栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

歴史は進歩しているのか、それとも退歩か(2)

2017-03-28 13:48:20 | 視点
コンピューター頼りのリスクも

 今最も注目されている技術の一つに自動運転技術がある。
ドライバーがハンドルやアクセル、ブレーキ操作をしなくても、車が全ての運転操作を自動で行い、目的地まで連れて行ってくれる。
これなら事故など起こりようがなくなる(と思わせられている)。

 そこまで完全全自動でなくてもぶつかりそうになると車が自動でブレーキをかけるアシスト装置はすでに一部実行に移されている。
こうした技術がもっと広がればアクセルとブレーキの踏み間違い事故はなくなる(と宣伝されている)。

 その通りだろう。しかし、と言いたい。
技術の過信は危険だ。原子力発電がいい例ではないか。
かつてあれほど安全だと言われたが、いまや原発を安全と考えている人は極々一部の人だけだろう。

 車だってそうだ。昔の機械式車はシステムがシンプルだったから、
ちょっとした故障などはボンネットを開けてドライバーが自分で直せた。
そういえば私が最初に乗った車は中古の安い商用バンだった。
免許取り立ての人間にいい車は乗せられない、動きさえすればいいからとポンコツ車を会社があてがったのだ。
後に分かったことだが車両価格10万円だったらしい。
もちろん当時の金額でだが、ポンコツ車だったのは間違いない。

 交差点で一時停止する度にギヤチェンジができなかったのには参ったが、
そのうちギヤが入らない時はボンネットを開けてギヤミッションに鍵型のパイプを引っかけて
ガチャガチャと上下に動かすとギヤが入るようになることが分かり、
ギヤチェンジが出来なくなるとボンネットを開けてガチャガチャとやっていた。

 こんな車に乗っていたから否応なく車の手入れを覚えていったが、今の車は全てコンピュータ制御。
エンジンオイルの汚れ具合でさえ自分の目で確かめることができない。
外気温が3度まで下がった、トランクが半開き、ライトが切れた、オイル量が少なくなったといっては音と警告灯で知らせてくれる。

 親切この上ないが、走行中に突然、警告音がし警告灯が点くと逆にビックリしてしまう。
それこそ高齢者はその瞬間に慌てて運転操作をミスしないかと思ってしまう。
かく言う私自身、外気温3度で警告音を最初に聞いた時は「えっ、何事?」と驚いた。

 コンピューターが常に理性的で無謬なら問題ないが、現段階では残念ながらまだ「神」の領域には達していない。
「神」の領域に達すれば、それはそれでまた恐ろしいことであり、新たな不安が増すことにはなるが。

 パソコンでさえDOS時代とWindows時代では雲泥の差で、Windowsになってからは
バックグラウンドで何をされているのかが皆目見えなくなった。
しかも、突然不調になる。
それ以上に怖いのが勝手に情報をどこかに送信されていることだ。
Androidはもっと怖い。
頻繁にアプリが更新されるが、その大半はバグ潰しのようだ。
これは裏を返せば不完全な製品を世に出し、問題が起きれば更新と称して直しているということだ。

 スマートフォン程度ならまだ許せるが、誤作動が人の生死を左右する車のようなものだとどうなるか。
考えるだけでも恐ろしい。
かといっていまさら車のない生活は考えられないし、受け入れられないだろう。

 本来モノづくりはシンプルな方がいい。
ところが利便性・快適性を求めるあまり、どんどん複雑になっていく。
いまや車はメカ(機械)ではなくエレクトロニクスの集積だ。
整備・修理する側もメカの知識以上に電気系の知識が求められる。
コンピューターで診断をし、コンピューターで整備チェックをする。

 楽にはなったが、コンピューターに頼った仕事になり、木を見て森を見ずでメカの仕組みを忘れ、
現象的に表れたところしか見ないから他の箇所との連動不具合を見落とすことにもなる。
もし、診断コンピューター自身が誤作動していたらどうなるのだ。
誰もそんなことまで考えないのだろう。

 燃費面からのみで持てはやされているハイブリッド車だが、技術の複合にはリスクも付きものだ。
ある日突然いつもと違う動きをする。
そういう不調をパソコンでは誰もが一度や二度は経験したことがあるはずだ。
車でも同じことが起きる可能性はあるが、そのことはあまり懸念されてないのか、
それとも密かに修理されているのか。
不具合が多発した段階でリコールし、修理しているのか。

 いずれにしろ仕組みが複雑になればなるほど、1箇所の不具合が別の箇所の不具合と
連動していることが多くなるから原因箇所の解明・修理も時間がかかるし難しくなる。

 こう見てくると、技術の進歩は我々の生活を本当に豊かにしているのかどうか疑問に思えなくもない。
科学技術の進歩を見て、歴史は進化していると言えるのかどうか。
さて、歴史は前進しているのか、後退しているのか、それともらせん形を描きながらでも前進しているものなのかどうか。
少なくとも国際政治に関して言えば、後退局面に入ったのは間違いない。


歴史は進歩しているのか、それとも退歩か(1)

2017-03-23 17:15:42 | 視点
 時代は本当に進化しているのか--。
ここ数年、そのことを自問自答し続けてきた。古代から現代へ、時代は進歩し続けているはずである。
だが、それは本当に正しいのか。そう問う声が頭から離れないのだ。

 何をバカなと笑われるかもしれないが、歴史を紐解けば必ずしも時代は一直線に進歩したわけではなく、
時にはジグザグに、またある時は足踏みしながら「進んでいる」ことが理解できる。

進化ではなく変化しただけ

 「歴史はらせん形に進む」--そう考えていた。
だから2008年旧正月に発行したメルマガ(栗野的視点(No.290):歴史はらせん形に進む--時代の修正作用が働き始めた)でも以下のように書いた。

 「歴史は決して1本調子に発展も後退もしない。
かといってジグザクに進むのでもない。
ある時には後戻りしているようにも見えるが、確実に過去をアウフヘーベン(止揚)しながら、
いわばらせん形に進んでいるのである」

 しかし、いまこの考えに疑問を持ち始めている。
さらに言うならダーウィンの「進化論」にさえ疑問を感じ始めている。
何をいまさら時代錯誤なことをと言われるかもしれない。
「進化論」は地動説と同じくらい真実ではないかと。

 「ダーウィンの進化論」と日本語で表記するから、生物は進化していく、
あるいは環境に適応しながら進歩してきたと思い込んでしまうが、
原語を見ればダーウィンは進歩や前進を意味する「Evolution」ではなく、
「Descent with modification(変化を伴う継承)」という語を使っている。
「進化・進歩」と捉えられるのを注意深く避けていたのだ。
日本語の「進化論」は誤訳と言った方がいいかもしれない。少なくとも一般人には間違った印象を与えてしまった。

 それはともかくとして、歴史は一直線に進むのではなく、らせん形を描きながら、
それでも確実に進化・前進しているというのが私の歴史認識だった。

 ところが、今この考えは訂正した方がいいかもしれないと思い始めている。
それは進歩というには程遠い現象、むしろ後退していると言った方がいい現象が多く見られるからである。

 過去の歴史を厳密に検証すればするほど、例えば日本の歴史でも
弥生時代は文明が進んでいない原始生活ではなかったことが近年の研究で明らかにされている。
「らせん形に進む」というより、不連続の連続という言い方の方がまだ的を射ているかもしれない。

技術と文化レベルは反比例?

 例えば科学の進歩は人類に何をもたらしたのか。
人類を幸福にしたのか。
もちろん、その面はある。
しかしその一方で大量破壊兵器を生み、大量虐殺を行い(現在も行いつつある)、環境汚染を進めてきた。

 人類は幸福になったのだろうか。
利便性を手に入れた一方で失ったものも多く、現在が過去より幸福とは一概に言えそうにない。

 例えば「改革開放」後の中国は急激に現代化・資本主義化し、
最先端のモノを作り出しているだけでなく、それらを使用してもいる。
一方、彼らの文化・マナーレベルはといえば、先進諸国と比べれば残念ながら低い。

 もちろん近い将来、中国人の文化・マナーレベルは先進諸国並みになるだろうが、
彼らの文化・マナーが歴史的に低かったわけでも、10年前、40年前、100年前はもっと低かったわけでもない。
むしろ、その逆である。

 10年前、私は上海浦東空港から乗ったリニアモーターカーの網棚にPC等が入ったリュックを置き忘れ、
ホテルの従業員からも旅行社の社員からも「中国で忘れ物が見つかることはまずない」と、
暗に諦めた方がいいと言われた。

それでもリニアモーターカーの終点地まで行き、色々尋ねているとJTBの中国人社員が親身になって
あちこちに連絡し探してくれたお陰で、翌日、リュックは中に入っていたPCその他と一緒に手元に戻ってきた。

 今では考えられないかもしれないが、誰も網棚からリュックを持ち去らず、車内にそのまま残っていたのだ。

 40、50年前に中国旅行をした人はホテルに置き忘れた物が次の宿泊地まで届けられ
びっくりした経験をしたのではないだろうか。

 最近の中国人のマナーなどからは想像できないだろうが、彼らは礼儀正しく、
慎み深くて、文化レベルも高い民族だったのだ。
それが時代の経過とともに低下して行ったのだから、歴史は進んでいるのか後退しているのか。

 科学技術の進歩が幸福には必ずしも貢献しないということはいまでは常識の分野に入りつつあるが、
文化レベルとは反比例するとまでは言い過ぎか。
少なくとも両者の間に正の相関関係はなさそうだ。



Wi-Fi専用になったスマホ「g07」(電波の受信が悪い)~freetel雅との比較

2017-03-12 22:47:24 | 視点
 スマートフォンに限る話でないがデジタル機器はスペック(仕様)だけで判断して買うと、後でこんなはずではなかったのにとガッカリすることがある。もちろん、その逆もあるが。
 例えばカメラの画素数は同じでも実際に出てくる絵はスマホによってかなり異なる。
そうするとカメラ性能に期待して画素数の大きなスマホを買ったのに期待外れだったとか、通話品質が今ひとつ、電波の届きが悪いといったことが起こりうる。
 そこで以下にgooのスマホ「g07(グーマルナナ)」を実際に使ってみた結果を載せる。

月額1000円で使えるTSUTAYAのスマホ 【TONE】


 g07の販売はNTTレゾナントだが、開発したのは株式会社コヴィア。耳慣れない会社と思われる人が大半だろうが、SIMフリーの比較的初期段階からSIMフリースマホを作っていた会社だ。
 私は今回の「g07」を含め、同社のスマホは2台目。最初に買ったのは「Freaz F5」というデュアルSIMスロットのスマホ。
 初めて買ったスマホがこれだったから、スマホとはこういうものだろうと思っていたが、この機種を選んだのはデュアルSIMだったから。
 デュアルSIMとはSIMスロットが2つあり、それぞれに別のSIMを挿す使い方が出来る。
私の場合は従来型携帯電話(以下ケータイ)のSIMを片方に、もう一方にデータ専用SIMを挿して使っていた。
ケータイはかけ放題の契約をしていたので、スマホを使いながらケータイの安い通話料がそのまま利用できるのは金額的に大きなメリットだった。

 もう一方にはSIMフリのデータ専用SIM。つまりケータイとスマホのいいとこ取りだ。これでケータイとスマホの2台持ちから解放。
 といってもメリットばかりではなく、デメリットもあり、当時はDSDS(同時待ち受け)ではなかったから、電話を使う時は通話用SIMに、ネット接続する時はデータ専用SIMに手動で切り替えなければならないという煩わしさがあった。

 もう一つの問題はこの機種本体が3G専門でLTEに対応していなかったため、データ専用SIMがLTEでもその速さの恩恵を全く受けないことだ。

 そしてこれが最大の問題だったが、Freaz F5は電波がFORMAプラスエリアに対応していなかったのだ。
 これは購入後しばらくして分かった。実際には対応電波が記されていたが、docomoのケータイSIMがそのまま使えるというところにだけ目が行き、対応電波のことまで気が回らなかったのだ。

 都市部で使っている時は何の不自由もなかったが、地方に行った時に電話が通じないことに気付いたのだ。

<教訓1>
 SIMフリースマホを買う時には対応電波をよく調べないと後で後悔する。





 で、結局、ケータイとデータ専用スマホの2台持ちに替え、段々スマホの出番はなくなった。
 その後、freetel miyabiに買い換え、昨年12月の発売と同時にg07を買った。
freetelから買い換えた理由は特にない。強いて言えば指紋認証を使ってみたかったのと、もしかするとカメラ画質が向上しているかもという淡い期待。
後は新しもの好き(これが最大の動機)。19,800円だが3,000円引きクーポン利用で買ったから16,800円。これなら購入後、失敗したと感じてもまあ我慢できる金額だし、万一使えない時はfreetel miyaiに戻せばよかったから。

 結果から言えば、g07はWi-Fi専用になり、日常使いではfreetel miyabiに戻している。

 g07は発売前後から2つのSIMで同時待ち受けできるDSDS(デュアルSIM、デュアルスタンバイ)スマホで、「コストパフォーマンスが高い」とあちこちで(レビューでも)紹介されていたが、初めて購入する人は満足するだろうが、それならもっと安い機種もあるし、そちらでいいのではないかと思う。

 早い話が積極的にg07を選ぶ理由がないのだ。どうしてもDSDSを使いたいという人以外は。

 以下にg07とfreetel miyabiのスペックを記してみよう。
●g07
 OS:Android6.0(Android7.0アップデート保証)
 CPU:オクタコア1.5GHz×4+1.0GHz×4 MediaTek MT6750T
 RAM:3GB
 ROM:32GB
 対応バンド(周波数帯)
  LTE:Band1(2100MHz) / B3(1800) / B8(900) / B19(800)
  3G(W-CDMA):B1(2100) / B6(800) / B8(900)
 ディスプレイ:5.5インチ
 解像度:1920×1080
 カメラ:背面1300万画素/前面800万画素
 電池容量:3,000mAh
 取り外し:不可
 重量:150グラム
 価格:1万9800円





●フリーテル雅
 OS:Android5.1
 CPU:クワッドコア1.3GHz MediaTek MT6735
 RAM:2GB
 ROM:32GB
 対応バンド(周波数帯)
  LTE:Band1(2100MHz)/B3(1800)/B8(900)/B19(800)
  3G(W-CDMA):B1(2100)/B6/19(800)/B8(900)
 ディスプレイ:5インチ
 解像度:1280×720
 カメラ:背面1300万画素/前面500万画素 手ぶれ補正付き
 電池容量:2,200mAh
 取り外し:可
 重量:150グラム
 価格:1万9800円

<g07がmiyabiより優れている点>
 1.OSが新しい
 2.CPUは同じMediaTekだがg07の方が処理速度が速い
 3.RAMの容量が大きい
 4.解像度が高い
 5.バッテリーの容量が大きい

 こうしてみるとg07の方が1年余り後から発売された分だけ上回っているように思える。
 しかし、実際に使ってみた体感と合わせ、もう少し詳しく見てみるとg07の方が優れていると思えた点が、実はそうでもなかった。

 CPUの速度はアップし、RAMの容量も増えたが、画面の解像度が上がったり、液晶サイズが大きくなったため、実際の表示速度にそこまでの差は付かなかった。少なくとも体感速度は同じだった。

 つまり本来ならメリットとなる点がメリットになってなかったのだ。

 カメラの画質は当初、g07の方がきれいだったが、miyabiがファームウェアをバージョンアップし、カメラ性能を向上したため、g07の方が絶対的にいいとは言えなくなった。
 色の出方はそれぞれに多少の癖があるから、これは仕方ない。それでも敢えて言えば、g07の方が多少写りはいいかという程度。
 いずれにしろカメラ性能は両機種共に期待はできない。バッテリーの持ちも両機種共に差はなし。
 多少g07の方がバッテリーの持ちがいい程度で、これも誤算だった。





<残念な点>

 一番肝心な電波の受信状態はと言えば、これは残念な結果になった。

まず通話。かけてきた相手から「電話が通じない」と何度もお叱りを受けた。
これは致命的な問題で開発元のコヴィアも認識しており、ファームウェアを何度かアップデートし、現在は一応改善されたようだが、まだはっきりとは分からない。

 ついでWi-Fi。これははっきり言って感度が悪い。
他のデバイスやfreetel miyabiが受信できる場所でもg07は受信できない。

 つまり電波に関してはg07は総じて悪い。

 ほかにも諸々の問題点があり、コヴィアは1月から3月上旬までにファームウェアのアップデートを4回も行い、不具合を修正している。これは少し異常だろう。

 ただコヴィアのアフタサービスは丁寧だし、好感が持てる。
一方、販売元のNTTレゾナントのアフタサービスは最悪だ。メールで問い合わせをしても返事すら来ないし、問い合わせ先もHPで探しにくい。

 指紋認証も悪かったが、再設定し直したところ改善された。

 最後にスマホのサイズ。これは個人的な好みの問題もあるが、5.5インチはやはり大きい。5インチサイズの方が持ちやすいし、ポケットにも入る。
そんなこんなで、せっかく買ったg07だが、今はWi-Fi専用。
ただWi-Fi専用なら10.1インチサイズのタブレットを持っている。

 というわけで、現在はfreetel miyabiを日常使いのスマホに戻し、g07の出番はなし。

 ただし初めてスマホを買う人にはそれほど問題がある機種ではない。16,800円(19,800円ではなく)で買えるならコストパフォーマンスがいいスマホになるのは間違いない。
 Wi-Fiの掴みが悪い点さえ我慢できれば。
私は我慢できなかったからg07は自宅専用のサブスマホとしてしか使ってない。








貧困化する政治(家)の恐ろしさ

2017-03-07 09:11:37 | 視点
 我々が今住んでいる社会は--日本のことだが--先進国か新興国か、成熟社会か発展途上社会かと問えば、間違いなく先進国で成熟社会だという答えが返ってくるに違いない。

 しかし、昨今の政治を観ていると、とても成熟社会、民主主義社会とは思えない。
まだ民主主義が根付いていない発展途上国か、そうでなければ我々の社会は一昔前に後退してしまったのではないかと思ってしまう。
それほど昨今の政治(家)はおかしい。

 なかでもおかしいのは地方政治だ。
よくぞこんな人が政治家になったな、政治家でいられるなと思うが、そういう人に政治を任せたのは有権者で、
結果責任は有権者自身が負わなければならないだろう。

目の鱗を取り払い、刮目して声を上げ、異議申し立てをするか、
それとも諦めて目を逸らし、内に閉じ籠もり、「あっしには関わりのないこと」とニヒルに笑って過ごすか。
だが、その結果が現状を招いたのだということを知るべきだろう。

地方首長の感覚が変

 政治(家)の貧困を全国的に知らしめたのは桝添・前東京都知事だが、似たような例は全国に多々ある。
彼ら政治家を見ていると、受験に合格することがゴールになっている大学受験生に似ていると思ってしまう。

 当選することがゴールになっているから、政治家になって何をしよう、したいという目的がない。
だから政治家としての自覚がないというか、政治家になれば何をしてもいいのだと勘違いしてしまうようだ。

 その代表格が西宮市長と飯塚市長。
実は成人式の会場に向かう車中で同乗者と次のような会話を交わした。

「式典の挨拶は市長だよね。福岡は高島市長か」

「飯塚は誰がするんだろう。市長は欠席するらしいから。
副市長も一緒に賭け麻雀をしていたから、副市長が代役というわけにもいかないし」

「教育長が代役だ」

「情けないよね。欠席せずに出ればいいのよ。出て批判されればいいのに」

「でも、辞めるとは言わないのね」

「あの様子(会見)では辞めないだろう。賭けなかったらマージャンをする人がどれだけいるのか、
と開き直っていたから」

 福岡県飯塚市の斉藤守史(もりちか)市長と田中秀哲(ひであき)副市長が賭け麻雀をしていたのだ。
それも平日、開庁中に。
そのことが発覚した後の記者会見で悪びれるどころか憮然とした態度で
「賭けなかったらマージャンをする人がどれだけいるのか」
「市長を辞めれば(賭け麻雀は)するだろう」
と言い放ったのだから鉄面皮というか厚顔無恥というか。
この人の場合は厚顔「無知」も加わるか。

 大体この人、地元飯塚市に本社がある食品製造販売会社「一番食品」の代表取締役会長をしていた。
していたといっても過去の話ではない。
現職の市長でありながら出身母体の会長、それも代表権を持った代表取締役会長を続けていたのだ。

 会長職を辞職したのは今回の賭け麻雀が問題視され、市議会で謝罪した翌日の12月23日である。

 李下に冠を正さず、と言う。
本来なら行政のトップに就いた段階で私企業の役職からは離れるべきだろう。

 それだけではない。賭け麻雀でテーブルを囲んでいた「知人」には事業者もいたという。
これでは市の事業等で事業者に便宜を図ったのではないかと疑われても仕方がないだろう。

 ここまで「無恥・無知」な人物だから市長職は絶対辞めないだろうと思っていたが、
全国から抗議が届いたため、ついに副市長共々1月末で辞職すると表明した。
といっても任期は4月までだったから、それを数か月早めただけにしか過ぎない。
ただ本人は次期選挙にも出て当選する意欲満々だったようだから、本人にしてみれば番狂わせだったかもしれない。

番狂わせという意味では抗議が全国に広がりをみせたことではないだろうか。
恐らく地元から抗議の声はそれほど多く来ない、来ても押さえ込めると踏んでいたに違いない。
それが全国から抗議が殺到したのだから、本人にしてみればまさに番狂わせ。
「なんで」という感じだったかもしれないが、そこがネット社会の怖さ(この場合は効果か)だ。

 市長を辞職しないだろうと私が考えたのはもう一つ理由がある。
それは同市の文化・風土というか、より正確には飯塚市議会の「文化」が問題だからである。

 情報公開が世界の流れなのは常識だが、政治の世界でも昨今、情報公開がより強く求められている。
ところが、こうした動きに逆行するように飯塚市議会は2015年12月、議員の資産公開廃止を決めたのだ。

廃止を決定したということは市議の中から資産公開廃止議案が提出され、多数決で「廃止議案」が通ったということだ。

 驚くのは「廃止議案」提案の理由だ。
「閲覧者がいない」からだという。
仮に閲覧者が今まで非常に少ないかいなくても、公開廃止にするというのはどうも。

 閲覧しやすいように閲覧料を下げようとか、ネットでも閲覧できるようにしようとかいう提案が
普通だと考えるが、そうではなく、いきなり公開廃止にしようというのだから
資産公開するとなにかまずいことでもあるのではと勘ぐってしまう。

 とまあ、こんな議会が相手だから市長の方も高を括っていたのだろう。
平日に市役所を抜け出して賭け麻雀をするぐらい何も問題ないだろうと。

 ところが記者会見の様子が全国にTV放映された直後から風向きが変わった。
1000件超の抗議が市に届くようになり、その対応で市の正常な業務が出来なくなるに至って、
ついに辞職を決意したというわけだ。

 いやなんともお粗末というか、それでも市民が抗議に押しかけたというから飯塚市民の感覚はまともだった。
ついでに市議の感覚も正せるといいのだが。

ミニトランプが激増傾向、日本でも

 なんとも嫌な感じがするのは今村岳司・兵庫県西宮市長の方だ。
2016年という年は彼のような政治家が世界で出現した年だった。

 今村市長の言動をよく知らない人のために、まず直近の言動から紹介しておく。

2016年11月27日に西宮市立子育て総合センターで開かれた「中高生3万人の夢プロジェクト」で以下のように発言。

「(中高生の頃に自分達の居場所は)授業を抜け出してタバコが吸えて楽器が弾けるところだった」

「教室の合鍵を作り、面白くない授業を抜け出して、たばこを吸い、マージャンをした」

「見回りのガードマンにはエロ本やお酒を渡して味方に付けた」

 不良の集まりで不良の先輩が後輩に自慢話をしているのではない。
西宮市主催の「市内に在住・在学の中学生・高校生約3万人のやる気・社会に飛び出す力を支援する」プロジェクトの第一弾として<中学生・高校生の「やりたいこと」を聴く中高生ミーティング>の場で今村市長が語った自身の体験談である。

 市長としての自覚など微塵も感じられない。
よくぞこういう人物が市長になれたものだと思うが、この件で市に届いた抗議は100件と少ない。

 この人物(今村市長のことだが)、12月8日の議会、一般質問で女性市議から先の発言を批判されると、
トランプ氏を見習ってかどうかブログで「ピンクのダサいスーツに黒縁眼鏡で『お下品ザマス!』って
言っている女教師みたい」「キレイゴトは彼らを子供扱いしている。敬意を欠いている」と逆批判している。

 トランプ氏と似ているのはインターネットで

       (以下 略)




 本稿は1月16日に「まぐまぐ」から配信した「栗野的視点」の一部です。

 全文は「まぐまぐ」内の「栗野的視点」

 HP内の「栗野的視点」にも収録していきますが、「まぐまぐ」よりは遅れます。



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