活が成り立たないからだ。
なぜ、成り立たないのか。なぜ年金だけで生活できないのか。

 すべてが年金受給世代の数の問題とか、人口構成の問題とかにされているが、
統計数字上はそうかもしれないが、そうさせたのは政府ではないか。
持ち家制度を勧め、消費を奨励し、次から次へと箱物や施設を造り、国の財政を借金漬けにし、
そのツケを国民に回し、今度は走り続けよと尻を叩く。
これでは働くではなく、働かせられるだ。

 スピードを緩めて、ゆっくり行こう。ゆっくり生きよう。
老兵は死なない。ただ1線から消え去るのみだ。
この言葉をもう一度思い出してみようではないか。