栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

「ノー」と主張し始めた中小企業~脱横並びの動き

2018-05-28 11:23:59 | 視点
 日本は善くも悪くも横並びで進む国(民)である。
それがいい方向に進むこともあれば逆のこともある。
そしてほとんどは逆方向に進んでいたが、最近はいいことを横並びでやろうという動きが各分野で出てきだした。
その好例が金融業界の移動ATM車であり、スーパーの商品を販売する移動販売車だというのは前回紹介した。
 今回は従来の慣行、横並びに敢えて反した「脱横並び」とでも呼べる挑戦を始めた中小企業の動きを紹介する。

小さな地場スーパーの大きな波紋

 2月になるとコンビニ、スーパー、デパート、総菜関係の店で必ず目にするのが「恵方巻き」の予約注文と店頭販売である。
 節分の日に恵方巻きを食べるのは日本人の習慣であるかのように全国で恵方巻きが売られているが、
過去、本メルマガでも書いたことがあるように、こうした習慣があるのは大阪、それも比較的限られた地方習慣にしか過ぎなかった。

 それがいまでは全国津々浦々と言ってもいいほど各地で、節分の日には恵方巻きを食べるのが当たり前と
言わんばかりに売られている。
九州でも岡山でも、節分の日に豆まきはしても、恵方巻きを食べる習慣など体験したことも目にしたこともなかったが、
あっという間に、ここ10年かそこらで全国に広がった。

 仕掛け人はコンビニ、それもセブンイレブンである。
瞬く間に全国に恵方巻きを知らしめ、他社を追随せしめたのだから、同社の販売戦略は見事と言うほかない。
だが、最近は弊害を指摘する声も増え、その声は段々大きくなりつつある。

 問題視されているのは従業員への「ノルマ販売」(本部は否定するが)と、それに関連した従業員の「自己買い取り」。
それでも節分翌日には大量に廃棄されている。

 コンビニオーナーを含め小売業に関わっている人、消費者の誰もがムダと感じながらもやめられない現実。
やめられない理由は色々あるだろうが、ひと言で言えば戦線離脱の怯え。
「横並び」から抜けることと、その結果待ち受けているかもしれないものへの怯えである。

 表立っては「販売ノルマ」も、未達に対する「制裁」もないと本部は言う。
しかし、それを額面通りに受け取れないのが加盟店の経営者(特にサラリーマン経営者)だ。
契約更改時に不利になるのではないか、新商品をすぐ回してもらえないのではないかなどの疑心暗鬼に陥り、
本部の指示通りに仕入れ、結果、大量の売れ残り発生になる。

 売れ残り品はホームレスの人達や生活困窮者、あるいはフードバンクに回せばいいと思うが、
これもそう簡単にはいかないようだ。一方で「こども食堂」に対する支援を行政が行いながらもだ。
邪魔しているのは何かあった時に「責任を被りたくない」という無責任主義の横行である。

 かくして誰もがムダ、もったいないと感じつつ大量に廃棄されていく。
これはなにも恵方巻きの問題だけではなく、食品全般に通じる問題でもある。

 しかし、こうした横並びの恵方巻き販売のあり方(大量廃棄問題)に「ノー」を唱えたスーパーが現れた。

 兵庫県姫路市を中心に8店舗を展開する「ヤマダストアー」(本社:兵庫県揖保郡太子町)は
2月1日に配布したチラシに「もうやめにしよう」と大書し、「今年は全店、昨年実績で作ります 
売れ行きに応じて数を増やすことを今年は致しませんので、欠品の場合はご容赦くださいませ」という言葉で結んでいる。

 「もうやめにしよう」の言葉の横には次のような言葉も書かれている。
「売上至上主義、成長しなければ企業じゃない。そうかもしれないけど、何か最近違和感を感じます。」

 同社が感じていた違和感は恐らく多くの地場スーパーも同じように感じていたことだろう。
だからこそ「同業の方の共感メッセージや応援メッセージ」が、このチラシが報じられた後、同社に寄せられた。

 恵方巻きに関する廃棄処分は商品化される前の食材にも及んでいる。
注文に即納できるように材料メーカーが余分に作りおきしているわけで、それらがそのまま大量に廃棄されているのだ。

 こういう事実を知れば誰もが「もったいない」と思うだろう。
それは小売りの側でも同じだ。
しかし、全国で売っているのに、他社が、他店が売っているのに、自分のところだけ売らないわけには
いかないという「横並び」意識が邪魔をして、バカな習慣と感じていたとしても、やめることができずにいる。

 同じことは消費者にも言える。
その年の恵方に向かい、巻き寿司1本を咥え、何も喋らず黙々と(モグモグと)食べるのはとってもおかしな光景だ。
一度、TVで黒柳徹子が「徹子の部屋」のスタッフと一緒に、恵方巻きを食べている姿を見たが、
なんとも異様というか、滑稽だった。
それ以上に「毎年、スタッフ全員で食べるのが決まりになっている」と黒柳徹子が語っているのを聞いてあきれ返った。

 店頭に並んでいればつい買ってしまう(乗せられてしまう)消費者も消費者だが、
買う方は占い籤を買う心理と同じなのだろう。

 ともあれ、小売りの現場から売り方を見直す異議が出た意味は大きい。

もしかすると「脱横並び」の動きは燎原の火のごとく(とまではいかないだろうが)広がるかもしれない。

小売りや飲食店の営業時間短縮の動きが広がったように。

「高く買わないで」という広告

 同じような動きは昨年12月、メーカーでも見られた。
かつて持っていたメーカーの力(価格決定権)が流通大手に取って代わられて久しいが、
それに異を唱える酒造メーカーが現れた。
日本酒「獺祭(だっさい)」で知られる旭酒造(山口県岩国市)がそれだ。

 「獺祭」は安倍首相が各国首脳に贈ったこと等で一躍有名になり、以来、「手に入らない酒」
「高値の酒」と言われていたが、こうした状況にメーカー自身、おかしいと感じていたのだろう。

12月10日の読売新聞全国版に「お願いです。高く買わないでください」と書かれた全面広告を出した。

 通常、広告は商品を売るために行うものだが、自社商品を「買わないで」と大書した広告は異例といえる。

 厳密に言えば、ただ単に「買わないで」と言っているわけではなく、「高く買わないで」と
言っているわけだが、全国紙に全面広告を出すとなれば、それなりに広告費もかかる。
それでも商品広告なら販促効果が期待できるが、「買わないで」では逆効果といえる。

 とはいえ、必ずしもそうとばかりは言えない面もある。
注目を集めるという意味では逆に大いに効果があるからだ。
まあ、同社がそこまで考えて上記広告をしたのかどうかは定かではないが、
消費者に同社の姿勢を正しく伝えたいという意向は十分伝わったと思えるし、
私自身も同社のこの姿勢に拍手を送りたい一人である。

 似たような現象は過去にもあった。
焼酎ブームの時に一部メーカーの商品がプレミアム価格で販売されたり、過去の日本酒ブームの時にも同じような現象が起きた。

 いずれもメーカーが出荷価格を引き上げたわけではなく、流通過程の中で価格が高騰していったわけで、
販売価格が跳ね上がってもメーカーが得することはなにもない。
それどころか不利益になることの方が多い。

 ブームはいつか終わる。ブームに乗って一緒に舞い上がると、「宴の後」の反動が怖い。
酒や焼酎は工業製品と違って、売れているから納品数を増やせ、増産したいと思っても数か月後に倍増
というわけにはいかない。設備投資は別にしても、仕込みから1年かかる。
原材料の仕入れ先を替えれば品質が変わることはままある。
それが元で古くからの顧客に「味が落ちた」と言われれば、後々に影響する。

 そうした事例を見聞きして知っているから、堅実なメーカーはブームで不当に高い価格で
販売されることを内心苦々しく思っていても、それを表立って言うことはなかなかできない。
酒造メーカーや焼酎メーカーには小さな蔵元が多いから、「うちの出し値は変わっていないんです」と
馴染み客に愚痴るぐらいだ。

 そう考えれば今回の旭酒造の「高く買わないでください」という全面広告は業界の声を代弁したものと言える。

 ただ、「高く買わないで」と言われても、いま売られている価格が妥当なのかどうかが判断できない。
そういうことも考え、同社は紙面に希望小売価格を載せている。
それによると「純米大吟醸50」は720mlが1539円、1.8lで3078円。
「磨き三割九分」は720mlが2418円、1.8l4835円。
そして紙面の下3分の2に全国にある正規販売店約630店の名前を載せている。

 この動きに、転売目的で「獺祭」を抱えていた業者が一斉に商品の放出に走ったのかどうかは不明だが、
いま「獺祭」を店頭で見かけることが増えたし、普通に手に入るようになった。

 いままでは「業界の常識」に従い「横並び」で販売していた小売業や、
流通業者任せにしていたメーカーが販売の原点に立ち返り、業界の常識に「ノー」と言いだし始めた。
こうした動きがやがて大きな潮流になるかもしれないし、そうなることを期待したい。

                                  2018.2.13



なんでも酒やカクヤス(ビール・ワイン等の通販・宅配)










犯罪の背景にイラつきを生むコンビニ社会の存在

2018-05-17 12:43:37 | 視点
 2月下旬、新聞紙面に小さな記事が載った。載ったのは地元紙ではなく、なぜか経済紙だったが、内容は経済とは関係ない傷害事件で「南区の整形外科病院で男性医師の左胸を包丁で刺し」て、加害者が逮捕されたというもの。

「漠然としたイラつき」が犯行動機

 この記事が目に止まったのはこの病院がどうやら近くで馴染みの所、というか私が行き付けの整形外科で、パートナーが今治療に行っている病院ではないかと考えたからだ。
それどころか彼女が言うには「犯人と遭遇していたかも」分からないとのこと。つまり同時刻に病院に行っていたばかりか、診察室の方から看護師が「男性の方来て!」と叫ぶのを聞いたと言う。

 幸い精算を済ませて帰るところだったから事件とは思わず、後刻、彼女は事件のことを知ることになったわけだが、身近なところでこういうことが起きると、いつ犯罪の巻き添えをくうか分からないという思いが強くなる。

 問題なのはそうした状況が突然、何の前触れも、因果関係もなしに訪れることだ。
しかも、この種の犯罪が近年増えていることに恐ろしさを感じる。

 次に目に留まったのは愛知県豊橋市の男性が畑から白菜160玉(8万円相当)を盗んだ疑いで逮捕されたというもの。
盗んだのはトマト農家の男性で、被害者と同市内に住んでいる。
今年に入ってから同市内や近隣で白菜の窃盗が相次いでいるというから余罪がありそうだ。

 動機は白菜の高値によるカネ目当ての犯罪。
それにしても同じ農家で、生産の苦労を知っているはずなのになぜと思うが、トマト栽培があまりうまくいってなかったのか、それとも目先のカネに目を奪われたのか。

 トマト農家が白菜を大量に市場に持ち込めば怪しまれるのは当然だし、仮にトマト農家でなくても、
あまり見かけない人間が大量の白菜を何度も持ち込んでいれば、あいつはどこの奴だと疑われるはず。
実際、市場でそういう噂が立ち、そこから逮捕に至ったようだ。

 3つめは大阪市生野区でショベルカーが歩道に突っ込み、下校中の児童5人が被害に遭った事故である。
 動機を含め最も不可解なのがこの件だ。
新聞報道によれば「ショベルカーが信号交差点の手前でいったん停車し、再び動き出して歩道に突っ込む様子が周辺の防犯カメラに映っていた」(捜査関係者)とのことだが、重機を運転していた加害者は「信号が赤に変わり、止まろうとしてブレーキとアクセルを踏み間違えた」と供述している。
 この供述は防犯カメラの映像と矛盾しているが、それをどう説明するのか。

 まさかとは思うが、聴覚支援学校の児童達の下校中と知っていて、あえてショベルカーのアクセルを踏み込んだということはないだろうね。
昨今、怒りの矛先を弱者に向けた、無差別殺人が相次いでいるだけに、ついそんな考えが頭を過ぎってしまう。

 上記3つはいずれも2月に発生した事件で、一つひとつは小さな事件だが、いつでも大事件、大惨事を引き起こす可能性を背景に秘めているという点で不気味である。
というのは、最近多発している犯罪と、その背景に共通点が認められるからだ。

1人称で語られない犯行

 そこでもう少し詳しく上記3件の内容を見てみよう。
まず冒頭の整形外科で傷害事件を起こした犯人。年齢54歳の男性。3年前からこの整形外科に通院している患者である。
一般的に患者が医師へ暴行を働く場合、診療あるいは手術等で何らかの不満があったことが挙げられる。
この場合も「後遺症の診断書を書いてくれないので、むしゃくしゃしていた」と供述している。
持参した包丁で医師の胸を刺していることからも突発的、衝動的な犯行ではなく計画的だ。

 理解できないのは、その程度の理由で人を刺すのかということだが、近年、この種の事件が多い。
「ぼんやりとした不安」ならぬ「漠然としたイラつき」を日頃から覚えており、そのイラつきがあるきっかけで噴出した、あるいは噴出させるきっかけを求めていたとでもいうような事件が増えている。

 「相手は誰でもよかった」と犯行後述べている犯人、いわゆる「理由なき犯罪」が増えている背景に、こうした「漠然としたイラつき」があるのではないか。

 理解できないと言えば、犯行後供述を翻し否認する例が増えていることもある。
上記3番目のショベルカーが歩道に突っ込んだ件でも、防犯カメラに映像が残っているにもかかわらず、
運転手はその映像と矛盾することを供述している。
故意ではなく「ブレーキとアクセルの踏み間違い」ミスだ、と。

 最近の犯罪では逮捕直後の供述を翻し、一転否認、あるいは裁判で全面否認に転ずる例が増えている。
もちろん本当に犯行に至ってない場合は別だが、現行犯逮捕に近い状態で逮捕されていても犯行を認めない、否認する例は自己弁護としか思えない。

 それにしてもなぜ犯行を認めないのか。
背景の一つに相次ぐ冤罪事件や誤認逮捕などの報道で知り得た情報があるのかもと疑いたくもなるが、一つには犯した事件を1人称で捉えられていないのではないだろうか。

 なぜ1人称で捉えられないのか。

 1人称で把握していないから事件後も悪びれる様子がない。

 これは不気味な感覚である。

1人称の現実感に乏しければ犯行、事件に真摯に向き合うことができない。
真摯に向き合えなければ反省という行為には至らない。
故に「被害者への反省の言葉」もない。
そして、こうした感覚は伝播する可能性が高い。
いや、すでに伝播し、似たような犯行が繰り返されていることが不気味だ。

イラつきの背景にコンビニ社会

 「漠然としたイラつき」や短絡的な行動はなぜ起こるのか。
その背景を考えると、いずれも「都会型」だと気付く

           (略)

不自由さを享受する分散型社会

 もう一つの原因はコンビニ社会。生活が便利になればなるほどベクトルは外ではなく内に向かう。

          (以下略)


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「横並び」が日本を救う。

2018-05-14 11:48:46 | 視点
 日本社会に根強く残る横並び意識ーー。
業界の秩序を守るとの大義名分の下、裏で価格統一を図り、抜け駆けを禁じ、それを破るものは村八分にして業界団体から排除したり、取引先に手を回して実質的な潰しにかかる。
 さすがに現在ではここまで露骨な手段に出ることはないし、また出来もしないが、それでも形を変えて行われている。
談合やカルテルは今でも続いているし、今後も完全になくなることはないだろう。
それを「必要悪」とする考えが業界だけでなくユーザーの中にもある限り。
これはなにも日本だけの話ではない。OPECだって価格維持のための生産調整を公然と行っているのだから。

「横並び」で行こう

 とまあ、横並び意識は日本社会の悪の象徴(は言い過ぎか)のように思われている節もあるが、必ずしも横並びは悪いことばかりではない。
むしろ大いに率先して、もっと組織だって、大々的に行って欲しいと考えている。
 そう「皆で渡れば怖くない」というフレーズが流行った時代があったではないか。
あれで行こうよ、あれで行ってよ、どんどん行こう、と勧めたい、煽りたい。

 歩調を合わせて横並びで進むことこそ日本企業の得意とするところ、日本社会の特徴である。
遠慮をする必要などどこにもない。談合大いに結構。
うちは嫌だ、やれないと反対するところも最初は出るかもしれないが、その内きっと仲間に入れて欲しいと言ってくるだろう。
その時は「排除」せずに受け入れてやって欲しい。参加企業の数が増えればコストは下がるし、エリア分けをして効率を上げることだってできる。
なにより顧客は喜び、大歓迎しているのだから。

 企業は儲けるだけが使命でも喜びでもない。顧客の笑顔と感謝の言葉こそ最上の喜びではないか。
企業で働く人達も喜んでくれる客の笑顔に接すれば、ああ、この仕事をしていてよかった、ときっと思うだろう。

 横並びのどこが悪いのだ、と胸を張り、未参加企業には「お前達も参加しろ」と声を大にして言おうではないか。
横並びで行こう!

過疎地に出向く移動ATM車

 平成の世が終わろうとしている今、日本社会のパラダイムに変化の兆しが見えている。
このまま一直線に進むとは思えないが、従来の儲け主義、自分中心主義、都会ファーストのパラダイムが、わずかとはいえ変化する方向を見せてきたのは大いに歓迎したい。

 例えば銀行。「晴れた日に傘を差し、雨の日に傘を取り上げる」と揶揄された銀行がこの数年、姿勢を変え始めた。
なんと、雨が降っている地域に傘を差し出したのだ。
 もちろん、彼らがボランティア精神だけで傘を差し出すとは思えないが、それでもいままで見捨てていた地域に手を差し伸べようとする姿勢は大いに歓迎したい。

 銀行の姿勢が変化したきっかけは東日本大震災だった。銀行の支店も被災し、閉鎖のやむなきに至ったり、再開業するまでに月日がかかり、被災地の人達はさらなる不自由を強いられた。当座の買い物をするにも現金がいる。しかし、近くの銀行の店舗がなくなっていたり、ATMが使えない状態が続いた。
 この状態をなんとかしたい。そう考えたイオン銀行など極一部の銀行は移動ATM車を被災地に派遣したが、多くの銀行は災害時に対応していなかったため、そういう動きを取ることが出来なかった。その反省に立ち移動ATM車を整備する銀行が出始めたのだ。
 もう一つは過疎地のニーズに応えて欲しい、応えたいという動きが地方銀行を中心に広がり、移動店舗車を導入する動きが広がりだした。それが実際に稼働し始めたのが2016-2017年で、各行が競うように移動店舗車を導入し、銀行の無店舗地域や過疎地を巡回させだしている。

 銀行の移動店舗車には2種類あり、窓口機能まで備えて口座開設やキャッシュカードの作成、ローンの相談等にも対応するタイプと、ATM機のみを搭載して巡回するタイプがある。

 それぞれに一長一短があり、前者の移動店舗型は3t~5tトラックの改造車。
営業店をそのまま車に乗せて運ぶイメージで、中には発電機を搭載し、災害時に外部へ電源供給を可能にしているものまである。


       (以下 略)

見直される現代的行商

 ここ5、6年、近くに商店がなく日常の買い物にさえ不自由している買い物弱者の存在が大きくクローズアップされ、それへの対策が行政、小売業共通の課題になってきたが、その背景には次のようなことがある。

 もう一つは急速に進む高齢化。

         (略)

ネットと実店舗を融合するスーパー

 移動販売と宅配はどこが違うのか

         (略)

儲けは「やりがい」と「生きがい」

 純然たる商売という観点で考えれば移動販売は成り立たない、とても割が悪いビジネスということになる。
そのため儲け優先ではない別の思考、「やりがい」「生きがい」というボランティア精神が必要

         (略)

拡がる移動スーパー「とくし丸」

 「とくし丸」は軽トラックを改造した車に食品、日用品を積んで過疎地などの買い物弱者の元を定期的に巡回販売している。
 仕組みはこうだ

         (略)



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ホーキング博士と西部邁氏他の最期から考えること

2018-05-05 23:02:30 | 視点
 今年に入って相次いで3人の方が亡くなられた。
一人は近畿財務局の職員、もう一人は評論家の西部邁氏。そして3人目が「車椅子の天才物理者」スティーブン・ホーキング博士である。
3人の間に直接的な関係はないが、共通しているのはその死が各方面に大きな影響を与えたことだ。
そこでそれぞれの死について考えてみたい。

財務局職員が残した死後メモ

 とりわけ9日に死が報じられた財務省近畿財務局の男性職員の自殺は政治に大きな影響を及ぼした。
彼が残したとされる「遺書らしきメモ」が発見されて以降、政治は一気に波乱含みになってきた。
もちろん、それ以前からの新聞各紙の地道な活動、とりわけ朝日新聞による財務省の文書改竄疑惑
報道が、森友学園と近畿財務局との「取引疑惑」を炙り出した。

 朝日新聞の上記報道が3月2日。近畿財務局の職員が自殺したのが同7日。
職員が残した「メモ」の全文は明らかにされてないが、上からの指示で「書き換えをさせられた」というような内容が記されていたようだ。

 こうしたことが明らかになるにつれ、それまでゴミの「撤去費用は適正に算定されたもの」
「政治家の方々の関与は一切ございません」「価格を提示したことも、先方からいくらで買いたいと
希望があったこともない」などと国会で答弁し、その後、国税局長官に就任したが、
メディアから逃げるようにしていた当時の理財局長・佐川宣寿氏がついに国税庁長官を辞任
したのが9日。
近畿財務局職員の自殺から2日後であることを考えると、職員の死が最後の引き金になったといえそうだ。

 それまでは散々、朝日新聞の報道を「フェイク」呼ばわりしていた安倍首相以下も、
さすがに公文書の改竄があったと認めざるを得なくなったが、それでもまだ組織ぐるみではなく、
「一部の職員の関与」によるものとトカゲの尻尾切りで幕引きを図ろうとしている。
「このままでは自分1人の責任にされてしまう」。
自殺した職員が残したメモには、こうした言葉も綴られていたようだが、
彼が心配した通りのことが行われようとしている。

 抗議の死をもってしか事実が明らかにされないのは悲しいし、死をもってしても
事実が隠蔽されるなら、それは悲しみを通り越して怒りしか湧いてこないだろう。
そんな政治を許してはいけない。

自裁死が問いかけるもの

 個人的に最も考えさせられたのは1月21日に自殺した評論家、西部邁氏の死だ。
最初、同氏自殺の報に接した時、何が氏をそこまで追い詰めたのか不思議だったが、
晩年は身体の自由が利かず、口述筆記だったようだ。
そういうことも多少影響したのか数年前から知人や著書等でも「自裁死」をほのめかしていたらしい。

 氏によれば自然死というが実際には自然死はなく「病院死」だと言う。
そういうのはゴメンで、自分が死ぬ時期は自分で決める。だから「自裁死」だと。

 そういう意味で西部氏は覚悟の死だったようだが、最近になって色々問題が指摘されている。
彼の死に不自然な点があるとして警察が捜査しているらしい。
 何が不自然かというと発見された時、西部氏はロープを腰付近に巻き、
もう一方が木に結ばれていたが、身体の不自由な西部氏が一人でそれらの行為をしたと
考えるには無理があり、誰か第三者の関与が疑われるというのだ。

 多くの人は「機械に繋がれて生かされるのは嫌だ」「ピンピンコロリがいい」と言う。
同感だ。できることなら、そうしたいし、そうありたい。
それが残された者達に極力迷惑をかけない死に方だからだ。
しかし、それは願望で、誰もがそうなれるわけではない。
そこで自死、自裁死を考えることになる。

 私事で恐縮だが、弟はガンで亡くなる直前、病院で自死に近い形を取った。
眠るように亡くなったが、覚悟の死だった。
とはいえ自分一人で全てできるわけではなく、多少なりとも誰かの手を煩わせることになる。
弟の場合は医師と薬の力を借りた。

 西部氏が「自裁死」を選んだのは理解できる。
だが、第三者の関与が疑われると、それは本人の思いとは別になり、残された者を苦しめることになる。それは不本意だろう。

 しかし、高齢化社会は似たような問題をすでに現出しているし、今後増えることだろう。
その時にどうするか。
自分が頼む側になる場合、頼まれる側と両方あるが、それぞれに難しい問題だし、
難しい決断を迫れられることになる。

 例えば家族の誰かが病気で長いこと苦しんでおり、こんなに苦しい思いをするなら
死んだ方がマシ。協力してくれと懇願された場合、それを断れるだろうか。
特に同居家族で毎日毎日苦しむ姿を目の当たりにしていれば、苦しみから解放してやりたい、
と思うだろう。そこで懇願されれば、無碍に突っぱねることができるだろうか。

 手を貸さないのが愛情か、手を貸すのが愛情か。
これは先に逝く者、残された者双方に難しく、解決できない課題を残す。

 一つだけ言えるのは手を貸しても貸さなくても、残された者、残った者は
残りの人生を後悔とともに歩まなければならないということだ。

 少子高齢化社会は私達に新たな、難しい問題を突き付けてきた。
高齢の二人世帯、一人世帯の増加は家族での介護を物理的、肉体的、金銭的に困難にしている。
安倍さんが言う「家族」はもはや私達の社会には存在しないのだ。

 それは何もこの国に限ったことではなく、欧米でも、急速に高齢化しつつある中国でも、
その他アジアの諸国でも、家族は小単位になっている。
好むと好まざるとに関わらず社会で支えていかざるをえない。
そういう考えに立脚して政治も社会の在り方も組み替えざるをえない。

ホーキング博士の予言

 「車椅子の物理学者」として知られたスティーブン・ホーキング博士の死は
世界中に衝撃と大きな悲しみをもたらしたのは間違いないだろう。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患いながらも独創的な宇宙論を発表し続けたばかりか、
一般の人にも分かりやすく解説するなど、多方面に渡り活動してきた。
その姿は多くの人に夢と希望を与えてきた。

 そのホーキング博士は「地球上の気温はいずれ250度まで上昇し硫酸の雨が
降り注ぐ金星のような惑星」になると予言している。
もちろん、そうなれば人類は絶滅する。

 また「人類は進化の過程で強欲で攻撃的な性質の遺伝子が組み込まれたようだと恐れる。
地上で争いが減る兆しはなく、軍事技術や大量破壊兵器の進展は争いを破滅的なものにする」
とも述べている。(以上、BBCインタビュー)

 では人類に残された時間はどれくらいなのか。
「後100年」と博士は予言した。
私は博士の説に同意する。人類は100年後には滅亡するに違いない。
そして今、そこに向かって確実に歩んでいると。

 この10年、私は「歴史は進歩しているのか、その逆なのか」「我々はどこに行くのか」
と考え続けていた。
悲観主義者と思われるかもしれないが、あらゆる社会現象は歴史の歯車が逆回転し、
人類は破滅に向かっていると示している。

 地球環境は明らかに悪化している。モノ余り、飽食と言われる日本でも日々の食事に
窮する貧困層が増えているし、地球規模で見れば食料不足で亡くなる人の方が多い。

 ホーキング博士も指摘するように「地上で争いが減る兆しはなく」、
地球上の資源は生物と言わず鉱物と言わず取り尽くされ、食い尽くされている。

 それを象徴しているのが中国で、かの国の野望はとどまるところを知らない。
まるで歴史を逆行させたいかの如く途上国への経済的、領土的侵略を進めている。
スリランカ・コロンボ海岸の99年租借、パキスタン・グワダル港43年租借などは
まるでアヘン戦争以後、中国が列強諸国によって植民地化されたことに学び、
大国となった今、他国に対して行おうとしているように見える。
これは悪しき「学習」であるが、そのことに対する反省は中国にない。

 いまや誰も彼もが自国中心、自分中心になり、未来より現在しか考えず、
目先の欲求、欲望を満たすことにしか関心がなく犯罪を繰り返すなら、
人類に残された時間は「100年」より短いかもしれない。

 しかし、悲観することはない。
地球規模、宇宙規模で考えるなら「強欲で攻撃的な性質」を持ち
「地上で争いが減る兆しはない」横暴な種は滅亡した方が地球という星のためには
いいかもしれないのだから。

                         2018.3.21 「まぐまぐ」より配信










なぜ、地方にコンビニが増えているのか

2018-05-02 16:38:21 | 視点
 都会=人、モノが多くて便利、田舎=過疎・高齢化が進み、不便な生活、
という考え方に変化が見られだし、若者の地方移住が少しずつだが見られるとは前回書いたが、
最近、地方の風景が変わってきた。

 地方の「ファスト風土化」(三浦展氏)が言われたのは15年前だが、
それは地方と言ってもまだ幹線沿いの話。
大型ショッピングセンターのオープンで地方商店街・店舗が閉鎖に追い込まれていた時代から
状況はもっと進み、地方の風景も随分変わってきた。

過疎地に相次いで開店する小売り店舗

 いまや郊外(に限ることではないが)の大型ショッピングセンターは閉鎖に追い込まれ、
地方はますます商店過疎地になり、買い物困難者・地域が増えているーー。
そう思われがちだが、必ずしもそうではない。
たしかにそういう傾向にはあるが、逆に利便性が高まった地域もある。
要は都市と地方の二極化だけでなく、都市、地方それぞれの中で二極化が進んでいるのである。

 例えば私の田舎(岡山県、鳥取県、兵庫県の県境)はこの数年で進出する店舗が増え、
買い物は以前に比べ随分便利になった。
車で20、30分も出かけなくても、最寄りの店まで数分、どうかすると徒歩でも行けるのだ。
とはいえ、そうなったのはこの数年のことだが。

 元からあった小さな商店が次々に廃業してなくなり、不便になったと思っていた頃に
食品スーパーが出店し、やっと生鮮品が買えるようになった。
しかし、それも束の間で、スーパーの営業は長続きせずに廃業。
これが第1の波である。

 以後、長い間ほぼ無店舗状態が続いたが、総菜・弁当・丼物などを提供する食品コンビニ
とでも言うべき店がオープンし無店舗状態が解消されたのが第2の波。
その状態が10数年続いただろうか。

 異変が起き出したのは数年前だ。
近くにホームセンター、コンビニ、ドラッグストアが次々にオープンしてきた。

 最も早くオープンしたのはホームセンターの「コメリ」。
以前にも触れたが、同社の戦略は同業他社とは少し違い、いきなり郊外に大型店を出店させる
のではなく、小型店が先行し、いくつかの小型店が拠点を築くと、それらに商品を供給する
基地の役割も果たす母店を造るという出店方式である。
その小型店が車で数分の距離に出店している。
ついでに言えば大型店は隣県の兵庫県佐用町に出店している。

 そして1年前に相次いで出店したのがコンビニのローソンと兵庫県姫路が本社で
兵庫県内を中心に店舗展開しているドラッグストアのゴダイ。
ゴダイはコメリの隣接地にオープンした。

 人口過疎、無店舗状態で買い物にも不自由していた田舎に店舗が急に増え、状況が一変した。
一体、田舎で何が起きているのか。

出店戦略を変えたコンビニ

 注目したいのはコンビニとドラッグストアの出店である。
この2業種はホームセンターと違い都市型。人口集中地への出店というのが従来の戦略である。
特にコンビニは24時間営業。田舎の店で夜中に来店する客がいるのだろうか。

 初期のコンビニの営業時間(午前7時~午後11時)にした方が効率がいいと思うが、
なにしろ全国一律オペレーションで動いているから例外を認めるわけにはいかない。

 そんな堅いことを言わずにもう少し柔軟に対応すればいいではないと他人事ながら思ってしまう。
実際、そういう動きもあるが、そこは本部と加盟店の力関係。
地方の力が弱い加盟店が営業時間を変えます、売れ残りそうな弁当は値下げ販売をします
などと言おうものなら、商品供給を止めると脅され(?)るのがオチかもしれない。

 それはさておき、なぜコンビニやドラッグストアが次々に田舎へ出店しているのか

       (以下 略)

向かいにオープンしたコンビニの影響

客の嗜好を覚えている若い店長



   全文は「まぐまぐ」内の「栗野的視点」あるいはリエゾン九州のHPからお読み戴きたい。


   

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